しとしとと、雨が降っている。
彰子は、盛大にあちこちの破れた、昌浩の夜警用の狩衣を繕う手をとめて、半蔀の向こうを見やった。
雨が、降っている。
しとしと、しとしと。
ぴちゃん、と雫が落ちる音。
――雨が、降っている。
雨。
「……あめ……」
半蔀の向こう。灰色の雲が厚く空を覆っている。
雨は朝からずっと、降り続いていて、僅かに肌寒い。
――雨が降ると、思い出す。
まだ、己が生まれ育った邸にいて、何の不安も無く、ただただ大切にされていた頃を。
05. 雨
今日はこの東三条殿に、安倍昌浩が訪れてくる予定だった。
――というのは彰子の憶測なのだが、きっと間違ってはいないだろうと思われる。
昨日、彰子は晴明に文を出した。
だから多分、今日返事が来るだろう。晴明は彰子や道長からの文に、いつも早く返事をくれる。
だから、今日。
文を運んでくるのは、今までの経験からして、彼の末孫である昌浩だ。
そして昌浩はこの東三条殿に訪れたときは必ず、彰子に会いに来る。
それは晴明から、彰子と、彰子を守るための結界の様子を見てくるように言われたためであったけれど、それでも会えることには変わりない。
何故晴明に文を出したのかというと、そういう背景から、昌浩に会いたくなったからだった。
勿論晴明に文での用はあったのだが、比重からすれば昌浩に会いたいことのほうが大きい。
こんな事は、誰にも言わないけれど。
晴明にも、勿論気づかれないようにしたけれど。
ここのところずっと、昌浩の顔を見ていなかったから、会えるのは凄く嬉しい。
彰子と同じような年で、彰子を『彰子』として見てくれるのは、昌浩だけだから。
――だから。
だから、会いたいのだ。
それ以外の理由は、彰子には許されないから。
ぴちゃん、と音がした。
「あ………」
妻戸の向こう。
見えるのは、空から落ちる水。――雨だ。
「………雨………」
ぽつりと、呟く。
雨だ。
雨は、濡れる。
彰子は雨の中、外を出歩いた事は無いけれど、それでも幼い頃、女房達の目を盗んで遊んだ事はあったから、少しだけ判る。
雨は、濡れる。
濡れた土は、泥になる。
――確かそろそろ、昌浩が退出してくる時刻ではなかったか。
「………昌浩」
来るだろうか。
来なければいい。雨の中を歩くのは易しいことではないと、知っている。――会いたいけれど。
来るだろうか。
来て欲しいけれど、会いたいけれど、昌浩に無理をして欲しいわけではないから。
「姫様? ………まぁ、雨が」
振り返ると、お付き女房の空木がこちらへ歩いてきていた。
「雨ね……」
暫くそうして、二人で外を眺める。
雨は変わらず、降り続いている。
「……姫様?」
そっと、空木が声をかけてくる。
「奥に戻りませんか、姫様。ここは少し寒いですから。お体に悪いですわ」
「……うん、そうね」
しとしとと、雨が降っている。
「ひさしぶり」
雨が降っているというのに東三条殿を訪れて来た昌浩は、当然ながら濡れていた。
それでも邸の女房に雨を拭わせてもらったのか、今は濡れていた形跡が残るだけだ。
「はい、じい様からの文。……ここに来る途中に雨に降られちゃって、頑張って文は死守したんだけど。
――ちょっと濡れたかも。ごめん」
「ううん……いいの。ありがとう」
差し出された文を受け取る。確かに少し、しっとりと水分を含んでいる。
「――彰子、何かいいことあった?」
「え?」
呟いて、彰子は瞬いた。
ちなみに今、物の怪はこの場にはいない。当然付いてきているが、今は庭の方に行っているのだ。
「顔が笑ってる」
「……そうかしら?」
「うん。すごく嬉しそうだ」
だから、何かいいことがあったのかなって思ったのだと言う昌浩に、くすりと笑う。
「…昌浩に会えたから」
「……え?」
「雨だから、今日は来てくれないだろうって、思ってたの」
二人の頬が微かに染まった。
恥ずかしくなったのか、手の中の文をもてあそびながら少し俯いて、それに、と続ける。
「……晴明様からのお返事も、これから読めるし」
「……………」
「雨なのに、来てくれてありがとう、昌浩」
「………うん。いいんだよ、好きでやってるんだし、それに、今日の雨は酷くないから」
しかし彰子は眉をしかめて、
「でも、濡れちゃったでしょう。体冷えちゃったわよね。――空木!」
奥へ向いて声をかけると、側から下がっていたお付き女房の空木が現れた。
「はい、姫さま」
「昌浩に何か、温かいものを」
「え、――彰子、いいよそんな」
「ううん、貰っていって、昌浩。昌浩が風邪を引いてしまったら私、晴明様や吉昌さまに申し訳ないわ。――ね?」
にっこりと微笑みかけると、昌浩は観念したように頷いた。
「……じゃあ、いただきます」
ざぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・
穏やかだった雨は、いつのまにか強くなってきていた。
彰子は再び手を止めて、外を見上げた。
生まれ育った邸にいた頃の、雨の日のできごと。
彼が雨の中を来てくれたことが、とても嬉しかったのを覚えている。
「……昌浩」
彼はいま、どうしているだろう。
あの日のように、雨に濡れていなければいい、と思いながら、彰子は再び手を動かし始めた。
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