月は欠けゆく
天喜元年(1053年)、皐月末――――。 「―――昌浩、」 枕元の物の怪の小さな呼びかけに、昌浩は閉じていた瞼を緩慢に開いた。 視線がそろりと動いて、物の怪を見やる。 その顔は、黄泉路へ足を踏み出しかけている者にしては―――いや、だからこそなのか―――穏やかで、周りの子どもたちや神将たちは目を伏せる。 ―――天命だ。 「もっくん、―――みんな」 死にゆくものの、ちいさな声だ。 昌浩は物の怪から、己の手を握る彰子、集結した他の神将たちと順に視線を向けて微笑んだ。 「約束。……覚えてるだろう」 晴明が死んで、昌浩が新たに十二神将たちを麾下に下した時のことだ。内容は、彰子も昌浩から聞いて知っている。 「でも、もう一つ。付け加えても、いいかなあ……」 口調が昔のものに戻っている。 懐かしさを感じながら、物の怪が尋ねた。 「……なんだ。言ってみろ」 うん、と声なく昌浩は頷いて、彰子を見やった。彰子は首をかしげてみせる。 昌浩の視線は彰子から、彰子の背後にいた天一と朱雀に注がれる。 「―――彰子を、頼む」 彰子は目を瞠った。 天一も空色の目を瞠り、次いで俯き―――そして、頷いた。 「必ず」 おだやかな初夏の日差し降り注ぐ、昼下がりだった。 ――― 野辺送りも何もかもが済んで、藤原彰子は夫の部屋にいた。 無造作に出されたままの円座に座る。 もう、いないのだ。 手にした匂い袋を撫で、文机を振り返る。 昌浩はいつもそこにいた。 けれども、もういない。 「―――彰子姫」 小さな呼びかけに、視線をやる。 彰子をいまだに「姫」と呼ぶのは、神将たちと雑鬼たちだけだ。 「……その。だいじょうぶ……?」 彰子が少女の頃から、ずっと変わらない幼女の姿をした太陰が、そっと彰子を窺う。 見れば、その隣には玄武もいる。当たり前だが、こちらも変わらない。 彰子は微笑んだ。辛いのは、神将たちも同じだろうに。 「ええ、大丈夫よ。……ありがとう」 ううん、と首を振る太陰の髪が動きに合わせて揺れて、隣の玄武に当たる。 当てられた玄武は太陰を静かに睨んで、睨まれた太陰は小さく肩をすくめた。 「……自分でも、少し不思議なのだけど。とても、静かな気持ちなの」 こうして夫の部屋にいて、夫のいないことを再確認して。 けれども何故か、悲しみに暮れる気分にはならなかった。 決して、悲しくないわけではないけれど。 「……だいたい、昌浩は早く死にすぎなのよ」 膝を抱えた太陰がぽつりと呟く。 「だって、あの晴明だって八十まで生きたのよ。吉平だって七十だったし、げんに成親は昌浩より年上なのに、まだ生きてるじゃないの」 そうね、と頷いた。 「―――母上?」 息子の呼びかけに、彰子は振り返った。 「ああ、 「ただいま戻りました。……何をなさってるんです?」 「見てのとおり、これから出かけるのですよ」 壺装束に身を包んだ彰子はそう言うと、息子のそばを通り過ぎる。 「出かけ……て、どこへ? 私も一緒に」 息子の問いには答えず、彰子は宙に視線をやった。 「―――六合?」 静かに六合が顕現する。 貴彰は目を瞬かせた。父の死以来、久しぶりに姿を見る神将だ。 「一緒に来て欲しいの」 六合が頷くのを見届けて、彰子は安倍邸を出た。 「―――それで、どこへ行くんだ?」 昌浩の死後、数人の神将たちが彰子のそばに残っている。 物の怪はその筆頭で、六合もその一人だ。六合は この組み合わせに、安倍邸に来た当初の夜の出来事を思い出して、彰子は笑った。もうずいぶんと昔のことになってしまった。 「法成寺に」 「法成寺? ―――ああ、道長が作った寺か」 彰子は頷く。 法成寺が建立されたのは寛仁四年(1020年)、今から三十三年前のことだ。 父道長はそこで亡くなっている。 そして。 「……そこに、お母様がいらっしゃるから」 彰子の実母・源倫子は長暦三年(1039年)に出家した。 今では清浄法と号して、法成寺にいるのだという。 「そうか」 「うん。それでね、六合にお願いがあって」 隠形していた六合が静かに顕現する。 「その肩の布をちょっと貸して欲しいの」 物の怪の口がかぱ、と開いた。 六合も、よく見ると驚いている。 「……まさか、忍び込むのか」 彰子はにっこりと笑った。 「ええ、そうよ?」 法成寺西北院―――。 そこに、一人の老尼がいた。脇息の上に経文を広げている。 幾重もの皺に、肩で切り揃えた白い尼削ぎ。はるか昔の記憶の面影を見いだして、彰子は思わず呟いた。被っていた六合の肩布を脱いで、その姿をさらす。 「――――お母様」 最後に母を見たのはいつだったろう。 あの頃の母は妊娠していて、お腹が目立ってくる頃だった。 その時の子は威子と名付けられ、成長したのち、異母姉妹章子の子、つまり後一条のもとへ入内した。 ―――今はもう、二人ともいないけれど。もう、二十年も前のことだ。 夫に先立たれ、娘に先立たれ、孫に先立たれ、自分だけが生き残って。 月が欠けていくのを、母はずっと見続けてきたのだ。 ひとりで、どんな思いをしてきたのだろう。 彰子の道はとうの昔に分かたれた。それは承知しているけれど。 ふと清浄法―――倫子が顔を上げて、庭に視線を向けた。 彰子の姿を見つける。 視線が交わされて―――倫子が微笑んだ。 彰子は静かに頭を下げ、踵を返した。 「……いいのか、何も話してこなくて」 今なら周囲に誰もいなかったし、大丈夫なんじゃないのか。 「いいのよ。―――ありがとう、六合」 法成寺を出た彰子は、木陰に隠れて被っていた肩布を脱ぐと、六合に返した。 「お母様も、もうほんとうにご高齢でいらっしゃるし……一目会いたかっただけだから」 母は知っている。 今は出家して上東門院と称されている「彰子」が、「彰子」ではなく「章子」であること。入内がかなわなくなり、安倍邸に引き取られ、安倍昌浩と結ばれたこと。 父が母にそのことを打ち明けたのは、次女の時子を彰子が産んだ時だという。 その頃には章子は既にのちの後一条、後朱雀を産んでおり、皇后から皇太后になっていた。頃合いだと思ったのだろう。 彰子は晴れやかに言い切った。 「これで、思い残すことは何もないわ」 同年水無月一日、 そして――――――。 「―――彰子姫」 天一の空色の瞳が、涙に濡れている。 荒い息の中で、それでも気丈に彰子は微笑んだ。 「いいのよ、天一。―――わかっていたの」 夫に先立たれても、悲しみに暮れる気にならなかったのは、 すぐに自分が、夫を追って黄泉路へ旅立つことを。 「おばあ様―――」 かたわらの孫娘に、安心させるように頷いてやる。 もう十分だ。いっぱい、たくさんのものを貰った。たくさんの幸せを。 「―――みんな、」 安倍邸に来て以来、昌浩の死後も、ずっと彰子を見守ってくれた神将たち。 ―――彰子。 出逢った頃の幼いままの昌浩が、彰子に笑いかけているような気がする。 「ありがとう―――」 ゆっくりと、瞼が閉じられた。 ―――同年水無月、藤原彰子、没。享年六十六歳。 彰子の死因は窮奇による呪詛だったが、しかしその死顔は、夫と同じく穏やかなものだった。 |
あとがきという名の言い訳。
まず最初に謝ります。ごめんなさい。
昌浩早死にさせてごめんなさい。
この話を思いついたきっかけは、よく彰子に先立たれる昌浩はみかけるけど、その逆はあまりないなということ。
そしてその場合、窮奇の呪詛のせいで彰子はすぐに昌浩の後を追うことになりそうだなーと思ったことでした(爆)
神将云々についてはまだ考えてないので、ぼかしておきました。
でも、昌浩の死後も彰子についていてほしいなと思ったので、こんな感じに。
しょせん未森は彰子贔屓なので(爽)
苦情・抗議諸々どんと来いです。受け付けます。どうぞ!(爆)
でも書いてて楽しかったです←オニ
2008.01.20