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きっと会いましょう




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  • あとがき

あとがき

第二章で阿弥陀経というお経を読みました。途中でやめてしまいましたが、あのお経を読むためにはちょっと工夫が必要です。どんな工夫かというと、ある言葉を補いながら読んで行くのです。そうすると、阿弥陀経の心がよく解ります。その言葉は次の言葉です。
「だから 会いましょう。
 そこで 会いましょう。
 きっと 会いましょう。
 また  会いましょう。」
と言う言葉です。これは私の創作です。「だから、そこで、きっと、また」とすぐに覚えられます。この言葉を補いながら読んで行くのです。どのようにするか少し読んでみましょう。
「その仏国土には阿弥陀という仏が現においでになって説法しておられる。舎利佛よ、何故、かの佛国土を極楽と名付けるかと言うに、その佛国土の人々は、何の苦しみもなく、ただあらゆる楽のみを受けているからである。」
ここまで読んだら、
「だから 会いましょう。
 そこで 会いましょう。
 きっと 会いましょう。
 また  会いましょう。」
と補います。
「舎利佛よ、また、極楽には七重の欄楯(さく)を繞(めぐら)し、七重の羅網(あみ)に覆われた七重の行樹(なみき)が繁っている。これはみな、金、銀、瑠璃、玻黎の四宝でかざられている。なおまた、これらの行樹(なみき)によって、いたるところが取り囲まれている。それで極楽というのである。」
と読んだら、
「だから 会いましょう。
 そこで 会いましょう。
 きっと 会いましょう。
 また  会いましょう。」
と補うのです。
「舎利佛よ、また極楽には、七宝の池がある。その中には八種の功徳をそなえた水がみちみちて、底には一面に金砂が布かれている。池の四方には、金、銀、瑠璃、玻黎で組み立てられた階道がある。」
「だから 会いましょう。
 そこで 会いましょう。
 きっと 会いましょう。
 また  会いましょう。」
「それをのぼれば楼閣があって、これもまた金、銀、瑠璃、玻黎、しゃこ、瑪瑙の七宝でかざられている。また池の中に咲いている蓮の花は車輪のように大きくて、青い華は青い光を放ち、黄色い華は黄色い光を放ち、赤い華は赤い光を放ち、白い華は白い光を放ち、ゆかしい香を匂わせている。舎利佛よ、極楽とはこんな結構なところである。」
「だから 会いましょう。
 そこで 会いましょう。
 きっと 会いましょう。
 また  会いましょう。」
「舎利発佛よ、また、阿弥陀仏の極楽には、いつも優れた音楽がかなでられて、黄金の大地には昼三時(みたび)、夜三時曼荼羅華がふってくる。」
「だから 会いましょう。
 そこで 会いましょう。
 きっと 会いましょう。
 また  会いましょう。」
「その国の人々は、いつも清旦(あけがた)んは、それぞれみな衣?(はなかご)に色とりどりの華を盛って他方世界の十万億の仏などを供養するが、食事までには、はやこの極楽に還ってきて、食事をとり遊行する。」
「だから 会いましょう。
 そこで 会いましょう。
 きっと 会いましょう。
 また  会いましょう。」
お経はまだまだ続きますが、どうでしょうか、阿弥陀経の心が伝わってきましたか。この言葉を補って読んでいくことが大切です。ちょっと不思議にさえ思えるのですが、最初から最後までこの言葉を補いながら読んでいくことができます。阿弥陀経の心はこの言葉にあるからです。
 いかがでしたか、学校で何年も答えを合わせる訓練を積んできた現代人のみなさんに浄土を理解してもらおうとがんばってきました。科学万能主義的な考えはようやく最近になって少し反省されるようになってきました。少し前の時代には、科学の進歩が人間に多大の幸福をもたらしました。そのため、科学的に正しいとされることが、すべて人間の幸福につながって行くと言う錯覚が広く現代人を覆っています。しかし、科学的なものの見方が、幸福に結びつかない場合もあるのです。その特徴的な例が人間の死という事実です。これを学校で勉強するように眺めていてはいけません。人間は浄土に旅立つときすべてのものを置いて行かねばなりません。この人生を送るために身につけたすべてのもの、蓄えた財産も、社会的な地位も、とにかくあらゆるものです。その時に空っぽになれずにいるのが人間です。自らが身につけてきた知識や人生を支えてきた誇りと言ったものがおいてゆけないのです。知識や誇りというものは、人間が生きていく上で人間を支えるものです。死と向かい合ったときにそれが最後まで支えてくれると思うのは、単なる思いこみです。それもある意味で一つの信仰かもしれません。我々が浄土を信じるのと同じです。この欲張りな性質が人間の愚かさです。空っぽになれない愚かさです。法然上人の言った愚かさの自覚とは、この空っぽになれない愚かさを自覚することです。人間にとって何が難しいかと言えば、空っぽになることです。本当に空っぽになれたとしたらきっと幸せです。人間は、愚かなので空っぽになれません。ちょっと変に聞こえますか、でも本当にそうなのです。中身を増やすことだけが人間にとって必要だと思いこんでいます。そうではなくて、中身を除いて行くことも大切な知恵だと言うことを学ばねばなりません。引き算が必要なのです。せっかく得た知識を置いて行くなんてもったいなくてできない。
 それでもいいですよというように、最後の最後に浄土は我々の前に姿を現します。最後お別れの時には
「だから 会いましょう。
 そこで 会いましょう。
 きっと 会いましょう。
 また  会いましょう。」
と約束するのです。これが「南無阿弥陀仏」の心です。

 さてそろそろ筆を置こうと思います。これ以上言葉を重ねるよりも、みなさんの温かい心、優しい心、を信頼した方がよいとおもうからです。現代人と呼ばれるみなさんも血の通った人間です。きっと、浄土の道に気づいてくれると確信しています。思わず知らず「南無阿弥陀仏」と唱える日が来ると確信しています。
きっと 会いましょう。
また  会いましょう。

南無阿弥陀仏
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