――今までは知らなかった、知ることの出来なかったことを、知ってしまった。 それは、衣の下に隠された、痛ましい傷痕。 それは、たくさんの血が染みついた、ぼろぼろの狩衣や指貫。 彰子の目から隠されていた、戦いの傷痕。 布地に染み付いた血の部分を撫でて、彰子は苦笑した。血は普通穢れとして扱われるが、気にもならなかった。 「……昌浩は、隠すのが下手ね。これではすぐに判ってしまうわ」 今いるのは昌浩の自室だが、その当の昌浩はいない。物の怪と一緒に邸を出て行ってしまってから、もう二刻は過ぎている。彰子としては、また怪我を負っていやしないかと、心配でたまらない。 《……姫》 背後に凄絶な神気が現れて、彰子は振り返った。 振り返った先に静かに佇んでいたのは、漆黒の髪の幼い少年。見覚えがある。そう、確か。 「……十二神将の、玄武?」 小首をかしげて訊ねると、彼は無言で首肯した。そして、ついと視線を外へ向ける。すなわち、妻戸の方に。 霜月ともなると夜は寒いので、妻戸は閉めている。だから外の様子は見えない。 「どうしたの?」 「……昌浩が、帰ってきたようだ」 今日も今日とて、……もとい今夜も今夜とて、昌浩少年は京の都の安全と平和のため、夜の都を駆け回る。 そういえば夜警をはじめるようになったのは、窮奇ら異邦の影の行方を捜すためだったのだから、親玉・窮奇を倒した今も夜警を続ける意味はあるのだろうか。 ――というようなことを、傍らの物の怪に問いかけてみたところ、物の怪はおもむろに後ろ足で直立すると、前足を組んで唸りはじめた。 相変わらず、獣のような姿をしているくせに器用だ。 「あー、まあそれはだな、異邦の影を倒すという目的の上では確かにもう夜警をする必要はないんだが、だからといって夜警をしなくてもいい訳じゃなくて、まだまだこの都や周辺には性質の悪い妖やら化け物やらがいるわけだ。 ……で、将来多分きっと大陰陽師になるだろうと思われるお前としては、陰陽寮の仕事や勉強もそりゃあ大事だが、実戦経験というやつをを積んでおく必要もある、と。要するに修行の一環だな。まあ、頑張れや晴明の孫」 「だから孫言うなって。――長ったらしい説明をどーもありがとう、物の怪のもっくん」 「もっくん言うな」 ちなみに今現在昌浩と物の怪がいるのは、先日昌浩の式になった妖車の車之輔(昌浩命名)の中だ。 今夜は巨椋池の方まで行っていた。昌浩が窮奇との決着をつけた異空間と繋がっていた所だ。 窮奇の配下にはたくさんの妖異がいた。異邦の影との戦いで昌浩は随分な数の妖異を倒したが、まさか窮奇の配下が倒した数しかいなかったとは思えない。窮奇を倒した後、配下達はどうなったのだろう。そう思って再びあの場所に行ってみたのだが、結局無駄足に終わってしまった。 都の雑鬼達の話にも、窮奇の配下がどうこうといった内容の話がないので、とりあえず心配はないと思われる。 明日あたりにでも占ってみよう、と思ったところで車之輔が止まった。御簾をあげると一条戻り橋のすぐそばで、昌浩と物の怪は車之輔から降りると、車輪の顔のところに回り込んだ。 「車之輔、今日もありがとうな」 ぎしぎしがっくん。 車輪の中の顔が嬉しそうに笑って、ついでに車体もぎしぎし揺れる。人語を解せるが話せない車之輔の意思表示だ。 ……本当に、いいやつだなあ。 見てくれは、只人などにとっては十分怖いという印象を持たせるに違いない、車之輔。 だが、車之輔よりももっと恐ろしかったり、不気味な風体の妖や化け物を見たことのある昌浩にとっては、車之輔は恐怖の対象にはなり得ない。 ――まあ、最初に遭遇したときは、都中を追いかけ回したりもしたのだが、今となってはいい思い出だ。 彰子もきっと、というか多分絶対、車之輔を怖がったりはしないだろう。以前車之輔の話を彼女にしたとき、彼女はとても楽しそうに聞いていた。 ……そういえば、彰子に車之輔を会わせていなかった。今夜は比較的早くに帰れたので、今から彰子を連れてきてもあんまり問題はないだろう。 「車之輔、悪いけど、ちょっとここで待っててくれないか?」 車輪の中の顔と物の怪が不思議そうな顔をして、顔を見合わせた。 「車之輔にね、会わせたい人がいるんだ」 夜道に三つの足音が静かに響く。 すなわち、昌浩と物の怪と、裾の短い袿に着替えた彰子の足音だ。 一行の側には隠形している六合がいるのだが、顕現していない彼の足音は響かない。 そして、彼らの周りに雑鬼たちがころころぽてぽてと現れては姿を消していく。 彰子に遠慮しているのか、一定の距離は越えてこない。 「あれー、孫じゃないか、どうしたよ」 「今夜はもう帰ったんじゃなかったのかー?」 「孫が女の子連れてるぞ、隅に置けないなぁ孫のくせに」 「お、かーわいいじゃーん」 憮然とした表情の昌浩の隣を歩く物の怪が、雑鬼達をあきれた目で見やる。 「……お前ら、何しに湧いて出たんだ」 「そりゃー、もちろん」 「こんな夜中に女の子連れてる孫をからかいに決まってるだろー」 次から次へと湧いて出てくる雑鬼達を興味深そうに眺める彰子の隣の、昌浩の額に青筋が浮かんだ。 「だーっ、お前ら、散れっ!」 「あー、孫が怒ったー」 「なんだよー、怒ることないじゃんよー」 雑鬼達は不満をたれながらも、素直に姿を消していく。まったくもう、と呟く昌浩に彰子は笑った。 「仲がいいのね、昌浩」 「仲がいい? そうかなぁ……」 「ちがうの?」 「うーん……なんていうか」 仲がいいというのとは違う気がする、と思う昌浩だった。 目的地はすぐそこ。安倍邸の門から見える距離なので、本当にすぐに着いた。だがこの暗闇で彰子にはよく見えなかったらしい。 「……牛車?」 ぽつりと、不思議そうに彰子が呟いた。牛車――昌浩達に気づいた車之輔が、方向転換してこちらを向く。 昌浩は車之輔に駆けよると、彰子を振り返った。当の彼女は、自力で動いた牛車に驚いてはいるものの、その表情に恐怖はない。 それが、なぜだかとても嬉しい。 「以前にも話したけど、妖車の車之輔」 「――まぁ……」 彰子の背よりも高く大きい車輪の中の顔を見あげて、彰子は感嘆の声をあげた。可憐な姫君に真っ直ぐ見つめられた車之輔は、なんとなく気恥ずかしそうに彰子と昌浩を交互に見ている。 もう一歩車之輔に近づいて、彰子は笑みを浮かべた。 「はじめまして、車之輔。私は彰子。昌浩の、安倍のお邸にお世話になっているの」 がっくん。 「はじめまして、だそうだ」 慌てて軛を下げる車之輔の言葉を、物の怪が通訳する。 「車之輔は、話せないの?」 「うん、俺たちの言葉は理解してるんだけどね。だから、いつももっくんに通訳してもらってるんだ」 「まあ、そうなの」 昌浩の言葉にうなずいて、ふと彰子は首をかしげた。じっと車之輔を見つめる。 「どうかした?」 「うん、あのね。……なんて言えばいいのかしら。さっきいっぱい出てきた雑鬼達とは、気配……なのかしら、ちょっと違うなあって思って……」 彰子が首をかしげるのにつられて、昌浩と車之輔の顔もかたむく。 「気配が? うーん、なんだろう」 「この間お前が、車之輔を式に下したからじゃないのか?」 「ああ、なるほ――――どぉっ !?」 ずべべべっ! 物の怪の指摘にぽんと手を打って、――昌浩は足を滑らせた。それはもう、見事に思いっきり。 「ま、昌浩 !?」 いきなり昌浩の姿が消えて――ずり落ちただけなのだが――驚いて、物の怪と彰子はもちろん車之輔までが土手下をのぞき込む。ずり落ちた当の本人は土手下で身を起こしているところだった。 暗くてよく判らなかったが、昌浩が先ほどいた所のすぐ後ろは、急な斜面になっていたらしい。 「おーい大丈夫かー、晴明の孫ー」 「……っ、孫、言うな……っ!」 「ま、昌浩、大丈夫? 怪我はない?」 狼狽した彰子が下りやすい場所を求めて視線を巡らせる。 が、この暗さでどこも急な斜面に見えて下りようにも下りられない。 その視線に気づいた物の怪はひょんとしっぽを振って言った。 「ああ彰子、あいつは大丈夫だからお前はここにいろ」 「でも」 「彰子、俺大丈夫だから。……ちょっと泥まみれになったけど」 狩衣の袖をかかげて、ひょいと下りてきた物の怪に向かい苦笑する。 土手をずり落ちて、泥まみれ。情けないことこの上ない。 袖だけでなく脚や顔にも泥が付いていて、手の甲で泥をぬぐったらさらに広がったので、昌浩の顔は複雑な表情になった。 「あーあ、なっさけねぇなぁ、晴明の孫」 「だから孫言うなってば。……俺、顔洗ってくる。丁度すぐ近くに水あるし」 「おー、そうしろそうしろ」 「彰子はそこで車之輔と待ってて?」 「……うん」 この寒いのに、顔を洗うだけのはずがいつの間にか水の掛け合い合戦になってしまった昌浩と物の怪を眼下に見て、彰子は苦笑した。ほんとうに二人は仲がよい。見るからに寒そうだが、見るからに楽しそうだ。 二人の合戦が長引きそうだと判断すると、彰子は草のあるところを選んで座り込んだ。 視線を巡らせると、静かに佇む車之輔の顔が、微笑ましそうに二人を見ている。 二人に視線を戻して、彰子は静かに口を開いた。 「……車之輔は、いつも昌浩を乗せているの?」 がっくん。 返事代わりに軛が鳴る。 「……昌浩、いつも無理してない……?」 今度は返事がなかった。 車輪の車之輔の顔を見やる。巨大な顔が困ったような表情をしていた。 彰子はため息をついて、俯いた。隠してあった狩衣が脳裏に浮かぶ。 ――あれが、証拠だ。けれど、車之輔に聞かなくても、応えがなくても、判っていた。 あれを見てしまったから。 安倍邸に来てからすぐに、判ってしまった。 昌浩は怪我をしている。命に関わるような怪我はないが、それを隠している――彰子に気を遣わせないために。 けれども、今日見つけたぼろぼろの衣装は、本当に酷いものだった。 未だ体に残っている怪我と一致しないが、きっと陰陽の術か何かで治したのだろう。 彰子は、昌浩がどういった経緯の果てに窮奇を倒したのかを知らない。知らされていない。 きっと、今後も教えられることはないのだろう。陰陽の術のことも判らないし、妖怪のことも全く知らない。 狙われていた本人であったのに、彰子はいつも蚊帳の外にいた。知らずに守られていた。 藤原道長の一の姫であるということは、そういうことだった。 ……藤原道長の一の姫であったら、知ることの出来ないことだった。 彰子がどんな風にして守られていたのか、彰子の生にいろんな多くの人の生が関わっていることに気づくことは、なかった。 けれども、知ってしまった今では、知らなかった頃に戻ることは出来ない。 目蓋を閉じる。ぼろぼろの狩衣を思い浮かべるのは容易だった。 あれを見るだけで、窮奇との戦いがどんなものであったのか窺い知ることは、彰子にだって出来た。 決して口に出してはならない想いを、願いを、凍りつかせて。 それでも心は悲鳴をあげていて、そこをつけこまれた。 狩衣があんなにぼろぼろになるような戦いを、昌浩にさせたのは彰子だ。 「……今更だって、それは判っているのだけど」 あの狩衣を見つけてしまったら、考えずにいられないではないか。 ぎし、と軛が鳴る。 再び車之輔を見やると、車之輔はおろおろと彰子を見つめていた。 「……ごめんなさい、車之輔。気を遣わせちゃって」 言うと、今度は慌てて顔が左右に揺れた。 昌浩が言っていた。臆病者だけど、心根の優しい、良い妖だ、と。 ほんとうに、そうだ。それが、なぜだかとても嬉しく感じた。 昌浩には心優しい車之輔と、口ではあんな事を言っているが本当に昌浩のことを思っている物の怪、晴明や吉昌、露樹。 彼はこんなに優しいひと達に囲まれている。 心配だけれど、過酷な戦いを強いてしまったという負い目は未だにあるけれど、それでも、皆がいれば大丈夫だと、そう思える気がした。 彰子を気遣うように、車体が優しい音で鳴る。ああ、本当に、優しくて。 「……ありがとう、車之輔」 ―――ふ、えっくしゅん! ふいに、くしゃみをする音が聞こえて、彰子と車之輔は顔を見合わせた。 土手下をのぞくと、寒そうに身を縮ませながら昌浩がこちらへ登ってきているところだった。 「うー、寒い」 「この寒いってのに、水なんか被るからだ」 「もっくんだって結構楽しんでたたくせに。……――彰子?」 「……え。あ、なに? 昌浩」 急勾配な土手を登り切った昌浩は、膝をついて彰子の顔をのぞき込んだ。 黒曜石の瞳が彰子を真っ直ぐ見つめる。――酷く真っ直ぐで、清純な眼差しだ。 「どうした? 何かあった?」 「――――……」 言葉に、詰まった。昌浩の眼は、とても真っ直ぐだ。 真っ直ぐで、どこまでも何もかもを突き通して、真実を視すかしている。 前にも、こんな風に真っ直ぐ見つめられたことがあった。 あのとき昌浩は怒っていたけれど、あのときも今も彰子を思っての行動なのは変わりない。 「彰子? やっぱり何か――」 「――ううん、何でもないの。……大丈夫よ」 いつの間にか俯いていた顔を上げて、見つめ返す。昌浩を安心させるように、顔に笑みを浮かべた。 大丈夫だ。……だいじょうぶ。 「そう? なら、帰ろうか」 「ええ」 手が差し出される。彰子はその手に手を重ねて、引かれるままに立ち上がった。 ―――っくしゅん! 「邸に戻ったら、まず温まらなくてはね」 「うん。……そうする」 二人は顔を見合わせて、笑った。 ……悔いるだけなのはやめよう。 昌浩は今こうして彰子の側にいて、笑ってくれている。 昌浩のために、何が出来るのか。 その答は未だ見つけられずにいるけれど、とりあえずは今出来ることを精一杯やろう。 彰子の新しい生活は始まったばかりだ。 |
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05年に出されたアンソロジー[進め★見習い陰陽師]にゲスト参加したときの原稿です。 ネット上で読みやすいように、そのときのものとは改項等を若干変えてあります。 苦労して書いた覚えが…(^^;; 2005.02.18 |