人民集会
人民集会

学生:主権簒奪の防止策について、ルソーは第3篇第12章の冒頭で、いきなり、人民(主権者)全員の参加する人民集会を取り上げているので、これが本命の対策であることはすぐにわかります。
 でも、これは、「直接民主主義」の方が「間接民主主義」よりも民意をよく反映するから、といった話ではまったくないんですね。「間接民主主義」つまり代表者による立法は、大規模国家における民意反映の次善の策どころではなく、主権は代表されないという命題によって原理的に否定されています(補注参照)。ルソーの考え方と現代民主主義とのギャップの大きさを、あらためて感じます。
【補注】ルソーは『ポーランド統治論』では、大規模国家では代表による立法が避けられないことを認めた上で、選挙民の指示で代表を拘束する強制委任の考え方を示しています。あとは、大規模国家にならずに、人民集会を維持しつつ対外的な圧力に対抗できる力を確保するために、連邦制をとるという考え方もしています。
教師:もう、めまいは出なくなったようですね。人民集会そのものの検討の前に、ルソーの代行主義批判を見ておきましょう。そうすると、漠然とした印象論にならずに、人民集会とはどんなものでないか、という形で人民集会の特性がはっきりしてきます。 学生:ルソーは代表制を批判する前に、財政というのは奴隷の言葉だと言っていますね。次の文章です。
あの財政(finance)という語は、奴隷の言葉であって、都市〔国家〕においては知られていなかった。真に自由な国では、市民は自分の手ですべてを行ない、金銭ずくでは何一つ行なわない。彼らは自分の義務(devoirs)を免れるために金を払うどころか、義務を自分で果たさせてもらうためには、金を払うことも辞さないだろう。私は一般の意見とはかなりかけ離れた考えを持っている。私は賦役のほうが租税よりも自由に反することが少ない、と信じている。(第3篇第15章、142頁:p.299)
 これも代行主義批判だと思うのですが、「義務」という言葉が使われていて、主権者としての意思決定とは違う話のように見えます。どう考えたらいいんでしょう? 教師:義務(devoirs)は英語だったら dutiesになるんだと思います。つまり、立場や職務からして「やるべきこと」=職責ということでしょう。賦役という言葉は、たとえば道路の補修工事への動員などを想い起こさせるように、行政の指示によって住民に課せられる仕事です。ルソーの場合は「国家」が機構ではなく人民集団を意味していることを指摘した際に触れましたが、この人民集団は、行政の指示で仕事をする義務を負うわけで、本来は、実際の労働で職責を果たすべきだと考えられています。そういう仕事を金銭を支払って政府職員や請負機関に代行させることを、ルソーはここで批判しているわけです。税金は体で払え、ということです。 学生:家業が忙しいからお金で勘弁してくれという発想が、人民集会という主権行使の場合でも、忙しくて出られないから代表に任せるということにつながる、とルソーは言いたいわけですね。 教師:そういうことだと思います。 学生:でも、ジュネーヴの市民は家業に忙しいのではないでしょうか。『山からの手紙』の中で、ルソー自身が次のように言っているところを見つけました。
あなたがたはそのままでいればよいのです。そしてあなたがたの位置を見忘れてはなりません。古代の諸民族はもはや現代人の手本にはならないのです。彼らはあらゆる点で現代人とかけ離れています。とりわけあなたがたジュネーヴ人は自分の場所を離れてはなりません。仰ぎ見るような対象へ向かって行ってはなりません。人がそれらをあなたがたに示すのは、あなたがたの足もとに掘っている深淵を隠すためなのです。あなたがたはローマ人でもスパルタ人でもありません。アテナイ人でさえもないのです。あなたがたに似つかわしくないこれらの名前はほうっておきなさい。あなたがたは商人、職人であり、個人的利害、自分の仕事、自分の取引、自分の稼ぎにたえず心を奪われているブルジョワです。ブルジョワにとっては、自由さえも、無事に獲得し、安全に所有するための手段にすぎないのです。
 このような事情はあなたがたに固有の格率を要求します。あなたがたは古代諸民族のように無為な時間はありませんから、彼らのようにたえず統治にたずさわっているわけにはいきません。しかし、あなたがたにはつづけて政府を監視することができないからこそ、政府の操作が簡単に見て取れ、その過誤に容易に対処できるように、政府は設定されていなければならないのです。……(「第九の手紙」、431-432頁:pp.393-394)
教師:ルソーはローマやスパルタを理想としているとよく言われますが、この文章は、ジュネーヴ人がそれらの古代国民と同じになれないことをはっきり認めている点で重要だと思います。ルソーがジュネーヴ人に求めているのは、どんなに家業に忙しく金銭による納税が避けられないとしても、自分たちの仕事や財産を守るためにも、せめて、政府を定期的に監視する人民集会だけは代表者任せにしないことなのです。忙しい市民の都合とも両立するものとして、ルソーが人民集会を実際にどんなものと考えていたか、確認してみる必要があるでしょう。 学生:ルソーは人民集会について、政府設立時のものと、政府設立後のものの2種類を考えているようですね。 教師:そうなんですが、設立時の人民集会での議事と、政府設立後の人民集会での議事がそっくりで、しかもちょっと手を抜いて、後者を前者にコピーしているのではないか、という疑いも多少感じます。 学生:あっ、先生。そこは私も感じたところなので、私に言わせてください。設立時の集会で立法者が登場してくる段取りが全然説明されてない、ということではないでしょうか? 教師:私も同意見です。手を抜いた理由も推測できると思います。ルソーの関心は、過去ではなく現在にあります。現在のジュネーヴに提言をするときの重要な前提は、政府は契約によって設立されるものでなく人民は主権を政府に委譲しているわけでないと確認することだけです。政府を新規に設立する手順を詳しく説明する、というか想像する必要はないわけです。今、喫緊の課題となっているのは、この重要な前提をふまえて、設立した後の政府が堕落するのをどう防ぐかという問題です。
 でも、手抜きの疑いあり、ということでこちらが手を抜いてはいけないので、二つの人民集会について、ルソーがどう言っているか、確認しておきましょう。
学生:はい、まず、政府設立の際の人民集会についてです。
それでは、政府を設立する行為を、どのような観点から考えるべきであろうか。私はまず、この行為は複合的であって、他の二つの行為、すなわち、法の制定と法の執行からなっていることを指摘しよう。
 第一の行為によって、主権者は、かくかくの形態のもとに政府という団体が設けられるべきことを定める。この行為が法であることは明らかである。
 第二の行為によって、人民は、設立された政府をゆだねるべき首長たちを任命する。ところで、この任命は特殊的な行為であるから、第二の法ではなくて、たんに第一の法の帰結であり、政府の一つの機能である。(第3篇第17章、150頁:pp.305-306)
 次に、その後の定期的な人民集会についてです。
社会契約の維持のみを目的とするこの集会は、開会にあたって、つねに次の二つの議案を提出しなければならない。これらはけっして省略されてはならないし、また、二つは別々に投票に付されなければならない。
第一の議案――主権者は、政府の現在の形態を保持することをよしとするか。
第二の議案――人民は、現に統治を委ねられている人々に、今後もそれをゆだねることをよしとするか。(第3篇第18章、154頁:p.309)
 いずれの場合でも、第一の決定は法の制定(一般的決定)で、第二の決定は行政的判断(個別的決定)です。 教師:第二の決定が行なわれる局面で、人民集会のすご技的な変身術が紹介されます。むしろ、ルソー本人の理論的すご技と言うべきでしょうか。この瞬間に主権者全員は、個別的決定を行なう行政官に変身するわけで、つまり、民主政の状態になります。設立時の場合について、ルソーは次のように述べています。
このように、一般意志の単一の行為によって現実に政府が設立されうるということ、これが民主政体に特有の利点である。そのあとで、この仮の政府は、その〔民主政の〕形態が採用されることになれば、そのまま政権をとり、そうでなければ、法によって規定された政府を、主権者の名において設立する。こうして、万事が規定どおりに行なわれる。(第3篇第17章、151頁:pp.306-307)
 ジュネーヴのような貴族政の場合は、第二の決定が完了するまでの一瞬が民主政ということになります。私は「瞬間民主政」と呼んでいます。 学生:「瞬間民主政」は、政府設立後の定期集会でも毎回出現していることになりますね。でも、主権者の意思・プラス・主権者から行政担当者に変身した人々の意思が表明されるということは、そのたびに政府の形態や実際の為政者の首をすげ替えることも可能ということですから、定期的に革命のチャンスみたいなものが到来していることになります。ジュネーヴ国制の保守を望んでいるルソーとしては、危険な議論に入り込んでいるのではないでしょうか。 教師:その通りです。前回出てきた「統治担当者を主権者である人民が選挙で選ぶ」ことの理論的・実践的な困難はここにあります。
 人民集会で為政者を選ぶという議論は、当時のジュネーヴ当局者としても、断じて見過ごせない危険なものと思ったことでしょうね。ルソー本人も、多人数の集会が持つ危険性はわかっていました。『山からの手紙』で、ルソーは次のように言っています。
大きな集団が騒ぎ立てれば、多くの弊害を生むことはありうることです。多人数の集会では、たとえそれが正規のものであろうと、各人が好き勝手なことを言い、好き勝手なことを提案できるとすれば、ばかげた話に耳を傾けることにもなりかねず、それは大変な時間の浪費であろうし、またそれを実行に移す危険がなきにしもあらずです。(「第七の手紙」、367頁:p:321)
 にもかかわらず、人民集会は絶対に必要だとルソーは考えていますから、その開催方法について、いろいろと慎重な限定を加えています。集会は定期的であること、臨時の場合は所定の形式に則して必ず行政官が招集し、それ以外の集会は違法であること、等々です。さらに、ルソーが提示している定期集会の議案も、政府形態の現状維持に賛成しますか? 今の統治担当者の留任を認めますか? という具合で、まるで株主総会での経営陣からの提案のようであり、変革好きの人から見れば実に手ぬるいものになっています。ルソーが貴族政のジュネーヴ政府による主権簒奪の歯止めとして力説した人民集会は、このような穏健なものだったわけです。少なくとも、ルソー自身はそう思っていたのです。
学生:ジュネーヴの貴族政政府による主権簒奪を防止するために人民集会(市民総会)を穏健な形で機能させるという点が、『社会契約論』でルソーが最も言いたかったことであり、これまで見てきた『社会契約論』の議論の到達点であるわけですね。ただ、それだと、その後の第4篇はどうなるのでしょう。ルソーのローマ愛好癖による補遺ということでしょうか?
教師:ルソーの切迫した危機意識を考えると、説得効果を弱めるような冗長な議論をする理由も余裕もなかっただろうと思います。第4篇が『社会契約論』の四分の一程度のボリュームを占めているのは、「市民宗教」のように、ジュネーヴにとって重要なトピックをどんどん詰め込んだ結果だと思います。次回以降、そういう観点から、もう少し検討を続けてみましょう。 学生:市民宗教の問題は、大いに関心があります。次回以降も楽しみにしています。