月光花

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 最初に来たのは、いつもあなただった。
 夜が訪れれば見える月のように、あなたは私を照らしていた。万物を照らす太陽よりも、ひそやかな光をくれる月に惹かれていた。

 月があればそれでいいと、ただ思っていた。

***

 勇者に魔王が倒され、およそ十年。ルクレチア王国は平穏を取り戻していた。


 王妃の忘れ形見、ルクレチア唯一の直系王族であり第一王位後継者、アリシア。魔王山で産まれたとされているが、忌み子などと呼ばれることもなくみなの寵愛を一身に受け、美しく純粋に育っていた。アリシアはまだ十歳になったばかりであるが、ひなげしのような可憐さが牡丹のような華美に変わるだろうと思わせる美貌の持ち主であった。

 王宮の一部の花壇の手入れはアリシアが行なっている。中庭を通った先にある庭園には、アリシアが最も愛する広い花園が用意されていた。この花園は城下の者にも開放されており、みな花の美しさをアリシアになぞらえて賛美した。

 陽光のきらめく春の日、帝王学の勉強を終えたアリシアは息抜きに花園に訪れていた。まわりには誰もいない。わずらわしい王族のことからも解放された気分になり、アリシアは樹の幹にもたれてまどろんだ。
 ルクレチア王にはアリシア以外に子がいない。従ってその婚約者は名のある貴族や他国の王族などに限定され、顔も人となりもわからぬ男性と結ばれることになると、アリシアは女官や父王から言われていた。王族とは、姫とはそういうものなのだと。
 童話での姫はどうなのだろうか。姫が姫に憧れるなどばかげた話ではあるが、アリシアは童話の姫のように甘く幸せな「めでたし、めでたし」の物語を自分も演じてみたいと思っていた。
 少女らしいそんな夢を抱いて午睡にふけっていたアリシアのもとに、声が聞こえてくる。まだ子どものようだ。

「オルステッド、勝手に城に入ったらどやされるぞ、早く出たほうがいいって!」
「でも、前からお城に入ってみたくてさ……」
 花園の中をちらちらと動く影があった。金髪の少年と、黒髪の少年の二人。
「だあれ? だれか、いるの?」
 アリシアが声をかけると、少年二人はびくりと肩を震わせて驚いた様子だった。だが金髪の少年は物怖じすることなく、アリシアのもとに向かってくる。服装からすると貴族のようだ。腰に短剣を忍ばせているところを見ると、剣士見習いらしい。
「こんにちは、おひめさま……でしょう?」
 人懐っこい笑みを浮かべて金髪の少年が尋ねた。目をきらきら輝かせ、アリシアの姿をうれしそうに見つめている。
「ぼくはオルステッド! うれしいな、おひめさまに会えるなんて!」
「ばかっ! 失礼なことするんじゃない! 帰るぞ!」
 朗らかに自己紹介する金髪の少年の肩を、追ってきた黒髪の少年がつかんで引き戻そうとする。
「いいえ、だいじょうぶよ。それより、あなたはなんてお名前?」
 不意にアリシアに話を振られた黒髪の少年は、慌てふためいたようだった。
「は、はい。ストレイボウと申します。姫君にはご機嫌うるわしゅう……」
「ストレイボウ、どうしたの? そんなにどぎまぎしちゃって、キミらしくない」
 しどろもどろなストレイボウにオルステッドが茶々を入れた。案の定、ストレイボウは怒り出す。
「仲がいいのね、ふたりとも」
 くすくすアリシアは笑う。不意の来客に驚いたが、おなじ年ころの子どもと話す機会があまりないアリシアには、このかわいらしい二人がいとおしくてならなかった。
「おさななじみなんだ」
 嬉しそうにきゃらきゃらと金髪の少年は笑った。対照的に黒の少年ストレイボウは口ごもっている。
「ねえ、もっと色んなお話を聞かせて。ばあやたちは外のことはぜんぜん聞かせてくれないの」
 アリシアの言葉にオルステッドとストレイボウに目配せをした。だがストレイボウは表情が暗い。
「おれたちがいること……おとがめされないんですか? その、勝手に城に入ったりして」
「だいじょうぶよ、誰にも何も言わないから。ね、ふたりとも、わたしのお友だちになってくださらない? みんなお作法や習い事を教えるばかりで、お友だちっていなかったの……。だから、これからもお城に来て、おしゃべりしてほしいの」
「うん! いいよ、おひめさま!」
「本当? ありがとう!」
「ストレイボウもいいよね?」
「え、まあ、姫がそう言うなら……」
「アリシアって呼んで。お友だちですもの。あなたたちはオルステッドとストレイボウでいいのね?」
 花がほころぶようにアリシアは笑った。オルステッドも、そしてストレイボウも笑みを見せた。


 城壁の一部、子どもがひとりずつ入れる大きさの穴が開いていたためにオルステッドとストレイボウが城に入ることができたという。その穴を出るとちょうどこの庭園につながっていたのだ。そこを通ってオルステッド、ストレイボウはアリシアに会いに来るようになった。
 オルステッドの知り合いの仕立て屋の話や、領地の中の花畑のこと、彼らの通う学校のこと、ストレイボウの魔術のことなど、そんな他愛のない会話をしていたが、アリシアはまるで物語の中のような違う世界の出来事に感じられた。
 だがそれも、貴族から見た視線である。

 ある日、珍しくストレイボウから話を切り出す。オルステッドは剣の稽古があるということで来れず、ストレイボウひとりであった。いつになく張り詰めた面持ちをしている。
「アリシア、その……平民のことはどれくらい王宮で話されているか、知っている?」
「平民のこと? わたしはまだ政治に関われないので、わからないけれど……どうかして?」
「おれは今貴族だけど、おれの――知り合いに平民がいて、暮らしに困っていて……。ルクレチアの近くはいいけれど、地方になると住みにくいって言ってたんだ……」
「そうだったの……。わたし、わからないことばかりで……ごめんなさい。その人のことも助けてあげられない……」
「いや、アリシアは将来ルクレチアのお妃さまになるから、そのときは、貴族だけじゃなくてもっと下の身分のことも考えられる王妃さまになってほしかったんだ」
「やさしいのね、ストレイボウ」
 内向的で自分の感情を表に出さないストレイボウだが、アリシアは彼の中にひそむ情け深さを知った気がした。
「あなたが王さまだったら、きっとみんな幸せになれるわ」
 少年の手を取る。自分が言った言葉が何を意味しているか、アリシア本人は気付いていなかったが、にわかに悟ったストレイボウは顔を赤くしてうつむいてしまう。
 童話の中の王子がほしいと思ったわけではない。今のアリシアは純粋に話し相手がほしかっただけなのだ。
 だが、一国の王女と、おなじ年ころの貴族の少年二人。ただの「お友だち」としていられるのはわずかであると、ストレイボウだけがうすうす感じ取っていた。


 あの二人と会うようになって半年が過ぎたころであろうか。アリシアはいつものように庭園で二人を待っていたが、待てど暮らせどやってこない。待ちかねて二人が出入りしていた城壁まで来てみると、その穴が補修されていることに気がついた。

 彼らとの接点が、断たれてしまっていた。

***

 オルステッドとストレイボウの二人が現れなくなり、アリシアの日々はまた未来の王后としての多忙で退屈なものに戻った。そうして五年の月日が経過していた。

 この春、毎年恒例となっている新規近衛兵入隊のパレードがある。当然出席を余儀なくされているアリシアは何とはなしに入隊者の名簿をチラチラと見ていた。その中に、気になる名を見つけた。アリシアの心は急激に沸き立つ。
 ルクレチア城中庭に、剣術師団、魔術師団各二部隊に別れた新米近衛兵が並び、剣と杖をルクレチア王とアリシアら王族の前でかざし「ルクレチア万歳」と叫んでいた。大勢の兵士の中から、アリシアは見逃さなかった。
 初々しさをいまだ残す金髪の剣士、そして夜の陰を孕んだ黒髪の魔術師の存在を。五年前より逞しくなった二人の少年を。

――オルステッド、ストレイボウ……!
 アリシアは知らず涙を流していた。



 その夜、外の風に当たりたい、と言ってアリシアは供をつけず庭園の花園へ来た。
 あの二人と初めて会った場所……ここで待っていれば、彼らが来るかもしれない。淡い期待をもって王女は夜の庭園を散策する。心は幼かった日々へうつろい、三人で過ごした遠く楽しかった日々を思い起こしていた。
 そんな中で衣擦れとかすかな足音が聞こえた。決して大きな音ではなかったが、無人の庭ゆえか、それともアリシアの想望がそうさせたのか彼女の耳にははっきりとその音が届いたのであった。長い黒髪をまとった人影が目の前にある。魔術師の少年だ。
「こんばんは、姫さま」
「ストレイボウ……」
 彼はひとりだった。いつも傍らにいるオルステッドはいない。
「……その、やせたのではなくて? ちゃんと食事を採っていますか?」
「そうでしょうか。魔術師というものはみな、このような体格にございますよ」
「そう……」
 たしかに以前からストレイボウはオルステッドに比べ、小柄で痩躯であった。剣士と魔術師の違いもあるのだろうが。だが少し頼りなく見えたストレイボウは、五年の歳月で、十五とはいえ落ち着きのある男性に成長していた。幼いころは短くきちんと刈り揃えていた黒髪も、今は魔術師らしく長く伸ばされてウェーブを描いている。
「あなたとオルステッドが近衛師団に入ったなんて、夢のようです。もう会えないと思っていたのに」
「私も会えないと思っていました……。だから、少しでもお近づきになれるように、近衛魔術師団に入ろうと思いました。でも、まさかこんなに早く会えるなんて」
 大人びた口調でストレイボウは言う。なぜかアリシアは胸の高鳴りを禁じ得ない。震えながら、胸の内を告げる。
「あの……待って、いたんです」
 ――昔は、言い淀むのはストレイボウのほうだった。だが今は、アリシアのほうが二の句をつぐのに苦労している。おかしなことだと自嘲した。
「あなたたちが来てくれると思って……ここで……」
「参りました……姫を待たせはいたしません……」
 月のわずかな明かりにストレイボウの顔が照らされる。年齢のわりに大人びた、だが陰を纏う相貌。整って冷たくも見えるその顔が、やさしいほほえみを形作る。隻眼の右目が、捉えるようにアリシアを見つめた。
 アリシアの心に、その笑みが月光のようにやわらかく照らされる。早鐘のように打ち鳴らされる心臓の鼓動とは裏腹に、ストレイボウといるこの瞬間にアリシアは感じたこともない安らぎを覚える。水にたゆたうような、そんな見知らぬ感情を……。
「また……来て、くれますか? ストレイボウ……」
「はい……」
 時間がない。あまり部屋を空けては不審に思われる。アリシアはストレイボウの長い黒髪にほんのわずか触れ、うつむいていた。
「では、今日は、これで……」
 はじめてストレイボウの手がアリシアの手に触れる。
「ええ、では、また……」
 名残を惜しみつつも、アリシアとストレイボウは各々の場所へ戻る。
 あのときよりもずっと大きくなった彼の手を思い出す。長い指がためらいがちにアリシアの手に触れていた。触れられた場所がじわりと熱く感じられるのは錯覚だろうか。
「ストレイボウ……」
 ひとりの部屋で、そっとつぶやいた。あまりに甘い声音に自分自身驚くアリシアがあった。


 その後も王女と魔術師のひそやかな逢瀬は続いた。
 会えぬ日中はストレイボウとオルステッドの訓練する風景を窓から見つめていた。この二人はは余暇があれば中庭でオルステッドといつも訓練を行なっている。「オルステッドにつき合わされている」と本人は言っていたが、ストレイボウ自身も強くなることへの向上心がないわけではない。むしろ彼は努力家といってもいい。ストレイボウは魔法学校を主席で卒業した賢才の持ち主だが、それに甘んじることはなかった。魔術は間合いがあるぶん剣術より有利なはずだというのに、オルステッドが彼をも超える剣の腕を有していたためだ。
 幼少のころ故あって大貴族のオルステッドの家に引き取られたストレイボウは、あまり口にはしないもののオルステッドに対してかすかな劣等感を抱いている。時折ぽつりとこぼされるそれにアリシアは心痛めた。
 幼いあのころは三人が三人ともそんなことは気に留めていなかった。だが、まずストレイボウ自身が気付き、アリシアが気付いた。いずれオルステッドも気付くだろう。――気付かずにおれば幸せに生きられたであろうに。アリシアは思う。「好き」と「嫌い」の二択で人間を分けられれば面倒なこともない。自分たちがいずれその綻びによって崩壊するのではと思うとアリシアはひどくおびえた。彼女はただただ三人で笑顔でいたかっただけなのだ。


「ねえ、昔お城を出て森を見たいとお願いしたことがありましたよね」
 ある日の夜、ひっそりと中庭に身を寄せる二人の姿があった。不意にアリシアに切り出されストレイボウは記憶をたぐりながらうなずく。
「あなたが止めるのも聞かずにオルステッドといっしょになって川遊びをしてみたり……。今考えると殿方の前でなんてはしたないことをしたのかしら」
 靴を脱ぎドレスを持ち上げて脚を見せて川の浅瀬の感触を楽しんだ。身分の高い娘として前代未聞の行為だがとても楽しかった。その後汚れたドレスに関して女官長から問いただされたのは言うまでもないが。
 かつての自由奔放な振る舞いをアリシアは述懐する。
「ときどきあなたはとんでもないことをなさいますね」
 苦笑交じりにストレイボウが笑んだ。
「今でもそうだ。あなたは危なっかしい。だから俺がついていなければ」
 兄のような口調で言うが、その目はそれ以上の存在でありたいと雄弁に語っていた。アリシアははにかんで彼の肩に頭を横たえた。互いのぬくもりが伝わる。
「ストレイボウ……。ずっとそばにいて……」


 逢引をする日々が続いていたが、中庭にオルステッドとストレイボウの姿は見えなくなっていた。ストレイボウが場所を変えたのだろうか。
 このところ彼は自分の行動に咎を抱いているようだった。大国ルクレチアの第一王位継承者であるアリシアと密会することは、到底ゆるされるようなものではない。まして以前のような子どもではないのだ。王宮に仕える近衛師団の一員が主たる王女と通じていることが知られれば、ストレイボウは即刻除名である。だがそれでも十五のアリシアは想いをとどめることができない。
 アリシアはストレイボウが所属している近衛魔術師団の団長に彼のいどころを聞くことにしたが、直属の女官から制止された。
「あのストレイボウという男、どうやら正式な貴族ではないようなのです」
 女官の言葉に、アリシアは背筋を冷やす。
「友人のオルステッドは大貴族でありましょう? 彼の家に引き取られているおかげとか……陛下もあまり快く思ってはいないようで」
「で、でたらめです! 何を言うの!? 父上は彼のことなど口にしたこともないわ!」
「姫さま、お願いでございます。陛下は姫さまを心配しておいでなのですよ。血筋の正しい者に姫を託したいと思うのは、当然のことですわ。なんといってもあの男は――」
「お黙りなさい。血筋なんて……そんなに、この血が大事だと? ばかげています! 人間の血に正しいも正しくないもあろうはずがないわ!」
 アリシアは女官の制止を振り切って走り出す。
 血筋。女官が口にしていた。では、そんなことまで知られているのか。
 ――ああ、いやよ、ストレイボウ……! 早く、あいたい……!
 王宮を狂ったようにアリシアは走る。視界がはっきりとしない。めまいのような、熱病のような感覚に陥りながらもアリシアはただ走った。

***

 いつか、ストレイボウが言っていた。自分の生い立ちを。
「私はオルステッドの親類が残した私生児なのです」
「私生児……?」
 愕然とした表情でストレイボウを見た。
「身寄りがなかったところを、たまたま彼の父親の温情で、あの家に置いてもらっているだけなのです。……昔はよく妾の子、と罵られました。オルステッドにそのことは言っていませんが……」
「なぜです? あなた方はだいぶ仲がいいように見えましたが」
「彼とは兄弟同然に育ち、よき友人だと、私も思っています。それでも……」
 ストレイボウは顔を背ける。
「私と彼は生きる場所がちがいます。どんなに豪華な服をまとっても、それはまがいもの。生まれながらに全てに恵まれたオルステッドが……私は……うらやましかった」
 悲痛な様子でストレイボウは絞るように口にする。これまで見たこともない、嫉妬と憎悪と自己嫌悪に苛まれた顔をしていた。

***

 彼に対する同情だというのだろうか。天賦の才と整った容姿を神から与えられながら、貴族と平民の間に生まれたがゆえに苦悩するストレイボウに、王女として単なる憐憫を抱いていると。そんな声が女官室からささやかれていた。
 アリシアには、わからなかった。ストレイボウと自分はは幼いころからの間柄だが、自分は彼に対して平等に接しているつもりだった。臣民としてではなく、ひとりの人間として。そして……男性として。



 やがて、ストレイボウとの逢瀬も減った。父王らの計らいや、アリシアとストレイボウ双方の多忙が原因である。
 年月が経ち、アリシアは十九になった。かつてささやかれていたように、牡丹のような年相応の美しさを持ち、控えめな「次期王妃」と成長していた。年頃となった彼女には諸国からの縁談が後を絶たない。しかし、アリシアはそれをことごとく断り続ける。十五を過ぎたあたりから嫁入りの話を持ちかけてはいるものの、彼女は頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。頭を抱えた父王が計画したのが、ルクレチア全土から戦士を募っての御前試合であった。これの優勝者にアリシアと縁組を結ばせる算段である。

 ここでもまた、アリシアはストレイボウ、オルステッドと再会をすることになる。
 だがアリシアは知っていた。ストレイボウが決してオルステッドに勝つことはできぬと。万一でもストレイボウが優勝することを防ぐために、事前に魔力を抑える結界が会場に張られていた。
 オルステッドは初めから許婚候補のひとりとして挙げられていた存在である。大貴族で血筋もたしかであり、戦のときにも兵士を奮い立たせ、また自ら剣を振るうことのできる実力の持ち主だ。
 彼ならば、まったく知らぬ仲ではない。どこの誰かも知らぬ諸侯と結婚させられるよりは……とアリシアはこれを了承した。せざるを得なかった。

 魔力を抑える結界のため、出場した魔術師たちは次々と敗北していたが、それでもただひとりストレイボウは勝ち進んでいた。彼のアリシアへの想いは変わっていなかった。悪魔に魅入られたような表情で、相手を倒していく。
 だがアリシアは恐れおののく。ストレイボウが流す血が、まるで自ら流したように痛い。彼の痛みが我が痛みのように感じられる。こんなつらい思いをさせるために、彼を愛したわけじゃない。
 ――逃げて! ストレイボウ、逃げて!
 心の中で、精一杯にアリシアは叫ぶ。ストレイボウが優勝に漕ぎ着けたとしても、アリシアとの婚姻はあり得ないのだ。ストレイボウが平民の血を引く限り、正式な婚姻などは……。
 
 試合の一日目の日程が終わり、ストレイボウ、オルステッド両者とも勝ち残った。
 夜、そっと部屋を抜け出したアリシアは、木に寄りかかってひとり薬草で傷を癒すストレイボウを目にした。慌てて、彼の元へ駆け寄る。
「だいじょうぶですか……?」
 ストレイボウがアリシアを向いた。
「……アリシア」
「こんな大会になど、出ることはなかったのです。こんな……ばかげた大会……!」
 傷にほつれたストレイボウに抱きつくと、彼に強く抱きしめ返され、くちびるを交わされる。
 あまりに突然のことにアリシアは言葉を失った。
「……俺の、最後のチャンスなんだ。キミへも、オルステッドへも……」
 初めての感覚に戸惑い震えるアリシアを、ストレイボウはやさしく抱きしめ直し、続ける。
「突然ですまなかった。ただ、もう、キミに会えない気がしていたから」
「会えない……なんて、そんなこと、言わないで……」
 ぽろぽろと、王女のまなこから涙がこぼれ落ちた。
 紛れもなくこれが最後の逢瀬となろう。痛いまでに胸が、全身が疼いていた。

 翌日、試合はオルステッドが順調に勝ち続け、一方のストレイボウも辛勝ながら駒を進める。もはや参加した魔術師はストレイボウを除き全員が敗北していたにも関わらずのこの状況に、アリシアの横の父王や大臣などは内心穏やかではない様子だった。
 そして決勝に残ったのは、オルステッドとストレイボウの両者となる。
 元々実力の伯仲していたオルステッドとストレイボウだったが、くだんの結界のため軍配はオルステッドに上がった。
「――近寄るな!」
 オルステッドから手を差し出されたストレイボウが、血相を変えて叫んだ。だがそれも一瞬のことで、すぐに落ち着きを取り戻し、静かに立ち上がった。

 それまであえてストレイボウを見ぬようにつとめていたアリシアだったが、ついに彼に目を向けてしまう。
 そこに、光はなかった。

***

「誰よりも、あなたを信じます」
 宴を抜け出し、月明かりの下アリシアはオルステッド――「彼」の親友に告げる。目の前にいるのが彼でない限り、それは偽りになるのかもしれなかった。しかし、決められた美辞麗句で自分を包み隠す、それが王女の役割だと教えられていた。その教えどおりアリシアは振る舞うに過ぎない。
 オルステッドの、太陽のように万人を明るく照らす輝きはアリシアも嫌いではない。だが、小さいながらもわずかな輝きを放つ慎ましい月に、ずっと焦がれていた。

 月から光を奪った太陽……。もう、彼も、自分も、だめなのだと、アリシアはオルステッドに笑いかけながら思っていた。

 だが、アリシアが知ることはない。オルステッドもまた、アリシアを十年近く想い続けてきたことを。月が太陽の光なくしては輝くことができないことを。そしてオルステッドが鍛錬に余念がなかった理由も。
「姫……これからも、お守りいたします。愛しております……」
 ふたりは、月の光に照らされながら、美しいシルエットとなってくちづけを交わす。その光景はさながら、童話の結末するシーンのようであった。

 庭園の牡丹が、ひとひら散った。
(了)

2008年作、2022年加筆修正

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