神祀り

[神は普遍の霊であるから、これを特に祀る必要は無いかのように、理知的な人は思いがちであるが決してそうではない。 それは、お互いに心は合い通ずるものだから、特にものを言ったり、儀礼を行う必要は無いというようなものである。 祈る心があり、感謝する念慮があれば、必ず、それに相応した行動が外的に現れなくてはならぬ。 始終、心の中では祈っている、感謝している、と言うだけではまだ嘘である。心中の感謝、祈願はかならずや行為の感謝祈願でなくてはならぬ。 聖賢は別として、われわれ凡人は、常住坐臥、内的にも外的にも同時に感謝祈願の生活はなし得ないものである。 理想としては、こうした大乗的信仰に入りたいものではあるが、 最初はどうしても、いわゆる形式的儀礼に便ぜられ助けられて、真の信仰に向かうのが順序である]
『まつりてない時はお日様とお月様おろがめよ、マトとせよ』
『身魂みがくにはまつりせねばならんぞ、まつりはまつらふことぞと申して説いてきかすと 神まつりはしないでゐる臣民いるが、神まつり元ぞ。神迎えねばならんぞ』
『より上のものから流れてくるものにまつりて行くこと大切ぢゃ。それがまつりの元』
『川がなければ水流れん道理。始めはカタふんで行かなならんぞ』
※物質界に肉体を持ってこの世に生まれた以上、儀式の型を踏むという事は、避けられません。 神様に通じるには、初めに神様にお祈りすると言う形式をすることが必要となります。 それはちょうどマナー教室に行くことで、相手に対する思いやりを学ぶようなものです。 神言う言葉に抵抗のある人は、まずは、朝日を拝んでみては如何でしょうか? 私たちは太陽のエネルギーを頂いて生きていることは科学的にも否定しようがありません。 そんな太陽に朝日に感謝の気持ちをこめ、或いは願いをこめ祈りをささげましょう。