待っているから。 |
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突然、ふっと体の力が抜けるような感覚がして、彰子は自分の体を見下ろした。 ――いつもと変わらぬ自分の姿だ。 変わったところといえば、今自分が身に纏っている衣くらいだろうか。 とはいっても、着ているものがいつもより増えたとか、女なのに男物の衣を着ているとか――例えば狩衣とか直衣とか――そういうわけではない。 いつも着ていた衣よりも、少しばかり衣の質が悪いというだけだ。 しかしそれは、今まで彰子が上質のものを着ていたというだけで、標準の感覚にしてみれば今着ている衣は良い部類に入る。 だが、彰子はそんなことを少しも気にしてはいなかった。 今気になっているのは衣のことではない。 「――如何なさいましたか」 彰子と向かい合わせに座っていた老人が、彼女の様子に問いをのせて。声をかけた。 つらつらと自分の考えに耽っていた彰子は、はっとして顔をあげた。 老人と目が合うと、ふわりと微笑む。 「いいえ、晴明様。――何も」 「左様ですか。…大分、顔色が優れてきましたな」 「ええ。おかげ様で…」 今彰子がいるこの部屋は、この目の前の老人のものだ。 彼の名を、安倍晴明。稀代の大陰陽師である彼の邸に、彰子はいた。 体を少し斜めにずらし、彰子は部屋の外を見た。 視線を上にずらし、空を見る。――見事なまでの、快晴。 あと一時もすれば、出車は大内裏に向かっていくのだろう。本来ならば自分が乗るはずであった出車が。――別の『自分』を、自分の異母姉妹を乗せて。 彰子は別に、入内できなくなったことを悔やんではいない。 むしろ、入内できなくなったと、そう聞いて嬉しく思ったものだ。 出したくても、出したいと思っても。――決して、言葉にしてはならない、声に出してはいけない。 出したいと思っても、声にしたいと思っても。――強張った唇は思うようには動かなかった。 ――待って ――待って、お父様 呼びかけすらも、声にならない。 その続きがあったから。 ――後宮になんか、行きたくない―― 思いは、叫びは。心の中にも、声にも出なくて。 カタチとならず、澱となり心に溜まっていく。 嫌なのだと、心は叫んでいた。悲鳴を、あげていたのに。――それを、伝えることかなわなくて。 膝の上で固く握り締めた、両の拳は白く跡がついた。 右手の甲には、変わらず『痕』がついている。 ――でも。 宿命は消えた。 星が、動いたのだと。…言っていた。 この目の前にいる、老人が。目元を和ませて。 「…昌浩は――」 視線を空に向けたまま、彰子は口を開いた。 途中で途切れた言葉を、あらためて紡ぐ。 「…昌浩は、どうして……いるでしょうか。今頃―――」 紡いだ言葉は、小さかった。風に紛れてしまいそうなくらいに。 そっと、目を伏せる。 「案ずることはありますまい。きっと、生きて。必ず、帰ってくるでしょう。――あれは、この晴明の後継者ですからな」 「――、はい……」 あの日からずっと、彰子の身体を蝕んでいた瘴気。 今はもう、ときどき熱っぽくなるくらいに回復していて、少し身体がだるく感じるがそれほど苦痛には思えない。 ――窮奇を倒せば、この身で蠢く瘴気はなくなるのだろうか? 蝶よ花よと育てられてきた彰子には、陰陽の術や異形のモノについては全くと言っていいほど知らないので、そこのところは判らない。 判っているのは、窮奇は倒さなければならないということ。窮奇を倒せば、彰子の命は救われること。 それくらいだ。 …静かだ、と思った。 この安倍の邸には使用人は数人しかいないらしく、とても静かだ。 東三条殿では大勢の女房達がいて、彼女らの話し声がいつも遠くに聞こえていた。夜は宴が開かれ、綺麗な音色が風にのって。耳に入っていた。 けれど、ここは静かで。 ――ここの静けさが、どこか心地いい。 自分はこれからどういう人生を歩むのだろう。 するはずだった入内はもう出来ない。東三条殿に戻る事も、もう叶わない。 この邸で生活をするのだ。半永久的に。 嫌だとは思わない。先ほどはじめて会った昌浩の母もいい人だったし、何より昌浩がいる。 …大丈夫。 昌浩がいる。 だから。 「晴明様」 視線を移して、老人を見る。 あらためて思い返せば、いつのまにか身体のだるさは消えていた。 ……大丈夫。 絶対帰ってくる。 「昌浩……びっくりするでしょうか?」 「そうですなぁ……」 目を細める。彼が見ているのは、今ここにはいない彼の末孫。 今、こうして昌浩の帰りを待っている。きっと帰ってくると、信じて。 自分はいつでも彼を、昌浩を待っていよう。 「……待っているから」 空を見上げて、ここにはいない彼へ呟く。 目を真っ赤にした昌浩が、思い切り不機嫌な顔でこの部屋に現れるまで、あともう少し――― |
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