征服の権利
征服の権利

学生:グロチウスの征服説を批判する議論の中で、次の一節が出てきますが、意味がわからないところがいくつかありました。
征服の権利について言えば、それは最強者の権利以外になんの根拠も持っていない。もし、戦争が、勝者の側に、負けた国民を虐殺する権利を与えるものではないとすれば、勝者が持ってもいない権利が、負けた国民を奴隷にする権利の基礎となりうるわけはない。人は敵を奴隷にしえないときにのみ、これを殺す権利を持つ。したがって、敵を奴隷にする権利は、これを殺す権利から生ずるのではない。それゆえ、敵の生命に対してなんら権利を持っていないのに、命を助けてやるから代わりに自由を渡せというのは、不正な取引である。生殺の権利を奴隷権の上に設定しておきながら、奴隷権を生殺の権利の上に設定するのは、明らかに循環論法ではないか。(第1篇第4章、23-24頁:pp.199-200)
 まず、「人は敵を奴隷にしえないときにのみ、これを殺す権利を持つ」という文章の意味です。奴隷にできないというのは、権利の問題としてなのか、事実の問題としてなのか、どちらなんでしょう? 教師:人を奴隷にする権利は誰にもないとルソーは考えているわけですから、そういう権利がない場合にのみ、相手を殺す権利を持つ、というのでは意味不明になってしまいます。とすると、権利があるかないかはさておき、戦争状態の中で、相手がこちらの力に屈服して奴隷になることがない限り、つまり頑強に抵抗して降伏しない限り、こちらには相手を殺す権利がある、ということになるのだと思います。 学生:戦争では相手の敵を殺す権利がある、ということですね。 教師:そういうことになりますが、ただし、いくつかの限定がついています。ルソーによれば、「戦争は人と人との関係ではなく、国家と国家との関係」(20頁)ですから、敵を殺す権利が認められるのは、あくまでも、国家間の戦争で自国を防衛し敵国を屈服させることに付随せざるを得ない場合に限られています。敵国がいったん降伏したら、戦勝国やその構成員には、敗戦国の兵士や国民全般を殺す権利はありません。 学生:いったん降伏して敗者となった相手を殺す権利がないのだから、命を助けてやる代わりに奴隷になれと要求する権利もない、ということですね。
 もうひとつ、よくわからなかったのは、「生殺の権利を奴隷権の上に設定しておきながら、奴隷権を生殺の権利の上に設定する」という表現の意味です。
教師:二つの権利設定の前後を入れ替えて説明した方が、わかりやすかったのではないか、と思います。つまり、ルソーが批判の対象としている論者は、(1) まず、戦争で相手を殺す権利を征服後の権利にまで不当に拡大解釈し、これを根拠にして敗者を奴隷として支配する権利を主張し、(2) 次に、奴隷として支配しているのだから、生かすも殺すも支配者の権利だと主張しているということです。ルソーは循環論法だと指摘していますが、そもそも、戦争で敵を殺す権利を征服後の権利にまで不当に拡大する解釈がないと、この循環論法自体が成り立たないことになります。 学生:なるほど、それで納得できました。