―――――――カッ!

        ―――――――――――――――!

        ――………ザァァァァァ……――――――――




 何の前触れもなく天空に稲妻がはしり、直後に雷鳴が轟く。
 そして、地面に叩きつけるように雨が降りはじめた。

「――ガウリイ=ガブリエフ……だな」

 降りはじめた雨にも何も思わず、雨に打たれるままにしていた彼に、現れた彼らは確認する。
 彼は答えない。否定も、しない。何もかもが億劫で、面倒で、遣る瀬無かった。
 これで本当に良かったのか。自分だけ逃げて。それで本当に良いのか。それで解決するのだろうか。柄にもなく考えれば考えるほど、泥沼に嵌っていく。どうしようもできない。今、ここにいる自分には。――あのままあそこにいても、自分には。

――この時の記憶は、自分にしては鮮やかで、けれど、それでいて、曖昧なものだった。

 突然現れた彼らが、どんな表情をしていたのか。どんな顔をしていたのか。体格は。服装は。全て朧気だ。なのに鮮やかだ。
 矛盾している。
 ただ、地面に落としていた視線を上げると、鎧や服に微かに血の痕が見えたことは、鮮明に覚えている。

 それは誰の血だ?

「―――――――」

 何か言っている。
 けれど、覚えていない。

「――――を、持っているのはお前か」











――だ何も、解決していない。
















柴榑雨しばくれあめ



















「…ウリイ。ガウリイ!」
 はっと我に返ると眼前にリナの顔があって、ガウリイは驚いた。
「――――、リナ?」
「リナ、じゃないわよ。どうしたの、ぼうっとして、らしくもない。――熱でもあるんじゃないの? あんた」
 リナはガウリイに身を乗り出すのをやめて、腰に手をやると宿屋の入口の方を見た。
 今は閉じられている入口の向こうからは、地面に雨が叩きつけられる音が響いてくる。
「もしかして、あの雷とこの雨はあんたのせいじゃないでしょーね」
「……あのなぁ」
「まぁ、それはともかく。部屋はとってきたから、荷物置いてご飯食べましょ」
「――ああ。そうだな」
 ガウリイは微笑んで、先を行くリナの後を追った。

 突然の雷と、直後に降り出した雨。
 この二つは、――あの日を思い出す。

 ……忘れかけていたのに。










 雨のせいなのか、それとも食事時だからなのか、宿屋一階の食堂は喧騒に包まれている。
「そーいえば、ガウリイって……」
「んー? どうした?」
 食事を終えて、下げられていく大量の皿をなんとなく目で追っていたガウリイに、リナは口を開く。
 皿からリナに視線を移すと、彼女はナプキンで口元を拭っていたところだった。
「あんたって、傭兵…っていうか、旅をしてるのは長いんでしょ?」
「ああ、何年かまでは覚えてないけど、結構長いと思うぞ」
「…じゃあ、あんたって、ゼフィーリアには行ったことないの?」
「―――」
 珍しく、ガウリイが言葉に詰まる。答える言葉に迷った。
「ガウリイ?」
「あ。いや……すまん、なんだっけ?」
 リナは半眼で、皿のなくなったテーブルに頬杖をついた。
「だから、長い事旅してるのに、ゼフィーリアには行ったことはないのかって聞いてるの」
 ガウリイは困ったように、頭を掻いた。
「ああ。……行ったこともあるかもしれんが、覚えてないなぁ」
「あ・そ。よくよく考えてみれば、あんたが覚えてるわけないわよね、そんなこと」
「あのなぁ、お前さん人をなんだと」
「脳味噌ミジンコの剣術バカ」
「…………」
 ガウリイは沈黙した後、ふっと苦笑してひどいなぁと呟いた。
 リナはそんなガウリイの様子に眉を顰めて、視線を移した。
 外ではまだ、雨が降っている。





 ゼフィーリア。リナの故郷。
 リナの故郷だからという理由がなければ、足を運ぼうとは思わなかったに違いないだろう。
 ――特に西には、決して。















 雨が降っている。
 昼前に突如落ちた雷のすぐ後強い雨が降り出して、夕方近くになっても未だやむ気配はない。
 今日はこの雨だから、先を行く事は出来ない。今いる部屋も、雨が降り出した時にこの宿屋に入って、リナがとってきた。いつもなら外に出て、素振りなどをしてから刀身の手入れなどをするのだが、この雨では外には出られない。屋内でするしかないだろう。
 ガウリイは斬妖剣ブラスト・ソードを鞘からすらりと抜いて、その薄紫色の刀身を見た。
――斬妖剣。
 リナが色々とこの剣に関して難しい説明をしていたが、ガウリイは殆どそれを覚えていない。ガウリイにとって重要なのは、この剣が、ガウリイがリナについていける、リナと共に闘う事のできるようなものなのか、否か。
 リナはまるで聞いていないガウリイに怒っていたが。

 ひゅんっと鋭く、空気を斬る音が響く。
 光の剣を失って、リナと二人で旅をしながら魔力剣を探して、ようやく見つけたのがこの剣だった。以前持っていた光の剣に比べれば大分劣るが、それでもこれは魔力剣。この剣で、高位魔族と幾度も戦った。
 これは、リナを助け、援護し、護るための剣だ。
 光の剣を失い、斬妖剣を見つけ出すまでの間は酷かった。闇を撒くものダークスターとの一件のあと、大陸から戻ってきてからも、リナは魔族と戦う事が多かったから、尚更だった。
 魔族に普通の剣は通用しない。
 ガウリイが光の剣を持っていたからこそ、ガウリイはリナの旅についてくる事ができたのだ。でなければ、いくらガウリイが人間外れな剣の腕を持っていたとしても、今頃は生きていなかったに違いない。
 魔族を倒せる事ができる理屈の説明が簡単で判りやすかった光の剣とは違い、この斬妖剣は切れ味が非常識すぎるだけだが、高位魔族と渡り合う事はできたのだから、きっとガウリイには理解できないような難しい理屈があるのだろう。
 素振りは続く。その刀身の残像に、あかい紋様が見える。黄金竜ゴールデン・ドラゴンの長・ミルガズィアの血で描かれた紋様だ。良すぎる切れ味を、鈍らせるためのもの。…そういえば、以前持っていた光の剣は、その名のとおり刀身の形をした光が刃だった。普段はダミーの――とはいっても、なまくらものではなく、結構質のいいものだったのだが――刀身をつけていた。

 素振りをする腕を止める。剥き出しの両腕に、首筋に、額に汗が滲んだ。
 何故だろう。
 今日は、昔の事を、よく思い出す。
 誰もが言うが、自分でも己の記憶力は良くないというのに。
 声には出さず心のうちだけで自問して、納得する。

 ああ、そうか。

――雨が降っているからだ。

 突然の雷。直後に降り出す雨。
 偶然の一致だ。
 けれど、この二つは、あの日を思い出させる――――――






 コンコン、とドアをノックする音がして、リナの声がした。
「ガウリイ? 入るわよ」
 言って入ってきたリナは旅装をといていて、その手には魔道書とティーセットを抱えている。
「――素振りしてたの?」
「ああ」
 ベッドの上に置いていた鞘を取り、いったん剣を収める。
 リナはてこてこと窓際にあるテーブルへ近づくと、ちょっと暗いわねぇと呟いて、明かりライティングを唱えた。彼女のてのひらから、魔法の丸い光が生まれる。まだ夜でもないので、光量を抑えたのだろう、光はあまり強くない。
 どうかしたのかと訊ねる事もせず、ガウリイは鞘に収めた剣をベッドにいったん置くと、荷物の中からいつも剣の手入れに使う布を引っ張り出した。雨の日に、互いの部屋のどちらかで二人でいる事は珍しくない。特に二人で何かをするわけでも無い。ただ共に時間を過ごすだけで、する事は互いに別々だ。
 テーブルに座ったリナは早速、お茶を淹れはじめた。コポコポと小さい軽やかな音ともに、紅茶の香りが漂い始める。リナは二つあるカップのうちまだ紅茶の入っていないカップをとって、目線で問い掛けてきた。それに頷くと、紅茶が注がれる。
 こうやって二人でお茶を飲むことも珍しくない。ただティーセットを持ち歩いているわけではなく宿から借りているので、いつもではない。のんびり過ごすと決めた時に多いだろうか。
 ベッドに座って、淹れられたティーカップに手をのばす。リナは既に本の世界、いや魔道の世界に入ってしまっている。一口含むと、甘酸っぱいアップルティーの味が口の中に広がった。
 ふと、リナと出逢ってからどらくらいのときが経ったのだろうか、と思った。
 細かい年月などガウリイが覚えているわけがなかったが、それでもリナのことの多くは鮮明に記憶している。出逢った当初の彼女は、確かまだ15歳だった。本当は、もっと年下だと思っていたのだけれど。

――リナと出逢った頃の事は、他の何よりも、鮮明に覚えている。
 今よりももっと幼くて、子供で、可愛い女の子。けれど、誰よりも、どんな女の子よりも勇ましくて、強かった。そして、1%の可能性を、不可能を可能に変えてみせた。
 リナがいるから今の自分がいる。






 リナとの思い出ばかりになって、過去の思い出など埋もれてしまえばいい。








「……剣の手入れ、しないの?」
 どこを見るでもなくぼやけていた視点の焦点が定まる。魔道書を読んでいたはずのリナは、しかし本を見てはいなかった。そこで初めて、ガウリイは自分が抜き身の剣と布を両手にしたまま、ぼうっとしていたことに気がついた。
「あ……ああ」
 慌てて返事をしたが、あまり返事にはなっていなかった。条件反射のような、ふ、と息のように出た返事だった。
 布を持った右手を動かす。リナの話によればこの剣は、周囲の魔力を糧に、それを切れ味に転化させるのだという。あまり意味は判らないが。だからどんなにガウリイが刀身を磨いたところで切れ味は変わらないのだろうが、そこはそれ、剣士として得物の手入れは身に染み付いてしまっているから、切れ味がどうのという問題ではない。
 手入れをしなくても磨いたばかりのような薄紫の刀身に、自分の顔が映る。己の力ひとつで生き延びてきた男の顔。

 それが、昔鏡や水面に見た、自分の顔に重なる。


 あめのおと。

 故郷。

 雷鳴―――――――――――



「ガウリイ」
 抗うことを許さない響きをもって、リナが呼ぶ。
「――なんだ? リナ」
 平常を装って訊ねると、リナはため息をついて、膝の上の魔道書を閉じた。そして、ふ、と苦笑して言った。
「……あんたが、ただぼうっとしているのか、考え事してるのか、なんて、そんな違いがわかるのは、あたしだけじゃないかしらね」
「…リナ?」
 何の話だ。
 考え事?
「あたし、伊達に三年もあんたの相棒やってるわけじゃないのよ? わかるわよ、それくらい。――といっても、わかるようになったのは最近なんだけどね」
 リナは膝の上の魔道書を手でおさえ膝を組みかえて、頬杖をつきカップを手に取った。カップからはまだ湯気が昇っている。
「いままで、あたしが気づかなかっただけで、あんたはそんな顔してたのかもしれないし、最近見せるようになったのかもしれない。無意識で、ね。あんた、自分で気づいてないだろうけど、考え事してますって顔してるわよ? 今日」
「……そう、か?」
「そーよ。このリナ=インバース様を甘く見るんじゃないわよ?」
「いや、甘く見ているわけじゃないんだが……」
 そ、と呟いてリナは空になったカップに再び紅茶を淹れた。薄れていたアップルティーの香りが強くなる。

 何故かふいに、リナとの関係は甘酸っぱい、と思った。

 甘くて、けれども確かに存在する酸味。リナのようだ。
 特別な理由はない。そもそもこんな感情に、理由など要らないのかもしれない。

 誰よりも、どんな女の子よりも勇ましくて、強いリナ。そして同時に、酷く脆くて弱いリナ。
 後ろなど振り向かずに、ただひたすら、走っていこうとするその足元が危なっかしくて、保護者を名乗った。強いけれども弱いリナを、危なっかしいとガウリイが勝手に思っただけで、保護者など本当は彼女には必要ない。
 危なっかしくて、けれども燃える火のように一生懸命生きているリナを見ていたくて、側に居つづけた。危なっかしい彼女を護る理由に、保護者を名乗った。
 彼女を護る者。
 そういう意味では、保護者よりも守護者とか、そんな言葉が合っているのだろうが、そんな言葉は不似合いだと思った。彼女はまだ幼かったし、だから保護者だ。
 最近は、その言葉をあまり口にはしていないけれども。


「――ほら、また考え込んでる」
 リナの声。
 はっと意識が現実に戻る。彼女の言うとおりらしい。柄にもなく、今日は考え込んでいる。自分では意識していなかった。


『――惚れた相手の前でだけは、悩んだ姿なんて見せるんじゃねえぞ』


 リナに出逢う前に逢った、男の言葉がよみがえる。悩んでいるわけではないが、あの男ならこんな顔も見せるもんじゃねえ、と言うかもしれない。

「考え込むなんて、あんたらしくないわよ。考えるな、とは言わないけど。むしろ、少しは考えて欲しいとは思うけど。でも、そーいう顔をする必要はないと思うわよ」
「…すまん」
「謝ることじゃないわよ。――何を考えてたのか、なんて聞かないわ。あんたがそんな顔して考え込むだなんて珍しすぎて、正直気にはなるけど」
「……そんなに似合わないか?」
 苦笑して訊くと、リナは悪びれる様子もなく頷いた。更に苦笑する。自分でも柄にも無いと思っているのだから、仕方ない。
 剣を鞘に収めて、ベッドに座った膝の上に置いた。剣の重みが膝にかかる。
 聞かない、と言ってくれた言葉が少し嬉しい。
 リナは言いたいことは言ったのか、紅茶を飲んでいる。リナらしくて、少し微笑う。

 膝の上の斬妖剣を見る。今までの人生の大半を共に過ごした光の剣ではない。
 光の剣は、もうない。

「――今日は」
 リナがこちらを見る。カチリ、と軽やかな音がして、カップが彼女の手から離れる。
「今日は、………雨が降ってるから」

 だから、思い出す。
 忘れかけていたむかしを。

 だから、考える。
 リナと共に在る、いまを。



――あの時の記憶は、自分にしては鮮やかで、けれど、それでいて、曖昧なものだった。

 覚えているといえば覚えているし、けれども覚えていない。なんとも形容しがたかった。
 リナと逢ってからはほとんど思い出さなくなっていた。リナとの生活は目まぐるしくて、走り続けるリナを追うのに精一杯で、思い出に沈む暇もなかった。

 リナはただ、そう、と呟いた。他に聞こうとはしない。

 光の剣を失った事を後悔してはいない。今は代わりに、この剣ブラスト・ソードがあるから。
 けれども、光の剣も、斬妖剣も、リナを護るためには大切だった。もし、光の剣がかえってくるという事になったら、どうするだろうか。斬妖剣をすてて、光の剣をとるだろうか。選べないかもしれない。

「でもね、ガウリイ」
 言って、リナは立ち上がった。手にした魔道書がテーブルに置かれる。
「雨はやむわ。いつだって、どんなときだって、必ずね。――そうでしょう?」
 手袋を外した素の細い指先が、木造りの窓を開ける。
 窓の向こうから、ひかりが差し込む。
「ほら、小降りになってきてる――――」
 窓辺に立つリナが日の光よりも眩しくて、ガウリイは目を細めた。強かった雨は弱まり、雲の隙間からは日の光がさしているのが見える。
 けれども、何よりもリナが眩しい。
「ああ、そうだな―――」

 雨はやむ。
 いつだって、どんなときでも。


 ――いつか。
 いつか、未だに重くのしかかる過去を清算する事ができたら。
 そしたら、リナがガウリイを故郷に連れて行ってくれるように、リナを思い出に連れて行けるだろうか。

 まだ、何も終わっていなくて、終わらせる事を先延ばしにしているけれど。

 いつか。――いつか。




 リナの隣に立つ。
 リナがガウリイを見上げて、悪戯っぽく笑った。それに笑い返す。

 雨はもう、やんでいた。







2004.8.6〜2004.8.14






















久しぶりの短編。短編というには、少し長いかもしれませんが。
書いていなかった間に溜め込んだネタを詰め込んでみました。
詰め込みすぎとも言ふ…。

この話は続く予定です。
別の話に続きます。予定は未定ですが。
だから、伏線がいっぱい(笑)
分類するならシリーズになるのですが、まだこの話だけなので。シリーズ名も決まっていません(笑)

一応、原作終了後のお話。