第4篇の趣旨・投票と一般意思
第4篇の趣旨・投票と一般意思

学生:第4篇の冒頭、第1章のタイトルは「一般意思は破壊できないこと」となっています。しかし、一般意思に関する原理的な問題は第1篇と第2篇で論じ尽くされていて、その点では第4篇で新たに追加されたものはないように思えます。むしろ、ルソーの関心は、古代ローマの制度の解説に向けられているように見えます。これは、どういうことなのでしょうか? 教師:質問に答える前提として、まず、第4篇の冒頭に注目してみましょう。ルソーは次のように書いています。
多数の人間が結合して、自分たちを一体であると考えているかぎり、彼らは共同体の保存と全体の福祉とにかかわるただ一つの意思しか持っていない。そのときには、国家のあらゆる原動力は活気に満ち、単純であり、国家の格率は明快であって、光り輝いている。利害の混乱や矛盾はまったくない。共同の福祉はいたるところに明白に現われており、これを認めるには、常識さえあればよい。……この世でもっとも幸福な国民のあいだで、農民の群が樫の木の下で国事を取り決め、いつも賢明にふるまっているのを見ると、技巧や秘策を使いこなして、有名にもなるが不幸にもなる他の諸国民の手のこんだ方式を、軽蔑しないでいられようか。(第4篇第1章、157頁:p.310)
樫の木の下の農民が描かれているところですね。こういう人々がいるところでは、「利害の混乱や矛盾はまったくない」とルソーは断言しています。
学生:でも、ルソーは、利害対立がなければ政治社会を設立する必要がないことを認めていたはずです。それと矛盾していませんか? 教師:ここでのルソーの断言は、かなりトリッキーで注意が必要です。仲のいい新婚夫婦みたいに、混乱なくあっさりと意見が一致して決まる、というような言い方をしているので、やはりルソーは画一的社会をめざしているのではないか、と受け取られがちです。しかし、仲のいい新婚夫婦でも、もめることはあります。実際、ルソーは、人間が他者の利益と対立するような利己的な利益を持つことは、人間が素朴であろうとなかろうと変わりないことを認めていました。それを前提に『社会契約論』の議論は始まっています。他方で、これもすでに見たように、各個人は、そうした利己的利益の対立を克服することに、共通の利益を持っています。混乱や矛盾がまったくないのは、このような共通利益に関する各個人の理解に関してです。つまり、共通の利益への志向=一般意思という点で意見の違いがないので、法の制定に際して変な思惑が入ってもめることがなく、すんなりと決まる、ということです。
 共通の利益を政治社会の最大目的とする共和主義の言説は、この目的がおろそかにされている現状から生まれてきます。仲良くしている人たちに向かって、仲良くしましょう、と説得する必要はありません。和の大切さが説かれるのは、もめているからです。共通利益に則して公平公正であるべき法やその執行が歪曲されるとき、それが克服すべき堕落として扱われるのです。この見方を共有しているルソーは、統治担当者が部分的利益の追求から統治権力の簒奪に向かうことを憂慮しているわけです。
学生:そういう堕落の問題と第4篇は、どうかかわっているのでしょう? 教師:第4篇の趣旨は、共通利益の追求が党派的利益によって悪影響を受ける状況を念頭に置いて、一般意思=主権者の意思という抽象的な原則を説くだけでは対処できない問題を拾い上げることにあると思います。
 投票に関しては、部分的利益の志向があることを前提に、どのようにして一般意思をすくいあげるのかがテーマになっています。選挙による行政担当者の選出は、一般意思では処理できない個別的意思決定の問題として扱われます。ローマの民会に関する議論は、ジュネーヴの貴族政と市民総会を念頭に置いて、人民集会の実際の組織方法における変化や工夫をどう評価したらよいかの例解になっています。さらに、護民府、独裁、監察制度の議論では、一般意思の表現である法で対処できない問題への対応策が検討されています。最後の市民宗教の議論は、宗教的な不寛容をつうじてもたらされる特定勢力による主権簒奪への対応策に関する考察だと言えます。
 このように、それぞれの議論はすべて、政治社会が建国当時の単純さを失い、部分的利益が問題を引き起こしている状況を前提としています。一般意思がストレートに表出されにくくなっているこのような状態を対比的に際立たせるために、ルソーは第4篇の冒頭で、当初の素朴で健全な状態を想像力豊かに描いているのだと思います。
学生:いろいろな問題への対策を考えるというのが第4篇の趣旨だとすると、そこに古代ローマの例が頻繁に出てくるのは、なぜでしょうか? 前回見たように、ルソーは『山からの手紙』で、ジュネーヴ市民はローマやスパルタといった古代共和国の質実剛健な国民とは違っているので、彼らを模倣することはできないしすべきでない、と指摘していました。 教師:ルソーは、実際には、ローマを全部まるごと肯定しているわけではありません。むしろ問題点もあったことが、ここでローマを取り上げている理由です。第4篇でのルソーの基本姿勢は、ローマでいろいろな問題点が出てきた段階での対処例を、たとえ「手のこんだ」遺憾なものであっても、ジュネーヴにとって欠かせない配慮や工夫の参考例として示しておこう、ということだと思います。 学生:なるほど、わかりました。 教師:それでは前に進みましょう。第2章の投票に関しては、部分的利益志向があることを前提に、どのようにして一般意思をすくいあげるのかがテーマになっています。その意図は次の文章に示されています。
こうしたさまざまの考察から、一般意思を見分けることの難易と、国家の衰退の程度とに応じて、票数を計算し、意見を比較する方法を定めるために依拠すべき格率が生まれてくる。(第4篇第2章、161-162頁:p.314)
いちばん最初の投票、つまり、社会契約に関する意思表示は全員一致となります。一致しない人は契約しないわけですから、これは当然ということですね。その後もしばらくは、全員一致あるいはそれに近い状態が続くとルソーは見ているようですが、しかし、社会契約後の手続き論としては、最大多数の意思を一般意思とみなすという多数決原理が採用されます。
学生:多数決原理は、社会契約で認められたものだから、手続きとして正当だ、ということなのでしょうか? 教師:社会契約の条項をルソーは示していないので断言はできませんが、多数決原理は「この契約自体の帰結である」(第4篇第2章、163頁:p.315)と言っていますから、そのように理解してよいのだと思います。とはいえ、社会契約の際に、なぜ全員が多数決原理に賛同した(ことになっている)のかは、検討してみる必要があります。 学生:その理由が、私には見えてきません。それどころか、多数決原理は社会契約の帰結だと言った直後には、多数決で負けた側には思い違いがあったのだという、私には賛同できない指摘が出てきます。
しかし、ある人が自由でありながら、自分の意思ではない意思に服従を強制されるということがどうして起こりうるのか、と問う人がある。反対者たちは自由でありながら、どうして自分たちが同意しなかった法律に従うのか。
 問題の出し方が悪いのだ、と私は答える。市民は、すべての法律、彼の反対にもかかわらず通過した法律にさえ、また彼がそのどれかに違反したときには罰せられる法律にさえ、同意しているのである。国家のすべての構成員の不変の意思が一般意思であり、この一般意思によってこそ、彼らは市民であり、自由なのだ。ある法が人民の集会に提案されるとき、人民に問われていることは、正確には、彼らが提案を承認するか拒絶するかということではなくて、それが人民の意思たる一般意思に合致しているかいないか、ということなのである。各人は投票を通じて、これについてのみずからの意見を述べる。だから、票数の計算によって、一般意思が表明されたことになる。したがって、私の意見と反対の意見が勝つ場合には、それは、私が思い違いをしていたこと、私が一般意思だと思っていたものがじつはそうではなかったということを、証明しているにすぎない。もし、私の個人的意見が一般意思に勝ったとすれば、私は自分が望んでいたのとは別のことをしたことになるだろう。その場合には、私は自由ではなかったことになる。
間違っているか正しいかは、数の問題じゃないはずです。数の多い方がいつも正しいというのは、多数の専制の論理です。それに加えて、間違っているときは自由ではないというのも、自由であることを強制される、という見方の変型版とも言えそうな詭弁に聞こえます。
教師:ルソーの言い方に、例によって大いに問題があることはたしかです。でも、言っていることの評価は、ルソーが言っていることをていねいに読み解いた上でのことにしましょう。 学生:わかりました。わかりにくい議論にいらいらして、感情的な判断に短絡したようです。 教師:もどかしい気持ちはとてもよくわかります。私も同じ気持ちです。粘りと根気で取り組んでみましょう。上の文章の中で、「ある法が人民の集会に提案されるとき、人民に問われていることは、正確には、彼らが提案を承認するか拒絶するかということではなくて、それが人民の意思たる一般意思に合致しているかいないか、ということなのである」というところが、手がかりになると思います。
 まず、人民集会に提案されているのは、行政上の個別的決定ではなく、立法上の一般的決定であること、これはいいですね。
学生:はい。ルソーがそう考えていることははっきりしています。少なくとも、個別対象への露骨なえこひいきができない性質の決定です。 教師:それでも、一般的決定が、利己的利益や党派的利益で歪められる危険性は残っています。ルソーが念頭に置いているのは、そうした歪曲を少しでも排除するための提案の仕方なのです。 学生:法案にあなたは賛成か反対かと尋ねる以外に、提案の仕方があるんですか? 教師:ルソーは、あると考えています。法案が「人民の意思たる一般意思に合致しているかいないか」という提案の仕方です。 学生:投票のイメージが思い浮かびません。 教師:そうですよね。こういう提案のされ方、というか尋ねられ方を実際に経験した人は、まず、いないと思います。でも、学校での模擬投票で、こういうやり方を採用したらよいのに、と私は思っています。ともあれ、どういうことなのか、投票者が5人という単純化した例で、説明してみましょう。
 一つの法案=◆案と、代替法案=☆案があるとします。そして、次のように投票者に尋ねて投票するように指示します。「あなたを含めて5人全員が、全員にとって有益で望ましいと判断するだろう、と予測される法案を選んで投票してください。」
 投票結果は、下のようになりました。
 ◆案と予測したのは、A、B、C、Dの4名でした。☆案と予測したのは、Eの1名でした。
 いずれの予測も完全な正解にはなりませんでしたが、はずれ方にはかなりの違いが出ています。◆案の場合、予測がはずれたのは、Eという1名に関してだけでした。☆案の場合は、はずれが4名にもなっています。つまり、☆案にみんな賛成するだろうというEの予測は明らかにはずれていた(勘違いしていた)ということは、間違いなく言えます(Eが自分中心の利益に引きずられて判断をした可能性もあります)。それにくらべれば、◆案は一般意思に近似的なものとみなしてよいだろう、とルソーは考えるのです。
 要するに、この投票では、共通利益に関する投票者本人の判断を頭ごなしに否定することなく、しかし、自分以外の人々の判断についても推測を加えた投票が求められています。このように自他をみすえた慎重な判断を求めた上で、投票結果から見て共通性の高い判断を一般意思とみなすわけです。少なくとも、☆案のように、共通利益とみなしているものが、一人を除いて他の誰からもそう思われていないという場合よりも、◆案を一般意思とみなすのは妥当だろう、という考え方です。
学生:今の場合のように、両案のあいだに大きな得票差があるときはよいとしても、僅差になると一方を一般意思だとみなすのは、むずかしいように思えます。 教師:ルソーもそのことは認めていて、過半数とか3分の2以上とか、いろいろな多数の取り方を、「政治体の状態と必要」や、法案の重要性や緊急性に応じて採用すればよい、としています。 学生:結局のところ、多数は一義的には規定できないわけですね。 教師:そのとおりです。とはいえ、ここでのルソーの考え方には、大きな教訓があるように思えます。それは、多数者の意見は民意でありそれに従うのが民主主義だという考えに対して、賛成者が多ければよいとは一概に言えない、ということをきちんと理由をつけて示している点です。多数決はあくまでも共通の利益を判断するための手続きであり、しかも、そのような多数決であっても、成立に必要な多数をどう決めるには状況をふまえた思慮的判断が必要とされる、というルソーの主張は、多数の専制を助長するものではなくて、むしろ、共通利益の観点から多数の専制に対抗する論理を含んでいます。また、それとともに、多くの人々が反対しているのに少数者がこれこそ一般意思だと特権的に決めつけることを認めない主張でもあります。
 もう一つ付け加えて言うと、非常に重要なレベルで共通利益にかかわる案件に関しては、国論が二分されている状況では決定を棚上げし、どんな決定になるか誰にも予測できるようになったところで、つまり大多数が賛同することが見えてきたところで決定したほうがよいということも、ルソーの議論から得ることができるように思えます。
学生:どんな一般的決定でも、たとえ相対的評価にならざるをえないにしても、共通利益の実現が究極の判断基準になるわけですね。投票方式とか合理的決定については、今日でも多くのさまざまな議論があるようですが、それを検討したり評価したりする場合にも参考になりそうです。