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本多重次、高力清長、天野康景は共に岡崎三奉行と称され 「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野康景」 と評価された。鬼作左は別枠でやるので残る二人を御紹介。 @「仏高力」…といわれているがこの人実はバリバリの武功派である。大高城 兵糧入れに始まり小牧・長久手の戦いまで家康の主要な戦場には参戦して手柄を立てている。 戦場で会ったら鬼に見えただろう。 しかし民政においては寛容であった。 また一向一揆の際敗走した一揆衆が置いていった仏像や経典を取っておき、あとで返してやったというエピソードがある。 こんなところが「仏」と呼ばれるゆえんであろう。 また彼は家康の資金で軍船を建造した。その時余った二十両を着服せず家康に返却したところ家康はその正直さに感心しその金を彼に与えた。 思うに、戦乱の世にあっても常に心に余裕のある人だったのではないだろうか。 A「どちへんなしの天野」…家康人質時代から小姓としてともにあった腹心 「どちへんなし」というか、公正実直な人だったといわれる。 その人格を買われてか岡崎奉行に抜擢、軍事にも功績があって甲賀忍者の統率を任されたりしている。 やがて一万石の大名となったが晩年は不遇であった。 ある日。彼の家臣が竹林を無断で伐採した天領の領民を殺害した。 彼は家康のためによかれと思ってやったことだったが、当時権勢を誇っていた本多正純によって処罰された。 これに激怒した康景は城を捨てて出奔してしまった。 家康はこれをきいて驚き、幼馴染で有能な家臣でもある彼を戻そうとするが果たせず、康景は小田原で没した。 かつて苦楽を共にした主君が遠い存在になってしまったことへの悲しさと、 本多親子におもねりたくないという意地、 そして生来の「実直さ・公明正大さ」が康景をここまで追いこんでしまったのである。 |