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  • 第三章
第三章お経の成立
 「浄土」まで一直線と行けばよかったのですが、非常に大きな問題が目の前に現れたようです。この問題はそのままにして先に進んでもいずれは解決しないとならない問題のようです。ここはしっかりと目の前に見据えて理解していきましょう。さもないと浄土の理解はできません。さて、前章で仏教の矛盾した姿がご理解いただけたと思います。夢のような浄土の記述とそれとは対照的なお釈迦様の有名な譬えを含んだ二つのお経とが非常に矛盾していることが分かりました。この矛盾の中に浄土の秘密がかくされているのですが、この矛盾の理解には、なかなかむずかしい問題が横たわっているのです。長い時間をかけて、こうした矛盾が生じたということもありますが、人間の心の中の問題も関係しているからです。ですから、すこしずつ話を進めてゆきますので、そうか一緒に理解していってください。さて、もう一度矛盾の正体を確認しておきましょう。浄土教のお経には、誰も見たことがないにもかかわらず、黄金の大地、法をさえずる鳥といった具体的な表現が記述されています。普通はとっても良いところとかすばらしいとか抽象的になるのが自然です。なぜなら誰も見たことがないのですから。ところが、かなり具体的に見てきたような記述になっています。普通の感覚で読めばいったいこれはどういうことなのかと言うことになります。何のための文章なのだろうかとまず思います。それに対してお釈迦様のといた有名な二つのお経には、人間はただ存在するもの、ただそこにあるものという趣旨のことが説かれています。ですから、人間がどこかに行くという問い自体が不適切であると教えています。こちらの方ははっきりとお釈迦様の意志が解る内容になっています。論理的で思わずうなずいてしまいます。そして、ここが大切ですが、人間の死後の世界については、果てしない水掛け論になるので取り組まないようにとお弟子さんに教えています。決してそれは経験的に証明されることがないからです。仏教的に「無記」という態度です。それがお釈迦様の説いた最も重要な点です。この違いを見れば、同じお釈迦様の説いた仏教だろうかと思うのが当たり前です。この全く異質で対照的な二つのものの隔たりは、仏教の中にお経という文章で現に存在しており、我々お坊さんが困ったなと思っても動かしがたい事実です。この矛盾を理解していくことが浄土への第三の鍵ということになります。
 さて、仏教はお釈迦様に始まり、それはお釈迦様の教えということになっています。ですが実際にはお釈迦様ひとりの教えではありません。「エッ」と思われた方もいらっしゃると思いますが、長い歴史の中で多くの人が参加し議論して徐徐に出来上がってきたものです。この点が非常に重要です。多くの人が参加してできあがった、このことをよく記憶に留めておいてください。その歴史を学んでみるとなかなかおもしろいことがたくさんあります。たくさんありすぎて、さてどんなことからお話ししたらよいだろうかと考えてしまいます。最初から歴史を追って行けばよいのですが、それでは浄土にたどり着くまでに時間がかかりすぎてしまい、本来の目的がなんだったかも解らなくなってしまうでしょう。そこで、ある中国の有名なお坊さんの話から始めることとしましょう。そのお話を通して仏教の全体像をみなさんにつかんでもらいたいと思います。そのお坊さんは天台大師智(ちぎ)という人です。名前でピンと来る人もいるでしょう。天台宗の基礎を築いた人です。さて、中国ではインドからたくさんのお経が伝わってきました。そして、そのお経をすべて翻訳したのです。もちろん、中国語で、日本風に言うと漢文と言うことになります。これは大変な事業でした。しかし、中国の人はこれを成し遂げます。そのおかげで日本でもその漢訳のお経によって仏教と言う思想に触れることができたのです。
 さてインドから中国へお経を運ぶと言うのは、非常に大変なことで、あのヒマラヤの山を越えるか、相当遠回りをしないとならなかったのです。孫悟空の話はこのときのお話で、三蔵法師というのが、お経を持ち帰り翻訳した人です。その運ぶ時に、お経ができた順に運んでゆけばよかったのですが、そんなことにかまわずどんどん運んでどんどん翻訳していったのです。翻訳が進んでゆくと中国の人もどうも変だぞと思った。我々が今、疑問に思っていることと同じことを感じたようです。本当にこれが同じお釈迦様が説いたものなのだろうかと言うことになったのです。どうもなにか矛盾しているぞ思ったのです。ほとんど正反対のことが含まれていますから、これはもう誰でも感じることのようです。そこで膨大なお経を研究整理してお釈迦様の意図を理解しようと言うことになりました。むずかしい言葉で「教判」と言うのですが、読んで字のごとく教えを判断しようと言うことです。お経をその説かれた時期(当時はお釈迦様が全べてのお経を説いたことになっていた)や、何故そのような違いが生まれたのか、そうした違いの優劣はどうなのかと言うことを判断しようと言うのです。要するにお釈迦様の仏教の中心はどこにあるのかと言うことを明らかにしたいと言うことなのです。専門的な話は横に置いておくとして、その整理整頓の仕事(教判)で、後の世に非常に大きな影響を残したのが天台大師智(ちぎ)という人です。智(ちぎ)は次のようにお釈迦様の教えを理解したのです。
@ 華厳時
 お釈迦様がブッダガヤーで悟りを開いて後、二十一日間、菩提樹のもとで菩薩たちのために「華厳経」を説いた。これは優れた能力のある者たちのための教えであって、この教えによるならば直ちに真理を悟ることができる。
A 鹿苑時(阿含時)
 「華厳経」の教えを聞いても、一般の愚かな人達はそれを理解できなかった。そこで彼らを導く方便として、教えの内容を落としてベナレス近くの鹿苑で小乗の教えを説いたこれが十二年間である。教典としては「阿含経」を説いたので阿含時ともいいます。
B 方等時
 小乗の教えを理解した人々のために、さらに程度の高い「維摩経」などの大乗教典を説いて、彼らに小乗を恥じて大乗に向かいたいという気持ちをおこさせた。この時期が八年続きました。
C 般若時
 お釈迦様はその後、二十二年間「般若経」を説いて空の理(ことわり)を悟らせました。
D 法華涅槃時
 お釈迦様は最後の八年間がたった後に「法華経」を説いて、小乗の人々も大乗の人々もともに同じ心理を証得しうるものであることを明らかにし、最後臨終に際して追補の教えとして「涅槃経」を説いて仏性の理(ことわり)を明らかにした。
 こんな風に整理したのです。
お釈迦様の人生を五つの時に分けて、その時々にお釈迦様が異なった教えを説いたと理解したのです。このように理解すれば、お経とお経が矛盾してもそれが説かれた時期による違いだとすれば、納得がいくことになります。お釈迦様だって人間だから、時代とともに考えが変わっても不思議はないと言うことです。この智の「五時の教判」は非常に人気があり多くの人々の支持を集めました。みんなスッキリとしたのです。なるほどと思ったのです。実際、この智の理解は非常に長い間影響を維持しました。日本においても天台宗ではこの五時の教判をつい最近明治時代ぐらいまでも宗派の教義の中心に据えていたのだと思います。現在でも、そうなのかもしれません。天台宗と言えば我らが法然さんや、親鸞さんや、その他多くの指導的立場に立つ人々を輩出しました。その人達ももちろんこの教判を納得していたわけです。つまり、何百年もの間、仏教の中で大きな影響力を持ち続けたのです。ところが、これが大きな勘違いであったのです。そもそもあの膨大な思想体系を一人の人間の一生に割り振ったのですから、それは始めから無理というものだったのです。長い間人々はそれをすべてお釈迦様が説いたと信じていたのです。それくらいにお釈迦様はスーパーな存在だったのです。最近になってようやくその過ちに気がついたということであって、その当時はまったく解らなかったし、そのことを責めても仕様がないのです。ただそう言う勘違いがあったと言うことは事実ですからこれは認めなくてはいけません。仏教の近代的な研究がようやくこのことを明らかにし、その成果が示したものは全く違った事実だったのです。ああ勘違いと言うところです。人類史上これほど壮大な勘違いも他にないかもしれません。実際のところはどうだったのか、そのあらすじをたどってみる必要があるようです。
 ちょっと脇道にそれますが、我らが法然上人も浄土宗を立てるため独自の教判を持っていました。仏教の中で浄土教が一番すばらしいと言うことを示すためのものです。実は、これが今見てもなかなか良いのです(と私は思う)。お釈迦様一代の教えと理解されていた精神的な営みの理解としてはちょっと変わっているかもしれませんが、今現在でも非常に見所があります。今詳しく述べませんが、後にどこかで触れてみたいと思います。
 さて仏教の歩んだ道は実際のところ、どのようなものだったのでしょう。天台大師は、何を間違えていたのでしょう。それでは、話しを進めて参りましょう。
仏教の理解をするためには、なんと言っても、お釈迦様自体に戻らないと始まりません。そして現在残されている教典が、どんな風にできあがっていったかを理解してゆく事が大切です。
 そこでまず、お釈迦様の時代に戻りましょう。お釈迦様は三十五歳で悟りを開いてその後八十歳で亡くなるまで伝道の旅を続けました。ある時は一所に留まることもありましたが、一生各地に赴いて教えを説いて歩きました。この間に説かれた教えがお釈迦様の独自の教えということになります。基本的には説法によって伝えられました。つまり、話すことで教えを明らかにしたのです。だから、お釈迦様自身はお経という文章は一文字も書いていません。一文字もです。当時書き残すと言うことが風習としてまだなかったのです。じゃあ、あの膨大なお経はいったい誰が書いたのだろうかということになります。結論から言うと、お釈迦様の亡くなった後、多くの人々が参加して編纂されていったということなのです。現在大蔵経と呼ばれるお経は膨大の文章となっていますから、それを見ると仏教の歩んできた歴史の長さが想像できることになります。また、その精神的な営みの壮大さもそこにはあります。そしてその壮大な思想が、最初に文字になるまでにもぜひみなさんに知ってもらいたい非常に有名なエピソードがあるんです。そちらの方へ話を進めましょう。お釈迦様自身は旅の途中で出会った人に対して説法して自らの考えを伝えていきました。いろいろな場所でいろいろな人に対してその人にあった教えが説かれたのです。お釈迦様の教えは、現実の問題に対して、その人が解かりやすいようにと説いたもので、具体的な話しがほとんどだったということのようです。仏教的には「対機説法」(たいきせっぽう)といって話し相手の能力に応じて教えを説いていったということになっています。たとえ話をまじえたりして、わかりやすい話をするよう努力をしました。つまり純粋にお釈迦様の教えといえるのは三十五歳から八十歳で亡くなるまでの間に人々に対して説かれた教えということになります。その内容は、どちらかと言うとごく単純で具体的なものだったと思われます。思われると言いましたが、何故断定できないかと言うことが後で解ってもらえると思います。
さて、そのお釈迦様が亡くなってすぐ、悲しみに沈むお弟子さんの間である出来事がありました。これが、有名なエピソードです。
 スバッタ(須跋)という比丘がいて、こんな風に言ったのです。
「友よ悲しむなかれ、憂うるなかれ。われらは今や、かの大いなる沙門より脱することを得たのであって、まことに結構なことではないか。『これはなんじらに許す。』『これは、なんじらにしからず。』とて、われらは苦しめられ、圧迫せられたが、いまやわれらは、欲することはし、欲せぬことはせぬでもよいのである。」
 こんなことを言ったのです。お釈迦様がお弟子さんに色々と、こうしなさい、ああしなさい、こうしちゃいけない、ああしちゃいけないと指導していた様子が目に浮かびます。また、それをうるさく思っていたお弟子さんがいたというのです。何かとても人間的なお話です。あのお釈迦様のお弟子さんの中にも、師のことをうるさいと思う人がいたというのですから、まあいつの時代も先生というのは生徒にとってはうるさいものなのかもしれません。今の我々の世界でも同じような状況はどこにでもあります。つまり、お釈迦様が亡くなったときに、そうした師の監督から解放されて、もうそうした制約を受けなくてもいいのだと思う人がいたのです。スバッタは、もう勝手にやっていこうとみんなに呼びかけたのです。早くも仏教のピンチということなんですが、その時マハーカッサパ(大迦葉)というお弟子さんがいました。この時には、第一の弟子といわれたサーリプッタ(舎利仏)やモッガラーナ(目連)はすでに亡くなっていて、マハーカッサパ(大迦葉)が教団の指導的立場にあったのです。そして、次のような呼びかけをしたのです。
 「友たちよ、われらは宜しく,教法と戒律とを結集して、非法興りて正法おとろえ、非律おこりて正律廃れ、非法を説く者強く、正法を説く者弱く、非律を説く者強く、正律を説く者弱くなるであろうことに先んぜねばならぬ。」
お釈迦様が残した教えが失われてしまわないようにしっかりとみんなで確認しようというのです。「そうかそれで書き残したのか」と早合点しないでください。まだ先があるのです。マハーカッサパはスバッタのような勝手なものが、これから何人も続いて出てくる事を考えると、お釈迦様の教えを守っていくことは大変な事だと感じたに違いありません。お釈迦様が健在な時ならばともかく、いなくなった今しっかりとその教えを確認しておかなくてはならないと思ったのでしょう。マハーカッサパ(大迦葉)の呼びかけでお弟子さんたちが集まりました。お釈迦様の教えは、いろいろな場所でいろいろな人に向かって説かれたので、みんながその全部を聞いているというものではなかったのです。基本的に説かれた場所にいなかった人は聞いていないということです。そこでそれを集めてみんなで確認しようと言うことになりました。これを結集(けつじゅう)といいます。宗教会議です。
 その会議はどのようなものだったかというと、ラージャガハの七葉窟と言うところに五百人の比丘(お坊さん)が集まりました。そして、まず戒律についてマハーカッサパがウパーリ(優波離)に質問をして、その質問に対して持律第一といわれたウパーリが答えたのです。ウパーリは戒律については一番よく理解し実践していたので持律第一とよばれていました。その質問の内容は、お釈迦様の説いた戒についてどのような経緯でその戒ができたのか、その関係者は誰なのか、その内容はどういうものかを問うと言う形でなされました。ウパーリは覚えている限り一生懸命に答えたのでしょう。そして、それをみんなで確認して、その確定されたままをみんなで合誦(合唱)したのです。合唱することによって暗記したのです。まるごと覚えたのです。次に教法については、アーナンダ(阿難)に問うかたちで進められました。アーナンダはお釈迦様にずっと従って旅をして、傍らでその教えをもっともよく聞いていたのです。そこで、お釈迦様の説いた教法について、その説法が行われた場所、その教えが説かれた経緯、その内容、それを聞いていた人たちについて問答がなされました。これに対してもアーナンダは自分の知っている限りを一生懸命に答えたのでしょう。その内容を定めてみんなで確認して合誦(合唱)したのです。これも暗記したのです。このように、合唱することで最初のお経ができました。空で覚えるという言葉があります。何も見ないで言えるようにしてしまうことですが、まさに最初のお経はみんなが空で覚えてしまったのです。「ある時、お釈迦様がこのように説かれたのを私は聞きました。」と言う出だしで始まるのです。以後作成されたお経は、この形を踏襲することになります。いろいろな場所で説かれたお釈迦様の教えが集められました。人々の中には、別の場所で説かれた教えもあって初めて耳にすることも多かったわけです。この場面などは考えただけで、想像力が働いてついドラマチックなものを思い描いてしますのですが、たぶんそれは感動に満ちたものだったのでしょう。その感動を胸一杯にできあがったお経をきっとみんなで合唱したのです。みんなで合唱するというのは、一人で声を出しているのとは違った効果があるように思います。やはり力を得るというか心強い気持ちがしてくる。そして、とても気持ちのよいものです。この伝統だと思うのですが、お坊さんがイイ声でお経を読むというのは(イイ声でない人もいるというご指摘はご勘弁いただきたい)。これが仏教最初のお経ということになります。
そしてこの成立したお経の伝達方法ですが、人から人へ口で唱えることで伝えられていったのです。(口伝)暗記することで伝えられてゆきました。要するに空で覚えるということです。
もちろん、現在残るあの膨大な教典のすべてがこのように成立したわけではありません。最初は人間が暗記できる量であったというように考えられますから、最初のお経というのはごく、簡単で単純なものであったと思われます。また、具体的な場面で説かれたもので、お釈迦様は多くのたとえ話をもちいて教えを説いていきました。実際にお釈迦様が話したその言葉をそのままみんなで合唱したものだったのです。こうしてで来たお経の中には、お釈迦様の行動、足跡に関する部分もあり当時の史実を記録した貴重な資料となっています。それらの最初のお経は現在いわゆる大蔵経といわれる仏教全体の経典の中、阿含部というところに分類され納められています。(新興宗教の阿含宗とは関係ありません。)天台大師智巍(ちぎ)は、この辺をどうも間違えた。智巍の仏教理解では初歩的で一番劣った者たちのための教えと言われた阿含経が実はお釈迦様の直(じか)の教えに一番近かったのですから、勘違いもここまでくると何とやらという感じです。ただ前にも言いましたが、天台大師を弁護するのではないのですが、仏教という一大思想を分類整理すると言う点では、彼の業績はすばらしかった。それは今でも価値を有います。しかし、それをお釈迦様一人の業績に帰したところに間違いがあったのです。まあ当時はそれが大前提でしたから仕方なかったのです。さてそうなると、阿含経というのがどうも重要なお経であると言うことになるわけですが、現在残された阿含部のお経がお釈迦様の説いたままの形で残されているかというと、それはどうも怪しくて、長い間に多くの人の手が加えられ変容しているのです。これが問題を複雑にしています。今となっては、お釈迦様はほんとはなんと言ったのだろうかと言う問題になっているわけです。とは言うものの、その手の加わったものを長い間お釈迦様の教えとして受け取っていたわけでそれはそれですばらしいものなのです。多くの人が参加したためすばらしくなったとも言えます。まあそう言う厳密な問題はとにかく、お釈迦様の言葉が多く残されている教典群であることに間違いはありません。この阿含部の教典を研究する分野が、根本仏教とか原始仏教とか呼ばれる分野です。浄土教のお経とは全く対照的なものです。前章で指摘した仏教の矛盾の中の一方はこの阿含部の教典ということになります。私の尊敬する故増谷文雄先生は、この分野の研究で非常に有名な先生でした。お釈迦様はいったいどんな事を言っていたのかという問題をライフワークとして研究された先生です。
この初期の教典の中に、前述の「毒箭の譬喩」や「火は消えたり」のお経が含まれています。お釈迦様の教えはまさにこの教典群の中にあると言えるのです。四諦、八正道、無常、無我と言った教えはこの根本仏教あるいは原始仏教と呼ばれる分野に存在しているのです。
 とにかく、仏教における最初の教典の成立の様子がお解りいただけたと思います。初期仏教教団の中で、こうして成立したお経をみんなで唱えると言う事が始まり人から人へとお釈迦様の教えが広がっていったのです。この時にできたままの形で仏教が現在まで伝わっていたら、まったく今とは違った文化現象になっていたと思います。この時から長い長い変容の歩みを始めます。さて、この変容の様子を皆さん想像してみてください。我々も普段の生活の中で経験しますが口伝えというのは当てになりません。みんなで合唱しながら覚えるのですから、ある程度は形を維持します。しかし、聞いた人が素直にそのまま覚えればよいのですが、人間ですから何も考えないと言うことはありません。疑問が生じたり、唱えているうちに考えが発展すると言うようなこともあったでしょう。いつ頃から文字で残されるようになったのでしょうか。文字として確定した経典と言うことになれば変容を免れるわけです。しかし、文字に残されるようになってからも変化を続けたのです。現在残る経典が完成するまでには気の遠くなるような時間と労力を必要としたのです。
現在残っている阿含経と呼ばれるお経は、後世相当手が加わってしまいました。その最初の形は分からなくなってしまいました。しかし、その中からお釈迦様の言葉を拾い出していろいろな先生が今も研究をされているわけです。そして、お釈迦様の精神を感じ取ろうとする場合、欠かせない資料と言うことができます。この阿含部教典を抜きにして仏教は語れません。さて話を進めましょう。そうこうしているうちに、仏教は新しい段階を迎えます。最初のお経は少しづつでしょうが変化しながらも、仏教教団の中で徐々に確立されたものとなっていきました。実際には、一人で全部のお経を覚えるというのはむずかしいのでいくつかに分けて分担して伝えていったようです。ところが時の流れは仏教教団をそのままの形でおいておくということはなかった。そして、仏教教団にとって画期的な出来事が起こります。この出来事もぜひみなさんに覚えていただきたいと思います。
時が少し下って、お釈迦様が亡くなって百年後、二回目の結集(宗教会議)がおこなわれました。この会議までに最初のお経の成立から百年の時がたっています。文章にすると次から次へと事が運んでいるような錯覚を持ってしまいますが、百年というのは大変な時間です。その間に少しずつではあっても仏教は変わって行ったのです。そしてある象徴的な事件を迎えます。
その百年後の当時の仏教教団の中の争いごとの一つに、金銭のお布施を受けても良いかどうかと言うことがありました。金銭の授受は基本的には認められていなかったのです。ところが、実際には教団の中にお金がたくわえられるようになったのです。金銭を受け取る事が禁止されていたのにどうして仏教教団の中にお金が蓄えられたか不思議に思われるでしょう。戒律では金銭の授受がみとめられていませんでしたので、どうしたかというと教団の中にお金を受け取る役目の人をもうけたのです。そして、お坊さんは直に金銭は受け取らず、その他の人が受け取ってようやく戒律を守った事にしていたのです。何か今でもこんな話どこかで聞いたような気がしますけれど、二千五百年前から人間は同じようなことを繰り返しているんだなと思います。ですから少し戒律を緩やかにして金銭の授受を認めてくれないかと言う要求が起こりました。
 第二回結集の経緯ですが、ガンジス川の中流のヴェーサーリー(毘舎離)という都城があって、その付近にいる比丘(お坊さん)たちが、十箇条にわたる戒律の変更を主張しました。それは、食事のこととか、托鉢の作法のこととか、些細なことだったのですが、その中に一つ重要な主張があったのです。それは、布施行為において貨幣の授受を認めてほしいということでした。貨幣経済が急速に発展して世の中の仕組みが変化し、それに対応するよう求めたものだったのでしょう。これに対して長老の比丘たちは、宗教会議(第二結集)を開いて、これらの要求をことごとく退けてしまったのです。こんな事件が起こりました。長老たちは最初に整えられた戒律をしっかりと守っていこうということだったのです。人間の集まりですから、厳格さを好む人達と現実的な考えの人達が存在していて、その争いだったのでしょう。まあ、今現在を考えると、金銭の授受が認められないと言うことになれば、これはもう生きてゆけないということになります。話を戻して、この決定に対してヴェーサーリーの比丘たちは納得せず、さらに多数の同士を集めて、別の宗教会議を開いて長老たちと袂を分かってしまったのです(大合誦)。これが、記録に残る仏教の分裂の始めです。そのとき分立したものを大衆部と称します。この事件は象徴的な出来事として仏教史的には非常に重要です。分裂するほど教団が大きくなったということですが、貨幣の授受という点について言えば、お釈迦様時代からですが仏教には、いわゆるパトロンと呼ばれる人がついたようです。そのおかげで、教義など哲学的な思索に没頭することができるようになり、それがまたその後の分裂の潜在的な原因となったと言うことがあります。教義的に違いが生じていったと言うことです。とにかく、仏教がお釈迦様が説いたまま一つの集団として、維持できなかったと言うことです。とても重要な事件です。さまざまの原因が考えられますが、人にものを伝えるというのは実に難しいことです。今の時代も全く同じですが、お釈迦様の考えていたことを、そのままに伝えていくことの難しさと言うことなのでしょう。聞く側の能力のなさと言うことかもしれません。いや、優秀な人はたくさんいたのでしょう。その人たちが自分なりの勝手なことを考えていったのかもしれません。お釈迦様時代にも自由思想家という人達が数多く出てかつやくしましたが、非常に哲学的な思考の強い民族であったようです。インドの人達は。お釈迦様の教えを哲学的に発展させようという営みが自然と異なった派を形成していったと言うことのようです。最終的には二十ぐらいの部派に分裂したと言うことです。仏教教団では基本的に合議制でもって、いろいろなことを決定していました。議論好きの民族性も加わって哲学的な違いを生じて行った。お釈迦様がそのようなことには取り組むなと行った領域まで踏み込むようになっていったのです。とにかく、お釈迦様の説いたままの素朴な姿で仏教は残れなかった。
 この事件がすべてのきっかけというのではありませんが、この事件の後、仏教は多くの派に分裂し、それぞれ独自の発展を遂げていったのです。部派仏教時代と呼ばれる時代です。「そうかその中に浄土教があったのか」と早合点しないで下さい。浄土教のお経の成立にはもう一段の飛躍が必要なのです。
何故お釈迦様の教えのもと一つの教団を維持してゆけなかったのだろうかということ、何故いくつもの派に分裂してしまったのかという問題ですが、当時のインドの人々は非常に論理的な、そして議論好きな人々であったと言うことが何より大きいようです。いわゆる形而上学的議論の好きな民族であったと言うことです。お釈迦様はその例外中の例外だったのかもしれません。お釈迦様はこの形而上学的議論を避けていたということになっています。前述しましたが、ちょっと専門的になります。仏教では「無記」(捨置答)と言います。
その議論好きの一面が現れていることがあります。ここからはちょっと専門的でむずかしくなります。インドの人の考えたことですので、興味のある人は読んでください。ない人はとばしてください。さてこの時代インドでは輪廻の思想というのが人々の間に行き渡っていました。これが非常に重要でして、この輪廻からのがれる解脱というのがお釈迦様を含んだすべての人の願いだったのです。日本人はこの輪廻の思想というのを聞くと生まれ変われると言って喜ぶのですが、インドの人は又再び死ななければならないと考えたのです。死ぬなんて一度でたくさんだと考えた。従ってとにかくこの輪廻から抜け出したいということを理想目標としたのです。このインド人にとっては、つらく苦しい輪廻を人間に強いているのが、人間の作るおこない(カルマ)に他ならないし、そのおこないを作り出しているのが我々の欲求である。つまり因果応報思想がもとになっていて、善因善果、悪因悪果と言うことがもとになっています。その善悪のもとになっているのが人間の欲であると考えていた。この欲を無くすためには普通の生活をしていてはダメだということになって、家を出る出家と言うことが始まったのです。とらわれをなくすことで欲から逃れようというのです。そして一つの方法として苦行が行われました。身体を痛めつけることで欲が滅びると考えたのです。もう一つの方法としては、瞑想することで、心の働きを止めてしまう、そうすれば欲も起きないと言うことのようです。とにかくそんな取り組みをしていたのです。さて、インドの人はこの輪廻の主体となって次の生へつながっていく生死を超えて常住不変な自己の本体(アートマン)があると考えていたのです。この今の自分に変わってと言うか、この今の自分のどこかの部分が次の生につながっていくと言うことが解決されないと、輪廻が成り立たないし、大切な解脱も訪れないと言うことになります。お釈迦様はこのアートマンを否定したと言うことになっています。これを無我説と言って仏教の中心と言うことになっているのですが、これが、こうした議論の好きな人たちを刺激したようです。じゃあいったい仏教では何が輪廻するのだということになった。その問題に進む前にお釈迦様の考えを見ておきましょう。お釈迦様は、世が無常であること、明日の命も分からぬと言う世の真実の姿を経験的に示したのです。人間がこのことを身にしみて納得していないところに人間の苦しみがあると考えていたのです。当然と言えば当然なのですが我々は解っているようで解っていないわけです。世の無常に接して思わず涙を流すと言うことを繰り返しています。ですから、経験に基づかずにアートマンというものを安易に想定することを誡めたのです。我々人間のいろいろな構成要素(五蘊、ゴウン)が、常住不変の本体となり得ないと説きました。ここで仏教教室です。五蘊というのは色受想行識のことで、色は物質一般、人間についてですから肉体。受は感受作用。想は心に浮かぶ像で表象作用。行は意志。識は認識作用。このように物質面と精神面を会わせて五つの要素に分類し、そのどれもが輪廻の主体とはなり得ないと言うことを経験的に言ったのです。要するに、分かることを分かるように説いたのです。これぞお釈迦様と言ったところでしょうか?ところが、後の時代の人々は、話を難しくしてしまった。お釈迦様は、本体があるとかないとか言う問題は立ち入りたくなかったのです。水掛け論になってしまうからです。いわゆる「無記」という態度だと思うのですが、議論好きの人達は、どうも理論的にすっきりしない、興味がわいて仕方がない。と首をつっこんでしまったようなのです。そのため、自己の中に常住不変な本体を認めず、輪廻するとすると、何がいったい輪廻するのか、なんて事をインドの人達は考え始めたのです。これ以後は、非常に学問的なお話になって、私にも説明する自信がないので、読み飛ばしていただいても結構ですが、どんなことになったのかというと、インドの人が考えたのは、まず人間の構成要素ではない何物かが輪廻する主体であるというなんとも訳の分からない説や、主体となる心が生じるとすぐに消滅して、その直後に前の心と少し違う心が生じ繰り返してゆくんだと言う説を主張したりしました。一瞬一瞬生まれ変わっていると言うような考えでしょうか。この説によると殺人を犯しても少し時間がたてば別の人になってしまう。というようなことになりこれは不都合だと言うことになりました。そこで、業という思想を採用して、心は一瞬一瞬滅しては生ずるが行い(業)は心に担われて相続してゆくとする苦肉な説も生まれました。そして最後の方では、心が働きをおこすと潜在的な何物かに変化します。それを種子(しゅうじ)と呼ぶのですが、心の働きが種子として植え付けられることを熏習(くんじゅう)と言い、この植え付けられた種子によって、次に生じる心がきまる。これを繰り返すのだと言う何とも手の込んだわけのわからない説が説かれるようになります。この辺になってくると、書いてる私も何を言っているのか分からないと言った状態ですが、インドの人たちはこんな手の込んだことを考えたのです。この一つ一つの考えに対応する部派が一つ一つできあがっていったと言うと、仏教の分派していった理由が何となく分かっていただけるのではないでしょうか。とにかくインドの人は理屈っぽい人々なのです。
ここで又、本筋に話を戻すため時代の確認をしておきます。このように部派と呼ばれる集団が徐々にその体制を整え四百年から五百年かって、いよいよ次の大乗仏教の時代へと移行していきます。それぞれの部派は自分たちの主張の正しさを広めるために、独自の理論を述べた文章を制作しました。アビダルマ(論蔵)と専門的には言うのですが、教,律、論とそろって三蔵と言います。その中に新しい教典も少しずつ作られていったと考えられています。そう、お経は新しく作られていったのです。そしてこの頃までにお経は文章として書かれるようになりました。教えの伝授は口伝から書写へと移行してゆきます。こうした時代を経て、仏教思想は成熟していきました。そして、いよいよ紀元前後大乗仏教運動が興ってくるのです。そしてその大乗仏教の中に、法華経も浄土経も密教も含まれています。ようやく浄土教典が登場してきます。

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