杉山検校について

杉山検校について

 全国の鍼灸師が行なっている鍼の刺入法の主流になっている管鍼術の創始者杉山検校は三重県津市の出身です。
 近代日本鍼灸の中興の祖といっても過言でない杉山検校杉山和一は津藤堂藩士杉山権右衛門重政(元和2年高虎に被呼出200石)の子で幼名は養慶、幼くして伝染病により失明した和一は家督を義弟重之(妹が嫁いだ婿)に譲り刀を捨てて医の道に進む運命となった。
 杉山検校の伯父杉山四郎右衛門(慶長12年高虎に被呼出200石後300石)や杉山左門(慶長17年高虎に被呼出400石)は大阪夏の陣に出陣、八尾の戦いで杉山左門は戦死し八尾常光寺に葬られている。

 藤堂高虎は八尾の陣歿将士を追想するたびに涙を流しその悲しみは消えなかった。このことから「絶景なるかな絶景なるかな」の石川五右衛門の伝説でも有名な京都南禅寺三門を再建寄進した。
 その楼上御堂には家康公と高虎公の坐像、代々藩主・正側室の立派な位牌が、欄下上層には関が原・大阪冬の陣・夏の陣の戦没藩士等の位牌が安置されている、その中に杉山左門の戒名「広誉真秀」の位牌も三門楼上に安置されている。この杉山左門が杉山家系譜にある杉山権三郎(杉山権十郎改め)と同一人物と思われる。

 言い伝えによると慶長13年(1608)高虎が伊予今治から津に入城してすぐ、兵火により荒れ果てた旧西来寺寺域に隣接した焼跡を地割した侍屋敷で杉山検校は慶長15年(1610)に生まれて幼少時代を過ごした、このあたりが杉山和一が検校となった後から通称検校町と呼ばれるようになった。
 元禄の頃から藤堂仁右衛門中屋敷が並ぶ西検校町と、のち一部が盲人統治下の座頭・勾当・検校が支配する東検校町に分けられた。

           

 明治維新後に地名として東、西検校町(現中央、北丸之内)が誕生した。寛永年間(1624〜1628)の古地図には中新町(現南丸之内10−19付近)に杉山権右衛門宅がある。
 津市乙部の浄明院文書には二代藩主藤堂高次の病中にしばしば杉山和一を招いて鍼治をしていることが明記されている、また宗国史にも幕府よりの派遣で高次の治療をしたことが明記されている。

 10歳(5歳説もあり)で失明した和一は17・8歳ごろ江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一(やませたくいち)に学ぶ。
 生まれつきのろまで物忘れが激しい性格から、破門を言い渡されるが目の不自由な自分が生きるためには何かを成就大成させねばならぬと、俗説では芸能の神であり盲目の守護神でもある江の島の弁財天の祠に詣で岩屋に篭もり断食祈願をすること8日目の朝、山から下る帰り道に大きな石のそばでつまずいて倒れ、その際体をチクリと刺すものがあり、拾ってみると竹の筒とその中に入った松葉だったという。

 これをヒントに考案したのが、管の中に鍼を入れ管の上部に出た鍼の頭を指で叩いて刺入する杉山式管鍼(くだばり)であった。
 その後、京都に上って山瀬琢一の師の入江良明を尋ねたがすでに死去しており、その子の入江豊明(いりえとよあき)に入江流を学び鍼術の奥義を極めた。良明の父頼明は豊臣氏の医官岡田(園田ともいう)道保及び明人呉林達に鍼術を学んで大成した人である。
 入江流の長所を取り入れて江の島でヒントを得た杉山式管鍼をもって江戸で開業。名声は大いに上がり門前市をなす盛況を呈した。管を用いるのは日本独自の技法であった。

 寛文11年(1671)61歳にして検校となり72歳の時に幕命(富士川游の日本医学史では綱吉の鍼治振興令)を受けて鍼術再興のため鍼治講習所(しんじこうしゅうしょ)を開き多くの門人を育てる。  鍼治講習所から和一の職を次ぐ弟子の三島安一は江戸近郊および諸国45箇所に講堂を増設、杉山流鍼術を日本国中に広めた。

 杉山和一の著書には鍼治講習所の初級者の教育を目的として書かれた杉山流三部書があり、「療治之大概集」は恩師入江流の鍼術を記したもの。  「選鍼三要素」は中国古典の鍼理論を述べたもの。  「医学節要集」は東洋医学の概論を述べたものである。

 以上の三部書から師である入江豊明の教え、つまり入江流の影響を多分に受けて和一の補瀉法を教えた。

 杉山検校の弟子で後継者の三島検校の跡を継ぐ島浦和田一が『杉山流首巻選鍼論』『杉山真伝流』(表之巻5巻・中之巻4巻・奥竜虎之巻3巻)を表し、それは杉山検校の教えを伝えたもので、他に杉山流鍼術山形の弟子大沢周益が口述筆記した『杉山真伝流鍼治手術詳義』、分派の夢想杉山流がありその流派の秘伝書には『(夢想杉山流)鍼術十箇条』があり、これらの書き記した内容から鍼治講習所では相当高度な奥義を伝授する専門教育を行っていたと思われる。この鍼治講習所は明治4年の太政官布告で廃止された。

 江戸幕府の診療科目は本道(内科)・外科(傷科)・鍼科・口科・眼科・小児科・産科があり、杉山検校の弟子で幕府に鍼医師として使えたものは9人で他に諸大名に5名が鍼医師として登用されました。そのうちの一人杉岡つげ一は、藤堂家三代藩主藤堂高久にも使えたが、不行跡で断絶・藤堂家お預けとなった。

 貞享2年(1685)和一75歳の時、将軍綱吉の病(ぶらぶら病)の治療を行い功を奏した事から、褒美に白銀50枚を贈られ、元禄2年300石を次いで元禄4年に200石を賜った。その後300石を加増される。杉山和一は江の島弁財天への感謝の気持ちから、元禄3年(1690)下之宮(現辺津宮)の社殿再興、護摩堂建立。元禄6年(1693) には下之宮(現辺津宮)の三重塔建立するなど厚い江の島弁財天に対する報恩感謝の信仰がうかがえる。

 杉山和一の出生説は津のほか大和、浜松、奥州の説もあった、これは大正10年ごろ以前に書かれた本邦盲人傳・世界盲人列傳・皇國名医傳・先賢事績資料・大百科事典などの出版物が杉山検校の出生地がまちまちで一定しなかったため、いろいろ言われたものと思われる。

 杉山家系譜にも誕生於勢州とあるが、関東大震災で崩れた墓を修復したとき大正12年(1923)藤沢市江ノ島の杉山検校墓所から人骨の入った大甕が発見され、その蓋の板石三枚のうち中央のものの裏面に「伊勢国津生 杉山和一 即明悦殿眼叟元清権大僧都 元禄七年五月十六日」と刻まれていたことが報告されてから、他の説は打ち消された。と同時に江ノ島がまことの墓で江戸弥勒寺の墓は大正時代の墓の改葬のとき墓の下から一個の位牌のような木片だけが見つかり供養塔であることがわかった。

 なぜ色々の出生説が生まれたのか。大和説は和一が家督を義弟重之(実妹お梶が嫁い婿)に譲ったが、この義弟の重之の養子で重昌(のちに杉山検校の養子となる)が伊豆の出身であるという説があり伊豆土肥に残る杉山の系図(家紋が異なり偽物)に杉山和一が大和出身とあり異説が出たと思われる。

 重昌(昌長)は元禄6年に藤堂藩からはなれて和一の養子となり鍼術を引き継がずに和一の没後に幕府徳川家の800石の旗本・小普請として使え、子孫は幕末まで勤めて明治を迎えた。

 この大和説は藤堂高虎が津に入城した時、杉山一族が大和から来た時まだ荒れ果てた西来寺寺域の隣接地を区割りしたばかりの場所で和一は生まれ育ったので出生地は大和ではと異説がでたものと思われる。

 このほか北の奥州ではと言う説もあり、この説は東京市史稿の中の葛西誌に記載されており、このことについて、津市の枝垂れ梅で有名な結城神社の地で亡くなった結城宗弘の関係で、昭和62年、当時の岡村初博津市長が福島県白河市に交流団で訪問したとき白河市役所横の宗弘の肖像画や遺髪が埋まった墓がある関川寺に、立派な杉山検校の碑があったと教えてくれました。津と白河は結城宗弘や杉山検校で関係がより深いと思ったそうです。

 このことを思い出して5月の連休に杉山検校のゆかりの地を訪ねました。

 杉山検校が信仰した江ノ島弁才天は源頼朝が奥州平泉の征伐の必勝祈願のため勧進したもので江戸時代になると江ノ島は信仰、遊興の地として賑わった所で、ゴールデンウイークのこの日も江ノ電江ノ島駅前から江ノ島大橋、参道、社殿前と人の波で身動きが取れないほどの人出であった。

 東海道の藤沢宿からの江ノ島道には杉山検校の発願により寄進した道標があり、昔の旅人のように歩いて訪ねました。この道標は盲人の総帥(最高位)である関東総検校となった杉山和一が寄進したもので当時は48基有ったとされている。藤沢市役所本館前には2基があり、ここにはこの道標についての詳しい説明板が設置されている。

 今回歩いた「江の島道」以外には 白幡神社境内、法照寺(鵠沼神明)境内にもあり、いずれも杉山検校寄進の道標である。
 かっては48基あったと言われますが、今では14基が残っており江ノ島の杉山検校の墓と共に藤沢市の重要文化財に指定されています。この道標によって江ノ島参詣は一層盛んになったようである。

 石の表面には弁財の種子の梵字の下に「ゑ能し満道」右側側面には「一切衆生」左側側面に「二世安楽」とあり道中する一切衆生の現世および来世の安楽を祈念して検校の温情が偲ばれます。
 検校がつまずいて管鍼法がひらめいたと言う福石のそばにも移設された道標がありました。この福石は27人目の検校から抜擢されトップの関東総 検校まで飛び越えて出世し、85歳の天寿を全うした杉山和一の江の島での出来事から、福石のそばで何かを拾うと福が授かると言われるようになりました。

 検校は江ノ島弁財天への信仰が厚く、下之宮(現在の辺津宮)の社殿再興 、護摩堂の建立、元禄6年(1693)には東海道名所図会にも記載の三重塔建立と江ノ島に深く係りを持つています。

 老いてもなを江戸から毎月江ノ島詣でを続ける検校の身を案じて、また昼夜にわたりそばにおいておきたい綱吉自身のため綱吉が本所一ツ目の土地を与えてここに弁財天を勧進して祀らせた。これには次のような逸話がある『元禄6年(1693)将軍綱吉が「何か欲しいものは無いか」と尋ねたところ杉山和一は「目が欲しい」と答え、綱吉から本所一ツ目に宅地を与えられた』この弁才天は江戸名所図会にも記載されており本所一つ目の弁財天として江戸中の信仰を集め、大奥からの船での参詣も多かった。

 JR両国駅から歩いて赤穂浪士討ち入りの吉良邸跡の前をとおり20分程で江島杉山神社に着きました。ここが惣録屋敷や鍼治講習所があったかっての弁才天跡地で本社の奥に江の島の弁天洞窟を摸した洞穴があり、弁財天が祀られている、またここの弁天様は人面蛇身で、杉山検校の関係もあって鍼術の守神であり、学芸上達・除災を祈る人が多い。

 江島杉山神社には宝物として将軍綱吉直筆の大弁才天の軸や綱吉から拝領されたという黄金弁才天(戦災を受けた弁才天像の胎内仏)がある。
 ここから東へ歩いて10分ほどで検校の墓(旧東京府史跡)や鍼供養塔がある弥勒寺についた。35年程前に初めて両国に来た時は相撲部屋がやけに目についたが、今はビルが立ち並びこの界隈に昔のような風情が無くなったように思います。
 江ノ島や東京墨田は過去何回も訪ねたことがありますが、今回初めて福島県白河を訪ねました。松尾芭蕉の「奥の細道」みちのく路の第一歩白河の関で有名なこの町は藩主であった松平定信(のちに幕府の老中首座となり定信の子の松平定永が桑名藩主となる)が日本で初めて民衆誰でもがくつろげるために築造した日本最古の公園,四民共楽の南湖公園があり、かなたの那須連山にはまだ残雪があり風光明媚なところです。
 目的の関川寺は結城宗弘の開基で塔を融合した珍しい形態の本堂、時代を感じされる書院造の玄関、加えて麓に流れる谷津田川沿いの景観が若葉に映え、清涼感を与えてもらいました。本堂横には立派な検校の碑があり、地元の熊田泰治氏のお話では大正10年頃、地区会員がお伊勢参りをした時、盲人の自分達が鍼灸マッサージ術で自立して生活できるのも検校が鍼治講習所を開き多くの門人を育ててくれたおかげで、この検校が伊勢の人であることを知りこれを顕彰しようと思いたち、白河の住職等の世話人により、安濃津で亡くなった結城宗弘を祀り、中庭に弁才天を祀る関川寺に建立した。

 碑には「総検校杉山和一先生の碑」とあり没230年にあたり大正12年6月に建立した。裏面には安濃津で慶長15年生まれたこと等が記されている。
 今でも毎年5月に杉山祭を開催しており、今年は5月16日に開催するとのこと。行列の出来る店で白河ラーメンを食べ旅の思い出に黒い大きな白河だるまを買い求め帰路に着いた。  

 平成16年5月13日(木)午後2時より天気がよければ津偕楽公園の鍼聖杉山総検校頌徳碑前で杉山祭開催の予定があいにくの天気で三重県盲人センターで開催された。鍼聖杉山総検校頌徳会主催で開催され会長挨拶の後、永年の功績により2人の会員が表彰された。

 共催である(社)三重県鍼灸マッサージ師会、(社会福祉)三重県視覚障害者協会会員等多数の会員が密蔵院青木住職の読経、香煙立ちのぼる中焼香しつつ、杉山検校木像を祀る祭壇に深く頭を下げた。小宴をひろげ杉山検校の遺徳を偲びつつ語り合い後散会した。

 杉山祭は命日の5月18日前後に全国で開催されておりもともとは杉山検校の死後、京都と東京の惣録屋敷で検校の木像を祀っていたのが始まりで今では東京墨田区江島杉山神社と神奈川県江ノ島検校墓前ではとくに盛大に開催されている。

 5月18日は杉山検校の命日です。(公儀向は6月26日御届、観音信仰による遺言は5月18日、杉山家系譜は5月20日、江ノ島の墓の下の板石には5月16日)。
 藤堂藩の御山荘であった津偕楽公園には杉山検校を顕彰する鍼聖 杉山総検校頌徳碑が建立されています。

 ご案内 鍼聖杉山総検校頌徳碑所在地 JR近鉄津駅西口徒歩5分
 三重県立博物館北側道路西へ百米、津市公園管理事務所手前、東側南隅

 この頌徳碑は元全国業界会長の長崎照義氏が来津のおり、「江ノ島や東京には墓所や神社があるが杉山検校の生誕地の津市には何もないので顕彰碑を作ってほしい」と言われ、業界と盲界が協力して杉山検校顕彰碑建立委員会(会長 津市長角永清)をつくり全国に募金を呼びかけ,三重県鍼灸師会や師会会員にもお願いしたところ180万円もの浄財が集まり立派な顕彰碑ができあがりました。

 昭和44年5月18日まれに見る晴天に恵まれたこの日、鍼聖杉山総検校頌徳碑除幕式が行なわれた。午前10時に3発の花火を合図に全国から集まった500名の参加者のなか式典の後、童女による除幕が行なわれ、気高い鍼聖杉山総検校頌徳碑が青葉に包まれた自然の中にくっきりと現れるや、万雷の拍手が起こり、喜びの参列者の顔に明るくほほ笑んだ。斉藤昇厚生大臣代理、田中三重県知事、多数出席の国会議員、角永津市長、(財)杉山遺徳顕彰会、全鍼連、日盲連の代表等から挨拶があり盛大に行なわれた。又、来賓、役員により三重県庁講堂に於いて祝賀会を催した。

 翌昭和45年5月18日三重県知事田中覚氏を名誉会長に鍼聖杉山総検校頌徳会を結成し第1回杉山検校祭を開催し以後毎年杉山祭を開催して現在に至っている。

 和一が文献上に始めて登場するのは61才の検校昇進の時で和一の活躍は高齢になってからである、杉山検校の業績としては
@ 鍼の刺入技術の一つである管鍼法の創始で鍼術に革新を加え鍼尖も工夫した。
A 鍼術・按摩術の教育(盲人だけでなく健常者にも)と施設(鍼治講習所)を設置した。
B 世界に先駆けた視覚障害者の教育をして鍼術・按摩術を盲人の職業として確立させた。
C 弟子達を幕府や諸大名の医師に仕官させ医療としての鍼術を再興した。
D 綱吉に仕えたのは貞亨2年(1685)、75才のときで将軍綱吉に寵愛され、その庇護下に当道座(盲人の芸能集団)組織を再編して当道座の中心を関東に設けた(関東惣録屋敷)。

 元禄7年(1694)5月18日に病の床につき6月26日死去した。享年85歳であった。遺言により命日は病の床についた5月18日とされる。
 そして本所一つ目の弥勒寺に葬られ、江の島の西浦霊園墓地の中に杉山検校の奥墓がある、ここに江の島を愛し信仰した杉山検校が眠っている。愛する江の島で眠れてさぞかし幸せな事でしょう。

 杉山和一の和歌と伝えられるものに、次の二首があります。

    見てはさぞ聞きしにまさる年月の心ぞつもる富士の白雪

    よばばゆけ呼ばずば見舞へ怠らず折ふしごとにおとづれをせよ

【参考文献・図書】

 宗国史 ・元和先鋒録 ・杉山家系譜 ・史蹟名勝天然紀念物第七集第五号 ・杉山検校和一 ・杉山検校伝 ・杉山和一とその医業 ・杉山検校二百八十年大祭記念誌 ・姓氏大辞典 ・藤沢市史 ・津市史 ・はり供養塔開眼記念誌 ・三重県の地名 ・杉山検校伝記 ・角川日本地名大辞典 ・理療の科学 ・日本医史学雑誌 ・藤沢地名の会会報

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