民主政体(la constitution démocratique)はこれまで正しく検討されて来ませんでした。それについて語った人々はいずれも、それがわかっていなかったか、それについてあまりに乏しい関心、あるいはそれを偽りの光のもとに提示する関心しか持ちませんでした。彼らのうちだれ一人として、主権者と政府、立法権と行政権とを十分に区別していません。これら二つの権力が明確に区分されている国家はありません。むしろ、それらを一つにすることが好んで追求されてきたのです。ある人たちは、民主制(démocratie)とは全人民が行政官でありかつ裁判官である政体のことだと思いこんでいます。他の人たちは、政府の指導者を選ぶ権利のうちにのみ自由は存すると考え、しかもこれまで君主にしか従ったことがないので、命令するものがつねに主権者であると信じこんでいます。民主政体(la constitution démocratique)はたしかに政治技術の傑作です。しかし、その技術が素晴らしいものであればあるほど、ますます、それを見透す眼がだれにでも備わっているというわけにはいかなくなるのです。(「第八の手紙」、381頁、p.333) |
だから、貴族政には、自然的なもの、選挙によるもの、世襲によるものの三種類がある。最初のものは、素朴な人民にしか適しないし、第三のものはあらゆる政府のなかで最悪である。第二のものがもっともよい。これが本来の意味の貴族政である。(第3篇第5章、105頁:p.268) |
この制度〔貴族政〕には、二つの権力がはっきり区別されるという利点のほかに、その政府の構成員を選抜できるという利点がある。なぜなら、人民政体(le Gouvernement populaire)の場合には、すべての市民が生まれながらにして行政官であるが、貴族政は彼らを少数に限定し、しかも選挙によるのでなければ、行政官になりえないからである。この方法を通じて、誠実、知識、経験、その他公衆の選好と敬意をかち得たすべての理由が、そのまま以後の善政の保証となる。 そのうえ、集会はいっそう容易に行なわれ、問題はいっそうよく討議され、より秩序正しく、より敏速に処理される。外国での国家の信用は、無名の、あるいは軽視されている民衆によるよりも、尊敬すべき元老院議員によるほうが、いっそう保ちやすい。 一言で言えば、自分たちの利益のためではなく、民衆の利益のために民衆を支配することが確かな場合には、もっとも賢明な人々が民衆を統治するのが、もっともすぐれた、もっとも自然な秩序である。いたずらに政府機関をふやしてはならず、また、選ばれた百人の人でずっとうまくやれることを、二万人でやるべきでもない。…… 貴族政に独特のとりえといえば、よい民主政の場合のように、法の執行が公衆の意思から直ちに出てくるような、それほど小さな国や、それほど素朴で正直な人民を必要としない、ということである。 しかし、貴族政は人民政体よりも少ない徳しか必要としないとはいえ、やはりそれは、富者の節制や貧者の満足というような、貴族政に固有の他の徳を必要とする。なぜなら、厳密な平等は、そこではふさわしくないようだからである。…… なお、この政治形態が財産のある程度の不平等を許すとしても、それはまさに、一般的に言って公務の処理を、自分の時間のすべてをもっともよくそれにささげることのできる人々にゆだねるためであって、アリストテレスが言うように、富者をつねに優先するためではない。逆に、貧者を選ぶことによって、富よりももっと重要な選考の理由が人間の値打ちのなかにあることを、ときとして人民に教えることが大切である。(第3篇第5章、105-107頁:pp.268-269) |
しかし、この政体においては、〔政府という〕団体が自分の利益のために、一般意思の規準にもとづいて公共の力を働かすことが少なくなり始め、また、他の避けえない傾向により、執行権の一部が法律から取り除かれる危険があることに注意しなければならない。(第3篇第5章、106頁:p.269) |
特殊意思が、たえず一般意思に対抗して働くのと同じように、政府は不断に主権に対抗しようと努める。この努力が増せば増すほど、国家構造はいよいよ悪化する。そしてこの場合、統治者の意思に抵抗して、それと均衡を保つような他の団体意思は存在しないから、遅かれ早かれ、統治者がついに主権者を圧倒して、社会契約を破棄するときがくるに違いない。これこそ、ちょうど老いや死が、ついには人間の肉体を破壊し去るのと同様に、政治体の出生の当初から、たゆみなくそれを破壊しようとしているところの、生命に固有な避けがたい悪なのである。(第3篇第10章、129頁:pp.288-289) |