神(良心)に心を向けて、なせ、省みよ、悟れ。

〔なせ、省みよ、悟れ。これが霊魂を進歩させる上にとっての唯一のモット−だ〕
『身魂磨きとは、善いと感じたこと直ちに行なうことぞ』
『人に知れんように善いことつとめと申してあろが。人に知れんようにする善いこと神心ぞ神のしたことになるのざぞ』
『明日と申さず実行せよ。明日は永遠に来ないぞ。無いものぞ。今のみあるのぢゃ』
〔やっぱりそうだ。その瞬間瞬間に、ベストだと信ずる事ごとに自己を捧げつくすことより他に幸福はない。むろん、前のベストは後のベストでなく、今のベストは未来のベストではあるまいが、それでいいんだ。 ベストの内容は無限に変化していっても、今のわれに忠実でありさえしたら、悔いというものはないんだ〕
〔お互いに、もはや過ぎ去ったことはいうまい。また、これから先のことも神様にお任せしよう。ただ、この現在の瞬間瞬間を、よく為し、よく省み、よく悟り、よく改めようではないか〕
〔世の中のことは、何でもかでも、やってみねば合点がゆかぬなり。合点がゆかねば魂の進歩はないなり。何事でも、腹の底からなるほどと、われとわが身に合点するまでは、誰でも思う存分したい放題をやってみればよいなり。 ただし、これには相当の胆力なるものがなくてはならぬ。すぐにヘコたれて、行きたし怖しという矛盾におちいってしまいがちなり。如何なる目に会うとも心を乱さず、よく、ものの真髄を会得し、その過失を繰り返さぬよう、次第次第に、世界というものを悟ってゆくべし。 「無限に為し、無限に省み、無限に悟れ」。悪かったら悪かったと、あっさり悟り、二度とその悪におちいらぬよう注意さえしたらよいなり。済んだことは、いまさら、百万べん嘆くも嘆くだけの損なり。時々刻々と過去を忘れ過去を葬式して、時々刻々と新しく生まれ変わったらよいなり〕
※なせと言われて何をすべきか?それは一人一人の人間すべきことは異なっているので、之とは言えません。 ですから、自らの心に良心に尋ねるべきです。日月や覚書の心を旨に、自らの日常生活を浄化し、政治に不満があるなら政治活動をし、或いはごみが汚いと思えばそこを清掃すれば良とおもいます。ともあれ、まずは日月や覚書の心を頂くべきだと思います。


口、心、行、一致

〔この世の人のしていることをジッと眺めてみると、自己を偽った生活をしている人がなんと多いことか、まったく驚いてしまう。あれでは、この世に何のために生まれてきたのやら、いっこう合点がゆかぬ。何ら、心にもない業を人前だけ調子を合わして、いかに、生きんがためとはいえ、やっているとは誠にもって不甲斐ない次第である。 とはいえ、現代ではお金がなくては、思うことの万分の一も為し得ぬのであるから無理もない点もあるが、しかし現代人は、あまりに金銭というものに執着し過ぎている。 精神の安静満足というものは、決して金銭のみで得られるものではない。否、世にはこの金銭を得んがために、かえって非常な精神的苦悩を忍んでいる連中が多数である。 このために、自己には何ら興味もない仕事に、終日終夜、たずさわって、しかも絶えず、心の一隅からは「こんなことがしたい。こんな方面の研究がしたい」と叫び続けて、終生、おさえることができずに、つねに実際の本心と方便の心とが、死の瞬間まで戦い続けているのである。 生きるということが、それほど難しいことであろうか。生活してさえ行けばよいという気になるならば、こんなにまで精神的に苦闘しなくても、充分やってゆけると思う。いかに貧しいといえども、三日も続けて一食もとらぬという人は稀であろう。 要するに、その覚悟ができておらず、信仰がなくて、いたずらに俗世にこびて表面を飾りたいからである〕
〔私は原則として、活動主義であり、積極主義であり、体験主義である。物事は周囲から、そうなってきた時は「勇気を奮い起こしてなせ!」という信仰である〕
〔現代は、「なす」という基礎的なことをゆるがせにして、いたずらに小理屈ばかりをこねている。これが特に、青年の最大の欠点である。理屈は簡単でも実地は複雑だ。世慣れぬ者が考えるように、そう易々とはゆかぬ〕
〔他人は他人、自分は自分、みなそれぞれに、無理なしになし得ることを面白くなして行ったらよいのだ。 無理すると、どうしても苦悩がともなう。元来神は人間をその手足として働かせるためには、みなそれぞれに、興味あることさえして行けば、自然に、その職能が果たしてゆけるように仕組まれているのだ。それなのに、今の人たちは人間的理知に災いされて、自己には何ら興味も愉快もないことでも、単に一般的の名誉とか生活とかいうものに囚われて、その日その日を、苦しく悩ましく送っているのが八、九分だ。 真に興味を有することに各自は従ってゆきさえしたら良いのだ。それが他人から見て愚に見えようが、狂に見えようが、そんなことまで気にしていた日には、自己がこの世へ生まれ出た所以がわからなくなってしまう〕
〔人は誰でも、自己独特の使命を天から受けているのであるから、とにかく、心の底から、したくてしたくてたまらないことはどしどしやるべきであり、またやらすべきである。 そしてまた、途中でこれはいかんと気づいたならば、躊躇なく道を他へ変えたら良い。 いつまでも小さいことに囚われて、くよくよしているようでは、自ら、そこに一種の牢獄を作っているようなものであるから、成否に関せず。人は常に興味中心、内的要求を次から次へと満足させるように努力するのが、もっとも神意にかなった人生である〕
〔人間は、一体、この世においてどうしたら良いか? 他人に迷惑をおよぼさぬ範囲において、自己の欲するままをしたら良い。ただし、厳密にいえば、絶対に人に迷惑をおよぼさぬ行動というものはないのであるから、そこは程度の問題である〕
〔できるかぎり、思う通りにせよということは、感情のままに行動せよというのではない。していいと決意した通りにせよということである。 世には自分では、こうした方がはるかに良いと思っていながら、少しの努力が足らないために、常に他人に引きずられた生活を続けている人たちが多い。これでは、この世へ何のために生まれてきたのかわからなくなってしまう。 人間の感情そのものは、大部分は利己に発しているから悪に属している。ゆえに、理知によって感情をため直す必要が大いにある。〕
〔いわゆる副守護神(邪な心)の馴致さえ出来ぬ人が、やれ惟神だの、気分次第だのと称して省みることなく、恥ずることなく、感情のままに行動するということは明らかに間違っている〕
〔本守護神(良心)が出ている時には、狐疑せずに、思いついたままをなした方が良い。 副守護神の自分である時には、万事熟慮し、理性を失わぬよう省みるところがなくてはならぬ。本守護神が出ている時というのは、なんとなく心に落ち着きとゆとりがあり、楽天的であり、進展的であり、言霊よくころび、身体に暖かみがあり、外界がなんとなく輝いて見える時である。副守護神が出ている時は、まったく以上に反する場合である ただし、この両者の混合状態にある場合も多いが、そのいずれが主になっているかは、大体サニワがつくのである〕
〔真に自己に忠実であったら、それで良いのだが、ある一部分だけは忠実であって、他の一部分《都合の悪いこと》には不忠実なのであるからいかぬのだ。 真に自己にやましからぬためには、むろん、第一に良心に省みて恥じぬことでなくてはならぬ。良心というものの正体がわかりにくければ、全自我といってもよいし、統一的自我といってもよい。 だから、情欲のままに行動するのが、決して、自己に忠実である所以でないことは明瞭だ。 さて、この全自我、統一的自我というものは、決して各人同一のものではなくして、みなそれぞれに異なっている。また、同一人にあっても、日一日、刻一刻と進展しつつあるものであって、今の全自我と、明日の全自我とは非常の差異を生ぜぬともかぎらぬ。否、生じてよいのだ。全自我の発展とともに、人は向上してゆくのだ。 とにかく、人は今の全自我にさえ真に忠実でありさえしたら良いのだ。これ以上を要求するのは無理だ、不自然だ〕
〔心に思っていることを強いて現わすまいとすることは苦しいことだ、悪いことだ。霊は形を現わすことを求めてやまないものであるから、これを現わすまいとすれば、そこに無理が生じ、肉体を損ない精神を傷つけることになる。 心の奥に思っていることは、一度やってみるに限る。これは悪いと知りながら、何時までもそれに執着しているのが一番罪である。人間は、汚れなき本心に磨きさえすれば思うままのことをしていて、決してさしつかえるものではない〕
〔腹の中に思っていることと全く正反対の言辞を弄して、相手の心を引いて見るような態度に出る人くらい嫌なものはない。こんな卑屈なことをするよりは、少々相手に不快を与えてもかまわぬ、ドシドシ自分の所信を述べればよい。 たがいに腹の探り合いをするような話ぶりくらい嫌なものはない。 謙遜も時と場合によってよい加減にやめておかねば、かえって無礼になることがある。 嫌なら嫌、ハイならハイと、生まれ赤子の心で応答した方が、たとえ一時的に相手に不快の念を与えるような場合があっても、あとの気分が晴れて、双方ともに気持ちが良い〕
〔なんでもない引っ込み思案は甚だ良くない。能うかぎり、頭なり手足なりを活動させて、常に何かを得ようと努めるところに真の生活があるのだ。 いつまでも同一境遇に執着して、それより一歩外へ出ることのできぬような意気地なしでは困ったものである。中には、心中では、これではならぬ、も少し何とかせねばならぬと焦慮しておりながら、決断力が足らぬために、いつまでもその境遇に甘んじている人々も随分多い。無論、時と場合によって、ここのところは敢然と思い切るべき時か、あるいは、今は忍耐すべき時であるかということは、まず考えねばならぬ〕
〔鵜は鵜のごとく、からすはからすのごとくすべし。あまり人の思惑などを気がねして、由なきことにまで、自己の意を曲ぐるは罪悪なり。大なる迷惑を人に及ぼさざるかぎり、おのれのなしたきままを、偽らず飾らずなすべし〕
〔自分の得心ぬることに従事してはならぬ。信仰はなおさらのこと、強いられたり、迫られたりしてはならぬ。 いかに程度が低かろうが、それが、自分にとっての真のベストであるならば、人はどんなことをしても恥じることはない。 赤子は糞尿たれながしであり、子供は毎日遊んでばかりである。それで、彼らのベストなのだから、一向差し支えない。 自己内心の最奥よりきたる欲求を、一時、ごまかして、心にもないことをしていたところで、何になる。彼自身はすでに死んでおり、その骸が動いているのと同じことではないか。 自己の真に理解し、得心しただけを信じ行うのが真の生活である。強いて烏が鵜のまねをしたところで後悔するだけである。自分の思うとうりするならば、失敗しても満足ではないか〕
〔小児の偉いのは心身一致だからだ。常住坐臥、無理がないからだ。善悪いずれにせよ、少しも自己を偽らぬからだ〕
〔このごろは謙遜ということもいやになった。要するに、このことも、自己を偽ることであり、自ら強いることである〕
〔自分の努力が報いられぬからとか、自分の技能が認められぬからと言って、たいていの人 が泣き言をならべる。これは要するに、最初から報いられんことを目的として努力し、 また、最初から俗世に認められることを念願として技能を磨いていたのが、後になっても、 いっこう、その願望が達せられないので腹を立てたまでである。「為したきがゆえに為す」 というふうにならなくては、最初から報酬や賞賛を目当てに為すのでは、これすでに、報酬や賞賛の奴隷となっているのであって、真に天地を楽しんで神の御用に努めているのではない〕
〔普通の人はずいぶん利己的なもので、常に自己の優秀ならんことのみを、念頭に置いて おるものだから、ちょっとしたことにでも、すぐ他人と自分とを比較して、少しでも自己に、より優れた点ありとせば、内心、鬼の首でも取ったようにうれしがり、もしまた他人に、より優れた点がありと見た時には、何とかしてこれにケチをつけんとたくらみ、それも能わざる時には、極めて不快にその人を思う場合が多い。…「自分を悪くすまい」という気持ちが、何よりも真っ先に出てくるらしい。人の服装に細心の注意を払ったりなどすることも、要するに、この根本動機は、自己とその人を比較するにあるのだ。勝手になんなと思え、自分は自分の信ずるだけの道を行こう!という心がけが実際においてもう少しあったらと思う〕
〔人間というものは、案外、無精なものである。ああしたら良い、こうした方が良いということは、百も合点しておりながら、なかなか実行はせないものである。必要やむを得ぬという時が押しつまって来るまでは、のばしのばししているものである。だから、絶えず肉体を鞭打って、なすべきことは躊躇なく次々とかたづけていく癖をつけたいものである〕
〔フト思いついたことで、して差し支えのないことなら、その時をすかさずなすべし。機会というのは、かかることを指すなり〕
『祈ることは結構であるなれど、祈るばかりでものごと成就せんぞ。なすにはまず祈らねばならんが、そなたはそなたの神にのみ祈っているぞ。なすのは己であるから、己に祈らねばならんぞ。己に祈りた後、己がなさねばならんぞ。乳房与えられても自分で吸わねば自分の身にはつかぬ道理ぢゃ。だが、なしたのみではまだ足らんぞ。時々は省みなければならんぞ そなたは形や口先ばかりでものを拝んでいるが、心と行と口と三つ揃わねばならん。三つ揃うて拝むならば、どんなものでも与えられるのぢゃ』
『そなたは祈りが足らんぞ。祈りと申すのは心で祈り願うことでないぞ。実行せねばならん地上人は物としての行動をしなければならんぞ。口と心と行と三つ揃わねばと申してあること、忘れたか』
※周りの人が何を言おうと、心の底からの欲求であり、良心に恥じず他人に大なる迷惑をかけないことで有ったら、まずは行動すべきであり、周りの人の顔色ばかり見ていては本当のことは何も出来ません。心にすべきと言われたことはすぐに行動すべきです。機会とはすべきと感じた時。


直日(良心、全自我)に省みる

〔思うことは生ずることである。思うことを省みるべし。思うこと汚ければ、生ずるもの また汚し。思うこと清ければ、生ずるものまた清し。源澄まざれば、末澄むあたわず。修養の秘訣は、常に思うことを省みることである〕
〔みがくというは省み悟ることなり。反省力の強き人ほど早く磨けるなり。反省せぬ人は、如何なる素姓よき人といえども、身魂の向上進歩は決してなきなり。 よく天地を観、人間を観、わが心を観て悟るべし〕
〔真に公平に、ことごとに自己を省みて悟るべきである。人間の真の進歩の手段は、こうするより他にはない。心を用いておれば一度で悟るものであるが、不注意でおれば、一生涯同じことを繰り返している。人の真の価値は、一度逆境に立った場合によく現れる。多くは自分に省みるということはせないで、人を恨み世を呪いがちである〕
〔すべき時に、すべきことをわきまえることが、一番大切だ。 「自分のしていることは間違いではないか」と、常に怠らず省みねばならぬ〕
〔鏡に対せば自己の汚れがわかるごとく、静かに直日に省みれば、いかでか、自己の心の汚点のわからぬことのあるべき〕
〔各人はよく常に省みて、自己がまだ不健全である時には、いよいよ万事控えめに、自分はまだ人間として不完全なものであるということをさとって、陰徳をつむべきである。 しかし今の世では、心身ともに真に完全無欠だという人は甚だまれである。特に良きみたまほど、一時、外見が見苦しい場合が往々ある〕
〔自己が天国に籍をおく時は、周囲一切が善意にしか映ぜぬ。他を恨んだり。呪うたり。妬んだりする間は、どんなに才能があり力があり、権威があり声望があっても、断じて、その人は天国に籍をおいている人ではない。このことは自分自身を内省する上に最も正確な標準となるから、常に怠らず、自分で自分を監視し、自分で自分と角力をとっているべきである〕
〔花を見て、美しと感じ得ざるようでは、いまだ煉獄の境涯にあるなり〕
〔心の底から、自己のきたなく汚らわしく、弱く小さきことに気づいた人は、もはや救われた人である〕
〔自分の心の小さく弱く、汚きことを赤裸々に、毎朝毎夜、直日の鏡に照らし見て、常に恥じ、悔い、悟ることを怠らぬ人でなくては、真に神の国に至る資格はない〕
〔省みることは道を探すことであり、悟ることは道を得ること、改めることは道を進むことである。この三階段は吾人霊的向上の順序であって、これを無視してはどれほど苦悶焦慮するといっても、単に、心を苦しめ身を疲れさせるのみであって、何の得るところがあろう世には形の上においては、いろんな辛酸をなめている人たちは沢山あるが、彼らの多くは我執の雲につつまれているので、いつまでも同一の愚を繰り返して悟らず、自己を責めることを忘れて、他を恨み、ねたみ、憤ってばかりいる結果、霊性の上においてはなんら進歩も向上もしておらないのである。そればかりか、かえって、我とわが心からめぐりを積んでますます苦しんでいる連中が、はなはだ少なくないのである。お互いに、もはや過ぎ去ったことはいうまい。また、これから先のことも神様にお任せしよう。ただ、この現在の瞬間瞬間を、よくなし、よく省み、よく悟り、よく改めようではないか〕