それはあまりにも、身近になりすぎた香り。
30. 伽羅
「良い香りだね。伽羅かな? 他の香りも混ざっているようだが」
昌浩は目を見開いて、それから小首を傾げた。
何の話しかわからなかったのだ。
そんな昌浩の様子に、行成は微苦笑する。
「昌浩殿にとって、その香りはとても身近なのだね。……とても、優しい香りだ」
そこまで言われてようやく合点がいって、昌浩は頷いた。
「いつも、持ち歩いているので」
「……それは、藤壺の女御様から頂いたものかい?」
昌浩は再び目を見開いた。
彼がそれを知っているとは、知らなかった。
「あの日君が帰った後、大臣様から伺ってね。藤壺の女御様――彰子様が、匂い袋を昌浩殿に贈ったと」
昌浩は頷く。
懐に、いつも持ち歩いている匂い袋。
――彰子から、贈られたものだ。
彼女から異邦の妖異を、退けた事に対する、礼として。
「大事にしなさい」
行成のやさしい笑みに、昌浩は再び頷いた。
行成邸を出て暫くして、昌浩は懐から匂い袋を取り出した。
ほんのりと、伽羅のにおいが香る。
本来なら藤壺の女御であるはずの彼女は今、ただの彰子として安倍邸にいる。
「彰子、…今、どうしてるかな」
いつも持ち歩いていて、身近になって、慣れ親しんだ香り。
今彼女との距離は遠いけれど、彼女の思いはいつも側にある。
晴れ上がった空を見上げて、昌浩は帰路についた。
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