権力の腐敗についてのアクトンの名言は、前のエッセイ「権力の腐敗について」で示したように、歴史叙述における道徳的評価のあり方という文脈で述べられていたものだった。腐敗にどう取り組んだらよいかという実践的な問いの文脈ではなかった。もちろん、後世の人々が権力の現実を理解しようとするとき、アクトンの言葉が価値ある教訓を与えているのはたしかである。しかし、実践的観点からすれば、さらに問うべき重要な点が残っている。
権力の腐敗とは、権力を行使する人間の堕落を意味している。したがって、権力の腐敗と実践的に向かい合うためには、権力を持った人間が
なぜどのようにして堕落するのか、と問うことが決定的に重要になる。権力を持つことと権力者の堕落とのあいだには、両者をつなぐ心理的メカニズムとでも言うべきものがある。すでに堕落していた人間が権力を持つようになった場合でも、さらに悪くなるときには、同じメカニズムが介在している。権力の腐敗に対処するためには、このメカニズムをしっかり把握することが必要である。以下では、その必要性の根拠を明らかにし、実践的取り組みの基本姿勢とのかかわりを示すことにしよう。
堕落という、権力を持った
結果としてもたらされる心のありさまは、たしかに頻繁に取り上げられている。視野が狭くなって他者に共感する能力が衰退する、権力欲と猜疑心が激しくなり権力追求にますますのめり込む等々、聞かされる側が憂鬱になるようなさまざまな症状が繰り返し指摘されている。
しかし、権力を持つことから
どんな道筋を通って堕落に行き着くのかという点を掘り下げた考察は、あまり見かけない。その大きな原因は、私の考えでは、権力には邪悪な性質が内在しているという見方をする(権力をそれ自体として存在する実体と考える)ことにある。この見方に固着すると、腐敗の原因は権力それ自体に内在している、いわば権力の中にひそむ魔性だ、といった捉え方になり、そこから先に進めなくなる。なぜどのようにして権力者は堕落するのか、なぜ堕落しない場合もあるのか、という問いには行き着かないのである。
わかりやすく説明するために、犯罪者と犯罪に使われたナイフ、というたとえを用いてみよう(
もちろん、物体であるナイフと抽象概念である権力は、厳密に言えば同列に扱えないが、ここで示したいのは、手段を使用する行為者という点に着目した類比である)。たしかに、鋭い切れ味のナイフは危険であり、取り扱いには注意が必要である。それは間違いのない事実である。ところが、私が問題にしている実体的な見方では、この事実認識にとどまらずに、ナイフには犯罪を誘発するものが内在している、という捉え方になる。しかし、ナイフは有益な使い方もできる。ナイフが凶器になるのは、ナイフそのものに魔性がひそんでいるからではなく、ナイフを手にしている人間が邪悪だからである。つまり、問題はナイフの内在的性質ではなく、ナイフを使う人間の道徳性であり、他者との関係の取り方なのである。権力の場合も同じである。権力の腐敗と言われているものは、権力自体が生もののように腐るということではない。それが意味しているのは、権力者が堕落することによって権力的な人間関係が不道徳なものになっているということである。
以上のような見方をしている私にとって、なるほどと納得できる明快な説明を示してくれたのは、J.S.ミルである。もちろん、非常に重要な問題だから、私が知らないだけでミル以外の誰かが同じような説明をしていたとしても不思議ではない。しかし、私の関心の対象は誰が言ったかという問題ではなく、権力関係という上下のある人間関係の中で、権力を持つことによって堕落していく人間の心理的メカニズムである。それについて、ミルは次のように論じている。
ところで、どこにでも見られる事実であるが、自分が他者と共有している利益よりも自分の利己的利益を優先する性向と、自分の利益のうちで間接的な遠い将来の利益よりも目先の直接的利益を優先する性向という、今問題としている二つの邪悪な性向は、何にもまして特に権力を持つことで引き起こされ助長される特徴である。一人の個人でも一つの階級でも、権力を手にすると、その人の個人的利益やその階級だけの利益が、本人たちの目から見てまったく新たな重要度を帯びてくる。他人が自分を礼賛してくれるのを目にすることで、本人も自らの礼賛者となり、自分は他人の百倍も価値あるものと見られて当然だと思うようになる。その一方で、結果を気にせずに好きなようにする手段が容易に得られるようになるために、結果を予測する習慣が、自分にまで影響が及んでくる結果に関してすらも、知らず知らずのうちに弱まっていく。これが、人は権力によって堕落するという、普遍的経験にもとづいた普遍的な格言の意味である。
(ミル『自由論』1859年刊、岩波文庫・関口訳、114-115頁)
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ミルの指摘とそれが意味していることを、補足を加えながら説明することにしよう。
人間は誰でも自分の目先の利益を優先しがちである。今風に言えば「自分ファースト」の傾向である。しかし、道徳的に望ましくないこの傾向は、平均的人間の私的な人間関係の中では、常識や良識によって、あるいは、浅ましいと思われることを恥じる自尊心や名誉の感覚によって、ある程度抑制されている。ところが、公的世界で権力を持ち強い立場に立つようになると、たががはずれて、狭隘な自分優先・自分中心の志向が露骨になってくる。個人だけではなく、階級や集団の場合も、国際社会の中での国家や国民の場合も変わらない、善人や聖者と呼ばれる人も例外ではない。良心や正義も、権力が絡むと独善的で不純なものに変質する傾向がある。
そうなってしまう心理的原因として、ミルは二つあげている。一つは、
自我の肥大とでも言うべきものである。権力者の地位についた人間は、周囲の人々や世間からちやほやされて舞い上がり、自分が重要視されるのは当然だと思い込んでしまう。人々が一目置いているのは、たいていは権力者の人柄ではなく権力者の役柄(地位)にすぎないのに、そのことがわからない。あるいはそのことを忘れてしまう。自分は特別な人間であり、自分を優先する特権が認められて当然だと考えるようになる。公私の区別がどんどん甘くなっていく。他方、周囲の人々は、こういう姿勢はよくないと感じても、権力者の機嫌を損ねて仕返しされるのがこわくて、忠告や批判を控えるようになる。権力者の耳に聞こえてくるのは、自分に媚びを売る人間の声だけになる。こうして、自我の肥大がひたすら進行し、権力者の自己中心的な志向を抑制する内的な契機も外的な契機も消えていく。
もう一つの原因は、
思慮が働かなくなることである。思慮とは、自分の主観的な理解や感情をひとまず棚上げして、客観的とまでは言わないとしても少なくても常識的な観点から自分の行為がもたらす結果を予測し、その得失を冷静に判断する能力である。大人の能力と言えるだろう。ところが、権力を持つと、誰からも反対されずに思いつきで何でもできることに慣れ、それに味をしめてしまう。思慮の能力は使われなくなることで衰退し、脳天気な判断や行動が平気でできるようになる。幼児化するわけである。人気取りのつもりの軽はずみな思いつきが、不評を招く結果になって自分に戻ってくる可能性も想像できなくなる。目先のやりたいことで頭がいっぱいになり、社会全般への影響どころか、自分の政治家としての先々の損得すら見えなくなる。
「人は権力によって堕落するという、普遍的経験にもとづいた普遍的な格言の意味」についてのミルの説明は、このように非常にわかりやすい心理的メカニズムに目を向けているおかげで、つくづく腑に落ちる説明になっている。重要なことだが、ここまでわかりやすいのは、このメカニズムが普遍的に存在しているからである。つまり、誰にでも(ここが肝心だが、私自身にも)内在するメカニズムだ、ということである。
公共的な権力の保持者ではなくても、上下のある人間関係の中で自分が上位に立つと、このメカニズムが作動し始める。あげくのはてに、セクハラ、パワハラ、アカハラ、カスハラ等々の問題が生じるわけである。また、権力者や上司のような立場になくても、自分を権力者や上位者に同一化している人の場合には、同じメカニズムが働く。こういう人は元々、上下の序列に強いこだわりがあり、序列の下の方に自分があることにコンプレックスを持っている。しかし、そうしたコンプレックスを、序列とは無関係に共感や思慮の深さで得られる他人からの尊敬によって克服するという選択肢は、視野の外に置かれている。自分を権力者と同一視し、自分を強者に見立てることで、コンプレックスを癒やしたり自分が劣位にある現実を否認したりするのである。権力のこうした仮想的な獲得の場合でも自我は肥大し、結果として道徳的感受性の劣化が始まる。弱い立場の人への軽蔑や攻撃が、ためらいなくできるようになる。判断を権力者に丸投げすることで思慮も衰退する。
権力心理学とでも呼ぶべき以上のような理解をふまえると、権力を持つことで生じたり助長されたりする堕落の傾向にどう向き合ったらよいかという問題は、単純な答や一面的な答では解決できないことがわかる。
いちばん単純なのは、権力をなくしてしまえという答である。しかし、仮に政治権力をなくせたしても、何らかの社会的あるいは個人的な優劣・上下の関係まで完全になくすことはできないだろう。また、仮に一切の権力的関係を除去した状態に到達したように思えたとしても、その思い込みは長続きしないだろう。安全確保に必要な権力まで完全になくすためには、安全確保の必要そのものをなくすしかない。しかし、強弱に個人差はあるとしても、自己中心的で目先の利益を追求する傾向はなくならない。暴れ回らない程度に何とか抑え込めれば上出来である。そのための方法は二つしかない。一つは、この傾向が実際の行為につながりそうになったら、外から力ずくで抑え込むことである。国家権力はすでに廃棄されているから、各人が自警団のような形で対応するしかないだろう。もう一つは、この傾向を本人が内面で抑え込むように誘導することである。しかし、誰がどうやってそれをするのか。そう考えると、どちらの方法でも、結局、誰かが権力的なものを使うことになる点では変わりがない。しかし、今度はそうした権力的なものを行使する人間の心の中で、根絶すべき傾向が頭をもたげてきて、結局、「監視者を誰が監視するのか」という類いの無限後退に陥る。
これとは正反対の一面的な答もある。堕落という問題を軽視する、あるいは問題の存在自体を否定する答である。一般的によく見られるのは、権力は国の安全や秩序維持に絶対必要だから、それにくらべれば些末でしかないことを堕落だと騒ぎ立てるのはよくない、権力者の言うことには黙って従うべきだ、という答である。権力の必要性だけを強調するこうした一面的な答は、当然、専制的な権力者や専制的になりたいと思っている権力者から支持されるだろう。被治者の側の反応は、きっぱりと拒否することを別とすると、二つある。一つは、賛同はしないが、堕落した権力者に逆らってひどい目にあいそうなときは黙って従うしかない、という反応である。もう一つは、積極的に賛同し、ときには自分から進んで世間に説いてまわる、という反応である。これは、打算、あるいは不安や劣等感が思慮や警戒心を圧倒している人の反応である。こういう人は、自分の得になるだろうと当てにしている権力者が先々自分に危害をおよぼす可能性にまでは考えがおよばなくなっている。あるいは、権力者が道徳や常識にとらわれずに大胆に行動するのを見て溜飲を下げることに満足し、危害が自分にまでおよんでくる可能性のことなど考えたくもない、という心境になっているのである。
以上のような権力の全面的否定と全面的肯定という両極端のあいだに、もう一つの穏健で常識的な立場がある。権力行使を正当な範囲で認めつつ、権力濫用を防止する方策を考える、という立憲主義の立場である。自由主義的な立場と言いかえてもよいだろう。しかし、権力を抑制する制度の場合も、制度信仰とでも言うべき実体的な見方をしている限り、困難に直面することになる。
権力が腐敗するのは権力に魔性があるからではないのと同様に、権力抑制の制度が有効に機能している場合も、制度そのものに魔術的な力がそなわっているわけではない。制度が機能するのは、権力者を堕落に導く心理的メカニズムに有効に作用している場合に限られる。自分の権力の維持や増大を望んでいる権力者が何よりも嫌がるのは、権力者の地位を失うことである。権力者のこのような感情を念頭に置いて、権力を濫用したら確実に地位を失う制度が整備されれば、権力濫用の防止に大いに役立つだろう。
しかし、制度に工夫を凝らすだけでは足りない。制度以外のものによる下支えが必要である。そのことは、権力抑制の制度的仕組が同じでも、抑制の効果がある場合とない場合があることを見ればはっきりする。制度が同じなのに効果に違いが出ているとしたら、その違いをもたらしているのは、非制度的な形で権力者を抑制しているものの強度の差あるいは有無によってである。権力抑制の制度的工夫が効果を発揮するには、権力保持者の心の状態に対して抑制的に作用するような心の習慣が社会の中で十分に共有されている必要がある。たとえば、名誉を重んじる感情が社会全体に広まっていれば、ほとんどの権力者はそれを無視できない。体面を保つためには、横暴なふるまいは控える必要があるし、自分の権力欲を露骨な形で示すのは避けた方が得策である。最低限、権力抑制の制度を尊重しているポーズはとらざるをえない。権力ばかりでなく体面まで失えば、政治家は再起困難なダメージを受けることになる。
もちろん、制度と非制度的なものが相まって権力の抑制がうまく機能し、権力者の堕落にある程度のブレーキがかかっている場合でも、そうした抑制を突き破っていく粗暴な権力者や、あるいは制度をすり抜ける狡猾な権力者が現われることはある。すでにかなり堕落していて、さら堕落の道を進んで行こうとしている権力者である。しかし、そもそも権力が腐敗する傾向というのは、そういう場合も含んでのことである。いずれにしても、腐敗の傾向に立ち向かうには、手持ちの使えるリソースを徹底的に活用するしかない。制度を改良するにしても新しい制度に代えるにしても、制度を下支えする非制度的な心の習慣に目配りした対応を考えなければならない。課題はつねに、権力者を堕落に導くメカニズムにしっかり狙いを定め、それに対してどう効果的に働きかけるかである。
それでは、権力濫用とそれを抑止する取り組みとのこのようないたちごっこまで念頭に置いた上で、堕落の傾向や堕落の事実に対して、どうしたら単純でも一面的でも不十分でもない向き合い方ができるのだろうか。具体的な取り組みのレベルでは、どんな取り組みにも一律に適用できるような答はない。とはいえ、普遍性のあるものにかんしては、一般論としてはっきり言えることもある。それは、具体的な取り組みを考えるときの手がかりになるし、むしろ、基本的な前提だと言った方がよいかもしれない。このエッセイの締めくくりとして、最後にこの点について述べておきたい。
これまで、権力を持つことで堕落する普遍的傾向と、堕落に導く心理的メカニズムを見てきた。しかし、人類に普遍的なのはこれだけではない。自由への願望を生み出す根元にある人格的尊厳の感情も、人類に普遍的なものだと私は考えている。過去から現在に至るまでの自由をめざしたさまざまな努力を見れば、この感情は理想として普遍的でなくてはならないということではなく、事実として普遍性があると言うべきだと思う。他者の自由を軽んじている人ですら、自分の人格は粗末に扱われたくないという根元的感情を持っている。その感情を、他者の自由と共存できる形での自分の独立や自由にうまくつなげられないでいるだけである。
さらにもう一つ普遍的なものがある。それは、各人の安全と自由の保護を目的とした強制権力や道徳的な働きかけの必要性である。この普遍的必要性と堕落傾向の普遍性との並立をどう扱うかという難問は、別のエッセイ「自由と権威」で多少触れているが、詳しい考察は別の機会に譲らなければならない。ここでは自由への願望についての話を続けることにしよう。
自由への願望はあらゆる人間の根元的感情に根ざしているとはいえ、この願望を即座に全面的実現にまで導いてくれるような方策は、残念ながら存在しない。それでも、切実な具体的必要に即して制度の運用や制度自体を少しずつ改善し、その経験を通じて望ましい制度を下支えする気風(心の習慣)を獲得し広げていく機会はある。切実な必要の感覚には、何とか機会を見出そうとする迫力がある。本気とはそういうものだろう。機会の方は、権力者の弱みや隙として現われる。しかも、たいていはあちこちに現われる。得意になって舞い上がっている権力者は、いろいろな場面で思慮が働かなくなっているからである。ただし、どの時点だったら弱みや隙を捉える絶好の機会になるのか、いちばん効果的なタイミングはどこにあるのかは、一概に言えない。機会を捉えようとしている当事者が思慮を働かせる以外にない。
最後に、一般論としてあらためて強調しておきたいのは、権力心理学の効用と意義である。権力心理学の見方になじんでくると、権力者の堕落という現実やその原因を冷静に直視できるようになる。その意義は知的なものにとどまらない。実践的な意義もある。冷静な現実認識があれば、尊大な権力者の愚かさや卑小さがむしろ哀れにすら見えてきて、恐怖や道徳的な憤りの感情でぶれない思慮の力が強化される。好機への感受性が研ぎ澄まされる。また、堕落を抑制する社会的リソースとしての心の習慣にも注目できるようになる。そうしたリソースが身近なところばかりでなく歴史や伝統の中にも埋もれていないか探索する必要性も理解できるようになる。
たしかに、権力心理学は、人間(自分自身も含めて)のできれば見たくない暗部を赤裸々に描き出す。しかし、絶望や諦念へと導く宿命論とみなす必要はない。
【補論】「権力心理学」という言葉を私が使うときの「心理学」は、大学で教えているような専門分野の心理学を意味していない。私が意味しているのは、ふつうの人間が自分の経験した権力関係の中で感じてきたことを出発点にしてそれを深く掘り下げ、なるほどと思わせてくれる一般性に達している知識のことである。常識ある大人の思慮に役立つことをめざした経験的人間学であり、難解さのために敬遠されてしまうところまで精密さを徹底追求する志向はない。もちろん、このようなタイプの知識を重視することは、権力にかかわる人間の心理を広く深く探究する学術的な人間研究の意義を軽視したり否定したりすることではない。「権力心理学」は権力がらみの堕落への効果的対処に関心を持っているから、何らかの形でそうした対処を助けてくれる専門的研究をいつでも大歓迎する用意がある。