中立と公平
中立と公平

 道徳や法は、公平や正義をめざしているのだから、偏ることなく中立的であるべきだ、という考え方があります。考え方と言うよりも、むしろ、道徳や法を論じるときの常識的な自明の前提になっている、と言うべきかもしれません。重要な前提であることはたしかです。しかし、重要であればこそ、念入りな検討が必要です。なぜかと言えば、中立と公平は、特に政治の場においては、必ずしも同一のものだとは言えないからです。もし、中立についての狭い見方が習慣になって固定化し、そうした見方の中立性が自己目的化すると、かえって公平から遠ざかることになったり、公平を確保するための苦労を怠る口実になったりするおそれがあります。
 中立は、ふつう、二つ(あるいはそれ以上の)互いに対立する見方のいずれにも肩入れしない姿勢を意味しています。しかし、いずれの立場にも肩入れしないことも、これまた、一つの立場をとることに他なりません。
 もちろん、公平を意識した思慮的な判断の結果として中立の立場をとる場合は、積極的に評価できます。対立しているいずれの側も社会の大勢になっていなければ、性急にいずれかの立場を選択することは得策ではないでしょう。こういう場合には、僅差の多数決で決定しても、公平で妥当な決定だと感じられない人々が多く(半数近く)残ってしまいます。そのため、不満や不公平感が決定の実質的内容ばかりでなく、公平であるべき決定手続にまでおよぶことは望ましくないという判断から、あえて決定を先延ばしする選択肢を提唱することもあるでしょう。また、たとえ賛否に大きな差があっても、判断材料の不足という客観的な事実があって決定を性急にすべきでないという理由から、賛否いずれの立場にも肩入れしない場合も、こういう積極的な意味での中立とみなしてよいでしょう。いずれにしても、中立的な立場とそれにもとづく非決定が、公平や社会全般の利益の確保という観点から選択されているのであり、中立は公平や社会全般の利益という目的のための手段になっていると言えます。
 しかし、消極的な意味での中立と非選択もあります。「どちらとも言えない」という世論調査の回答に多くに含まれていそうな立場です。こういう意味での中立は、当の問題についての知見や関心が不足しているため賛否の判断ができない結果としての中立です。こういう人が社会の中で多いという事実があれば、決定を急がない方がよいという思慮的な判断の根拠にはなるでしょうが、しかし、消極的な意味での中立の立場自体に、公平性を確保する手段としてあえて非決定の態度をとるという自覚があるとは言えないでしょう。
 このように、中立に積極的なものと消極的なものの二種類があるとすると、中立と公平をつねに同一視することはできなくなります。中立的な態度だから公平を尊重しているとは必ずしも言えない、ということです。
 実際、公平の観点から見て、選択をしないという選択が望ましくない事態もありえます。対立を放置しておくのが望ましくない場合、対立するそれぞれの立場に対して妥協を促すことが必要になることもあるでしょう。また、切迫した状況であるために、両立不可能な選択肢の一方をあえて選択しなければならないこともあるでしょう。こういうときには、多少の不公平が選択の時点で避けられないとしても、一部の人々が受忍せざるをえない当面の不利益を将来的に埋め合わせることに配慮する公平な姿勢が、社会全般に求められていると言えます。この公平な姿勢が消極的な意味での中立それ自体から生じてくることは、期待できないでしょう。
 このように、中立が前向きの意義を持つのは、公平を確保する手段として考えられる場合に限られるように思えます。
 それでは、積極的な意味での中立が手段としてもたらす公平とは、どんなものでしょうか。それは個々の人間の生活において切実な価値であるとともに、ときには対立する利害を持ちながらも、それらの利害をなんとか折り合わせて共存し協力していくためにも必須の価値であると言えるでしょう。つまり、公平は、社会全員に共通する利益という意味での公共の利益(res publica)を構成する価値ということになります。
 私が強調したいのは、中立に積極的なものと消極的なものがあることを意識せずに、対立するいずれの立場からも離れたところに身を置くという中立の捉え方が習慣化して固定化してしまうことの危険性です。このような意味での中立の姿勢では、対立するそれぞれの立場への共感的理解が弱まり、公平の姿勢を保ちながら対立する立場の妥協や一時的受忍を促進しようとする動機付けが失われてしまうからです。つまり、対立する人々を共存と協力に導く志向が失われる結果になる、ということです。中立がすべて危険で望ましくないと言っているわけではありません。かつてトクヴィルが描いたアメリカの連邦最高裁判所判事のように、共通の利益の守護者として信頼され尊敬される立場であれば、そういう権威を保って共通の利益を確保するために、非党派性は欠かせないでしょう。私が今ここで批判的に言及しているのは、そのような積極的な意味での中立ではありません。
 もちろん、公平の見地から、対立するそれぞれの立場に妥協の必要性を想起させることは、言葉で言うのは簡単でも、実際には非常にむずかしい話です。カントの実践理性を体現しているような人間が仮に実在して抽象的に定言命法を説教しても、感性的な契機を超越してしまっているこの人の言葉が人々の心に響くことはないでしょう。そこまで非人間的な立場に立たなくでも、公平な第三者の視点から忠告する人の場合ですら、その人の忠告の言葉は、たとえ権威あるものと受け取られるとしても、それぞれの立場に置かれている人々にとって、幾分かは、よそよそしい冷たい響きを持ったものに感じられるでしょう。
 「あなたは癌ですが、手術をすれば50パーセントの確率で治ります」とお医者さんに宣告される場面を想像してみましょう。この宣告は、助かる可能性も示唆している冷静で客観的な判断であり、その意味で患者にとって有益であるはずです。しかし、治らない確率が50パーセントだということも意味していますから、告げられる患者にはつらい話です。患者としては、冷静で客観的な判断とともに、「治ることに賭けて頑張りましょう」という、患者の味方になって後押ししてくれる姿勢や言葉が欲しいでしょう。
 政治の場でも同じです。「ていねいな説明を心がけます」という決まり文句を形式的に繰り返すこととは違います。政治の場で主導的な役割を果たす政治家や政党の本領は、人々のそれぞれの立場に共感して味方をしつつ、思慮をめぐらして現実的に可能な選択の方向性とそれにともなう痛みやコストを示すことで発揮されます。それが使命のはずです。そういう政治家や政党が競い合いつつ、非妥協的にな対立を避けながら、協力関係を創造するという意味での創造的な妥協に向けて努力し、その結果として公平が確保される、というのが理想的なゴールではないでしょうか。つまり、政治家や政党には、それぞれを人々の感じ方や考え方を穏健化しつつ、それらの動的均衡を政治の場にもたらすという、大切な名誉ある使命がある、ということです。
 メディアや学界に関して言えば、当たり障りのない中立性ということではなく、長い目で見た場合の当事者たちの利益に肩入れする姿勢にもとづいて対立を穏健化して動的均衡へと導くという点で、政治家とは別の持ち味を発揮できるだろうと思います。弱い立場の人々を代弁し先鋭的な告発をすることも、問題の所在を認知させるという意味で重要な役割であることはたしかです。しかし、問題解決の促進には、それだけでは足りないでしょう。当事者が一時的な感情に流されずに問題解決の可能性の度合や手段について考察を深められるよう、必要な機会や知見を提供する、という大切な役割もあります。
 こういう役割は、おそらく、完璧には果たせない理想と言うべきなのかもしれません。しかし、実現に向けた一人一人の努力自体が無意味だ、不可能だ、ということではないでしょう。少しでもこの理想を念頭に置いて心身を動かせば、その度合いに比例して、正義や公平と、社会的個人的効用との一致に間違いなく貢献するはずです。その点は少なくとも、非現実的な話だとは私には思えません。