心を君に






 ふわりと漂ってきた藤の香に、彰子は縫い物の手を休めて顔をあげた。
 簀子を超えた向こうに広がるこぢんまりとした庭の、小さな池のほとりに、これまた小さな藤の木があって、五つほど花房が垂れ咲いている。
 蜜に似た香はそこからだった。
 初夏の光は風と共に涼しげに、安倍邸の小さな庭で遊んでいる。
 安倍邸はそれほど広くない。
 主の官位を考えると相応の広さと言えるのだが、建っている場所が場所なのだった。左京の土御門大路に面した一等地。大路をはさんだ南には官衙街が広がるが、北と東には一町を占める貴族の邸が広がっているだけに、こぢんまり感が目立つ。―――もっとも、ここに来る以前、彰子は二町分の敷地をぶち抜いて造営されていた東三条殿にいたので、そのせいかもしれなかったが。
 でも、無駄に広くて、庭に降りると誰に見られるかもわからなかったあそこより、狭くても庭を散歩できて、どこに何の花があるかちゃんとわかるこっちのほうがいい。
 しばらく彰子は、ぼんやりと藤を眺めていた。
 東三条殿以外で迎える、初めての夏。
 ここの暮らしは以前とは何もかもが違うが、彰子の性にはむしろこちらの暮らしのほうがあっていた。
 以前なら、たしなみに針を動かすことはあっても、こんなにせっせと縫い物をすることはなかった。
 庇の間に座っている彰子の前には、濃い二藍の狩衣が広げられていた。脇にはきちんとたたまれた狩衣や狩袴が、右と左に分けて積まれている。
 左が繕い終わったもので、右がまだのものだ。右のほうが左より圧倒的に量が多かった。
 宵闇に紛れやすいようにと、衣の色はどれも濃いものばかり。裂けたところや穴の場所がわかりにくいうえに、それらは一箇所どころか、あちこちにある。
 あっちを直し、こっちを繕い、そうしているうちにまた別のほころびを見つけ、そうこうしているうちに糸が足りなくなって針に通しなおして………と、いった具合で、遅々として作業は進まない。
 露樹を手伝うことのない昼さがりのひとときを、こうして針を手に過ごすことが、彰子の最近の日課となっていた。
 おかげで、縫い物の腕はめきめきと上達している。
 最初、縫い物は一通りたしなんでいても、実用的な裂け目の繕いかたなど知らなかった彰子は、思案の末に、己の着ていた単の裾を勾欄のささくれに引っかけて破くという暴挙に出た。
 たまたまそのとき傍にいた十二神将の玄武が、唖然として彰子を見ていたのを憶えている。
 彰子は破いた単を持って露樹のもとを訪れ、ささくれに引っかけたと一応は真実を告げて、繕いの仕方を教わった。嘘は付いてない。わざと引っかけたのだが。
 自分で破いて自分で初めて繕った単は、夏になったいま、唐櫃の奥にしまわれている。
 昌浩が西国に旅立ってから、もうもうすぐ二ヶ月になろうとしていた。あと十日もすれば暦は五月に変わってしまう。
 衣更は今月の一日だったから、彰子がいま着ている単もとっくに夏物に変わっていた。
「昌浩………夏の衣は持っていったのかな。暑かったり寒かったりするし、体を壊してなければいいけど」
 いつも、人には話せない理由で、大怪我ばかりして。
 ここに暮らす前、一度見舞ったときも、無理に脇息に身を起こしていた。
 今思えばあれはまだいいほうで、それからも事あるごとに怪我をして、寝付き、それこそいまの春には―――。
 頭をふって、彰子は再び手元に視線を落とした。
 本当にひどい顔色だったのに、目覚めなければ命はないとまで神将に言われたのに、目覚めたら目覚めたで早々に床上げしてしまって、昌浩は無理に出仕していた。
 止めたかった。
 ちゃんと、元気になるまで寝ててって、言いたかった。
 だけど何も言えなかった。
 目の覚めた昌浩が何も、言わなかったから。
 だから何も、問わなかった。
 自分の知らないところで、何かがあって、もっくんがいなくなって、そして誰もそれを話さない。
 慮って、誰も告げない。
 晴明に聞けば答えてくれるだろうと神将は言ったが、それで彰子は問う気をなくしてしまった。
 すべてが終われば、昌浩が帰ってきてくれれば、話してくれるだろう。そのときでいい。
 傷をおして出仕を始めた昌浩は、それからすぐに、出雲に行くと旅立ってしまった。
 出雲は遠い。どんなに早くても六月にしか帰って来ることができない。まだあとひと月もある。
 あんなに辛そうな顔をしていたくせに、彰子には笑いかけようとするから。
 匂い袋を返して、あんなせつなそうな顔で触れてきたから。
 とても心配だけど。
 待っているだけというのも、辛いけど。
 針を動かしながら、彰子は思う。
 それでも、ここで出来るだけのことをして、昌浩の帰りを待っている。
 昌浩と、もっくんの帰りを待っている。
 神様講義はまだ途中までしか聞いていない。
 高天原から降臨した邇邇藝命が、国津神からこの秋津島を譲り受けたところまでは聞いたのだけど、そのあと、邇邇藝命がとても美しい姫に出会ったというくだりを教わっているうちに眠ってしまった。とても綺麗なその姫神の名前を、聞いたはずなのに憶えていない。
 とても気になるから、帰ってきたらちゃんと教えてもらわないと。
 匂い袋の紐だって付け替えた。
 昌浩ともっくんが帰ってくるまでには、衣だって全部繕い終えておく。
 隠しておいた衣の山が、綺麗にたたまれて、裂け目なんかどこにも見当たらなくなっていたら、きっとびっくりするに違いない。
 言葉もなく、衣をかざしたり、ひっくり返したりして眺めている昌浩の横で、もっくんが「彰子、お前えらいなぁ」と、感心したように言ってくれるのだ。
 そのあとで、我に返った昌浩がお礼を言ってくれて、そこでまた物の怪が何か言ってからかい、ぺしっと頭をはたかれる………。
 ぱたり、と滴が、二藍の生地に濃い染みを作る。
 なんだ。
 知らず溢れだした涙を拭いもせずに、彰子は笑った。
 待っているだけだけれど、心のなかは、こんなにも昌浩のことばかりだ。
 昌浩が出雲へ行ってしまってから、ずっと彼のことばかり考えている。
 桜が咲いては、出雲の桜はもう散ってしまった頃だろうかと、春雨が降っては、変わりやすい山の天気に昌浩は濡れていないだろうかと、先日あった葵祭のときにだって、昌浩は見れなくて残念がってないだろうかと、そればっかり考えて………。
 葵祭の日、物見に行くようにと露樹や晴明がそれぞれすすめてくれたが、彰子は首を横にふった。
 来年、昌浩と見るから、今年はいい。
 阿倍邸で迎える二度目の夏が来たら、昌浩と一緒に、牛車の簾越しなんかじゃなくて、きちんとこの目で見に行くから。
 葵を飾った、綺麗な牛車や人の行列を、昌浩と一緒に見るから。
 彼が帰ってきたら、来年の葵祭を共に見に行ってもらえるよう約束してもらうのだ。
 葵祭はいつもすごい人混みだ。きっと自分も昌浩も、背伸びしても人の頭しか見えなくて、昌浩の頭にのったもっくんが飄々と行列の様子を中継しだすだろう。癪にさわった昌浩が、頭からもっくんを引きずり降ろして、三人で見られる場所を探して歩き出す―――
 一度目は蛍で、二度目は葵。夢物語のように乱れ飛ぶ蛍にはとてもおよばない約束だけど、今度もまた指切りしてもらう。
 横にいるもっくんを傍目に、指切りしてもらう。
 貴船の蛍を見に行くという約束もまだ果たしてもらってない。だけど、いっぱい色んなことを約束したかった。
 他愛ない約束をどんどん増やして、二人のあいだだけの秘密がほしかった。
 それを知っているのは、いつも傍にいる物の怪だけ。
 そんな約束を、たくさん………。
 ぱたり、とまたひとつ、滴が狩衣に落ちた。
 夏の風に藤が揺れる。
 泣きながら、彰子は笑った。
 こんなにも心ばかりが、心だけが、昌浩のところへ向かっている。
 どんなに思っても、まだ会えないから、心だけ。
 そんな古い歌があったような気がする。でも、思いだせない。
 何て言ったかしら。
 何て歌だったかしら。
 ―――ふわり、と蜜の香がした。
 ああ、そうだわ。
 香りに誘われるように、彰子はそっと呟いた。


「………思えども身をし分けねば、目に見えぬ」


 もうすぐ藤も楝も終わってしまう。山梔子も匂うばかりに咲いて、散って。
 緑ばかり萌える夏になったら。
 蛍を。
 蛍を見に行こう。
 だから、それまでは、


「心を君に、たぐえてぞやる―――」

    目には見えない心を、一緒に―――





〈了〉



 「焔の刃〜」の後の話です。昌浩って仕事で出雲に行ってるし、徒歩で旅しているという建前上、用事がすんでも少なくともお兄さんと出雲に合流するまで、下手をすると当分戻ってこれないんじゃないかと勝手に思ってるんですが、事実はどうなんでしょう(笑)。案外、さっさと邸に帰ってきて、表向きは留守のふりして寝込んでいるという可能性もあり得るのですが(笑)
 来月の新刊が出たら、この話、つじつまが合わなくなる可能性があるので、いまだからこそ書けるお話ですね(笑)
 彰子が呟いている歌は古今和歌集のものです。古今和歌集はお后教育の必須科目だったので、彰子が知っててもおかしくないかなーと。
 ところで晴明の邸、どれくらい広いんでしょうね? 約四分の一町(東西60メートル、南北45メートル)という説があるのでそれに従いました。彰子のもといた家の八分の一しかないです(笑)
 ちなみに邇邇藝命が出会った女神は桜の象徴とされる木花佐久夜比売です。
 ところでタイトルどうしましょう?(爆)




感謝の言葉。 

ああああああああもうもうもうもうもうもうもうもうッッ(牛か)
嬉しいんだけど哀しいです、あー彰子ちゃん――!(泣)
少年陰陽師書いてくださいよぉvと、ラブコールしていた甲斐がありました。
ええ、ありましたとも。あきやさん、いえ主上(笑)、ありがとうございます〜〜vv
「焔の刃〜」には泣かせられました。
昌浩の決意と、それを知らず、ただひたすら昌浩の帰りを待つ彰子。
……ああもう、昌浩のバカーッ(爆) でももっくんいなくなるのは嫌だし、むぅぅ(笑)
ちなみに和歌の全訳は、
「あなたのことを深く思うけれど、私の身を二つに分けることができないので、 
目には見えない心だけを一緒に添わせて行かせます」
という意味だそうです。

主上、今回の彰子ちゃんの入内(笑)、本当にありがとうございましたvvv