これは、俗人の私の経験から、真実であろうと思うことをまとめたものです。
これからの人に向けて或いは道を求める人向けて。
マスコミ、プロガンダに左右されず。出来うる限り事実を追究したつもりです。
これからを生きる人たちの生きる糧や指標となれば幸いです。
聖書や多くの神典類には、神が人を試すたり、人心の荒廃その他が神の意に沿わぬことが起こっているとあります。
もし、神が全知全能であるならば、神の意にそわぬこと等起こるはずありません。
そしてそれは、神自身が全てをコントロールしているわけではないと証拠です。
故に、全知全能の神は存在しない。では、神は存在しないのか?
私はそう考えていません。善の心をもった偉人を人は時として神と呼びます。
私の考える神とはこの現人神とも呼ぶべき存在。
そして、この一歩進んだものが集合意識、人の集団。
例えば、ボランティア団体等をイメージすれば良いと思います。
この善集団の集合意識(全体の総意)や行動、エネルギーこそ神と呼ぶべきものだと考えています。
その奥には、ユングの唱えた集合的無意識存在する。
また、大自然の摂理、総意とも呼ぶべきものも又神と呼ぶべき存在。
自然の摂理の内善性なるものを大神と称すべきものであると考えます。
つまり、神は人の(善人の)発展系、或いは自然の摂理や意思。
故に、その存在は決して全知全能ではない。ただし、凡人には及ばぬ力がある。
マザーテレサは「祈りなさい」と仰いました。
彼女が祈りを進めるのは祈りの力を信じ、実感しているからでしょう。
真実はわかりませんが、私の経験則上からすれば、それは単なるプラセボではなく、
真に祈れば願いは通じると思っています。
天候などは、そういう影響を受けやすいように思えます。
ただ、その影響力は限られていて、サイコロの目の確立が6分の1程度から
5分の1へと変わる程度のもので、その影響力は小さい。
ホーキンスは人の死を「壊れたコンピューター」に例え
コンピューターにその後はないと言ったそうです。
しかし、コンピューター等の電子機器はいくら人間的に見えてもそれは、
製作者の作り上げた思考パターン・方程式にしたがっているだけで
電子機器には意識・自我と言ったものがありません。
この人間固有の自我や意識こそ尊ぶべきものだとおもいます。
もし、意識や自我を含めた心(≒霊)というものがある種のエネルギーとするなら、
そのエネルギーが脳の停止と共に0となるとは限らないと思っています。
確実なことは、死んでみなければ判らないことではありますが…。
世界初のストリップは神話に出てくる神懸り状態の天細女命です。そのストリップで盛り上がったのが 日本の神々でした。また、各地に男性器、女性器を祭った神社があり性というものを大切にしていた証でしょう。 ただ、最近の若い人たちの間では「植物男子」呼ばれる異性に無反応の人が増えてきたようです…
。出口王仁三郎とは
上田ヨネの子として生を受け幼いころから神童として、評価が高かったらしく、高熊山での修行により開眼した。
そのころお筆先の神様として名を馳せていた出口ナオと合流し、大本教を起こす。
霊的(心的)には出口ナオが厳霊系(つまり厳格な心)の国常立尊、アマテラスとされ、出口王仁三郎、が瑞霊系(柔軟で慈愛に満ちた心)の豊雲野尊、スサノオとされ
夫婦、姉弟、厳と瑞など対を成す存在とされ、その違いは対立となり、火と水の戦いとして表れる。
この戦いは、大正五年の出口ナオの筆先に、ナオが待ち望んでいた救世主弥勒様は王仁三郎の「瑞霊」あると出ることで
ナオは王仁への誤解をとき一応の決着を見る。
その後、王仁三郎は明治天皇を模したような格好をで閲兵するなどして、当時の政府の逆鱗を買い
大本教は二度の大弾圧を受ける。
大本系団体ではこの大弾圧が雛型として二度の世界大戦となったと言う。
大弾圧のきっかけとなったのは、十二段返しの大本宣伝歌です。
その歌には
「綾部に天子を隠せり、今の天子偽者なり」、の言葉が隠されていた。
私は、いくら経綸と言え、天皇の格好をして白馬に乗り、軍隊指揮の真似事をして政府を挑発するのは
感心できないと思っていましたが、王仁三郎が天皇になるはずの人間であったとしたら?
天皇の真似事をしたのも頷けます。
その昔、禁門の変で謹慎処分になっていた有栖川宮熾仁親王は伏見の船宿で同志たちと密会を重ねていた
そこで働いていた当時19の上田ヨネと恋に落ち、そこで男の子が生まれた。
男の子であったがため権力闘争での暗殺を恐れて隠蔽された。
その子こそ出口王仁三郎だと言うのです。
また、鶴殿親子様をはじめ皇族方々が多数入信されたのもこのためだとされています。
当時は有栖川宮から賜った、小袖、軸、短刀といった証拠品があったが第二次大元弾圧で焼却されてしまう。
王仁三郎の人間性
王仁三郎が教祖ナオさんのお墓を丸い形にしていたら、官軍等が来て天皇陛下のお墓に似ていてけしからん取り潰せと言われたので
四角いお墓に作り直した。その時の王仁三郎は「実ははじめから四角いお墓にしようと思っていたのだ」
というように、その場しのぎその場しのぎの話(物語)を作る人だったらしい。
どう見ても言い訳にしか取れないことが多々あります。
ただ、宗教対立、民族対立等の垣根を取り払うと言う王仁三郎の精神は尊敬に値します。
宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである。(神の国)
日出麿氏の本名は高見元男といい、暖かく包みこむような人柄であったそうです。
日出麿は大本教三代教主出口直日と結婚し婿養子となり、その際に出口王仁三郎によって「出口日出麿」と命名される。この命名には、【日の出の神】の意味がこめられてという。
二代教主すみも「三代もまた日の出の神である。二人は同じ身魂で、夫婦になりて揃うたところで、あっぱれ日の出の神と現れるのである」と神示に聞いている。
また、中国の道院では国常立尊と同一視される至聖天老祖の名により、出口日出麿に【運霊】と言う道名が与えられた。
「運霊は自ら尋仁(王仁三郎)を継ぎて、大同(世の中が天地の大道と同化すること)の法則要素を世界に展べ広ぐために生まれ来たれるものなり。汝の負う責任は甚だ重大なり」
そして、第二次大本大弾圧…。
当時、王仁三郎は六十の坂を越していたため(或いは本来皇族となる人だったため?)、当局の矛先は次代をになう日出麿に向けらた。
日出麿に対する拷問は特に酷かったようで、 事件当時のことを王仁三郎はこう話している。
「わしは長いこと未決監に入れておけばよいが、日出麿は若いから、おまえは天皇陛下になるつもりだろうと殴りつけて…。その悲鳴を聞くのが一番辛かった」
その場で死に至らなかったのが不思議なほどだといわれたほどで、拷問の果て日出麿は精神異常をきたすようになった。
日出麿の異様な言動は、独房の信徒の目にもはっきりと映るようになった。目はまったく虚ろであり、呆然と歩き、糞尿は垂れ流した。
それでもなお、当局は、日出麿は発狂を装っているとし、拷問による常識を絶する屈辱の日々は続く。
釈放された時には歯は折られ、それは壮絶な拷問のあとがあったという。
当時の日出麿氏については、精神病のであったと言う話と、悪霊をかからせ改心させる御用をしていたとの話がある。
どちらにしても、釈放後の日出麿氏は染筆と、囲碁をしていたのは紛れも無い事実です。
その日出麿氏が若いころ残した思索ノートが信仰覚書と生きがいシリーズです
信仰覚書は紛れも無く、人間の言葉です。ですが、人間の言葉だからこそ神様にはわからない人間事情を理解し、また人間に理解されうる言葉となるのだと思います。又人間の言葉であるので、時に誤りもあります。 日出麿氏の願い
日月神示とは
岡本天明はかつて大本(教)の人類愛善新聞の編集長であったが、二次大本弾圧事件を契機に大本とは疎遠になっていた。
昭和19年のある日、あたかも神霊に誘われるようにして天之日津久神社に参拝し、「そのとき幽かな声のようなものが聞こえその声の命ずるままにほとんど無意識のうちに描かされたのが神示『上つ巻』の第一・二帖でした」これが日月神示(ひふみ)の発祥です。
そしてその神示は数字記号交じりで、書かされた天明自身にもその意味がわからず、矢野シン等の仲間たちの協力を得て解読されてきたもので、未だ未解読のものもある。
日月神示は、戦中この非常事態に神からのご警告が無いのはおかしいと感じた多くの軍人さん達が本物と信じ、数々の予言を的中させてきたとされており、それが事実なら人知の及ばぬ存在の関与はあったと見るべきでしょう。
が、検証にはそれに足る資料が無く時間と手間がかり、(資料の少なさからすると検証は困難かもしれません)
私自身は預言等に重きを置いていません。ゆえに預言検証は他の方に検証に譲りします。
日月神示にはそれ以外にも、疑問点があります。
ですが、私や私の知人が日月を読んでカルトの洗脳から脱出でき、心や体を立て直すきっかけと
なった人も多数おられます。
そこで私は神の降ろしたものかは別として、比較的わかりやすく具体的に精神修養の方法論が
記載されていますのでその一書として取り上げさせていただきます。
日月だけが絶対たる精神修養の書ではないのですが、
とりわけ、神道系教団等に影響を受けた人には受け入れやすいのでは無いでしょうか?
因みに、岡本天明氏は出口日出麿氏と同年同郷生まれで、岡本天明が人類愛善新聞の編集長になったのも日出麿氏の要請です。
純粋に国を尊ぶ心は清いと思いますが、
インターネット上にて猛威を奮っているネット右翼と呼ばれる方々の主張を聞いていると、
とても冷静とは言えません。
傲慢で自分たちの正義を他人に押し付けているエゴイストにしか見えません。
その酷さが浮き彫りになるのが、彼らの韓国への中傷。
私も韓国は好きではありません。だからといって、彼らのような韓国人への中傷行為が赦される訳ではない。
彼らとしたら、韓国人へ攻撃することで自分が正義の味方になったつもりなのでしょうが、
客観的に見たら、彼らもまた、日本の悪口を言う韓国人と同類に陥っている。
きっと、そうした空気が関東大震災での悲劇を生んだ土壌なのだとおもいます。
彼らの他者への攻撃はむしろ日本を傷付けている気がします。
他人への中傷を止め、本当の意味で言魂幸和う国の愛国の志士となってくれることを切に願います。
他人に傷つけられたからといって、自分がそのものを傷つけて良いなんていうのは理屈になりません。
傷つけた行為が悪だと感じるならこそ、自分はその行為を行って自らが悪人になってはいけない。
もちろん。加害行為を続ける隣人を止めることは緊急措置として正しいでしょう。
だけれど、冷静になったあともまだ復讐として他人を傷つけることは
ミイラ取りがミイラになったに等しい。報復の連鎖は中東などでの悲劇の最大要因です。
復讐(報復)が正義だという価値観が生み出した悲劇はかずしれません。
自分がマイナスになったからといって、加害者にマイナスを与えてはいけない。
加害者に不要な苦痛を与えたところで、被害者がプラスになることはない。>
マイナスにマイナスでバランスをとろうとしてはいけない。
では、加害者にはやり得ではないかという方も居られましょうが、
人を傷つける行為を得と考えること自体が間違っています。
復讐は悪だからといっても、加害者は何もしなくて良いとはなりません。アガナイは必要です。
どういう形であれ、加害者にプラスに転じてもらい。被害者も世の中もホンの少しでもプラスになるように仕向けることこそ、政治、宗教、教育の最大の勤めなのだと思います。
また、各教信奉者がイエスキリストやスサノオに罪を押しきせるのは、方便でしかなく、悪いことしてもキリストやスサノオに擦り付ければ良いというのは大間違いです。
世の中に自己中心的な人が居る限り、きっとイジメはゼロにはならない。
私は、小中高と一貫して虐められっこでした。クラス中からのけ者にされ、毎日殴られ、
高校時代は制服の靴跡を払って帰るのが日課でした。
当然、お金も要求されることがありましたが、一円たりとも渡しませんでした。
仮に、私がそこでいじめっ子の要求に応じておこづかいを渡していたら、
いじめっ子は赦してくれて二度とイジメをしなくなるでしょうか?
絶対それはありえません。味を占めたいじめっ子は、ますますその要求をエスカレートさせるだけです
殴られたりしましたが、そのことを判っていたら一円も渡すことが出来なかったのです。
そして、私が絶対渡さないという意思が伝わったのか、いじめは続きますが金銭要求はなくなりました。
虐められっこに虐められっこベテラン(笑)の私からいぢじめを受けている人に言えること
いじめっ子の理不尽な要求は決してのんではいけない。例えどんなに殴られても。
耐えられなくなったら、要求をのむのではなく逃げろ。
休み時間を逃げるか学校を休め。
休み時間に誰も居ないところに逃げるというのは私の常套手段でした。
いじめっ子も先生の前で堂々とは虐めにくいしね。
とはいえ背中をシャーペンで刺されたりはしていました。
この世界に、悲しみが絶えないのは、根っこの部分では、頭でっかちな人間ばかり増えて
心をはぐくむことを疎かにしてきたからだと断言します。
そして、この心をはぐくむことが出来るのが、孔子、淮南子、日月神示、マザーテレサの言葉等
先人の知恵であり また、さまざまな偉人伝です。
某教育委員会の方々は偉人伝を推奨することは、価値観統制や軍国主義につながると
反対していたようですが、偉人伝などに選択の幅を持たせれば、良いだけです。
「兵隊さんのエライサン」だけが偉人では在りません。マザーテレサや杉原千畝の偉人伝は
決して軍国主義にはなりえません。
また孔子、淮南子、日月神示、マザーテレサ等も絶対的正義とするのではなく、選択の幅を持たせて
取り入れれば価値観統制にもなりません。
その人その人に適した偉人伝を読めば良いと思います。
たとえば、外交官僚は陸奥宗光といったように…
そして、人を善導する言葉を私なりに紹介するのがこのホームページの意図であります。
私自身正しいと信じた言葉、心打たれた言葉ですから、きっと私と同じような
波長や境遇の人に響くと思います。
現状は大本系の日月神示、信仰覚書のみですが、将来的には他の聖言も加えていきたいと考えています。
昨今は世が動く大変な時代です。そんな世の中だからこそ、
心に芯を持ちぶれず、和を好み、言魂幸和うヒノモトの民としての誇りを持って生きていきましょう
心に芯があれば世がどう動こうと動じることはないはずです。
今の与党も野党も政治家先生方は芯のない方々が多い。だから官僚に騙され、ぶれる
だからこそ、我々は偉大な先人の心を頂き、心を養いつつ心に芯を入れるべきだと思います。
大人に首輪は不要
今の宗教の戒律、国家の法律、常識その他の大半は宗教指導者、為政者たちのご都合主義の産物であり
がんじがらめになっていては本当の仕事はし難く、また社会が息苦しくなるばかり、
そして、法のモトの平等が維持しがたくなり、戒律や方の網を潜り抜ける小ズルイ人間が闊歩するよのなかになっていきます。
霊界物語においても、戒律そのものが、善の神の活動をも妨げる場面も多数登場し、また生物の生成化育の妨げになる。
人間の社会全体が利他を心がけていけるようになれば、これらの手かせ足かせはもはや不要となります。
「人を思いやり他人に迷惑をかけない」たった一つの法で自由に生きられる社会こそ本当の理想郷で
ありわれわれが目指すべきところであるとおもいます。
ただ、現状としてそれが叶わないのは人の心が成熟しないが故。
その為にも、人心を浄化し養う心の栄養は必要なのだと思います。
現代人にはその為に先人たちの偉大なる知恵を活用すべきであり
それを活用しないのは現代人の怠慢。
そして私自身も怠慢な人間…。
御魂磨き