貴族政とジュネーヴ
貴族政とジュネーヴ

学生:前回の議論のあと、あらためて『山からの手紙』をパラパラとめくっていたら、次のような文章があるのに気づきました。
民主政体(la constitution démocratique)はこれまで正しく検討されて来ませんでした。それについて語った人々はいずれも、それがわかっていなかったか、それについてあまりに乏しい関心、あるいはそれを偽りの光のもとに提示する関心しか持ちませんでした。彼らのうちだれ一人として、主権者と政府、立法権と行政権とを十分に区別していません。これら二つの権力が明確に区分されている国家はありません。むしろ、それらを一つにすることが好んで追求されてきたのです。ある人たちは、民主制(démocratie)とは全人民が行政官でありかつ裁判官である政体のことだと思いこんでいます。他の人たちは、政府の指導者を選ぶ権利のうちにのみ自由は存すると考え、しかもこれまで君主にしか従ったことがないので、命令するものがつねに主権者であると信じこんでいます。民主政体(la constitution démocratique)はたしかに政治技術の傑作です。しかし、その技術が素晴らしいものであればあるほど、ますます、それを見透す眼がだれにでも備わっているというわけにはいかなくなるのです。(「第八の手紙」、381頁、p.333)
 貴族政の話に入る前に、この「民主政体」と政府形態としての民主政との異同について、先生の考えをうかがわせてください。 教師:私の考えでは、ここで民主政体という訳語があてられているもの(la constitution démocratique)は、人民主権の国家体制=共和国の政治体制を指しています。まだ、必要にして十分な理由を示せるわけではありませんが、constitution と form of government をルソーが区別していることで、おおよそのところは説明できると思います。
 ルソーによれば、主権者と政府の区別がつかないまま、政体=国制の伝統的分類を考えている人は、民主政は主権が人民にある国制であり、だからこそ政府も人民が担うのだと「思いこんで」いるのです。たしかに、ルソーも、人民自身が統治担当者となる政府形態を民主政と呼んでいますが、この政府形態が人民主権の必然的結果だとは思っていませんし、むしろ、前回の最後に見たように大いに問題があると考えています。そういう民主政を同時に、「政治技術の傑作」と呼ぶことは、ちょっと考えられないでしょう。だとすると、ルソーの議論の中でdémocratique な要素を含んでいるものは、人民が主権者であるという考え方しか残っていません。人民主権の国制が「政治技術の傑作」だと言えるのは、これから見るように、少数者から構成される政府が、人民全体の監視とチェックのもとで、着実かつ公正に統治を行なう仕組になっているからです。しかし、この点がよく分かっている人は残念ながら少ない、とルソーは嘆いているわけです。
学生:先生のお話の最後の部分で、もうすでに、少数者が統治する政府形態=貴族政という今回のテーマに入っているわけですね。 教師:そういうことになります。まず始めに、どういう少数者をルソーが考えていたのかを確認しておきましょう。 学生:ルソーは3種類に分類しています。
だから、貴族政には、自然的なもの、選挙によるもの、世襲によるものの三種類がある。最初のものは、素朴な人民にしか適しないし、第三のものはあらゆる政府のなかで最悪である。第二のものがもっともよい。これが本来の意味の貴族政である。(第3篇第5章、105頁:p.268)
 選挙で選ばれた少数者がいちばんいいんですね。 教師:「選ぶ」はフランス語で élire で、選ばれた人は élite=エリートになるわけです。ただし、ルソーの念頭にあるエリートは、科挙や公務員試験のように競争試験で選ばれた人ではなく、選挙で選ばれた人のことです。ただし、実際のところは、統治担当者を主権者である人民が選挙で選ぶことですら、現実面でも理論面でもむずかしい問題がともなっています。そのことは、ルソーもよくわかっているのですが、この点は次回に取り上げることにします。
 さて、エリートが担当する統治という意味での貴族政について、ルソーはどう評価しているでしょう?
学生:民主政にくらべると、べた褒めと言えるぐらいです。教科書ではほとんど触れられることがないので、たっぷり引用したいと思います。なお、訳文の「人民政体」は「民主政」のことだと思います。
この制度〔貴族政〕には、二つの権力がはっきり区別されるという利点のほかに、その政府の構成員を選抜できるという利点がある。なぜなら、人民政体(le Gouvernement populaire)の場合には、すべての市民が生まれながらにして行政官であるが、貴族政は彼らを少数に限定し、しかも選挙によるのでなければ、行政官になりえないからである。この方法を通じて、誠実、知識、経験、その他公衆の選好と敬意をかち得たすべての理由が、そのまま以後の善政の保証となる。
 そのうえ、集会はいっそう容易に行なわれ、問題はいっそうよく討議され、より秩序正しく、より敏速に処理される。外国での国家の信用は、無名の、あるいは軽視されている民衆によるよりも、尊敬すべき元老院議員によるほうが、いっそう保ちやすい。
 一言で言えば、自分たちの利益のためではなく、民衆の利益のために民衆を支配することが確かな場合には、もっとも賢明な人々が民衆を統治するのが、もっともすぐれた、もっとも自然な秩序である。いたずらに政府機関をふやしてはならず、また、選ばれた百人の人でずっとうまくやれることを、二万人でやるべきでもない。……
 貴族政に独特のとりえといえば、よい民主政の場合のように、法の執行が公衆の意思から直ちに出てくるような、それほど小さな国や、それほど素朴で正直な人民を必要としない、ということである。
 しかし、貴族政は人民政体よりも少ない徳しか必要としないとはいえ、やはりそれは、富者の節制や貧者の満足というような、貴族政に固有の他の徳を必要とする。なぜなら、厳密な平等は、そこではふさわしくないようだからである。……
 なお、この政治形態が財産のある程度の不平等を許すとしても、それはまさに、一般的に言って公務の処理を、自分の時間のすべてをもっともよくそれにささげることのできる人々にゆだねるためであって、アリストテレスが言うように、富者をつねに優先するためではない。逆に、貧者を選ぶことによって、富よりももっと重要な選考の理由が人間の値打ちのなかにあることを、ときとして人民に教えることが大切である。(第3篇第5章、105-107頁:pp.268-269)
教師:今の引用だと、「……」のところの、貴族政の弱点に関するルソーの一言が省かれてますよね。 学生:はい。とりあえず長所だけをまとめて示すために省きましたが、それだと、貴族政には弱点がないとルソーが考えているように見えてしまうかもしれませんね。省いた部分は以下のとおりです。ここを省いたもう一つの理由として、文章の後半部分の意味がわからなかったということもあります。
しかし、この政体においては、〔政府という〕団体が自分の利益のために、一般意思の規準にもとづいて公共の力を働かすことが少なくなり始め、また、他の避けえない傾向により、執行権の一部が法律から取り除かれる危険があることに注意しなければならない。(第3篇第5章、106頁:p.269)
 「他の避けえない傾向により、執行権の一部が法律から取り除かれる危険」とは何でしょう? 教師:法による統制を執行権が免れることを指しているのだと思います。法の一般的指示の解釈は執行部の裁量に任さざるをえませんから、執行部が自分に都合のよい法解釈をして、法を骨抜きにしてしまう傾向が「避けえない」ということです。具体例としては、この引用文の直前に言及されているように、行政官の選考の形式や手続を法律で厳格に決めておかないと、行政官の解釈や裁量で選考が行なわれて、官職の世襲化=世襲貴族化が起こる、といったことがあるでしょう。 学生:「政治技術の傑作」というのは、そのような弱点に対処する方策が組み込まれている場合に言えることなのですね。 教師:ところが、そうした工夫やその必要性に多くの人々が気づいていない、というのがルソーの実感なのです。 学生:つまり、ジュネーヴ国制は「傑作」であるのに、多くの人々がそれに気づいていない、ということですね。また、そうだとすると、ジュネーヴの政府形態は貴族政、ということにもなるのですね。 教師:そのとおりです。そうでなければ、ジュネーヴへの提言を意図しているルソーにとって、貴族政を高く評価した上で、その弱点を指摘する実践的な意味がありません。
 そこで次に、この弱点が現時点でジュネーヴではとのような形で現われているのか、それについてどんな対策を提言しているのかを見ていきましょう。
学生:一般論としては、ルソーは次のように言っていると思います。
特殊意思が、たえず一般意思に対抗して働くのと同じように、政府は不断に主権に対抗しようと努める。この努力が増せば増すほど、国家構造はいよいよ悪化する。そしてこの場合、統治者の意思に抵抗して、それと均衡を保つような他の団体意思は存在しないから、遅かれ早かれ、統治者がついに主権者を圧倒して、社会契約を破棄するときがくるに違いない。これこそ、ちょうど老いや死が、ついには人間の肉体を破壊し去るのと同様に、政治体の出生の当初から、たゆみなくそれを破壊しようとしているところの、生命に固有な避けがたい悪なのである。(第3篇第10章、129頁:pp.288-289)
 そのあと、政府の堕落の仕方として、政府の縮小と国家の解体が挙げられています。政府の縮小とは政府構成員が減少し権力集中が進むという、手を加えなければ必ずそうなる自然的傾向です。国家の解体については、二つの形があるとされています。一つは、統治者が主権を簒奪する場合で、この場合は主権者であった人民が主権者団体から排除されることになるので、つまり、社会契約が破棄されたことになり、人民は自然状態に戻ります。もう一つは、政府構成員の一部が政府権力を簒奪する場合です。 教師:ロックなら「政府の解体」と呼ぶような事態です。ただし、ロックの場合は、そういう事態になっても、国民共同体は存続しています。ルソーの場合はもっと深刻に、一体化していた人民集団がばらばらになるという意味での「国家の解体」とみなしているわけです。危機状態の中のどの段階に論者が置かれているのかの違いが反映している感じがします。 学生:どういうことでしょう? 教師:手短かに言うと、ロックはすでに信託違反をしている政府に対する自分たちの実力による抵抗を正当化し、それに対する支持を国民全般から得ようとしているのに対し、ルソーはまだ、危機が進行し始めている段階で説得によってそれを阻止しようとしているということです。仮に、「国家の解体」寸前の状態だったら、人民はばらばらの自然状態に戻るというルソーの指摘は、ジュネーヴ国家の死亡宣告になってしまいます。そうなってしまったら、もう二度と人々は完全な白紙状態に戻れませんから、白紙状態での出発が前提の社会契約は不可能になります。 学生:そうなると、ジュネーヴ救済のストーリーはもし書けたとしても、かなり違ったものになったでしょうね。 教師:だと思います。ただ、反実仮想の話を続けても仕方がないので、次に、危機に対してルソーが実際に提案している防止策に進もうと思いますが、少し時間がかかりそうです。次回にまわしていいですか? 学生:はい、それでかまいません。予習範囲は、第3篇第12章「主権はいかにして維持されるか」以降、第3篇の残りの部分ということですね。準備しておきます。それと、今日の話の中で出てきた点ですが、統治担当者を主権者である人民が選挙で選ぶことにともなう困難、という点についても、次回、説明をお願いします。