「それがさ、そのときに限って釣れたんだよ。」
知人から届いたヤマメを口に運びながら、父は話し始めた。 昔、父は「信夫(のぶお)」と呼ばれていた。本名の「茂(しげる)」は字画が悪いというのがその理由らしい。 祖父、伝次郎は末っ子の信夫をことのほか可愛がった。 信夫の欲しがるものは何でも買い与えるので、姉たちが不満を訴えたほどだ。 氷が張った冬の田んぼで子供たちが下駄履きでスケート遊びをしているときに、 信夫だけ本物のスケート靴で颯爽と滑っていたという。 伝次郎は、真面目な勤め人だった。毎晩遅くまで仕事をしたおかげで地元企業の重役にまで出世したが、 激務がたたったのか五十台半ばで病に倒れた。信夫が小学校五年生の時だ。 町医者の見立ては高血圧だった。病状は悪化の一途をたどり、 信夫は子供ながらに父親の命がもう長くはない事を感じ取っていた。 ある日、病床の伝次郎が「ヤマメが食べたい。」と言った。 釣りが得意だった信夫は、竿を持って近くを流れる箒川まで飛んでいった。 だが、ヤマメはそう滅多に釣れる魚ではない。その日も、ハヤやウグイといった雑魚が掛かるばかりだった。 信夫は祈るような気持ちで釣り糸を垂れ続けた。 神の仕業だろうか。日も傾きかけた頃、信夫の竿にヤマメが掛かった。 二十センチメートルくらいの大きさだ。信夫の驚きと喜びは、どれほどのものであったろう。 信夫は、この天からの贈り物を大切にびくに収め、紫に輝く美しい模様をいつまでも眺め続けた。 「でもな、俺も子供だったんだよ。」 懐かしさと後悔とが入り混じった複雑な感情を押し殺しながら、父は話を続けた。 信夫は、見ているだけでは飽き足らなくなって、びくの中のヤマメを両手で握って取り出し、浅瀬に浸してみた。 ヤマメは体をくねらせて逃げようとする。信夫はヤマメが手の中でくねくねっとする感触を何度も何度も楽しんだ。 突然、つるんという感触とともにヤマメは信夫の手から逃れた。しまった、と思ったときは、もう遅かった。 ヤマメは素早く浅瀬を抜けて、箒川の本流に消えていった。気が付くと、あたりはもうすっかり暗い。 信夫は雑魚を川に返し、空っぽになったびくをぶら下げ、力なく帰宅した。その日の事は、母親にも姉たちにも黙っていた。 伝次郎が息を引き取ったのは、それから間もなくのことだった。 「あいつ。親父に食べさせたかったな。」 ヤマメを見つめる父の目が、微かに潤んだ。 |