衣更えの日、彰子は蝙蝠かわほり扇をもらった。
 突然だったこともあり、おそらく彰子は、きょとんとして晴明を見ていたのだろう。老齢の大陰陽師は微笑しながら彰子様のものですよと告げた。
 蝙蝠扇は薄板を連ねる檜扇ひおうぎと違い、五本の骨に紙をはって仕立てる夏の扇だ。
 彰子が安倍邸に来たのは去年の終わり。夏を迎えるのは初めてだし、まして彰子はほとんど身ひとつでこの邸へと移った。
 当然ながら身の回りの小物など何ひとつとして持っていない。昌浩や露樹が少しずつ揃えてくれているが、扇はまだ持っていなかった。
 以前は、顔を隠すのに必須の小物であり、手放すなと口を酸っぱくして女房たちから言われて絶えず手元に置いていたのだが、安倍邸ではだれもそんなことを言わない。彰子自身も特に気にしていなかったので、いままで自分が扇を持っていないことなどすっかり忘れてしまっていたのだ。
「檜扇はともかく、蝙蝠はあると夏涼しいですからな」
 自身も扇をもてあそびながら、晴明は笑ってそう言った。
「ご入り用なら、冬にまた檜扇もご用意いたしましょう」
「いいえ、要りません」
 彰子は慌てて首を横にふった。
 本来なら冬に扇など必要ないのだから、あれは顔隠し専用なのだ。つまり安倍邸では無用の長物である。
「檜扇は仰ぎづらいし、手が重くって疲れてしまうんです」
 彰子が正直にそう言うと、晴明はおかしそうに笑った。



 礼を言って、晴明の前を辞してきた彰子は自分の部屋でさっそく扇を広げてみた。
 晴明が彰子にくれたものは、仕立てられたばかりのまだ何も絵など描かれていない、まっさらな扇だ。
 蝙蝠扇は紙さえ貼りかえれば何度でも仕立てなおしが聞くので、みな気軽に絵を描いたり、歌を書きつけたり、ちょっとした予定を書きこんだりする。紙製で弱いこともあり、去年の扇を今年も使うのは不調法とされ、東三条殿で彰子の扇は毎年仕立てなおされていた。
 毎年、凝った紙を使い、絵も絵師に依頼し、金箔銀泊などを散らした豪勢なものだったが、去年持っていた扇の絵柄が彰子にはもう遠い昔のことのようで思いだせない。
 だが、女房たちがやるように自分で扇に絵を描いてみたいと思っていたことは憶えている。たしなみのひとつとして、彰子は絵も習っていたし、描くことは嫌いではなかった。
 いま目の前に広げられている扇は真っ白で、何を書いても自由だ。絵を描いてもいいし、何か好きな歌を書きつけてもいい。
 顔を隠すために絶えず持たされていた重い扇と違って、真っ白で何もない簡素なこの扇のなんとまぶしく軽やかなことだろうか。
 彰子は嬉しくなった。
「何を描こうかしら………」
 幸い、露樹の手伝いも終わり、時間はたっぷりとある。
 やがて描くものが決まったらしく、彰子は楽しそうに墨を擦りはじめた。



 夏は明るくなるのが早いので、出仕時刻も早い。
 普段なら彰子が起こしに来る前に、どうにか目を覚ましている昌浩なのだが、昨日の夜警の帰りが遅かったらしく、今朝は彰子が起こしに行ってもなかなか目覚めなかった。
 彰子はしとみをあげて光を入れ、昌浩に声をかける。
「昌浩、起きて。遅刻しちゃうわ」
 返り事、なし。
 彰子が入ってきた時点で目を覚ました物の怪が、やれやれとばかりに尻尾をふった。
 しかたなく彰子はしとねの傍らに膝をつく。
「昌浩、起きて」
 懸命に揺すると、どうにかぼんやりと目が開く。
 そこを物の怪が尻尾でぱたぱたとはたいた。
「孫ー、起きろやー」
「孫、言うな………って………うわあっ、彰子 !?」
「きゃっ」
 昌浩ががばりと飛び起きたので、覗きこんでいた彰子は驚いた。仰け反った拍子にうちぎたもとがひるがえる。そのまま仰向けに倒れそうになるところを、背後に回りこんだ物の怪が支えた。
「あ、ありがとうもっくん」
「おうよ。昌浩、お前いいかげん慣れろや」
「だめ、無理………ご、ごめん彰子」
 ばくばく言っているらしい心臓を押さえ、昌浩は冷や汗を流しつつ彰子に謝った。
「おはよう、昌浩」
「お、おはよう、彰子」
「ねえ、急がないと遅刻しちゃうわ。さっき一度目の門鼓が鳴ったの」
「……………………えっ!?」
 まだ意識が寝惚けていたのか、数瞬の沈黙ののち昌浩は濁点付きで呻き、慌てて茵から出た。
 一度目の門鼓で大内裏や内裏の小門が開き、それから半刻ほど経た二度目の門鼓で全部の門が開く。二度目の門鼓に間に合わないと遅刻だ。
 牛車の貴族はいいかもしれないが、徒歩だとかなりぎりぎりだ。
 昌浩は急いで出仕の支度にとりかかった。
 鏡を睨みながらまげを結いはじめた昌浩のそばに、彰子は唐櫃から取りだした袍をおいてやり、朝餉の用意をしに行こうと立ちあがった。そのあいだにも物の怪は、部屋中をくるくる動きまわりながら、帖紙(たとうがみ)や扇などの細々したものを衣の近くに集めている。
「烏帽子ここ置いとくぞ。あとは、帖紙だろ、手拭いだろ、扇だろ………扇はどこだ? お、あったあった」
「昌浩、朝餉を用意しておくから食べていってね」
「ありがとう」
 鏡の向こうから、すこし映りのぼやけた昌浩が笑って礼を言う。
 彰子も笑い返して部屋を後にした。
 それから急いで朝餉を食べ終え、昌浩は慌ただしく出仕していった。ばたばたしたその様子に本日物忌みの吉昌と晴明は呆れた様子だったが、説教するために引きとめて遅刻させるのもどうかと思ったらしく、無言で見送る。
 朝餉の後かたづけもすませ、昌浩の部屋で敷かれたままの茵や大袿をたたんでいた彰子は、枕の傍に扇を見つけて、溜息をついた。
「昌浩、扇忘れていっちゃったわ。せっかくもっくんが準備してたのに………」
 仕方がないので文台の上に置き、彰子はそのまま掃除を続けた。



 昌浩はどうにか二度目の門鼓に間に合った。
 どうなることかと思われたが、衣紋も乱れていないし、忘れものもない。なんとかなるものである。
 五位以上の貴族ともなると扇に加えて、さらに笏を持たねばならないのだが、幸い陰陽寮の直丁にそこまで要求されることはない。
 帖紙はともかく、扇など持たなくてもいいように昌浩は思えるのだが、最低限の身だしなみである以上、そうもいかないのだった。何より、敏次あたりに見つかれば、衣服の乱れは心の乱れと説教されかねない。
「まあ、冬の檜扇はともかく、夏扇はちゃんと役に立つしねえ」
「仰ぐひまがあれば、の話だけどな」
 物の怪の言葉に、両手いっぱいの書物を抱えた昌浩は憮然とした表情になった。
 さすがにこの時季は暑い。特に塗籠は風の通りが悪いので、書物を探して中に入っていると暑さで倒れそうだ。
 早く書物を置いて、手拭いか何かで汗を拭わないと衣も傷む。
 六合は何か涼しそうだなぁ。顔に出てないだけなのかもしれないけれど、隠形してると暑さとかは関係なさそうだ。そもそも雨も風も関係ないしなぁ。
 つらつらとそんなことを考えながら寮のなかを歩き、文台で仕事をしていた敏次の横を通り過ぎたときだった。
 ことん、と軽い音がして、袂が少し軽くなる。
「え?」
 見れば、蝙蝠扇が床に落ちていた。一折り半端に開いたままなのは、さきほど一度使おうとして用事を言いつけられてしまい、そのまま慌てて仕舞いこんだせいだろう。
 しかし両手は塞がっていて、拾おうにも拾えない。
 昌浩が慌てていると、気づいた敏次が落ち着いた様子で筆を置き、床に落ちた扇を拾った。
「とりあえず、書物を置いてきたまえ。両手が塞がっていては受け取りづらいだろう」
「あ、はい。そうします」
「なにおうっ、いいか敏次この暑いなか涼しい顔して机の前に座って黙々と仕事をしているお前なんぞに昌浩の扇が拾われる筋合いなんぞまったくもって皆無だっ」
「もっくん、それ全然意味が通ってないよ………」
 もはや何にでも文句をつけずにはいられないらしい。
 書物を文台に置いた昌浩はすぐに敏次のもとに引き返してきたのだが、彼は何やら奇妙な顔で拾った扇に視線を落としたまま動かない。
「敏次殿?」
 昌浩が声をかけると、敏次は軽く眉間に皺を寄せながら顔をあげた。
「こら何だその顔は。せっかく実力の万分の一もひた隠して披露していない昌浩がおとなしく雑用に励んで手が離せないところをわざわざここまでやって来てやったというのに」
「………もっくん、実はさりげなく俺のほうをけなしてない?」
 それにしても敏次のこの表情はどうしたことだろう。物を落とすなど気がたるんでいる証拠と叱られてしまうのだろうか。
(うーん、それとも別に、俺また何かしたかなぁ?)
 あれこれ悩んでいると、座している敏次は昌浩を見あげて言った。
「昌浩殿、この扇を広げてみてもいいだろうか?」
「え? あ、はい」
 反射的にうなずいてから昌浩は首を傾げた。
 扇の開閉にまで律儀に了解をとってくる敏次に感心したものの、昌浩の扇は何もない無地の紙のはずだ。敏次が気にするようなことなど、何かあっただろうか。
 しかし、敏次の手が扇を広げた途端、昌浩と物の怪は目を剥いた。
「えっ!?」
「何っ!?」
『ほう……』
 二の句が継げず絶句している昌浩と物の怪の後ろから、六合が感心したような声をあげる。
 敏次が非常に胡乱な顔で、再び昌浩を見あげて尋ねてくる。
「昌浩殿、この絵はいったいどういうことかね」
 どういうことも何も、それは昌浩が聞きたいことだった。
 なぜ無地だったはずの自分の扇にいつのまにやら絵が描かれていて、しかもそれが。
「異形のものが………四匹、描かれているようだが、君が描いたのかね」


 ―――何だって、物の怪と雑鬼たちだったりするのだろうか。












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