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  • 第六章

第六章 確信のドラマ
 みなさんに、なんとか浄土を説きたいとがんばっているわけですけれど、なかなかみなさんになるほどと言っていただける説明というのが見つかりません。こうなるとつい投げやりになってしまって、「あると信じるか信じないかだ」と言ってしまいたくなるのですが、それでは、なんのためにこの本を企画したか解らなくなってしまいます。そこでいよいよ本論にとりかかりましょう。さて、浄土とはいったい何なのかという問題がテーマでした。いろいろな本を読みました。あるいはさまざまな人の話も聞きました。いったい「浄土」とは人間にとってどういう文化現象なのか、どういう思想的営みなのか、その営みの背後に人間のどんな思いが隠されているのか、そしてそれはみんなで肯きあえるものなのか。みなさんになるほどと言ってもらえるものなのか。手探りで追求してきました。興味本位ではなく、人間にとって何か価値のあるものなのかという点を自らの立場を離れて取り組むようにしてきました。理解のゆかないものの理解をするためには、まず様々の知識を増やして何とかその謎の本体に訪ね到ろうという姿勢を基本として努力をしてきました。とは言うものの私も僧侶のはしくれですから、まず仏教に取り組みました。お釈迦様はいったいどんなことを言っていたのだろうかという問題に取り組みました。それは難しい問題でした。今もそれは大きな課題として私の前にあります。その中でお釈迦様が「無記」と言って、経験を伴わない議論を避け、解らないことに答えなかったと言うことは非常に重要でした。又次には、浄土に関する経典を読んでみることにも取り組みました。それは、大切な作業でした。その浄土教の経典は、非常に興味深い仏教の歴史の展開を背景として成立していました。お釈迦様の避けていた領域に浄土教という大乗仏教は踏み込んだものでした。ここにも一つのヒントがあるように思います。そしてまた、仏説、つまりお釈迦様が説いたと言われていたお経が実は多くの人の手によるものであるという事実はちょっと驚きでしたがこれも大切な一つのヒントを与えてくれます。その他仏教の中だけで考えていては限界があると思い、関係があると思われるものは仏教以外の題材にも積極的に取り組みました。それは様々な方面に及ぶものです。今、ちょっと指折り上げてみれば、脳の科学や宇宙の話、臨死体験の話、前章で取り上げた漱石の重病を克服した話などがありました。その他にも、ちょっとした文章や発言といったものも、何らかの関係を持って、今私の前に宿題として横たわっているように思います。それらはこれぞと言うには十分なものではありませんでしたが様々な事を教えてくれたように思います。
しかし、このように知識をもって「浄土」を理解してゆくという方法では、どうも解決しない。「浄土」に近づこうとしても、「浄土」の近くをぐるぐる廻るようで、なかなかその中心へ到れないと思うようになったのです。結局死後の世界に関して人間の興味は尽きませんから、これからも取り組んでいけば無限に題材が提供されてくるでしょう。これからも生きてゆく限り無限に知識が増えていくと思います。まあそうした努力はこれからも一生続けていかねばならないと思います。しかし、知識を持ってしては永久に浄土の理解はできないと思うようになったのです。浄土は知識で理解するものでないということに気がつきました。全く違う考え方で取り組まないとダメなのじゃないかと思うようになりました。
では、その方法とはなんだと思いますか。それは、みなさんの心に直接訴えると言う方法です。人間の直感を頼りにして、浄土というものを説明しみなさんに納得してもらおうと思うのです。このように言うと、「なんだ当てずっぽじゃないか」とか「それなら最初からそうすればいいじゃないか」と言われそうですが、迷ってみてはじめて解ることもあるわけです。迷ってはじめてこうした直感も生まれてくるのです。また実際に、この問題に関していろいろな地点で迷っている人、つかみ所のない気持ちでいる人もいるわけで、迷いの背景を明らかにしてゆくことは、重要な意味があります。ちょっと脇道にそれます。その迷っている人の中、最たるものが、我々お坊さんと呼ばれる人達のような気がしています。こんなことを言うとまた、仲間から怒られそうですが、宗学と言って宗派の独自の学問があります。それに縛られて、どうも迷い道に入り込んでしまった人が多いように思われます。さもなくば井の中の蛙を決め込んで、いわゆる「客観盲」という世界に安住して開き直ったままこうした議論には立ち入らないでいると言う人も多いような気がします。まあとにかく、なにもないところから当てずっぽというようなことではないと言うことをご理解いただきたいわけです。
世の中には、一段一段理屈を重ねていって導き出せる事があります。論理的科学的な思考で認識される事です。自然科学をはじめとして、およそ学問と呼ばれるものはそうした方法を前提としていると言って良いでしょう。これに対して、「あっ、これだ!」と手を打つように解る事があります。感性によって認識される事です。一度に、その全体を理解して、その中心をギュッとつかむように把握するのです。やはり、宗教はこちらの方法をとらないとどうもわからないようです。論理的な思考においては、論理の積み重ねの正しさを検証していくことが重要です。その正しさが確認されたときには、そのまま、その考え方は正しいということになります。これに対し人間の感性を頼ると言う場合においては、多くの人が共感してくれることが、唯一の確認手段ということになります。その認識が正しいことを裏付けるものとなります。従って、これから述べる事に皆さんが、「これだ、これ、これ」とうなずいていただければ私の浄土に対する取り組みは正しかったという事になります。とにかく、みなさんだけが頼りと言うことになりました。まあ最初からこちらがいくら力んでも仕様がないことで、皆さんに納得してもらえるようにがんばりますので、ぜひ好意的に読んでくださるようお願いします。
 さて、このように述べましたが、実はここからが筆の重たいところです。それは、感性で感じたことを文章にすると言うことが思ったより難しいことなのです。それも題材はあの世に関するものです。臨死体験の話からもお解りだと思います。まったく立証する手段がありませんから、聞いた人が首をかしげるというのが常のことだからです。そうした題材をみなさんの感性を頼りに述べようと言うのですから、ちょうど絵の展覧会で見た絵の感動を思いついたまま一筆一筆文章にしていくようなもので、果たして表現できるものなのかどうかちょっと自信はないのですが、まあ言い訳がましいことはこれくらいにしてとりあえず、文章という形で私の感じたこと、考えたところを述べていきましょう。
私は浄土宗のお坊さんですから、浄土というのは、常に私の頭から離れたことはありません。そのご浄土を考えながら、あっちへうろうろこっちへうろうろとお坊さんにあるまじき行動(笑)を続けているときのことです。豁然と悟ったという言葉がありましたが、自分としてはそんな感じがしたのですが「アッきっとこれだ」と思う事がありました。それは、夏目漱石の「思い出すことなど」を読んでいるときです。人間の都合など全く気にもとめずに無慈悲に運行する大宇宙の法則のことを考えて、漱石が心細くつまらなくなったと思わず言ったあの文章を読んだときです。この「つまらなくなった」というごく平凡でごく素朴な言葉を漱石が使っていたのがとても人間的に感じられたのです。読んでる本を支えている手に改めて温かい血が流れていることに気がついたのです。
その時、私が「これだ」と頭に浮かんだのは一つのドラマです。それもどこにでもあるドラマです。このドラマをお話しすることで私の考える浄土をみなさんに伝えたいと思います。さっそくどんなドラマか説明しましょう。まず、登場人物ですが、一人は今まさに亡くなろうとしている人です。浄土教では、ご浄土に旅立とうとする人という表現をします。あるいは「往生」と言いますから、浄土に往って生まれるなんて言います。二人目の登場人物はその人の手を握って送ってる人です。手は握ってなくてもよいのですがとにかく亡くなろうとする人を送る立場の人です。最近は病院で亡くなる人が多いので、家族が死に目に間に合わないなんてことがよくありますが、空間的にその場に居なくてもかまいません。とにかくその人を送ろうとしている人です。三人目はその二人の様子を傍らで見ている人です。以上がドラマの登場人物です。実に単純な役配です。最初にこのドラマの大切な点を上げておきましょう。一つはこのドラマはいつの時代にも、どんな国にも時と場所と人(含、人種)を選ばずに存在すると言うことです。普遍的だと言うことです。世界中のどこにでもあるドラマです。二つめは、三人のドラマという構成が人間が社会性を持ったという段階を意味しています。一人でなく仲間ができたときこうしたドラマが生まれました。人間の社会性の始まりは、親子関係でしょうから要するに人類登場の始めからと言うことになります。
 さて、最初に今まさに死に向かおうとする人です。浄土宗的にはご浄土に旅立とうとする人です。皆さんがその立場に立ってつまり、自らが今まさに死と向かい合っていると仮定して何を思うか想像してみてください。人間ですから想像したことがないという人はいないと思います。もし一度もそのことを考えたことがないという人がいたら本当に幸せな人と言うことになります。決してバカにしているわけではありません。本当にそのことを考えずに済んだら幸福だと思います。さてまず第一に自分は死ぬとどうなるのだろうかと考えます。これは絶対に考えます。人間の最大の関心事ですから考えます。しかし、絶対にどうなるか解りません。誰もその経験を語ってくれないからです。自らの死というテーマといよいよ向き合わねばならないと言うこと、これは非常につらいことです。従って、もし自分の場合だったらこのテーマを遠ざけようと努力すると思います。漱石の言葉を借りれば殊更に気分を変えると言うことです。しかし、そんな努力にはかまわずどんどん死はせまってくる。それを又遠ざける。こんなことの繰り返しが、心の中で繰り広げられるだろうと思います。次には怖いと言う気持ちが襲ってくると思います。解らないと言うことは人間にとっては、怖いことです。死が怖いのは何だかよく解らないからです。ですから、当然圧倒的な死の前でその恐ろしさにふるえるという事になります。恐ろしいという一言では言い表せないかもしれません。その恐ろしさをやはり遠ざけようと努力するでしょう。この点について日頃興味を持って考えているのことがあります。「本能的」という言葉があります。その言葉は普通感情と理性の対照の中で感情の側の一番極端にあるものとされますが、こと死と言うことに関しては、これが当てはまらないように思う。遠ざけようという努力は人間の感情によるものなのか、理性によるものなのか何かとても複雑な気持ちのように思います。むしろ、その両方を超えて本能的と言うことのように思う。理性を超えて本能的というのは、こと生存欲に関してだけのように思います。普通は本能の反対に理性が存在しているわけですが、こと人の生死に関しては、その理性の営みさえも人間の本能の発露であるように思う。つまり、全能を傾けて抵抗しようと言うことだと思うのです。また、遠ざけようというのも、逃げ出したいといった方が当たっているかもしれません。しかし逃げ出すことはできません。三番目には、人間にとって解らないことは恐怖のもとになることは解りましたが、もう一つ解らないことは誰かに聞いてみると言うのも当然の心の動きです。自分と同じ立場にいる人は何か教えてくれないだろうか。今まで自分と同じような状況にいた人が大勢いたはずだから、その人達が何か言い残してはいないだろうかと考えると思います。しかし、そこにあるのは、相手も同じことを聞きたがっているという事実のように思います。四番目には、冷静に客観的に自らの状況と対決しようという気持ちも働きます。冷静に状況を把握して理性が自らをしてこの命の営みを諦めさせるような方向にでも導いてくれればそれは有り難いことかも知れません。また、感情が一定の段階で崩壊せずに留まってくれればそれも幸福なことです。しかし、それも簡単にはいかないと思います。五番目には何故こんな状況になったのだろかと言うことを考えます。自らの意志に反してこのような状況に自らを追い込んだ力は何なのかと言うことを考えます。その前に姿を現すのは、宇宙大自然の法則という事なります。一匹のたらが毎年生む子の数は百万匹であって、そのタラの子の生き残る数はその中の数匹であると言う生物の原則です。そして、生き残ったものもやがては死を迎えると言う事実です。そして、自分だけがその濫費者の大宇宙の摂理の例外であると考えるのは無理なことだと気がつきます。どう考えても、大宇宙の摂理に自らが支配されていることに気がつきます。こうした筋道の中、まさか最近はないだろうと思いますが、「たたり」だ「さわり」だなんてことがこの辺りに登場するのかも知れません。さて、その大宇宙の法則とやらも、他人事であるときは、なるほどと頷けますが自らのこととなればとてもつらい事、つまらない事です。「つまらない」という言葉は何か子供っぽい感じがしますが、その言葉をあの漱石が使っているというのが、意外というか、私には強い印象を残しました。本当に自然な言葉で人間の気持ちをなんとも見事に表現していると思います。その他にも思いつくままに上げてゆけば、気が狂ってしまうほど混乱するなんてこともあり得ます。また、まだ誰もみた事のないあの世、「浄土」ということにも思いを廻らすという事もひょっとするとあるかもしれません。お経を読んでみたいという人は結構いるようです。しかし、前述したとおり浄土に関する記述は非現実的な記述です。ですから人間の理性はたやすくそうした記述を読んで安心するという事を許さないでしょう。なんと言ってもまだ誰も見た事がないのですからのんきにあの世を信じてホッと一息というわけにはいきません。そしてもっとも苦しい心の動きは、又元に戻るということです。一つも解決されずに行ったり来たりする。これがつらい。こういったことが、一つ一つ片づいて行ってくれればまだ楽なのですが、元に戻ります。一生に一度最後に人間が経験することです。実際には、百人いれば百通りのケースがあって、今記述しているような姿でない人もたくさんいると思います。ただ人間の死というのを端から文章にしていくとこのようなものだと思うのです。
こんなことを繰り返すのでしょう。そしてやがてこのつらく、苦しく、つまらないことを受け入れざるを得ないことに気がついてきます。納得せざるを得ないということになります。納得すると言うことになれば、人生の中で身につけた知識は役に立たないだろうかとも思います。何も人間死ぬときまでボーッと何年も過ごしているわけではありません。こころの準備というのをしている人もいるんじゃないかと、しかし、実際には役に立ちません。人間が身につけている知識はほとんど生きるためのものです。こんな時に役立つ知識はほとんどありません。先ほど人に聞いてみると言う話をしました。相手も同じことを聞きたがっているのは、人間の知識がほとんど生きてゆくためのものだからです。こういう時のための知識は身につけていないのです。臨死体験の話にしたところで、実際の死とはもう全然違いますので、前もってこういう人の話を聞いているからと言って、死の恐怖が薄れるという事はありません。納得とはほど遠いものです。浄土のお経を繰り返し読んで、ああこんな所へ行けたらいいなと普段思っていたとしても、足の震えは止まらないでしょう。私自身も震えると思います。なんの手だてもないのです。ほんのちょっとの時間気を紛らすのがやっとで、死が圧倒的であるというのは人間になんの抵抗の手段もないと言う事です。抵抗するならお医者さんがいるじゃないかと言いますか。お医者さんは基本的に延命治療をするのです。死そのものをどうにかする事はできません。圧倒的なのです。そして、ただ単純にその事実を受け入れざるを得ないという点に集約されていくことになります。つまり簡単に言うと諦めると言うことです。先に意識がなくなってくれた方がむしろ楽という事かもしれません。私がギュッとつかんだことを文章で表現するとこのような事になります。このまま続けて行けば頭の中には他のことも浮かんでくると思いますが、この辺で止めておくとして、後はみなさんの感覚にまかせることにしたいと思います。うまく、みなさんに伝わっているか心配ですが続けましょう。
つぎに、手を握って送っている人の気持ちについて考えてみましょう。送る人の気持ちについては人間はいろいろな人から聞く事ができます。この点が決定的に違います。一生に一度という前の人の立場とはちょっと違います。また、一人の人が何回も経験するという事もあります。ある程度経験によって確かめることができる。従って亡くなっていく人の気持ちに比べれば想像する部分が少なく本当の気持ちを知りうる可能性はずいぶん高いのですが、これも複雑です。こちらも思いつくままに上げて行きましょう。第一になんとか、慰められないだろうかと思います。しかし、慰められる種類のものでないことはすぐに解ります。第二に、苦しみを分かち合えないだろうかとも思うかも知れません。しかし、これもそう言った種類のものでないことはすぐに気がつきます。かわいそうだと思ってもどうすることもできません。そうした努力が不可能と言うことになれば、やはりこうした事態を遠ざけたい。こんな状況からは逃げ出したい。この立場を立ち去りたいと思うかもしれません。しかし人間だったらなかなかそうした行動はとれません。まあ、あまりにつらくて逃げ出すということはあると思います。でもそれは愛情の裏返しで責めることはできません。普通は、かわいそうだなと思ってやはり手を握っているでしょう。なんとか回復してほしい。元に戻ってほしい。これも絶対に思います。しかしそれが可能ならば、このような苦労は存在していないわけです。しかし、最後までそんな願いを持ち続けます。どうしてこんなことになったのか、これも考えます。「何も悪いことをしていないのにどうしてなのか」とやはり考えますそしてその答えは先ほどと一緒です。人間はやがて死なねばならないという大宇宙の摂理です。その摂理から今この人だけが逃れられるとは考えられません。同じように、自らもやがてこの時を迎えるのだと言うことも突きつけられます。送る人の場合にも、このあたりで、「たたり」だ「さわり」だといった落とし穴に落ちる人もたまにいます。何とかこの本を読んだ人は、そうしたことにならないようお願いします。
殊更に気分を変える努力もすると思います。何か楽しい話題を一生懸命に探すかも知れません。また、誰かのアドバイス、特に同じ立場を経験した人の話を聞きたいということもあります。しかし、先ほどと一緒で向こうもききたがっているということですから、多少足しすることはあってもこれで良しとはならない。亡くなろうとする人に比べると少ないかも知れませんが、「あの世」について何かを求めて学んでみたいと思うかもしれません。しかし誰も見た事がないのですから、亡くなろうとする人に対して、簡単に浄土経典に書かれた「あの世」の事を説くというわけにはいきません。黄金の大地、さえずる鳥といった話はなかなかできません。こんなことを言ったら、悪いかなとさえ思うかもしれません。こんな発言をしていると、なんだ浄土宗のお坊さんが、そんなことじゃ困るじゃないかと言われそうです。そんな事で浄土宗の坊さんがつとまるのかと仲間内からも攻撃せれそうです。しかし、ここを正直に乗り越えないことには、浄土宗は値打ちのあるものにならないと考えているのです。ここから戻ってしまっては元の木阿弥となってしまいます。そして、無理矢理に信じろと説いたとしても、浄土のありがたさは解らないと思います。心配いりません浄土はもっともっと深いところにあります。さて話は戻りますが、こんな思いを繰り返しますが基本的には相手の気持ちを受けとめてあげようというのが送る人の立場でしょう。黙って手を握っている。あるいは、相手の話にうなずくというような事になるでしょう。そして、ただ単純にその事実を受け入れざるを得ないというところにすべてが集約されてゆきます。そしてそれは送る人にとって、悲しくて、苦しくて、やりきれなくて、表現はいろいろありますが絶対的につまらない事なのです。こんなつまらない考えにとどまっていると言うことはなかなかできません。そして、別れの時を迎えるのです。
送る人についても文章にするとこんな事になるのですが、続けていけばその他のこともどんどん出てくるでしょう。この辺で止めるとして、後はみなさんに考えてもらいたいと思います。これもうまく皆さんに私の感じた事が伝わっているか心配です。さて、有無を言わさずに死が迫ってくる。それに対して気も狂わんばかりの人、あるいは、絶望に涙を流し続ける人、あるいは淡々とその死を迎えようと努力する人、その対応はいろいろでしょうが、そんな態度の違いなどなんの関係もないと言った風情でやってくるのです。人間のはからいはすべて無駄ですよと言うかのようにやってくるのです。人間が人生の中で身につけてきたあらゆるものをもって抵抗しても足の震えは止められないでしょう。死の前には人間は全くの無力といえるのです。
そして、やがてその時が来ます。寄せては返す波のように同じことを繰り返します。しかし、着実にそのときが近づきます。必ず訪れるというのが最大の特徴です。人間の旅立ちは千差万別ですが、いずれにしても、人間にはどうすることもできない事です。まったく手も足も出なくなった時、人生のすべてのものを置いていかなければならなくなったその時、目の前に手を握ってくれる人がいたら、旅立つ人はその人に何を言うでしょう。「あちらでもまた会いましょう。きっと会いましょう。」と言う言葉を思わず言うと思います。人間であれば、また会いましょうと言うと思います。それが人間だと思うのです。温かい血の流れた人間だと思うのです。その言葉を言われた人はその言葉にうなずきます。「会いましょう。きっと会いましょう」とうなずきます。その時点までどんな信念を持っていた人であっても、きっとうなずきます。たとえば死ねばすべては無に帰してしまう。自分は未練がましいことは嫌いだ、その事実を潔く受け入れますとずっとその瞬間まで思っていた人でも目の前に人がいたらきっとまた会いましょうと言います。そう言う言葉があるかどうか解りませんがこれは人間の本能的矛盾、根本的矛盾とも言うべきものです。
ですから、まさか、タラが二百万匹の子供を生んでそのうち生き残るのが数匹であるという宇宙大自然の摂理は説きません。お釈迦様の言葉を思い出して、薪のたとえを出してその言い方は正しくないとは言いません。それは生きるための知恵です。やはり、手を握って「きっとまた会いましょう」といいます。人間だったら当たり前の事です。それは、浄土教の経典に書かれた黄金の大地でなくてもかまいません。とにかく、目の前の人とまた会えるところです。矛盾しているとおっしゃいますか。そう矛盾です。しかし、矛盾などと言う言葉は、人間が生きているうちの話です。生きるための知恵です。そんな言葉は死という事実の前では無意味です。まさに死のうとする時を生きるための知恵や考えで評価することに何の意味がありますか。人間最後の時に1+1を2と答え合わせすることにどれほどの意味がありますか。矛盾であるという人は、まだ死の圧倒的な恐ろしさが解っていないのです。他人事として済ませているのです。
ここに浄土があります。人間が手を握ってうなずきあうその「約束」の中に浄土があります。それは温かいものです。それは優しいものです。非常に素朴な表現となってしまいますが、温かく、優しいものなのです。血の流れた人間と人間ならば自然の思いなのです。ここ以外に浄土は存在し得ない。これが私の確信です。何故ならば、この約束以外のものを、もし浄土の物語の核心に据えたとすると、即座に勝手な物語を言うなという批判にさらされます。人間共通の願望であるからと言っても、それがもし個人的なものだったら勝手な物語を言うなと批判されます。浄土の物語を支えません。人間同士の社会性の中においてとらえて、はじめて浄土は存在し温かいものを我々に与えてくれます。人間一人としては成り立たないものが、二人になったときに成立するのです。浄土の微妙さがここにあります。浄土の理解を妨げているものはこの微妙さです。これ以上は文章では表現できないと思います。書けば書くほどそれは、興味の対象に変化してしまいます。すると、すべての事がまた、不可解な姿となってしまいます。人間が感じる事だからです。それも、一生の最後の場面のことです。この温かさを感じることができるかどうかが,浄土の信仰を成立させる別れ道です。血の通った人間であれば、何もむずかしいことはありません。人間の自然の思いです。興味の対象としてとらえている死と、事実の死、つまり自分が亡くなると言うことは全く違います。このことを人間は気づかずにいるのです。だから浄土のお話の有り難さ、温かさ、優しさが理解できないのです。このことに気がつかねばなりません。無理矢理に信じ込むものでもありません。人間の自然な思いです。欲望にもとずいて創られたのでもありません。欲望などというのはそれこそ生きている内のことだからです。言葉を費やせば費やすほどご浄土から離れていってしまうような気がします。誰も見た事がないのですから、語らない方が良いのかもしれません。お釈迦様のとった「無記」という態度です。
自らの死という事実を脇に置いておけば、それは興味の尽きない対象となります。しかし、死そのものに向かい合ったら人間の興味などひとたまりもありません。生きるために身につけたものはすべて役に立ちません。あの世への思いに、人間は最後の最後に帰ってきます。それはいったい何故でしょうか。それは、人として生まれてよかったという思いです。縁のあった仲間達の中で、人生を過ごすことができてよかったという思いです。この思いがあったら簡単にはサヨナラとは言えません。潔く無に帰すなんて離れ業はできません。また会いましょうと声をかけます。いやかけましょう。
人間にとって死がもっと優しいものであったならば事情が違っていたかもしれません。ご浄土も存在しなかったかもしれません。
さて、ドラマにはその様子を傍らで見ている人がいました。その人は何を思うでしょう。「あんな事を言って気でも違ったのだろうか」と言うでしょうか?そうは言いません。「あんな適当な事を言って、死のうとしている人をだましてる。もっとちゃんとしたことを教えてあげなくては」と言うでしょうか。そうも言いません。自然の法則からあなただけが逃れられると思うのは間違いであると誤りを正すでしょうか。中には心ない人もいるかもしれませんが、普通は、傍らで見ている人も黙ってうなずきます。あのひとのように亡くなる人を送れたらいいなと思います。温かいからです。人として生まれてよかった仲間と人生を過ごせて幸福であったという思いを肌で感じるからです。そして自分も「また会いましょう。きっと会いましょう。」といって旅立とうと思います。あんな風に手を握りあって約束をして別れようと思います。いや感じます。これが浄土の信仰です。どこで会いましょうか?それは、ご浄土です。天国です。あの世です。
このドラマに登場した三人は、この約束が何とか叶えられますようにと思います。ここからが信仰です。人間全体の願いです。誰もが抱く願いです。できれば、黄金の大地で鳥が教えをさえずり、苦しいことが何もない楽しいことだらけのところで会うのが良いなと思います。そして、何でも聞くところによると阿弥陀様というのにお願いすると叶えてくれるらしいぞ。これが信仰です。
すべての人間には、圧倒的な死が待っています。この死を抜きにして何を論じても無駄です。自らがやがて本当に死ぬのだということと、本当に向かい合わないと解りません。そしてそれとともに、人として生まれて良かったというこみ上げてくるような思いを感じなくては、浄土の事は解りません。
たった一人で亡くなる場合は、ちょっと微妙だと思います。しかし、基本的には同じ事です。平坦な心で全てが無に帰すのであると納得していられるでしょうか。潔く単純に事実として死というものを受けとめられるでしょうか。中には、ぐっとこらえて唇をかんでいるうちに人生を閉じる人もいるでしょう。しかし、まぶたの裏に送ってくれる人が現れれば、人間にはできません。血の通った人間であればそんな離れ業はできません。やはり、涙が出るようなあつい思いが寄せては返す波のように訪れます。一人であっても人間であれば同じです。亡くなるときに天涯孤独と言ったって、人生の中でふれあった人たちのことを思います。すでに死んでしまった父、母、おじいさん、おばあさん、仲の良かった親友、人だけではありません。我々の脳に記憶されたすべての物へ人間の気持ちは戻ります。幸せだったからです。人間にとって生きているというのは、それだけで幸せなことです。そして、また会いたいと思います。やはり同じだと思います。だから「また会いましょう」と約束します。それは人間で良かった、人生を過ごせて良かったと思うからです。その思いは温かく、優しく、嬉しいからです。本当に幸せだなと思えばきっと約束します。約束することが幸福であったことを完成させるのです。だから「きっと会いましょう。」という約束は幸せだった自分自身が結ぶ約束です。ですが、気がつかないこともある。気がつかずにいれば、向こうからやってきてくれる約束です。幸せだったら必ずやって来てくれます。心配はいりません。最後には、あちらの方からやってきてくれる約束です。そして、その約束はなんとしても実現したいのです。なんでもそれは、極楽浄土にいらっしゃる阿弥陀様が実現してくれるそうです。だから阿弥陀様におまかせしましょう。この信仰をみなさんに持ってもらいたいのです。幸福なみなさんは必ず持つことができます。今現在の生活をまったく変える必要はありません。何も特別なことをする必要はありません。また会いたいと思う温かく優しい気持ちがあれば大丈夫です。
いかがでしたか、私が感じたドラマです。皆さんがうなずいてくれたなら幸せです。うなずくところに「信」が成立します。ここが大切です。なるほどと思うから信仰がありがたいものとなります。うなずきのない信は狂信となります。うなずくところのないまま、信仰を説くこと、これほど危険なことはありません。人々の恐怖心や欲望に訴えるカルト集団は危険です。これに対し浄土信仰はみなさんの幸福をもとに成り立っているのです。
無限に繰り返されたこのドラマが浄土信仰を支えています。このドラマがある限りご浄土への信仰はなくなりません。そして、永久にドラマはなくなりません。最初に人間の最後に残る思想は来世信仰だといったのは、この約束のドラマがあるからです。
ちょっと話がそれます。よく浄土宗と浄土真宗はどう違うのですかと質問されるのですが、自ら約束しましょうというのが法然の浄土宗、幸せなんだから向こうからやってきてくれるというのが親鸞の浄土真宗という風に私は理解しています。法然上人も承元元年(一二〇七年)に、土佐へ流罪となり、お弟子さんたちと別れなければならなくなりました。この中には親鸞さんもいましたが、七十五歳の法然上人にとっては今生の別れを意味していました。その時の上人の言葉です。
「流刑さらにうらみとすべからず。そのゆえは、齢すでに八旬にせまりぬ。たとひ師弟おなじみやこに住すとも、娑婆の離別ちかきにあるべし。たとひ山海をへだつとも、浄土の再会なむぞうたがわん。又いとうといえども存するは人の身なり。おしむといへども死するは人のいのちなり。なんぞかならずしもところによらんや。」
再会の約束が人を支えます。信が成立するところに人間の強さが生まれます。私のような修行の足りない者には上人のような強さは生まれませんが、その弱虫の私のために浄土は易しく存在しているのです。このように来世での再会を約束するというのは人間には必須のことです。人の幸福には不可欠です。「また会いましょう。きっと会いましょう。」と言う約束は人間の基本です。
私はお坊さんですからお葬式に行ってお経を上げます。その時にはこの気持ちでお経を唱える事にしています。「またあちらでもお会いしましょう。」と亡くなった人に語りかける気持ちでお経をとなえます。葬式仏教という批判に対する私なりの答えは、この点にあると思っています。人を送るときにこの気持ちがあるかどうかが分かれ道です。
そして、さらに大切なことがあります。今、目の前にいる人ともこの気持ちを持って対します。いずれお互いに死する身です。あちらでもきっと会いましょうと言う気持ちで向かい合います。喧嘩なんてなくなります。この気持ちの中に真の幸福が存在しています。このように信仰は死の地点から現在へと戻ってくるのです。死を興味の対象としてみているうちは、信は成立しません。本当にやがて恐ろしい死が訪れると言う自覚を持つことから信が成立します。そして、現在をよりよく生きることへと展開していくのです。浄土宗のすばらしさはこの点にあります。
このドラマは人類の始まりから存在したドラマだと考えられます。それこそお釈迦様登場よりずっと以前からこのドラマが存在してたといえるでしょう。そしてそのドラマは未来永劫人間がいる限り繰り返されるでしょう。これは私の個人的な考えですが、ご浄土はお釈迦様の仏教以前にすでに存在していたと確信しています。しかし、お釈迦様はその浄土に取り組むことには消極的でした。それは非常に微妙だからです。誤解されやすいからです。人間の持つ霊魂観を基にして浄土の実在にこだわる立場から浄土の教えが誤解されることをおそれたのです。だから「無記」という経験に基づかない議論を避けるという態度をとったのだろうと思います。浄土は人間がこの世に登場したと同時にこの世に登場しているのです。そして、人類の滅亡と共に消えてなくなるものだと思います。迎え入れる人がいなくなるからです。だから、浄土は大勢の人がみんなで行くところです。西方十万億土の彼方に、黄金の大地、七重の欄干に囲まれ鳥がさえずっているところなのです。そして、そのご浄土で「また会いましょう。きっと会いましょう。」と会う人ごとに約束するのです。そして、その約束を阿弥陀様が実現してくれます。だから、南無阿弥陀仏と称えるのです。どうか阿弥陀様お願いしますと称えるのです。これが浄土の信仰です。私はこの気持ちに包まれるように浄土に旅立ちたいと思うのです。
こうした信仰が自分には持てないという人も多いと思います。特に、自然科学の教育を受けて、一+一が二であるという教育を何年も積み重ねている現代人と呼ばれるみなさんには、とても極楽浄土を信じられないという人が多いでしょう。しかし、心配はいりません。その約束は向こうからやってきてくれます。どんなにその人の理性が拒もうとも、圧倒的な死はそんなことにおかまいなしにやってきます。一+一が二でなくちゃいけない。というのは生きていく上で大切なことです。
しかし、人間最後の時に、答え合わせをすることにどれほどの意味があるでしょう。一+一が三だって,四だって、十だっていいじゃないですか。「きっとまた会いましょう。」ときっと思います。いや感じます。それは人間だからです。
この本を読んで下さった皆さんにはぜひ覚えておいてほしい言葉があります。それは、南無阿弥陀仏という六文字の言葉です。普段は忘れていてもかまいません。自分はどうもあの世は信じられないからそういうのは苦手だなと、今は強がりを言っていても結構です。しかし、最後の最後、人間は裸でなくなってゆきます。全ての持ち物を置いてゆくことになります。お金やものばかりではありません。身につけた知識も何もかもすべてです。その時、この六文字の言葉でしたら持っていることができます。脳の働きが問題となりますが、相当な状態まで南無阿弥陀仏という言葉ぐらいなら持っていられます。そのときにはぜひ憶えていて思い出してください。そして小さな声で称えてみてください。そのときにどんな思いがするかはその時のお楽しみということにしましょう。
そう言われれば「そうだなあ」とつくづくうなずいて、浄土の信仰を持った人は、今の時点から南無阿弥陀仏と称えましょう。それは人として生まれて良かったと大きな声で宣言していることに他ならないのです。


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