闇の紫を纏った悪魔が言う。






「リナさん。魔族になりませんか」














Invitation















 深遠の闇が覆い尽くす真夜中。
 今夜は、新月。

 闇の紫を纏った悪魔は、あらわれた。



「こんばんは、リナさん」


 いつものように何の前触れもなく現れた、悪魔――獣神官プリーストゼロス。
 何を考えているのかわからない、笑みのかたちの表情。


「今夜は新月ですよ」
「そうね」

 ごそごそと、作業を続けながら、素っ気無く相槌を打つ。

「危ないんじゃないんですか?」
「なにが?」

 きゅっと、袋の口を閉じる。

「……いつものなんでしょう? 今夜の貴女に、保護者はこない」
「どうせ、あんたがあいつを眠らせたんでしょ。……あたしはただ、眠りスリーピングをかけただけ。あいつにはどうせ効かない」


 薄く開かれた闇の紫アメジストの視線の先は、隣の部屋。
 ――あいつが眠る部屋。


「効かないと判っていて、なおも貴女は眠らせようとする」

「…そうね」


 額にはバンダナ。使い慣れたグローブ。


「それは何故?」


 ショルダー・ガードに、マント。


「保険よ」


 剣帯にショート・ソードをさして、腰に巻く。


「何の―――いえ」


 胸元と腰、両手首にかつて在ったモノは、もう無い。


「だれの、ですか」


 用意した袋は、マントの下。


 月は無い。


「あたしと――あいつのよ」

 未だ閉じられていた片目が開き、両の瞳が覗く。
 暗闇が其処にあった。



「……それで? そこをどいてくれない? あたし、あんたとお喋りしてる暇なんてないのよ」
「今夜は新月ですよ、リナさん」

 腰に手を当て、扉ではない出口を塞ぐ魔族に催促する。

「そうね、新月だわ。だから何?」
「明かりはありません。あるとしたら貴女が生み出す魔の光のみ」
「それで?」
「背後からグサリ、――なんてことも、あるんじゃないですか?」

 ふっと、唇を吊り上げる。

「あんた、あたしを見縊ってるの? それともからかっているのかしら」
「いえいえ、とんでもない。僕は至極真面目に言っているんです」
「そう。――じゃあ、仮にそういう事にしてあげるわ。それで?」

 悪魔はそこをどこうとしない。

「今夜の貴女にガウリイさんはいない」
「……そうね。あんたがそうしたんだけど?」
「貴女を護るのは貴女しかいない」
「当然だわ」

 あたしを護るのはあたしで。
 あいつを護るのはあいつだ。

「今夜のあなたにガウリイさんはいない、窮地に陥っても誰も助けてはくれない」
「そうね」
「ガウリイさんは、貴女がそうなることを危惧しているのですよ」
「…知ってるわ」

 知っている。
 そんなこと。

「寝静まった盗賊の本拠アジトを襲う。攻撃呪文で盗賊達を引っ掻き回し、そして貴女は宝を吟味する。――そこに、背後から忍び寄る者がいたら?」
「……………」

 未来予想図。
 背中を刺され、倒れる――あたし。

「貴女を助ける者はいない。脆弱な人間でしかない貴女は、呪文で傷口をおさえる。――けれど、その傷が深かったら?」
「……それで?」
「貴女は痛みに弱い。きっと気を失ってしまうでしょう。――そして、貴女には死が待っている」
「………だから?」
「だから―――」

 音も立てずに、腰掛けていた窓の縁から降りる。

「リナさん。魔族になりませんか」


 …魔族に。


「誰に言われて来たの?」
「誰にも。僕個人での勧誘です」
「あたしを魔族にすることに、メリットは?」
「特に何もありません」

 隣の部屋を思う。――ガウリイ。

「そう。じゃあ言うけど、あたしは魔族にはならない」
「何故?」

 開かれた両の眼は真っ直ぐにあたしを見ている。
 言葉とともに、疑問を投げかけてくる。

「あたしは人間だもの。人間として、生まれてきたのだから、あたしは人間でいるわ」
「あんな力を持っているのに、貴女は脆弱な人間でいるのですか」
「………」
「僕が今、少し力を揮うだけで、貴女は死ぬでしょう。貴女なら大きな力を持った魔族になれる。――それこそ僕の上を行くような」

 さぁ、と流れる夜風にあたしの髪は揺れても、ゼロスの髪やマントは少しも揺るがない。
 あたしは人間で、ゼロスは魔族で。

「いつか言ったと思うけど、あたし、終わりの無いゲームには興味ないのよ」
「魔族にだって終わりはある。滅びを望む種族だから」
「………」
「貴女はきっと、僕よりも早くこの世界からいなくなる。それはとても惜しいのですよ。貴女がないのはつまらない」
「……あたしは人間だわ。神でもなく、魔でもない。善と悪の中間。それがあたしたち」
「だから、魔になりませんか」
「ならない」

 あたしは人間だ。そして、――ガウリイも。

「あたしは今のあたしが好きよ。人間として生きてきたあたしが。魔族になったらそれはあたしじゃない」

 ゼフィーリアで生まれて育って、ガウリイに出会って、数々の死線をくぐりぬけた、そんなあたしが。

「…それに」
「それに?」

 そして、あたしにずっと付き合ってくれていたガウリイが。



「今までずっと人間だったのに、それが突然魔族になったりなんかしたら。……負けたみたいでイヤだわ」



「……そうですか。やはり、なってはくれませんか」
「ええ、諦めて頂戴。あたしは人間でいるわ」

 ゼロスの視線が、移る。あたしから――隣の部屋がある、壁の方へと。

「……何をしたの」
「ガウリイさんにかけていた力を、解いただけです。早く行った方がいいんじゃありませんか?」
「あんたがそこをどいてくれたらね」
「これは失礼。――背後には気をつけて」

 窓際から退いたゼロスに、あたしは、ただ一言。

「一言余計よ」

 言って―――あたしは、窓から飛び出した。
 月の無い暗闇の中へ。
















「負けたみたいでイヤ」が言わせたかった(笑)
2003.6.7