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↑は桜井松平最後の藩主、第十六代松平(桜井)忠興公です。松平信定(清康の叔父)の子孫です。 14歳で家督相続。七男でありながら当主になった彼。 よほど優秀だったか、兄たちに不幸が続いたか‥はわかりませんが、とにかく 「兄たちのぶんもがんばらねば」という意気込みは相当あったでしょうし、周囲からも大いに期待 されたでしょう。 ところが時代は幕末。 倒幕側に味方せざるをえなくなった忠興は、徳川家との決別を表すため姓も松平から桜井と改姓させられます。 若き忠興には屈辱的だったでしょう。 さらに21歳で尼崎藩知事に任じられたものの、わずか2年で尼崎藩は廃藩置県により終焉、忠興は知事を免職され 地方の神社の宮司にされてしまいました。 しかしここで起こったのが西南戦争。 元老院議官の大給恒と同議官佐野常民の呼びかけで欧米流戦傷者救護のための団体「博愛社」(後の日本赤十字) 設立運動がおきます。 この時集まった創立メンバーがものすごい。 大給恒(奥殿藩主/大給松平)・松平信正(丹波亀山藩主/形原松平)・滝脇信敏(小島藩主/滝脇松平)・松平忠和 (島原藩主/深溝松平、徳川慶喜の実弟)・秋月種樹(高鍋藩主)・水野忠精(山形藩主、水野忠邦の長男)・ 遠藤胤城(和泉吉見藩主)・松平京命(不明)・松平京承(不明)・松平親貴(杵築藩主/能見松平)・松平忠恕 (上野小幡藩主/奥平松平)・桜井忠興(尼崎藩主/桜井松平)・松平乗承(西尾藩主/大給松平)‥ああ疲れた。 ま、キラ星の如き暇人‥失礼、この時代行き場のなくなった高貴な人々をかき集めた‥といえなくもない (^^;創立者大給恒は違うと思うけど。それにしてもまとめるの大変そうだなあ‥)。 この中で何だか人一倍張り切っていたのが忠興さんでした。 勤務先の地方の神社から急ぎ上京、金壱千円をポンと寄付し、飯田橋の自宅の半分を事務所に提供します。 さらに西南戦争の直後、まだ治安不安定な九州の地へ社員総代として赴きます。 忠興さん当時29歳。 世が世なら殿様として何不自由なく暮らしていたであろう青年華族は、コレラがはびこり、「赤十字精神」に無理解な 新政府軍のいる九州で傷病者のために駆けずり回ります。 やっと見つけたやりがいある仕事。忠興は血沸き肉踊る思いであったことでしょう。 松平でありながら将軍家を見捨てた負い目もあったでしょうし、 「男としてもう一花咲かせる場所はここしかない!」 と決意していたのかもしれません。 その後、忠興は博愛社の中心メンバーとなり子爵に封じられます。そして47歳の若さで波乱万丈の生涯を閉じたのでした。 ‥つまり、この日記で何がいいたいかというと。 信定叔父様がいなければ赤十字は日本になかったかもしれない!! いや、もっと後になって出来てたかも知れない ということです! ‥‥まあ、歴史に「たられば」はないけどね。 ※桜井忠興については三河武士紀行・松平信定編の尼崎紀行Aにもすこし書きました。ご参考までにどうぞ(^^) |