夢の後、夜明け前 |
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彰子、と名前を呼ばれた。 横たえられていた上半身が誰かの腕で起こされたのを感じて、彰子はのろのろと目を開く。 目を開いた彰子の顔のすぐ近くに、緊張して張りつめた表情の昌浩の顔があった。 さほど意識もせずに、昌浩、と彼を呼ぶ掠れた声が出る。 その声に安堵したのか、彼の表情が安らぎ、自分を支える腕とそして身体から、力が抜けたのを彰子は感じた。 力なく開かれた瞳にはただ二つ、昌浩と世界を覆う暗闇だけが映る。ここはどこだろう。――知っている。 彰子は確かに知っていた。場所ではなくて、この状況を。よかった、と呟くこの昌浩を。この、暗闇を。 ――既視感。 あぁ、知っている。覚えている。 今まさに湧き上がった、二人を囲み護る灼熱の炎の壁――結界。 増大する、神気。禍々しい妖気が、二つではなく一つ。 この場にいない、従姉の圭子姫。彰子は彼女が無事、昌浩と晴明によって救われたということを知っている。 ――いや… 彰子は知っている。 この先の出来事を。 ――いや……いや! こころがさけぶ。 この先を見たくない。 そう、叫んでいるのに、意に反して体は動かない。 …あの時も、そうだった。 ――いや……――やめて! 体が動かない。 否、動くのは動くのだが、けれどそれは彰子の意思ではない。 昌浩に支えられ、彰子は立ち上がる。 結界の外で繰り広げられる闘いに、彼の表情は険しい。 加勢しなければ、と思っているのが判る。 あぁ、覚えている。そう―――この次。 ――やめて! 心が叫ぶ。 行き場の無い哀しみに心が引き千切れる。 体が動かない。 自分の意志の通りに、体が動かない。 離れなければ。昌浩から、離れて―――! 叫ぶ。 彰子の意識が、彰子自身とそして、二人からほど離れた場所で、二人を客観的に見ている。 彰子の体が、ふらりとよろめいた。 よろめいた彰子を、昌浩が受け止める。――彰子のその手に、鈍く輝るモノが握られていることに気付かずに。 ――いやぁ! 叫ぶ。 もはや彰子の意識は"彰子"の内にはあらず、離れた処から二人を客観視している。 実体の無い彰子の意識は、両手で頭をおさえ視える悪夢のような光景を振り切るように、激しく頭をふる。 意識の身体を、言い様のない悲しみと遣る瀬無さと、自己嫌悪が突き抜ける。意識だけの頬に、涙が伝った。 ずぶり。 肉の、裂ける音―――感触と、錆びた鉄のような臭い。 懐剣を握る手に、生あたたかな液体が、つうっと伝う。 彰子の前で、"彰子"の身体が崩れ落ちる。 愕然とした表情の、昌浩。 その胸に深々と突き刺さった、彰子の懐剣――― ――いや…――昌浩―――――――――――! 暗闇が、見えた。 すっかり見慣れてしまった、暗闇。 暗闇に覆われた天井。 息苦しい。息があがっている。 衣を纏った身体に、冷たい汗が落ちる。 「………………………ゆめ………………………」 唇を動かすと、吐息と共に言葉が零れる。 頭に何か靄がかかっていて、上手く頭が動かない。 酷く。 いやな、ゆめだった。 過去のゆめ。 大きく息をついて、起き上がる。 邸の外の方をみると、深い蒼い微かな光が、隙間から細くのびている。 彰子は立ち上がると、妻戸に歩み寄った。 そっと、妻戸を開ける。 空は深い蒼の暗闇に、覆われていた。 月はもう空のどこにも見えなく、頼りの光源は星明りのみ。 「…早く起きすぎてしまったかしら」 いつも目を覚ました時には、空は少し明るくなり始めていて。 しかし、朝の明るい色はこの空にはどこにも見えない。 誰もが眠りについているこの時刻に、たつ物音は風の音のみ。 部屋の中を、振り返る。 区切られた空間。 部屋の中は、外の闇よりも暗い。 朝までには、まだ少し時間がある。 露樹もきっと、まだ起きてはいないだろう。 だからといってまた寝てしまうのも、再びあの夢を見そうで嫌だった。 ……あの夢。 あれは、ただの、夢の中の出来事では決してない。 実際にあった、過去夢。 ……まだ、半年も経っていない。 忘れられない。忘れることなど、…できはしない。 きっとこれから、彰子の身体に巣くう呪詛の残り香と共に、一生。 あの日の罪を背負って、彰子は生きていくのだろう。 『ごめんなさい』は何度言っても言い足りない。 けれどきっと、優しい昌浩はそんな彰子を最初から許していただろうし、また責めてもいなかった。 "もしも"、あの日。 昌浩に、圭子姫の事を頼まなかったら? 昌浩の後を追いかけて、邸を抜け出さなかったなら? その"もしも"が辛い。 "もしも"…と、振り返る結果を作ってしまった自分が悲しい。 激しい自己嫌悪。 "もしも"……だったなら、自分はあの鳥妖に捕まる事はなくて、操られる事もなくて。 昌浩を傷つけることは、なかった。 物の怪を、悲しませることはなかった。 そして、彰子に呪詛はかからなかった。 けれど"もしも"だったら、今彰子はここにいない。 "もしも"だったら、彰子は今頃この安倍邸にはおらず、星宿の通り藤壺の女御――中宮になるとして入内していただろう。 入内してしまったら、もう、昌浩には会えない。 昌浩が、後宮に召されるほどの位にならなければ、御簾ごし几帳ごしにも話せない。 けれど、御簾ごし几帳ごし以外では、会うことも話すことも許されない。 帝の后なのだから。帝以外には、許されない。 でも自分は、御簾ごし几帳ごしでは嫌で、人と――昌浩と話すのなら、昌浩にちゃんと会って、昌浩の顔を見て話したい。 昌浩に会えないのは嫌だった。 それに今上の帝には、既に定子という彰子の従姉姫である中宮がいて、生まれたばかりの皇子もいる。 定子だけではなく、他にも女御の君がたくさんいるのだ。 そんな中に、入っていくのは嫌で。 "もしも"にならなかったから、今彰子はここにいる。 この安倍の邸で、昌浩の側にいられるのは嬉しい。昌浩に、おかえりなさいと言えるのが嬉しい。 けれど。 ……やっぱり、罪の意識は消えなくて。 胸の中で渦巻く矛盾した罪の意識を、少しでも身体の中から追い出すように、吐いた息がしろい。 今は十二月――師走に入ったばかりの冬の終わり。 あと一月経てば新年が来て、春になる。 それでもやっぱり夜は、とてつもなく寒い。空気が凍っているようだ。 妻戸を開けたことで、外よりも多少なりとも暖かかった部屋の気温が一気に下がる。 夜着の単衣の上に、袿を何枚か肩にかけただけの彰子には、この冷たさは少し辛い。風邪でも引いたら大変だ。 安倍邸の人々に、余計な心配はかけさせたくは無い。 彰子は妻戸を閉めようとして、伏せていた眼をあげた。 見える夜空。暗いけれど判る雲が、月明かりと星明りを遮っている。 朝はまだ、こない。 部屋を振り返る。抜け出したままの茵。もうあそこに戻る気にはなれなかった。 ……まだ少し早いけれど、昌浩の部屋に行こう。 そして今度こそ、彰子は妻戸を閉めた。 安倍邸の東の端、安倍晴明の末孫昌浩の部屋。 その昌浩は、畳の上に茵を敷いて、数枚重ねた袿にくるまっていた。 その側には、白い生き物――もっくんこと物の怪が丸くなって眠っている。 だが、妻戸を開いた物音に、兎の耳のような長い耳がびくりと反応する。 いつもは温石よろしく昌浩に抱えられているのだが、今日はそれから抜け出すことに成功したので、昌浩の隣でやはり寒いのか袿の下にいた。 袿の下で、ぱかりと夕焼け色の丸い瞳が開く。 その白く犬ほどの大きさの体躯を起き上がらせ、物の怪は部屋をぐるりと見渡した。 「……彰子」 「おはよう、もっくん」 部屋に入ってきた人物―――藤原道長の一の姫、彰子。 彰子は茵の側に座ると、にっこりと物の怪に笑いかけた。 物の怪は袿の下から這い出ると、てこてこと歩いて彰子の隣にお座りした。 「どうした。まだ少し早いぞ」 物の怪の問いに、彰子は苦笑した。少し哀しそうな笑みだった。 「夢を、見て。……もう、眠れそうになかったから」 どんな、とは聞かなかった。 だが、昌浩を見つめて、声には出さず唇だけを動かした彰子の言葉で、どんな夢だったのかは想像がついた。 ―― 『ごめんなさい』 ―― あぁ。 誰もが、その胸に。痛くて哀しい何かを、抱えている。――自分も。彰子も。 物の怪は、幸せそうにくかーっと眠る昌浩を見た。彰子はずっと、昌浩を見つめている。 もういいよ、と言ったのは昌浩。 彰子のせいじゃない、そう言ったのも昌浩。 罪は――過去は消えてなかった事になったわけではない。 けれど、胸に抱える罪の意識、自分を責める想いを、和らげてくれた。 昌浩。 どうして、お前は。お前達は。 二人の脳裏に蘇える、貴船の光景。 彰子は、燃え上がった炎と暗闇と、紅くどす黒い血のいろ。 物の怪は、真っ白な雪と黒いモノと、黒曜石の瞳。 こんなにも、救われている。 あのとき彰子が、鳥妖に囚われて、呪詛を受け操られなかったら。 異邦の大妖怪・窮奇に応え、呪詛を発動させなかったら。昌浩が命がけで、窮奇を倒してくれなかったら。 彰子はここでこうして、昌浩を見ることは出来なかった。 ここでこうしているこの今は、操られ昌浩を傷つけてしまった、昌浩が彰子のために命がけで戦って怪我を負ったという犠牲の上に、成り立っている。 私のせいで、ごめんなさい。 私のために、ごめんなさい。 彰子は昌浩の怪我という犠牲に、繰り返し繰り返し謝罪する。 昌浩はとうの昔に、最初から許してくれている、彰子のために戦った怪我だから。 けれど怪我をして、痛い思いをしたことには変わりはない。 だから、ずっと彰子は謝りつづける。これはもう昌浩のためではなくて、自分のため。 ごめんなさい。ありがとう。 ありがとう―――― 隙間から入る外の光が白み始めたのに気付き、彰子は昌浩の身体を揺さ振った。 「昌浩、起きて」 揺さ振っても声をかけても目を覚まさない昌浩に、物の怪が追い討ちをかける。 「おい孫、起きろ」 「う〜……孫言うな、物の怪のもっくん」 「もっくん言うな」 さすがに禁句の『晴明の孫』は効いたのか、昌浩はようやっと瞼を開ける。 未だ夢心地に揺れる目が、暫らくぼうっと室内に彷徨う。 そして物の怪を見て彰子を見て、昌浩は微笑んだ。 「おはよう、彰子。ついでにもっくん」 「ちょっと待て、何で俺がついでなんだ」 「いいじゃないか、物の怪なんだから」 「それは一体どーいう理屈だ」 朝っぱらから始まる昌浩と物の怪の漫才のような会話に、彰子はしばらくきょとんとしいていたが。 やがて、花のように可憐に、微笑んだ。 「…おはよう、昌浩」 東の空には、太陽のひかりがのぞいていた。 朝が、来た。 |
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あとがきという名の駄文 というわけで、昌浩×彰子話(のつもり) 五巻『六花に抱かれて眠れ』の後、のつもりで書きました。 昌浩×彰子というか、殆どは彰子のモノローグともっくんとの会話ですか? まぁいいや(ぉ あたしがこういう話を書くと、やたら長くなりますな。なんでだろう(爆) キャラとしては昌浩が一番大好きですが、書くとしたら彰子ちゃんが一番かなぁ。 でもやっぱり一番は二人セットで!(笑) でもやっぱ、こういうキャラの気持ちを書く話を書くのは好きなのです。 例え暗くても(笑) 2003.4.27 |