人民主権と民主政
人民主権と民主政

学生:ルソーが民主主義者とみなされる理由は、民主政を肯定的に論じているというか、少なくとも肯定的に論じているように見える、という印象論だけではなくて、正当な政治的義務の根拠を、政治社会の構成員全員の同意に置いていて、構成員全員が一般意思の主体であり、主権者であると主張している点にもあるように思えます。つまり、人民主権を説いている点が大きな理由になっているのではないでしょうか。
教師:ルソーが人民主権論者であり、国王や貴族だけが主権者だという考えに反対しているのはたしかです。人民主権論者であれば、民主主義者じゃないか、という考えもわからなくはありません。でも、その場合の民主主義のイメージと、ルソーが人民主権でイメージしていた政治社会とはずいぶん違っていることも事実です。あとで取り上げますが、人民主権なのに君主や貴族が統治を担当することは理論的に可能であり、現実的にもありうることだとルソーは考えています。これは、現在のイギリスのように、君主がいても国民主権が確立していて君主は統治に関与しない原則になっているという話ではなくて、君主や貴族が本当に統治担当者になっている、という国家形態です。
 もう一つ重要な点は、以前にも話題になりましたが、市民とか人民と言っても、ルソーの場合、それは社会の中の一部の人々のことで、主権者としてカウントされない人たちがかなりいる、ということです。これは、ルソーに限られたことだけではなく、フランス革命後の19世紀になっても、まだごくふつうの見方でした。西洋の先進諸国ですら、男女普通選挙権が導入されたのは20世紀の前半、国民全員が全体戦争に巻き込まれるようになってからのことでした。まだ、100年経つか経たないかのことです。主権者がいわば特権階級に限られていたときの人民主権論と、男女普通選挙権を自明の前提としている現代社会での民主主義論とのあいだには、前者は現代民主主義へと向かう一歩だったが歴史的限界もあった、という言い方では説明できない大きな違いがあるように思えてなりません。
 ルソーを現代民主主義の観点から先駆的な民主主義者だとする考え方がどういうものか、うまいたとえではないのですが、ひとまず暫定版を示しておきましょう。
 仮に、ラーメンの起源は日本ソバだという見方があったとします。そして、ラーメンを発明し進化させてきた人々は、さまざまな点で日本ソバを参考にしていたという事実もあったと仮定してみましょう。そうだとしても、日本ソバにラーメンの萌芽が存在していたという言い方は、ラーメンに関するある種の説明にはなるのかもしれませんが、日本ソバの姿や特徴そのものの説明にはなっていません。また、日本ソバにはラーメンへと展開する潜在的要素があったという言い方をしてしまうと、これはもう、結果を架空の原因に言いかえているだけで、悪い意味での形而上学的議論です。
 こういう議論を前提に「歴史的位置づけ」を行なって過去のさまざまな出来事や思想を成績評価するような歴史を参照しても、位置づけられたものに関する知見が深まるようには思えません。しかも、物事はひとりでに変化したり発展したりするわけではありません。その時々に生じていた具体的問題を処理し制度や慣行の改良にかかわった生身の人間がいるはずです。そうした人々の感じ考えたことは、私たちの時代が抱えている課題に対する答そのものを提供しているわけではないにせよ、現在の問題はどんなものなのか、自分たちの思考枠組そのものに問題はないのかを考えてみるときに、ヒントを与えてくれるかもしれないのです。
 おっと、またまた、脱線してしまいました。
学生:はい、「ルソーが人民主権でイメージしていた政治社会」というところに戻っていただけると助かります。
教師:端的に言うと、ルソーは、正当な政治的義務を生じさせることのできるすべての政治社会は、人民主権になっていると考えていた、ということです。ルソーの国家は権力機構ではなく、人々の共同体でしたよね。それは一般意思の主体ですから、主権者共同体です。その一方で、この共同体は、一般意思に服従する臣民(被治者)の共同体でもあります。ですから、共同体構成員全員の正当な服従義務は、共同体の構成員全員が主権者である場合に限られます。この構成員全員をルソーは「人民」とも呼んでいるので、ルソーは人民主権論者だと言えるわけです。
学生:それは、人民の自治という意味でデモクラシーとは言えませんか?
教師:自分たち(auto)で作ったルール(法=nomos)に自分たちが従うという意味で、自律(autonomy)だとは言えます。だからといって、必然的に、自分(self)を自分で統治する(govern)するという意味での自治=自己統治(self-government)になるわけではありません。なぜなら、すでにくり返し見たように、ルソーは、主権者(法の制定者)と統治者(法の執行者)とを、はっきりと区別しているからです。
学生:一般的決定と個別的決定の区別、ということですね。
教師:そうです。社会契約は、あくまでも主権者団体を設立する契約であって、執行者として統治権力を行使する個人や団体と被治者との契約ではありません。ロックのように政府は信託されたものだという言い方をルソーはしていませんが、それでも、主権者と政府との関係は、政府に主権を譲り渡すような契約の関係ではなく、あくまでも主権者の一般的指示に従うという条件のついた業務委託の関係です。そのことは、もう少し後の第3篇で、次のようにはっきりと述べられています。
以上の説明から、次のような結果が出てくるが、これは〔第3篇〕第16章で述べたことを確認するものである。すなわち、政府を設立する行為は、けっして契約ではなくて、一つの法であること、執行権を委託された人々は、けっして人民の主人ではなく、その公僕であること、人民は、好きなときに、彼らを任命し、また解任しうること、〔公僕である〕彼らにとって、問題は契約することではなく、服従することであること、彼らが国家から課せられた職務を引き受ける場合、彼らはただ市民としての義務を果たしているにすぎず、その条件についてとやかく言う、どんな権利も持ってはいないこと、以上である。(第3篇第18章、152頁:p.307)
学生:一般的決定をするのは主権者だというのはよくわかるのですが、主権者はなぜ個別的決定をすべきではないのか、まだ、はっきりわかっていないように思います。あらためて確認させてください。ルソーの次のような指摘をその理由と考えてもよいですか?
一般意志が、なんらかの個別的な限定された対象に向かうときは、われわれに無縁のものについて判断しており、われわれを導く真の公平の原理を持っていないわけだから、その場合には一般意志は本来の公正さを失う・・・。(第2篇第4章、50頁:p.222)
一般的な見地に立つ限り、個別事例については公平な判断ができないということですね。一般意思の正しさという問題に戻ることになってしまいますが、どうして個別事例では公平な判断ができないのか、やはり、自分にはまだわかっていないみたいです。
教師:問題は、一般的な規則を個別事例に適用する場合、それが妥当な適用であると言える基準は何なのか、ということにかかわっています。ルソーもくわしく説明していないし、私も正直言って、まだすっきりした説明ができないんです。とはいえ、一般的な規則の個別事例への適用は、裁判官が過去の個別の事件について法を解釈して判決を下すときや、行政官がこれから着手する個別の事業のために法律を適用して予算を割り振るときに限られません。われわれも日常的にやっていることのように思えます。年齢や性格の異なる自分の子どもたちを、それらのちがいを考慮しながら公平にかわいがる、といった例が思い浮かびます。けっこうむずかしいですが、絶対に無理という話ではない。なんとかうまくできていることなら、くよくよ考えなくてもいいじゃないかという意見もあるでしょうが、うまくできていない場合もしばしばあるので、やはり、理解を少しでも高める必要があるでしょう。判断力の問題だとすると、論理的推論のアルゴリズムというよりも、範型による判断の問題なのかもしれません。ある図形を三角形と判別するのは三角形の論理的定義によってではなく、頭にある三角形のイメージとの照合によってである、といった感じの話です。この点は、型の問題として、以前少し考えたことがあります。
 ともかく、まだ勉強不足・力不足なので深入りできないのですが、さしあたり言えそうなのは、実際の判断の経験を積まないと、個別事例での公平さの確保はむずかしい、ということです。その点を念頭に置いて見ると、一般的判断にもとづく決定と個別的判断にもとづく決定を区別するルソーの立場は、一方で、自分の利益の中に含まれている共通利益に関しては健全な判断ができる一般市民、ただし、個別事例の判断に関しては自他のいずれの場合でも私情を棚上げにして判断するという経験がほとんどない市民、他方で、個別事例において利害当事者たちから不平不満ができるだけ出ないようにする経験を積んでいる専門家、ただし、部外者からの抑制がないと自分の帰属する集団の利益を判断に絡ませる可能性のある専門家、という二分法にもとづいているように思えます。
学生:アテネの民主政に関してルソーは次のようにコメントしていますが、これも、そうした二分法を反映しているんでしょうか。
このように、特殊意思が一般意思を代表できないのと同様に、一般意思も、特殊的な対象を持つ場合には、その性質を変え、人間についても事実についても、一般的なものとして判決を下すことができなくなる。たとえば、アテナイの人民が、その首長たちを任命あるいは罷免し、ある者には名誉を与え、他の者には刑罰を科し、また多くの特殊的な政令によって政府のあらゆる行為を無差別に行なったとき、人民はもはや厳密な意味での一般意思を持っていなかった。人民は、もはや主権者としてではなく、行政官として行為したのである。(第2篇第4章、51頁:pp.222-223)
教師:そうだと思います。この一節は、民主政に関するルソーの議論へと移っていくときのターニングポイントとしておあつらえ向きかもしれません。
 人民が裁判を担当したり、首長を任免したり、政令による行政行為を行なう場合、それらの行為が主権者の行為とは言えないのは、いずれも個別的決定による行為だからです。
 しかも、ルソーはこのように指摘することによって、伝統的にはしばしば非難の的になっていた民主政から切り離す形で、人民主権を擁護しているようにも見えます。20世紀になると民主主義に万歳三唱する立場から、アテネ民主政を賞賛する傾向が強まりました。代表制の「間接民主主義」よりも民意を忠実に反映できる「直接民主主義」のお手本だ、という主張もあるほどです。しかし、19世紀までは、アテネ民主政がもたらした混乱への言及は、民主政に対する批判の常套手段でした。
学生:なんだか、「皆さん、○○党政権時代は混乱ばっかりだったじゃないですか」という言い方に似てますね。 教師:ともかく、ルソーの議論が示唆しているのは、混乱の原因は人民主権ではなく、主権者である人民が本筋をはずれて行政に手を出したことにある、という点です。これは、ルソーの場当たり的な思いつきではありません。一般的決定である立法と個別的判断による行政の仕事との区別という、アリストテレス以来の伝統的区別をふまえた指摘です。のちにミルも、同じ指摘を繰り返すことになります。 学生:第3篇の冒頭にある、主権者と政府との違いという次のような議論も、同様なのですね。
すでに述べたように、立法権は人民に属し、人民以外の何ものにも属しえない。これに反して、先に明らかにした諸原理によって、執行権は、立法者あるいは主権者としての一般者には属しえないことが容易にわかる。なぜなら、この権力は特殊的な行為からのみなるものだからである。……それゆえ、公共の力にとっては、この力を結集し、一般意志の導きのもとにこれを行使し、国家と主権者とのあいだの連絡を営む機関が必要であって、この機関は個人のなかで魂と肉体を結びつける役割を、いわば公的人格のなかで果たすものなのである。ここに、国家において政府が存在する理由がある。政府は不当にも主権者と混同されているが、じつはその代行機関にすぎない。(第3篇第1章、88頁:p.253)
教師:ルソーが、主権が誰にあるかで政体=国制を分類するやり方を批判して、分類は正しくは政府形態の分類なのだ、と主張していることにもつながります。正当な政治的義務を課すことのできる政治社会はすべて人民主権であって、それらの政治社会のあいだで違いがあるとすれば、それは環境や国の規模や人民の性質などに起因する政府形態の違いなのだ、というわけです。ルソーは、次のようにも言っています。
だから私は、法律によって統治された国家を、その政治形態がなんであろうと、すべて共和国(République)と呼ぶ。なぜなら、その場合においてのみ、公共の利益が支配し、公共の事柄が軽視されないからである。正当な政府はすべて共和的である。
〔原注〕この語によって、私は貴族政または民主政だけを意味しているのではなく、広く一般意志――つまり法――によって導かれるすべての政府を意味している。正当な政府であるためには、政府は主権者と混同されてはならず、主権者の執行機関でなければならない。そのさいは、君主政でさえ共和的である。(第2篇第6章、61頁:p.230)
一般意思=法に導かれる政府とは、人民主権の下にある政府です。そういう政府として、民主政ばかりでなく、貴族政や君主政もある、と言っているわけです。ルソーのようにここまではっきり言い切る例はめずらしいかもしれませんが、君主に外交軍事面での実権が残されていた頃のイギリスを、偽装した共和政などと呼ぶことも、共和主義的な言説ではありえた話です。
学生:人民主権の同義の言葉は、民主政ではなく、共和政・共和国なのですね。
教師:そうです。これでようやく、政府(行政組織)の形態としての民主政を取り上げるところまで来ました。今回の最初に、ルソーは「民主政を肯定的に論じているというか、少なくとも肯定的に論じているように見える、という印象論」という言い方を君はしましたが、私としては正直言って、そういう印象を与えるようなことを、ルソー自身が言う意味での(政府形態としての)民主政についてルソーが実際にどこで言っているのか、大いに疑問に思います。ルソーは民主政を取り上げた章のいきなり冒頭から、次のように、民主政の問題点を指摘しています。長くなりますが、重要なところですので、該当部分全体を引用しておきましょう。
法律をつくる者は、それをどのように執行し、また解釈すべきかということを、だれよりもよく知っている。だから、執行権が立法権と結びついている政体(constitution)以上に、よい政体はありえないように思われる。しかし、まさにそのことが、この政府をある面では不備なものにしているのである。というのは、区別されるべきものが区別されていないため、同一の人格にほかならない統治者と主権者とが、いわば政府のない政府を形成しているにすぎないからである。
 法律をつくる者がこれを執行することや、また、人民という団体が、一般的な目的から注意をそらせて、特殊的な対象にそれを向けることはよくない。公務に私的利害が影響を及ぼすことほど危険なことはなく、政府による法の乱用も、立法者が特殊な目的を持ちこむことで必然的に陥る腐敗にくらべれば、まだしも弊害が少ない。その〔腐敗の〕場合には、国家はその根本において悪化しているわけだから、いかなる改革も不可能となる。統治権をけっして乱用しないような人民であれば、独立をも乱用しないであろう。つねによく統治する人民であれば、統治される必要もないであろう。(第3篇第4章、101-102頁:p.265)
第一パラグラフで示されているように、主権者が統治者になっている場合が、ルソーの考える民主政なのです。第二パラグラフでは、その本質的な危険性が指摘されています。
学生:たしかに、この文章のあとさらに、民主政の問題点とか、困難で厳しい成立条件の話が続いていますね。 教師:そして、それらの条件をクリアし、問題点をすべて克服できるのは、「神々からなる人民」しかいないので、民主政は人間には不適合だという断言で、この章が終わっています。 学生:だとすると、『社会契約論』で擁護しようとしてるジュネーヴの政府形態は、どうなるんでしょう。もし、当時のジュネーヴが民主政だったら、ここまで厳しい言い方はしないんじゃないでしょうか。 教師:いいところに来ました。でも残念ながら、そろそろ時間切れのようです。次回は,そこを考えてみましょう。