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  • 第八章

第八章 結論
さて、どうやら問題の所在がようやくはっきりとしてきたようです。簡単に表現すれば、役に立たないと言うことです。浄土信仰に代表される来世信仰は、いざというその時役に立たない。死と向かい合った人間が本当にその存在を信じ、それによって、死の苦しみ、死の恐怖を少しでも打ち消すことができるかと問われれば、とてもそのようには思えない。どうも期待できそうにない。かえって人間をさらなる迷い、苦しみの中に引き込んでしまうように思える。真剣に取り組めば取り組むほど迷いは深まるように思える。現在脳の研究などが進み、人々の霊魂観についての考えも随分変化してしまった。昔のように人々が共通の霊魂観を持っている時代ならばいざ知らず、浄土信仰に真剣に取り組もうとすると大きな迷い、疑いを生じるようである。死の苦しみだけでも大変なのに、その上そんなことで迷うのはごめんであると言うことです。
 さて、死を前にして役に立つ役に立たないというのはどういう事なのでしょうか。違った観点から言うと、必ず人間は死ぬわけで、それをみんな解った上でその役に立つというのは、死ぬことについて何かうなずけるものを求めているのだと思うのです。納得です。その納得を助けるものが役に立つものです。その納得の中身を正せば、自らが死ぬと言うことを受容しようとする営みです。どうにもこの自分が死ぬと言うことが納得できない。なんで今自分なのだ。このやりきれない気持ちを何とかできないものかと言う心の営みです。どんな人であっても死を受容できれば死の苦しみは、ほとんどその姿を消し去るでしょう。肉体的な苦しみについては、今、医学が進歩して痛み止めなどで、苦しみをかなりの程度取り除いてくれるようになりました。ですから、本当に死ぬと言うことを受容できれば、人間の苦労は解決と言うことになります。この受容の営みを、人間はこの世に登場して以来一人一人取り組んできたのです。そして、その営みはこれと言った決定版を欠いたまま、永久に続いていくように思われます。今までどれくらいの数の人がこの世を後にしたか解りませんが、それだけの経験の積み重ねがあってもなお、これと言った受容の方法はありません。しかし、なんとなく人間の考えが落ち着く場所というのがあります。人類の長い歴史の中、こうした幾度となく人間が繰り返した営みからできあがってきたものが、人間の精神世界の中にあります。岸本博士の死は別れの時であるという考え方も一つの落ち着きどころ、一つの納得の形であると思います。その他にもいろいろな考え、納得の仕方があります。そしてそれは、いくつかの形に分類できるように思います。人間はいろいろな人がいるようで案外同じようなことを考えていて、もう出尽くしているのかもしれません。出尽くしているというと言い過ぎかも知れません。時代とともに新しい納得の仕方が登場することもあるからです。しかし、いろいろ出ては来るでしょうが、決定版となるべきものを欠いていると言う状況です。決定版を欠いている、まさにこの点なのです。問題の核心は。何故決定版が生まれないのかと言う点に核心があります。さてこれから、今思いつくままにいくつかその人間の考えの落ち着きどころ、納得の仕方をあげてみましょう。
 まず代表選手は運命論でしょう。国語辞典で引くと、運命という言葉は、人間の行動を支配する大きな力。人の力ではどうすることもできない変化、成り行き。と載っています。これはつまり降参ということです。どうすることもできない大きな力ですから、これはもう諦めるしかない。と納得するわけです。この世の中の変化を因果律で考えて行くと、行き着く先はこの運命論と言うことになります。どう考えても何か不思議な大きな力によって因果律が動いているように思える。それが何か解らないので運命と呼ぶわけです。だから、運命論というのは解りませんと言っているのと同じです。そして、その源を正せば、宇宙大自然の法則と言うことになります。降参するというのも一つの納得の仕方と言うことです。しかし、この運命という考えは、主に後に残された人の間で語られているように思います。亡くなる人本人がこれも運命だからと受容できるかというと、大きなクエスチョンマークがつきます。
 次ぎに、望遠鏡的視点で自らを眺めてしまうと言うのがあります。ハッブル宇宙望遠鏡というものすごい望遠鏡があります。ものすごく遠い宇宙の彼方を見ることのできる望遠鏡です。そう言った望遠鏡で自分を眺めてしまうのです。すると、空間的にも時間的にもチリほどにもならない。消えてなくなるのなんて当たり前だと思えてくる。人生は一瞬の瞬きのようなものだから・・・。と言うのも繰り返し登場する考えのように思います。言ってみれば自然科学的な納得と言えるかと思います。
 次には、生物一般の同質性を持って納得するという行き方があります。簡単に言うとみんな同じなのだ。みんなこの同じ道を歩んでいくのだと言う思いです。生きとし生きるものは必ずいつか死ぬときがやってくる。この当たり前のことを当たり前だと再認識すること、この再確認を持って納得としようと言うのです。みんな同じなのだという当たり前のことを当たり前にと言うのですから、迷いを生じることはほとんどなく、これは意外と強力な納得の仕方と言えるかもしれません。こんな風に自らに言い聞かせている人は結構多いと思います。
 次には、脳の停止を持って死とするという考えも立派に成り立ちます。今、死の不安を感じているのも脳の働きによるものです。実際的な痛みや苦痛を感じるのも脳の働きです。私がこんな本を書いているのも脳の働きです。人間の営みのすべてが脳の働きであると理解すると、その脳が停止してしまうのですから、死の苦しみを含めてすべてが消え去ってしまうのだと言う納得の仕方です。これは非常にドライな考え方で、医学的で現代的にはもっとも代表的な納得の仕方になりつつあると言えるでしょう。このように考えている人も多いかも知れません。
 次には、イベント的に死をとらえようと言う行き方があります。一大事という言葉がありますが、人生において一度だけの一番大切な出来事であるから、これを立派にやり遂げようと言う決意をその納得に変えようと言うのです。岸本博士が別れの時をしっかりとやらなくてはと考えたのはこのタイプに属するのではないかと思います。日本人は、非常に行儀が良くあまりみっともないまねはできないと考えている人が多くて、このタイプの人が多いように思います。このように、死ぬ時を立派にやり遂げるという決意をもって納得に変えようというのも、一つの行き方です。
 他には、マンガ的と私は呼んでいるのですが、死ぬまでは生きているのだと言う納得です。とても自分が死ぬなんて事は受容できないが、とにかく死ぬ瞬間までは生きているのだから心配するのはやめようと言うのです。説得力はまるでありませんが、素朴というか正直というか、聞かれてこう答える人は少ないかも知れませんが、実際には心の中でこう考えている人が一番多いのかもしれません。
 このほかにもあげていけばいろいろな納得の仕方があるかもしれません。でも代表的なのは以上のものではないでしょうか。
おや大切なものを忘れているんではないですかと思われた方がいらっしゃると思います。どうして肝心の浄土信仰を取り上げないのだろうかと思われたのではありませんか。この点が核心です。浄土信仰はこれらの考えとは違います。死を納得するためのものではありません。この点に大きな勘違いが横たわっています。岸本博士と議論がかみ合わないのはこの点にあるのです。岸本博士に限らずほとんどの人はそのように勘違いをしています。つまり、浄土信仰を持つことによって死を受容し、死に立ち向かおうとする態度が間違いなのです。この点については、もう少し後で明らかにしますが、困ったことに、この勘違いは我々お坊さんの側にも存在していて、かえってみなさんよりその度合いが強いかも知れません。つまり、浄土信仰が死を納得し受容するためのものであるという誤った見方、と言うか、浄土信仰を持った以上、当然死ぬことは受容できるはずだと言う勘違いから、いろいろと立場の違う人に反論したり、人に信じることを説いたりしていますから、言った手前、結局最後には、あるのかないのかという問題に向き合うことになります。何としても気になるからです。そして自然と、疑問が生じて混乱が生じ最後には、気が狂うと言うことになってしまいます。何故かと言えばもちろんそれは、確かめられないからです。確認できないことに取り組めば岸本博士の言うとおりになります。しかし、一言弁解させていただくとこうした勘違いが元で狂ってしまうと言うのは、裏を返せば真剣に取り組んでいる証拠でもあるのです。だから、私に言わせると、お坊さんとして気が狂う人はどちらかというと本当に浄土と格闘した良心的なお坊さんと言うことになります。普通はどういうことになっているかというと、この勘違いには気がつかないまま、あるのかないのかという手に負えない問題はおいといて、もっぱら信じると言う点だけが強調されると言うことになります。こうなると、「イワシの頭も信心から」というのと、何も変わらなくなってしまいます。ここに現在の宗教界の最大の問題点があるわけです。この本で述べてきた人間の率直な疑問や迷いというものは、とにかくどこかにやってしまい、浄土の問題は「有ると信じるか信じないか」であるという、最初の一歩のような平板な問題にすべてを委ねてしまうのです。そしてそれ以上に前にも後ろにも一歩も動かないと言うことになります。とにかく信じることで乗り切ろうという態度です。まあ信じることだけ強調するなら良いのですが、信じるか信じないかはその人の自由、信じない人はそれで結構、私とは関係有りませんと言う投げやりな言葉ですべてを済ましてしまおうとします。平行線を引いてしまうのです。これがいけません。この態度が浄土信仰がみなさんに伝わっていかない理由の核心です。私は常々考えているのですが、そうした態度は、自らの信仰のなさの裏返し、つまり、心の底から浄土の教えをありがたいと思っていないどちらかというと不真面目なお坊さんです。気の狂う人に比べたらずるい考えと言うことになります。本当にありがたいと思えば、何かを伝えようとするはずです。平行線を引いて済ますという行動は少なくともとりません。私は決して伝えることのできない問題ではないと思っています。本当に思うところを訴えれば浄土信仰をみなさんに理解してもらえるものと信じています。
とはいえ、こうした状況、私はこれを信仰の混乱状態という風に考えているのですが、こうした状況の中で、信じるか信じないかと言う問題は、どんな行き方をするにせよ重要なことになります。信じるというのを辞典で引いてみると、言明や約束をどこまでも通すこと、疑わずに本当だと思いこむとあります。ですから、人間が納得するという場合「信じる」と言うことがどうしても必要となります。揺らいでしまってはどうにもならないから、どこまでも通さないとなりません。信じるという要素が、浄土の問題を考えていく上で最後の鍵を握っているように思います。
いよいよ、私の計画も最後です。この「信じる」と言うことを解決しましょう。信じるという人間の心の働きが何か鍵を握っているのかも知れません。宗教に限らず、人間が生きて行く上で、信じるということは重要です。疑いなく本当だと思いこむという人間の行為は、浄土のようにはっきりとしない、つかみ所のないことにとっては不可欠のものです。また逆に、浄土を信じないと言う立場も、そのように思いこむと言うことですから、いずれにしても人生の中で、こうだと信じて前に進んで行くというのは大切なことです。
さてこれから、浄土教の中の信じると言うことについてお話しして行こうと思います。浄土を信じられないというみなさんに、我々の側の信じるという事を説くのですから、何か間違えてるのじゃないですかと言われそうですが、人間の信じるという心の営みについて理解を深める必要がどうしてもあるのです。だから、とりあえず、私の知っている信じると言うことに関する知識を利用しようというのであって、決してみなさんに押しつけようというのではありません。とにかく、その向こうに大切な何かがあります。ですから、拒絶反応を示さずに先へ進んでください。決して何もないと言うことはありません。答えはもう少し先です。
さてとりあえず、我々浄土宗の世界で説かれる「信」というのを説明してみましょう。まず、浄土を信じる上でもっとも重要なこととして、深く信じることが取り上げられます。強さというか程度の問題です。信仰を自らの中に確立して、その心によって死と向かい合っても動じないためには、とにかく深くて強い信仰が必要であるということになります。信仰ですからこうした考えは当然のことです。ですから、もし死を前に迷いが生じて分裂してしまうことになったら、信じる心の強さが足りないのだということになるわけです。死に対する恐れが少しでも生じるとしたら、それは浄土を信じるという信仰が浅いからで、もっともっと深く強く信じる必要があるということになります。死と向かい合うという条件の下では、当然このような理解となります。しかし、率直に言ってこれは非常に危険な考え方だと思います。また、お坊さんにあるまじき発言ですが、人間を苦しい立場へ追い込んでゆきます。人間を救わない考えのように思う。深い信仰を持っていてもやはり死を恐怖する心は生じてくるように思うのです。どんなに力んでもその心はわいてきます。どんなに厳しい修行をしても、その心を克服することはおそらくできないと思います。生物学的に、生理的に、あるいは本能的に無理だと思います。自らに問いかけて、ほんとうに、心の声に耳を傾ければ、正直無理だと思います。そこでもっと深く強い信仰が必要であるということになります。また別の面から言えば、人間にとって一つの気持ちを持ち続けることほど難しいことはありません。つまり信じることほど難しいことはありません。人間にとって一番難しいことの上に大黒柱を据えて家を建てるようなもので、それは危険です。自分の心がフラフラする度に、もっともっとと言うことを繰り返すことになります。しかし何度こうしたことを繰り返したにしても、これを程度の問題として理解すると危険です。どれくらい信じたらよいかという基準がありませんから、自分では充分に深く信じていると思ってもやはり死に対する恐怖心はわいてきてしまいます。どこまでいってもこれでは解決が得られずやがてはどうどう巡りの末、本当に気が狂ってくるということになります。天秤ばかりの片方に死に対する恐怖心が乗って、もう片方に浄土があると深く信じる心が乗って、どうもこれは決して釣り合いそうもありません。何度も言いますが浄土の存在を確かめることができないからです。ですから、こうした心の葛藤に目をつぶって信じるとするといわゆるこれが、狂信ということになります。ただやみくもに信じるということで問題が解決するのであれば誰も苦労しないのですが、しかし人間の精神構造上この地点が一番迷い道に入りやすい地点なのです。少し話がわき道にそれますがとても重要なことなのでお付き合いください。悲しいことに、世の中では、多くの場合、人々はこの段階で道を見失います。訳が解らなくなってしまう。何のために何をどう信じたらよいかと言う一番基本的なことが解らなくなってしまうのです。浄土の教えを自らの中に確立するために、心の中の葛藤を整理して信じるという順なのですが、何のためにと言う目的よりも、その手段つまり信じることの難しさに気をとられる、関心が移ってしまうと言うことが起こります。本来は浄土をどう理解し、受け入れるかと言うことこそ重要なのですが、信じるということ自体に目的がすりかわってしまうのです。こんなに難しいことを自分は信じることができるのだと、何か変なことになります。信じるためにはこれこれこうしなさいと言ったところが中心となり、本来の目的が失われます。この辺りのことは本当に微妙ですが宗教には付きものです。一般化して言うと、幸福になるために宗教はあるのですが宗教そのものが目的になってしまうと言うことが起きるのです。浄土を信じることは非常に難しいことですが、たとえば、自分は厳しい修行を積んだから、信じることができたと言った道筋に進んでいきます。よくよく考えるとちょっと待てよということなのですが、宗教そのものが目的となってしまうと一見幸せそうに見えます。達成感があるからです。でも実際には何も解決されていない場合が多い。目的がすり替わってしまっているからです。こうした微妙な状況と、信じることを程度の問題と捉える考えが結びつくと、この深くという程度を埋め合わせるため、今言ったように、いわゆる厳しい修行が必要だという苦行主義や、その裏返しですが、程度の相対性を超越するため、何か不思議な儀式が必要だとする神秘主義という考えが生まれるのです。いわゆる秘密宗教です。こうした微妙な状況が元になって、あやしげな新興宗教が成り立つ余地を生み出します。現代の微妙な宗教事情について述べてみましたが、こうした宗教事情の中で浄土信仰を考えると言うことも今かけていることの一つのように思います。こうした視点は重要なのでちょっと脱線しました。話を元に戻しますが、このように信じると言うことは人間にとって相当に微妙で難しいことなのです。ですから、一つのことを通すと言うことがなかなかできない。通すことができないからお互いにうなずきあうことができなくなってしまう。うなずきあえないので信も確立しないと、ニワトリと卵のような話になってしまいます。この点が重要です。こうした混乱は、永久に続いて行くようにさえ思えます。実際、人類誕生以来現在もそして未来においても続いていくのかも知れません。それが人間のあるがままの姿なのだと言えるかも知れません。
さて信じると言うことですが、今少し深みがあります。もう一度「信じる」ということを考えてみましょう。この深く信じるという心の働きがどうも曲者です。人間は、自分の心のことが一番解らない。深く深くと力を入れるほど何か迷いがわいてくるようにも思える。真剣味が増すからです。そこで、今も述べましたが何か良い工夫はないだろうかと言うことになります。こうした微妙な心の問題について、人間も気がついているし、何か違った取り組みがあるのではないか。あやしげな宗教の入り込む余地もこの辺りにあることはあるのですが、とにかく、この深く信じることに関して人間の知的営みも積み重ねられてきました。いろいろな立場の人がこの信じると言う心の問題と対決しているのです。我らが法然上人もこの点にやはり重要なものを感じていたのでしょう。非常に興味深い考え方を説いています。キリスト教にも同じような考え方があるのですが、独特の考え方です。今その考えを紹介してみましょう。信じると言うことが人間の行為の中でどういう性格のものなのかが、よく解るのです。
法然上人が人間の信じるという心の働きをどのように考えていたかというと、次のようなものです。我々が浄土を深く信じると言うとき、どのような工夫をしたらよいかという形で説かれます。第一に自らの愚かさを深く自覚し、その後に浄土の教えを深く信じるのだと説いています。いきなり浄土を深く信じることに取り組んではいけないのです。ちょっと専門的で難しくなりますが、お坊さん的には「信機信法」と呼ばれる教えです。「機」というのは、人間の器とか、可能性といったような意味ですから、まず自分の器が小さいこと、つまり自らの器にどんなものが入れられるだろうかを考えてみなさいと言うのが第一段階です。可能性のなさを自覚するのがまず大切だと言うことです。自らの能力のなさが自覚されてくれば、自らの力で何ができるかということが解ってくる。具体的に今この本のテーマついて言えば、死と向かい合って何か自分にできることがあるだろうか。自らの力で何か解決するための方策があるだろうかと問いかけてみる。するとどうもそんな能力は備わっていない。死の恐怖の前に全く無力である。自分の器にはこの問題について入れるものは何もないと自覚することになります。愚かという言葉がピンと来ないと言う人もいらっしゃると思いますが、別にバカだバカだと言っているのではありません。自分自身が、この問題の解決について愚かだと言っているのであって、自らの力のなさを表現したのです。ですから、可能性のなさと言った方がよいわけです。そして、その愚かな自分にとって可能な進むべき道が自然と現れてくる。自分に力がないのですから、助けてもらうと言うことになります。と言うことになれば、これはもう阿弥陀様の力を借りようとなり、浄土の教え一直線、浄土教の説く教えを今度は信じると言う方へ進みます。これを「信法」というわけです。このように順次段階を踏んでいれば、浄土の教えに疑いを起こすということもなくなり、深い信仰が生まれるということです。裏返して言うと、浄土に対して深い信仰が生じないのは、まだほかに自らのとるべき道があるのではないかというぜいたくなことを思っているから迷ってしまうのであり、自らの愚かさつまり能力のなさの自覚がまだまだ足りないからだということになるわけです。何か狐につままれたような感じがしますか。ですがここに、我らが法然上人の天才的な工夫があるのです。大きな転回がされていることにお気づきでしょうか。百八十度の転回がされています。教えをどのように深く信じるかという問題が、自らの可能性のなさを深く自覚するという問題に、方向が変えられているのです。向こうにあった問題が、自分の中の問題に向きが変わっているわけです。「Aが真であることを信じる。」という問題に取り組む前に、それ以外の道を歩むことのできる自分であるかどうかを確かめなさいというのです。徹底した愚者の自覚に立つことで、「Aが真であることを信じる」という心の中の問題を飛び越えてしまおうというのです。浄土教独特のこの考え方は、人間的には非常に謙虚な考えで、日本人の心の美しさを示していて、昔から多くの人々に感銘を与えてきたものです。浄土信仰を支える大きな柱です。
ところが、いま現代人と呼ばれる人たちにとっては、これがどうも具合が悪い。このような話をしても、自らがそんなに愚かである、可能性がないという自覚はほとんど持っていない。特に教育を充分に受けた人ほど、自分の知能に自信を持っていて愚者の自覚というのがほとんどない。みなさんはどうですか。この本を読んでいる人の中でも敏感な人は今までの話を通して、すでに人間が死に関して全く愚かである無力であるという自覚をしていらっしゃると思いますが、感じない人は永久に感じない。自らのわずかな知識でもって何とかしようと思う。ですから、「愚かな」という言葉も気に入らない。浄土の教えが信じられないのが、自らの愚かさの自覚が充分でないからであるという筋道に、素直にうなずく人はまずいない。腹立たしささえ感じる。何か論理のすりかえがあるようにも思える。そして、やはり、「Aが真であるかどうか」と言うことから頭が離れない。やはり何と言っても、浄土があるのかないのかという問題が、解決しないことには始まらないと思う。愚者の自覚ということが、単純に自分はバカだバカだと言うものではないことぐらいは解るけれども、だいいちその自覚というものだって主観的なものだから、人それぞれであるはずだ。これだと言うことにはならないはずだ。徹底的にと言ったって、はっきりこういった基準だと言うことはない。それはやはり程度の問題になってしまう。とすると、先程の浄土の教えを深く信じると言う場合と変わらないじゃないか。だから、浄土の教えに対する信が生まれるという説明も理解できない。当然このような信仰のあり方が解らないということになります。気持ちを代弁すればこのようなものです。困ったことです。
さて困ったことなのですが、こうした指摘にももっともな面があります。実際、この「信機信法」という教えが目指しているのは、信じると言うことを確立すると言うより、どちらかというと信じる者に安心を与えると言うことにむしろその重心があるように思うのです。微妙な違いなのですが、他力信仰の「他力」という部分の一番大切な基礎を、この信機信法という考え方が形作っているのです。すべてを阿弥陀様にまかせると言うことの基礎はここにあります。愚者の自覚です。つまり、徹底して自らの可能性のなさを自覚すれば、そのような者でもかまわずに救ってくださる阿弥陀様というのは有り難い。あとはおまかせするよりない。ここに、まかせてしまった者の気楽さ、幸福が有ります。ここに浄土教のすばらしさがあります。これが、他力信仰のメカニズムです。この安心のためにこの信機信法という教えがあるのです。ですから、信じると言う行為だけに関して考えれば、先程のような指摘が出てくるのはもっともなのかも知れません。信機信法という考え方で信じると言うことが確立すると言うことは、おそらくありません。とにかく確かめられないのですから、浄土を信じるという行為は人間にとってとても難しいことなのです。そして、当然ですが、こうした安心というと言う面からも現代人には納得がいかない。このような幸せなところがない。そんな人任せなことはできない。なにかだまされたような気がする。自分はそんな単純じゃないという誇りもあります。こうした面からも接点が生まれてきません。
浄土の教えを信じるということにいきなり取り組んでいくと、つかみどころがありませんが、自らの愚かさ、つまり能力のなさを自覚するというのは、自分自身の内なるもののことですから、なんとか手におえるような気がする。浄土の教えに迷いが生じたとき、死の恐怖におびえてしまったとき、それは、自らの内なるものの自覚の問題となります。こういった説明で問題解決となればめでたしめでたしなのですが、ことはそう単純ではありません。もし解決なら、みなさんにもこうしなさいと言えば良いことになるわけです。確かに、浄土の存在を頭ごなしに信じなさいと言われるよりもはるかに、心の問題としては進歩した考え方です。法然上人の天才ぶりが発揮されているのでしょう。しかし、法然上人が何故信じると言うことについて、このような工夫をしなければならなかったのか、その理由を考えなければなりません。それは、信じると言うことが人間には非常に難しい行為であるからです。これは私の考えですが、純粋に信じるというのは人間にはできないことなのかも知れません。安易に信じるという言葉を我々は使いすぎているのかも知れません。宗教家があまり安易に使うものだから宗教自体が、ウサン臭いものになってしまうのです。だからこのような工夫をしたからといってそれがたやすいと言うことでは決してありません。たぶんこのような自覚を持つ努力をしたとしても死の恐怖はきっと消えはしません。そこで自覚が足りない、もっと深く自らの能力のなさを反省しなければならないということになりますが、やはりこれで良いということがありませんから、非常に自虐的なことになってくる。これまた迷い道に入り込んで、こんなに信じようとしているのに、何故死の恐怖に打ち勝てないのか、まだ足りないまだ足りないということになってしまいます。結局何かどこかで筋道を間違っているのです。この間違いを正さないことには、どうしても分裂が生じて迷ってくるということになります。
 このように見てくると何か暗い気持ちになってきます。最後の鍵と思って取り組んだ信じると言うことも、人間には一番難しい行いであるようです。となると、どこまでいっても現代人と呼ばれるみなさんと接点が見いだせず、平行線のままです。つい、「信じるかどうかだ」と投げやりになって最初の一歩に逆戻りしてしまいそうです。しかし、ここをぐっと踏みとどまらないと、浄土へはたどり着けません。そして、今までの理解は決してムダではありません。ムダなどころか一歩一歩解決に近づいています。思い出してください。このような混乱が人間に残るということは、二千五百年前にお釈迦様が言っていたではありませんか。お釈迦様が浄土の教えに近づかなかった理由はまさにこの点にあります。お弟子さんのあの世があるのかないのかという質問に対して、お釈迦様は答えなかったのです。経験上確かめることができないからです。確かめることのできない物に取り組めば絶対に迷いが生じます。どんな工夫をしてもその迷いを取り除くことはできません。しかし、そんなことは承知の上でやはり浄土はあるのです。
 ようやく問題の真の姿が見えてきました。岸本博士には、大きな勘違いがありました。博士の考えはこうです。人間は生まれた時から死に向かって一日一日近づいていっている。恐ろしい死に向かって一日一日近づいていっている。それが人間の人生である。そして、その人生の中で人間は生きるために知識を身につけて行く、その生きるための知識の中に、人類の知的な遺産として来世信仰やその他人間の精神的な営みがある。その精神的営みの中の来世信仰やその他の考えがあの恐ろしい死に立ち向かうために役に立つかどうかと考えたわけです。一方、その人生の中で身につけた科学的な知識に基づけば、死後「この自分」がなお存在するとは考えにくい。自らの知性や理性を信頼すれば、とても存在するとは考えられない。そうした認識がある以上来世信仰は少しも役立たない。そんなことなら、そのような観念的なものに迷わされるのはもうやめよう。足がわなわなと震えようともそんなものを頼むのはやめよう。人間はただ存在しなくなるものだ。我々に与えられているのは「生」だけだ。「死」は実体ではない。死はすべてのものとの別れの時である。さよならをするときである。この別れを立派にやり遂げよう。このように考えたのです。つまり、我々には「生」がまずあって、我々の前に来世信仰という手だてがあって、その向こうに死があって、来世信仰がその死に対して役に立つかどうかと考えたのです。みなさんもこのように考えていませんか。しかし、これが大きな勘違いなのです。
どこが勘違いなのかと言うと、「生」の次ぎに我々の目の前には、「死」があります。我々には生きるための知恵はありますが、死についての知恵はありません。ですからいつ何時も圧倒的な死が目前にあります。ただ存在するものである人間の前には常に大きな口を開けた死があります。そして、その死の向こうにあの世、ご浄土の教えがあります。順番が違うのです。死の恐怖を和らげるための道具などでは決してありません。死を目前に足がわなわなふるえ、気が狂ってしまう。これが普通です。当たり前です。それを和らげるような観念的な営みなど、お釈迦様が言ったようにありません。もしあるという人がいたら、私に教えてもらいたい。最初にいくつか人間の考えの落ち着き所、人間の納得の仕方をあげました。しかし、それはあくまでも自分に言って聞かせる納得です。自分一人の納得です。人に向かっては言えません。今まさに亡くなろうとしている人に、「あなたそれは運命ですよ」とは言えません。「みんな同じなのです。」とも言えません。「あなたも私もチリみたいなものなのです」「脳が停止すればすべて苦しみも一緒に消えてなくなります」「死ぬ瞬間までは生きています」と面と向かって言えますか。どんなに正しく、どんなに立派な考えであっても人に向かっては言えない。今まさに死のうとする人に向かっては言えない。これが死というものの本当の姿です。有効な観念的な手だてがないということがこのことから解ります。自分一人で思いこむものなら山ほどあるでしょう。それなら何だって良い。しかし、人間は、なるほどそうだねと人に言ってもらうことではじめて納得がいくのです。ですからどんな考えを持ってきても、お互いにうなずき会うものはありません。決定版が生まれないのはこのためです。死とはそれほどに圧倒的なものなのです。
浄土信仰を持つと死が怖くなくなるということはありません。もしそのように言う人がいたら、それは死の本当の恐ろしさを理解していないのです。死を前にして人間の観念的な営みは全く役に立ちません。浄土信仰にしたところで、死とまともに向かい合ったらひとたまりもありません。
それでは、なぜその死の向こうに浄土が生まれたかということになります。役に立たなくて、無駄ではないかということになります。しかし、そうではありません。浄土はみんなで行くところです。だから成り立つのです。みんなでうなずきあうものです。それは、温かかったのです。やさしかったのです。そうせずにはいられなかったのです。岸本博士が言うように死は別れのときです。まったくその通りです。どのように意味づけようと、どんな説明をしようと、死は全てのものとの別れのときです。しかし、その別れのときに「さよなら」というのではあまりに寂しいではありませんか。そんなに行儀良くしないと行けないのでしょうか。そんな必要はどこにもないはずです。きっとあちらでもまた会いましょうと手を握って約束して別れるのが人間です。血の通った人間ならば、また会いましょうといって別れます。そしてそれは何故かと言えば、人として生まれ、人生を送り、その人生が幸せであったなあという思いがあるからです。この思いを私はみなさんに伝えたいのです。浄土信仰は死と向かい合うためのものではありません。人間の幸福を噛みしめるためのものです。みなさんに、この胸が熱くなるようなこの思いに気づいてもらいたいのです。
有るのかないのかと言われれば、正直解らないと言うよりありません。誰も見たことがないというのはそう言うことです。宇宙の果てが解らないのと同じです。しかし、解らなくて結構なのです。解らなくてもやはりそこでまた会いましょうと私は約束して死んでゆこうと思います。この表現が良くありません。浄土に旅立ちたいと思うのです。このように言いたい。ここからが本当の信仰です。人として生まれて良かったと言う思いが人間の中にあったから、それもみんなの中にあったから、大乗仏教の時代に、浄土のお話が仏教に取り入れられました。しかし本当は、仏教の側が浄土信仰の中に足場を見つけたということだったのではないでしょうか。仏教の方が近寄っていったのではないでしょうか。つまり、私の考えでは仏教以前、お釈迦様登場より以前、地球上に人間が登場した時に、浄土はすでに登場したのです。人間が二人になったときです。そして、温かい浄土は我々人間がこの世にいる限り、我々を受け入れるために存在し続けてくれるのです。
浄土があるのかないのかと問いかけることは、人間の限りない興味の対象です。しかしこの質問をした瞬間に浄土は人間の手におえないものとなります。経験上確認できません。お釈迦様が説いたように解決のない観念的な問題に変化してしまいます。この質問をしてしまうと、絶対に解決しません。そうなると人間は混乱分裂して狂っていくことになります。あるいは片意地を張って無理矢理に信じる。そしてどんどん力んで疲れ果てるということになります。
あるから信じる、ないから信じないというのは合理的というか対価的計量的な思考です。ないものを信じたら損をしてしまうという考です。あるいは算数の計算式がピタリと合わないとどうもすっきりしない、納得できないと言う単純な思考です。どうです。岸本博士に反撃できました。そんなことを喜んでいても仕方ありません。だから、わからないのですから、わからないままで良いじゃないですか。白黒つけてそれでもって死と対決するのではないのです。このあるのかないのかという問題に人間はこだわります。どうしてもこだわります。それは逆説的になりますが、生きていると言うことを幸せだと感じているからです。「あるのかないのか」と興味本位でやっている人はまずいません。その可能性を考えているのです。幸せを感じていなければどうでも良いことです。岸本博士も人生を幸せだと思っていた。絶対に思っていた。そして、真剣に取り組んでみた。そして博士はないと思った。博士の考えは、人間の考え方として自然の流れでした。どうして私と違ってしまったのか、私は次のように考えています。人間は人生の中で生きるための知恵しか身につけていません。死についての知恵がありません。その生きるための知恵で考えて行くと当然そのような結論になってしまいます。しかし、知識だけで人間は生きているのではありません。温かい血が流れているのです。生きるための知識を少し脇においとかなければなりません。
あるのかないのかと言うところからは浄土教の信仰は生まれません。生きていると言うことの温かさ、優しさを感じる所から浄土教の信仰は生まれるのです。人間の幸福を噛みしめるために浄土信仰はあるのです。温かく優しくありがたいから信じるのです。信じるから浄土はあるのです。順番を間違えてはいけません。いかがですか。私の話はこれでお終いです。なるほどそうだとうなずいていただけますか。そこに信が成立します。それは、もう狂信ではありません。この温かさは経験上確認できるからです。それは決して力んで獲得するものではありません。そんなに難しいことではありません。愛するものとの別れを想像してみてください。自然とうなずけませんか。今うなずけなくても何も問題はありません。今はこれ以上くどくどと説明を繰り返すことはしません。圧倒的な死というものが姿を現せば、私が何万回説明するより、みなさんには解ってもらえるはずです。ですからいずれうなずいてくれるときが来ると信じています。浄土の信仰はむこうから優しく近づいてきてくれます。他力というのは向こうからやってきてくれることです。
 死というギリギリ最後のお別れのときに何も一プラス一を二にしようとして自らを苦しめる必要は少しもありません。一プラス一が三でも四でもそれこそ百万でもかまわないではないですか。浄土は死の向こう側にあります。そして、人間はたった一度しか死なないのですから。生きるために身につけた知識で、死を考えてはいけません。そうしないと大切なものを置いてゆくことになってしまいます。知識や理性にこだわるあまり、この世で結ばれた温かい思い出を置いて行くことになってしまいます。これはいけません。さよならをしてはいけません。
 私は年に何回かお葬式にうかがってお経を唱えますが、その時にはどんな気持ちでお経を唱えるか前にもお話ししました。亡くなった人に向かってあちらでも「きっと会いましょう。また会いましょう。」と語りかけるつもりで唱えるのです。よく知っている人、親しくお付き合いした人の時など涙が出てくるようなときもあります。お経を上げているお坊さんが涙を流していると変に思われるので、気がつかれないようにしていますが、本当は涙を流しながらお経を唱えるのが浄土教の心だと考えています。その気持ちでお経を唱えると何か奥歯の方で噛みしめるような胸を熱くするものがあります。アッこれだと思うのです。優しく温かい思いがします。「自分は人間なんだなあ。」という思い、自覚が生まれます。人間であるという自覚は、人間であってよかったという思いです。この思いが人間にとって何としても大切です。きっと会いましょうまた会いましょうという思いで生活していくことが、人間であってよかったという思いを生み出します。浄土信仰の心は、この思いです。人間であってよかったという思いです。
 人間の幸せっていったいなんでしょう。幸福論というもので、それこそいろいろな人がいろいろなことを考えています。また、一人一人の人間にそれぞれの幸せがあってよいわけで、これが人間の幸せですということは、言うことができません。しかし、これだけは言うことができます。それは、人間が人間であってよかったと思うこと、これはどんな人にとっても幸せなことです。我々が次の世代にこれだけはどうしても伝えていかなければならないものだと思います。生きているというのは幸せなことだということです。生きるというのはすばらしいことだと言うことです。歩んだ道が違いましたが、不思議にも、岸本博士と同じ場所にやってきたような気がします。いろいろな人々やものの中に人生を送ってきたこと。自らのあり方そのものをよかったと思うことは、絶対に人間にとって幸せです。それは最後の一日にいたるまでどんな一日も一緒です。人間はどんな人もいずれ辛い別れを経験します。それこそ高いがけの上から突き落とされてしまったように打ちのめされた人を何人も見てきました。こんなに辛い思いをしていやになった。人間はなんて辛い存在なのだろうと思うのでは不幸です。ですから、そんな人達と浄土で再会するのです。きっと再会するのです。こうした思いの中に人生を送るというのは、浄土の教えを信じる人間の幸せです。念仏者の幸せです。この温かい思いを共有する仲間に入ってもらいたいのです。南無阿弥陀仏と称えるだけです。浄土のことがどうしても理解できないという人は、今はそれでも結構ですとあえて言います。浄土宗のお坊さんなのに何と言うことかと言われそうですが、しかし最後の別れのときに「さよなら」という人にはならないでください。「きっと会いましょう。また会いましょう。」と言って別れの時を迎えてください。そうすればみんな立派な念仏者です。この世の中すべての人が、最後のときには、浄土での再会を約束して別れる人間でありたいと思います。

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