石川日出鶴丸について

《石川日出鶴丸先生の故郷を訪ねて》

 昨年10月金沢大学医学部記念館で 第5回鍼灸医学史研究会が開催され、代表世話人の金沢大学医学部客員教授・多留淳文先生は開会のあいさつで、「これからの鍼灸はどうあるべきかを提言する上で、医学史がとても重要になってくる」と、鍼灸医学史研究の必要性を述べた。

 特別講演『鍼灸石川人国記』の中で加賀藩鍼科医師筆頭の久保三柳から、『漢方医学の新研究』の著書で鍼灸医師法を提案したジャーナリスト中山忠直、GHQによる鍼灸禁止令を阻止した石川日出鶴丸・京都大学教授と父子2代で鍼灸研究に尽力し、内臓体壁反射学の大成、皮電計の創案など功績のある石川太刀雄・金沢大学教授まで、石川県ゆかりの先人を紹介した。

 このほか同じく石川県人で久保三柳に師事した奥村三策については「近代鍼灸教育の父」と評され、奥村三策は盲学校での鍼灸教育復活、 マッサージ教育の早期導入、さらに教科書編纂にも力を注いだ。明治39年、第2回日本連合医学会で三浦謹之助・東大教授が講演した「鍼治法について」は奥村との共同研究であり、科学的研究とともに医学誌や大衆誌に投稿するなど幅広い啓蒙活動を行った。

 以前から石川日出鶴丸先生の故郷を訪ねたいと思っていた私は9月の連休に石川県から富山県を訪ねました。
 石川日出鶴丸先生の生まれたふるさと富山県小杉町白石(小白石)はJR小杉駅からタクシーで15分程の所で加茂社の近くで現当主石川威宏氏は富山市内にお住まいで今では空き家ですが河内源氏の子孫であることを示す笹龍胆(ささりんどう)の金色の家紋を付けた塀に囲まれた屋敷で、広い敷地の前庭の中には没後七回忌の昭和28年に建立された「石川日出鶴丸博士生誕地」の石碑があります。

 裏庭に続く金色の家紋がある鉄扉と塀に囲まれた一角が石川家の墓所で日出鶴丸先生のお父様もここに眠っています。江戸中期の開拓者森五平氏の屋敷跡とされる屋敷の前庭には樹齢300年以上のイロハモミジ(高尾モミジ)高さ15メートル以上根周り3.2メートル以上があり小杉町の天然記念物になっています。

  

 石川日出鶴丸先生は石川乾(昌徹)の五男として明治11年10月5日に生まれた、明治36年に東京帝国大学医学部卒業後、翌年に開設間もない京都帝国大学生理学教室天谷千松教授のもとで学究生活に入り明治38年助教授となった。

 明治41年日出鶴丸先生は文部省留学生として4年に亘りドイツ(ゲッチンゲル大学の生理学者マックス・フェルボルン教授)、イギリス(ケンブリッジ大学生理学者シエリントン教授)、ロシア(ペテルスブルグ大学生理学パブロフ教授)の指導を仰いだ。帰国後京都帝国大学主任教授となった。

 ロシアではパブロフの門下の生理学者イワノフの研究室に学んだ時に家畜人工授精の基礎を学びこれが今日のわが国の家畜人工授精の基礎を築いたといわれている。

 石川日出鶴丸教授は始め馬について大正5年(1916)ごろから基礎研究と大がかりな応用研究が行なわれ,ついで昭和3年(1928)乳牛について研究がはじめらた、今日では世界最高水準の技術となっている。
 マックス・フェルボルンの門下ツアハリアスの研究所の見学は帰朝後に淡水生物の実験所として琵琶湖に臨湖実験所を設立してこの分野の素晴らしい発展をみた。

 石川家の歴史は古く 約670年前南北朝の河内石川氏の石川義昌が越中に下り帰農してそれから二百数十年後13代昌一の時富山県下村白石(大白石)に移住して村役人となり肝煎頭から15代の時に五十三ヶ村の加賀藩の十村役となった。その後小白石派として分家した、本家(大白石派)24代元忠の頃は一族合わせて相当の石高を領し絶頂であったが6代続いた十村役から解任される頃から一門から医師に転ずるものが多くなった。小白石派では21代昌嘉から医師となり23代良逸は華岡青洲に学び24代一秀そして25代昌徹が日出鶴丸の父であるが診療に追われ早世した。この 事により経済面から病院長の道を薦められたが日出鶴丸は中学時代からの思いであった生理学の研究学者の道を選んだ。

 石川日出鶴丸先生の業績としては近代生理学の研究の傍ら、父祖伝来の灸治療から東洋医学にも深い関心を示した。数多い鍼灸関連の研究が門下生によって行われ京都帝大生理学教室論文集に収録されています。また[生理学研究」誌に掲載されています。この研究はご子息大刀雄丸教授に引き継がれ、後年「皮電計」の開発に結実した。皮電計とは古来漢方医学の鍼灸治療で言う経穴(ツボ)を皮電生理学的の検出しようとする装置である。また日出鶴丸先生のもう一つの大きな業績は、一般大衆への生理衛生学の啓蒙活動に意欲的に取り組んだことである。有名な『石川生理衛生教科書』がそれで、中等学校用、女学校用、師範学校用があり大正3年発行以来何回も改訂されて戦前教科書のベストセラーとなり家計を潤し多額納税者の一人となった。

 日出鶴丸先生は崇祖の念も篤く大正年間に没落して途絶えていた大白石派(本家)を昭和3年再興してそれを継承して越中石川家の初代石川義昌から数えて31代義忠として石川義忠を名のった。同時に京都府笠置山上に遠祖石川義純公の贈位を記念して、顕彰碑を建立した。

 石川日出鶴丸先生は優れた研究者であったと同時に偉大な教育者であった。その門下生からは実に21人以上もの優れた医学部教授が輩出され、また「石川生理衛生教科書」や「健民医学」という月刊誌や「医学通信」と言う月刊パンフレットを発行して広く全国民を教育しようとする意図が感じられた。

 昭和13年京大退職にあたり研究の五訓を墨書きして門下生に与えた。内容は次のようで彼の面目躍如としたものである。「凡そ研究室に出入りする者は五ンを肝要とす。運・金・純・根・賢是なり。感情は鋭なること勿れ。鈍なれば欺かず。難易によって移らず。些の不平なし。根は興味と責任と健康とによって移らず。賢は小なるべからず。大賢は愚に似たり。他力も亦自 力なり。金は足るを知る。運は天と我とにあり至誠以って之を貫くべし」

 退職後は自宅で芸術運動生理学の研究を進めたが研究をする場が必要と考え昭和19年三重県立医学専門学校長に就任して芸術運動生理学研究室を特設して実験、観察に没頭した。
 また先生は昭和20年4月学校付属病院に鍼灸療法科を開設して鍼灸の実験研究成績を根底として、鍼灸療法の実際の応用展開を企て、ひき続き実験研究を進めると同時に、この鍼灸療法科の責任者に鍼灸師 高橋大和氏を招いた、当時の三重県公報には付属病院の鍼灸治療部の料金表が詳細に記載されている。
 また岩田川河畔の校長公邸を事務所として教授陣を幹事に任命して大東亜鍼灸医学会を設立し機関紙「鍼灸医学」を発行したが戦時下のため2回の発行で打ち切られた。
 この雑誌は我家にも後生大事に保管してあったのですが今はしまい込んで見つかりません。

 お弟子さんの笹川久吾京大教授が石川先生の遺志をついで昭和23年1月に設立した日本鍼灸学会の自律神経雑誌第1号(昭和23年9月発行)〜第4号(昭和24年11月発行)に遺稿として『鍼灸に就いて』という表題で掲載されています、この論文はGHQに提出した英文の建白書を和訳したもので、この雑誌は1号から最近の全日本鍼灸学会誌まで我家の本棚終戦でほこりをかぶっています。

 終戦に至るやごく一部の業者を除き三重県全県下のほとんどの業者は自主的に三重県師会を組織して会を設立した。
 昭和22年7月20日会の顧問になって戴いた三重県立医学専門学校校長石川日出鶴丸先生、付属病院鍼灸治療部責任者高橋大和先生の講演会も発会式と共に盛大に開催された。

 この会の役員A氏等が昭和22年9月8日に顧問である石川日出鶴丸先生を三重医専に訪ねたとき、石川先生曰く「貴方たち今厚生省に対してマッカーサー司令部より鍼灸の禁止について検討せよとの通達が出ているのをご存知ですか」 そしてさらに「鍼灸は素晴らしい治効がありますよ、貴方方の治療の実際による、どの様な疾病にどこへ鍼灸を施したらどのような効果があったかとデーターを集めて持ってきなさい、医専に於いてそのデーターにもとづいて現代医学的に又科学的に研究してあげますよ」と深い理解を示された。

 昭和22年9月23日に鍼灸業に対する禁止要望が伝えられる(マッカーサー旋風)や日本中この業界は大騒ぎになり、石川日出鶴丸博士はGHQから三重軍政部に派遣されていたワイズマン軍医大尉に鍼灸の有効性を説明し同行した樋口鉞之助氏はワイズマン軍医大尉に鍼施術もした、厚生省でご自身の研究した求心性自律神経二重支配法則の仮説に基づき鍼灸の科学性を弁明、GHQ当局に建白書を提出した。後日に米国陸軍省から津市の石川先生の官舎あてに針灸を認めるとの手紙が届いた。
 また業界と厚生省当局との70日間に渉る血の出るような努力、折衝により、身分法が成立した。

 終戦後連合軍の意向により乱立された医学専門学校の大学昇格存続か廃校かをかけた問題に昼夜をわかたぬ心労が続きました。昭和22年10月24日教授会の席上突然に倒れ本人や奥様から河豚を食べたとのことで即座に胃洗浄が行われたがその後昏睡がつづき11月8日に不帰の人となりました。その後解剖され、病理解剖所見によれば大脳左半球の中心部に鶏卵大の出血があり之が主要死因と考えられて脳溢血で亡くなられたと報告されています、69歳でした。

 小白石の対岸鍛冶川(新堀川)の右岸の富山県下村白石(大白石)の本家の墓所には石川日出鶴丸先生が眠っています。また津市にも三重県立大学同窓会が建立した先生の分骨された墓が献体者慰霊碑とともに、津市栄町の四天王寺の裏山にあったが国立移管後に津市江戸橋の大学構内の「医の楚」に合祀された。

 石川先生の崇拝者であった父とともに命日の前後には毎年のように墓参りをしました。中でも昭和49年2月の日本鍼灸学会三重地方会の発会式の時は全国から集まった役員、勝田穣地方会会長等総員80人程が大挙墓前に押しかけたときは、さどかし石川先生もビックリされた事でしょう。

 昭和54年11月、公舎で石川先生の身の回りのお世話をしたという久居市在住の稲葉ハツさんが毎夜寝枕に先生のお姿が現れると言い出し、霊感の強い彼女は思い立って銅像を立てるといいましたが、私財とわずかばかりの浄財を投じて予算の関係で白衣姿の石川先生の石像を久居市元町の千手院賢明寺本堂裏手に建立しました。その除幕式に京大の研究生時代石川先生の借家にいたという孫弟子にもあたる三重大名誉教授(生理学)勝田先生等と共に参席したことを思い出します。

 金沢城の向かい北東にあたる卯辰山の周辺山麓一帯は、憩いの場・散策の場となり、今日では金沢の歴史探訪の場ともなっている。眺望が素晴らしい望湖台に近い中腹にある覚林寺を100メートル上った三差路に奥村三策を顕彰する碑が建立されていす。
 奥村三策は2歳で両眼を失い明治4年から13年まで金沢藩医久保三柳に師事し鍼術・按摩を学び開業をしつつ13年から19年まで金沢医学校で洋法医学を学んだ。この間明治18年の5月発行の医学専門新聞「医事新聞」に「鍼術論」を投稿してのちにこの論文が歴史的意義を持つことになる。新しい技術を学ぼうと上京して楽善会訓盲唖院に入学するが思いと違い退校を告げるが知識技能優秀の奥村は入学し3ヶ月もたたないうちに生理解剖の教員に採用された。

 これよりさき明治政府の意向により鍼治療教育が禁止されたが明治20年に医事新聞に掲載された鍼術論をベースに作成された「鍼治採用意見書」が鍼治教育復活に大きな意味を持ち鍼治療教育が再開された。その20数年後に医学界から鍼は神経繊維を切断して有害と報告されて問題になったが三浦謹之助東大教授の意見にもとづき奥村三策等の努力によりこの問題も解決して鍼灸師の資質向上も意図して明治44年に鍼術・灸術営業取締規則が制定された。

 この奥村三策を顕彰する碑は視覚障害者の社会的基盤の確立に尽くした功績に、没後25周年を記念して1937(昭和12)年、金沢鍼灸按マッサージ組合によって建てられたもので、碑面には「故奥村三策頌徳碑」、裏面に賛辞を刻み。碑の右側に碑建立50年を記念して昭和62年金沢鍼灸マッサージ師会が建てたこの碑のいわれ書があつた。今でも毎年金沢鍼灸マッサージ師会会員がここにお参りして顕彰しているとのことです。

 金沢市寺町の極楽寺には加賀藩鍼科医師筆頭の久保三柳の墓があるのでここにも立ち寄りました。門前には加賀藩筆頭御鍼科医師 久保三柳先生墓所とあり境内には久保三柳が眠るひときわ大きな墓がありました。

【 参考図書等 】

医事新報 北日本新聞 富山高校同窓会会報 畜産と研究 三重県立大學記念誌 自 律神経雑誌 三重三療 越中人譚 三重大学医学部五十年史 富山県姓氏家系大辞典  奥村三策の生涯 日本鍼灸マッサージ新聞

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