立法者論
立法者論

学生:前々回、一般意思がつねに正しいかどうかの問題を考えたとき、人民は腐敗しないが欺かれることはあるという点の検討を積み残していましたが、それと同様の記述が、立法者に関するルソーの議論の中に再登場しているのに気づきました。
一般意思はつねに正しいが、それを導く判断はつねに啓蒙されているわけではない。一般意思に、対象をあるがままの姿で、ときにはあるべき姿で見させることが必要である。……個々人は幸福がわかっていてもいても、これを退け、公衆は、幸福を欲していても、それがわからない。両者とも等しく導き手が必要なのである。……こういうわけで、立法者が必要になってくるのである。(第2篇第6章、62頁:p.231)
 各個人は、自然状態を離脱して社会状態に入るのが得策だという判断をして、社会契約をするわけですよね。そして、社会契約が結ばれた瞬間に、各人の特殊利益=個人的利益の中にある共通利益の志向が集団的なものとなり、一般意思が生まれる。その一般意思が、自分の意思の対象を見るときに導きが必要だとルソーは言ってるのですが、その対象というのは、具体的には何なんでしょう? 第2篇第7章「立法者について」の冒頭では、ルソーは、「最良の社会規範」とか、「人間に法を与えるためには神々が必要」とか言っているので、「法」ということでしょうか? でも、その前の第6章では、法は一般意思の表現だとルソーは言っています。意思を自分たち以外の誰かに与えてもらうのであれば、人民は他律的なわけで、主権者とは言えなくなるんじゃないでしょうか? 教師:お〜、どんどんと質問が出てきますね。うれしいです。『社会契約論』の中の最大アポリア〔大難問〕にふさわしい雰囲気になってきました。今回はダブルヘッダーのような長丁場になるかもしれませんが、いいですか。バイトとか大丈夫?
 【補注】「ダブルヘッダー」とは、日本のプロ野球で、日程消化のために同じチームどうしの試合を1日に2試合すること。現在では、ドーム球場が増えて雨天中止がなくなったおかげで、ほとんど行なわれていない。死語同然になっていて今の学生さんには通じないのだか、先生は気づいていない。幸いここでは、「長丁場」という言葉があったので、要点は通じている。
学生:はい、長くなっても、大丈夫です。 教師:わかりました。まず、立法者が人民に与える法についてですが、ルソーが中心的に取り上げているのは、統治やその構造に関する基本的な規範、つまり、憲法のようなものです。
 社会契約をするために集まっているふつうの人々は、自分たちの共通利益にかなった統治や統治体制を望んでいますが、その願望は自由で平等なよい統治、といった漠然としたものにとどまっています。社会契約をするまでは社会経験がない、という想定になっていますから【末尾の補注を参照】、当然、具体的な方策やルールについての知識は持っていません。人々の意図は善良で正しくても、契約の趣旨を実現する実際の仕組を考える段階で、知識や経験の不足による勘違いとか迷いとかのために失敗する可能性があります。結局、こうした点に関しては、くわしい専門家に頼らざるをえません。しかし、たちの悪い専門家にだまされる危険もあります。ルソーによれば、次のような専門家=立法者が理想だということになります。
それぞれの国民に適した最良の社会規範を発見するためには、すぐれた知性が必要であろう。その知性は、人間のあらゆる情念をよく知っているのに、そのいずれにも動かされず、われわれの性質とまったく似ていないのに、それを底まで知り尽くし、自分の幸福はわれわれとはかかわりがないのに、しかもわれわれの幸福のために喜んで心をくだき、なお最後に、進みゆく時のかなたに遠く栄光を展望しながら、ある世紀において苦労し、別の世紀においてその成果を享受することのできる、そういう知性でなければならないだろう。人間に法を与えるためには神々が必要であろう。(第2篇第7章、62-63頁:p.232)
学生:そんな超人的な立法者って、神話の中ならともかく、現実にありえるんですか? 教師:よい意味での常識、つまり良識で政治を考える人なら、ありえない、と答えるでしょうね。ルソー本人ですら、神々が必要だと言っているぐらいです。敗戦後の日本が新憲法で再出発したときの占領軍の絶大な権力と権威を念頭に、マッカーサーが立法者にたとえられることがありますが、あくまでもたとえの話です。敗戦後の再出発という条件下での外注というか外圧のメリットを示すたとえとしては、面白いと思います。当事者の日本人に任せたら(今も変わらないかもしれませんが)、意見対立がずるずる続いて旧憲法をほとんど何も変えられなかったか、あるいは妥協による変則だらけの憲法になったかもしれません。しかし、それはともかく、マッカーサーには権力欲も名誉欲も人並みかそれ以上にあっただろうし、法を与えるだけでなく自分で実際に支配もしたわけですから、ルソーの言う超人的立法者ではありえません。 学生:でも、不勉強な法学部生の自分が言うのもなんですが、憲法も政治学も勉強していないふつうの人が、そういう超人的立法者のすごさをどうやって見分けるんでしょう? 「建国者たちはやむなく天の助けに訴え」、「人間の思慮分別に訴えることでは動かしえない人々を、神の権威によって誘導する」(67頁 :p.235)。え〜、本当にこれですか? 宗教的権威に信従するんですか? 教師:そうです。 学生:ふつうの人々は自分の思慮分別から、つまり、自分の損得に関する合理的な判断から、政治社会の効用を認めて社会契約をするはずじゃなかったですか。「神の権威」なんて、どうして神権説と同レベルにまで急降下しちゃうんだろう? 教師:自由で平等な政治社会を作ろうという人々の動機は、思慮=合理性判断なんですが、政治社会の具体的な設計図を受け容れる段階では「神の権威」が必要だということです。そこは区別しておく必要があります。すべてが神の権威で片付くのであれば、契約説も不要だったはずです。 学生:でも、結局は、宗教的権威なしでは、実際の望ましい政治社会は出発できないわけでしょう? ルソーをお手本にしていたつもりのフランス革命のリーダーは、この点をどう考えたのかな。民主主義の源流だとしている教科書は、ほとんどノーコメントだし。またまた、めまいがしてきました。 教師:缶コーヒーしかないけど、これで一息入れてみて。 学生:ありがとうございます。飲みながらで失礼します。 教師:ノープロブレムです。話を続けます。ルソーは、はっきりとは言わない(言えない?)ものの、ジュネーヴにとって立法者の役割を果たした人という含みで、カルヴァンに言及していますね。これが鍵になると思います。 学生:カルヴァンは、超人レベルだったんでしょうか? 厳格さに反発した人々も多かったように思いますが。 教師:ルソー自身もカルヴァンを批判的に評価したことがあるようですが、カルヴァンが実際はどんな人物だったかはともかく、この文脈では、ルソーにはカルヴァンをジュネーヴの立法者(らしきもの)として扱う動機がありました。最初の回で、『社会契約論』は、ジュネーヴの政治体制を理想的なものとして扱い、その保守を訴えた『ジュネーヴ国制論』だと言いましたよね。それと関連しているわけです。
 『社会契約論』は、従来、フランス革命とか、戦後日本の民主化とか、政治体制の新規構築を念頭に置きながら読まれることが多かったように思います。つまり、過去を清算した上であらためて社会契約をし、政治体制を設立するための手本と受け取られてきました。たしかに、『社会契約論』は、新規に出発するかのような順序で議論が進んでいます。でも、初回で取り上げた『山からの手紙』を思い出してください。ルソーは、『社会契約論』はジュネーヴの歴史を書いていると読者に受け取られるだろうし、自分もそのつもりで書いたのだ、と言っています。この点を、後世の読者は見落としてしまいました。
 ルソーは、ジュネーヴにとって立法者の問題を、これからの問題としてではなく、解決済みの歴史的出来事として扱っているのです。保守すべき国制が素晴らしいものであれば、設計者の宗教的権威が過去にどう働いたにせよ、ともかく素晴らしい国制が受け容れられ今まで続いてきたわけですから、そのこと自体が何よりも設計者の超人性の証拠になります。だから、ルソーは、カルヴァンについて次のように言うことができるのです。
時代が移って、われわれの信仰にどんな革命が起ころうとも、祖国と自由への愛がわれわれのあいだから消えないかぎり、この偉大な人物の記憶は、いつまでも祝福されることであろう。(第2篇第7章原注、65頁:p.234)
 さらに言うと、設計者の超人性を強調すればするほど、それは、今の時代にそんなすごいやつはいない、という人々の実感に訴えつつ、既存国制を擁護することにも役立ちます。 学生:正当な政治的義務の根拠は、人々の自由で理性的=合理的な同意にあるという基本命題が、立法者の存在で危うくなるとしても、それはジュネーヴでは過去の問題で、現時点で実際によい国制があれば結果オーライということですか。なんだか、ごまかされたような気分です。 教師:冷たく突き放したくなってきたかな。でもね、自由で理性的な同意は、よい統治の論理的な必要条件だと仮定できるとしても、事実としてよい統治が確保される条件の十分な説明にはなっていません。これは、政治哲学における深遠な問題だと思います。考察をとことん突き詰めて、こういう問題が存在することをはっきり示したという点で、『社会契約論』は不朽の古典だと思います。けっして皮肉で言っているのではありません。とことん突き詰めるところが一流だ、と言いたいのです。 学生:「事実としてよい統治が確保される条件の十分な説明にはなっていない」という点は、まだ、うまく理解できていません。 教師:ルソーはここで、「理性的な同意の理性」のレベルをどの程度に想定したらよいのか、無理のない現実的な想定をすると、どんな困難が生じてくるのかという、大問題に直面しているのです。つまり、立法者のような極端なケースでなくても、ふつうの人が自分たちにとって本当に最善な統治をどこまで認識できるかという問題が生じうるのだとすると、人々が自分の利益にかなっていて合理的だと思って自由に同意すれば最善の統治が確保できるとは限らない、ということです。たとえば、財源が不十分なのに政府が国債をばんばん発行して予算の大盤振る舞いをすれば、現世代の多くは歓迎するだろうが、つけを回される将来世代は困る、といった場合です。自分の損得を考慮に入れた自由な同意かもしれませんが、後々の結果にまで配慮した合理的な同意とは言えないでしょう。他方、経験や知識があるだろうと考えて政治家や官僚に全部丸投げしてしまい監視を怠ると、ふつうの市民の生活実感と離れた方向に彼らが暴走する危険もあります。目先の利益を考えて政治家に丸投げという、両方を結合したすごいバージョンの無謀もありそうですが、そういうことを自制する程度の合理性や鑑識眼、つまり良識は、ふつうの市民に期待できないのか、どんな対策を講じたら期待できるのか、という問題です。
 この問題は、統治担当者と政治参加の資格を持つ一般市民とのあいだに知識や経験の差がある限り、程度の大小はあるにせよ、必ず生じてしまいます。これは、一般的な表現で記述できるという意味では「永遠の問題」ですが、答は状況ごとに違ってこざるをえないので、その意味では普遍的解決を許さない普遍的問題です。政治哲学が実際に直面するのは、このような性格の問題であるがふつうのように思えます。契約説の抽象的一般論だけで片付く問題ではありません。
学生:先生の今のお話は、実際の統治体制の運用に関してだと思いますが、政治体制の新設や大規模な変改の場合は、どう考えたらいいんでしょう? 教師:そもそも、ルソーの議論でなぜ立法者が必要とならざるをえなかったのかを考えるとよいと思います。その理由は、自然状態と社会状態のギャップが大きすぎることにあります。なぜ、ギャップが大きくなってしまったかと言えば、人間関係のしがらみの影響を完全に排除した自由な同意・契約こそが正当な義務の根拠だという前提に対応しようとして、自然状態という非現実的で抽象的なものを導入したからです。そのために、契約の具体的内容というところで、社会に関する経験も知識もない人々に関して、インフォームド・コンセントの条件が満たせなくなり、立法者の宗教的権威を引っ張り出さざるをえなくなったのです。
 ルソーの立法者は、マキアヴェリの言う「武装せざる預言者」のようなものですから、暴力で最善の国制を押しつけることはできません。立法者の本音としては、場合によっては「高貴なウソ」かもしれませんが、ともかく、神の権威しか頼れるものがないのです。
 神の権威に頼らないとなると、無謬のエリートとか前衛党を無条件に信じることでしょうか? でも、それは、歴史上の豊富な失敗例に目をつぶって、ということになります。それとも、カントの定言命法のような非経験的な(ア・プリオリな)観念論にもとづいて、個々人の理性に期待することでしょうか? でも、感情にまったく左右されずに公平な道徳的判断ができる人間を前提としたあの難解な議論は、ふつうの人(私も含めて)を説得するには非現実的です。そこに自律的な人間の尊厳があるのだと慰められても、やはり、各人は神のようであれという、無理なことを言われている気がするでしょう。
 立法者の権威には以上のような問題があるのですが、それでも、ジュネーヴの場合のように、過去から引き継いでいるすぐれた国制を保守するよう人々を説得することが課題であれば、解決済みの過去のものとしてやり過ごせるでしょう。「結果を原因に変える」という、立法者に託された課題は、すでに解決しているからです。つまり、立法者が与えた国制の下で、この国制の存続に必要な経験や知識や動機を今の市民はすでに獲得していて、だからこそよい国制が続いているわけですから、今さら立法者の権威が介入する必要もありません。(もっとも、実際には、ルソーの現状診断では、自分が説得に乗り出すことが必要となるような危うい事態になっているわけですが。)
 ところが、フランス革命や戦後日本の民主主義体制のように、国制を新規導入する時点の議論としては、超人的立法者など現実にはありえない、という問題にぶつかってしまうのです。新しく望ましい体制のために過去の体制を完全否定して、さらに、旧体制の影響を多少なりとも受けているという理由からふつうの人々の社会的な経験や知識まですべて完全にリセットしてしまうと、立法者問題が出てきてしまう、ということです。しかし、ルソー流の立法者は現実にはいないのですから、新しい体制でも活かすことのできるふつうの人々の経験や知識を見分けそれを伸長させる以外に、新しい体制を実際に安定した形で動かしていくことはできせん。政治革命が、文字通りに「自由を強制」したり、徹底した人間革命(つまりは非人間的な革命)を要求したりすると、無理が重なって必ず失速し、悲惨な結果になってしまいます。また、外見上はなんとか持続しているように見える場合があったとしたら、そうさせているものは何なのか(それは当初の革命の理想なのか)と問う必要があるでしょう。
 こういうふうに言うと、微温的で腰の引けた保守主義的主張だ、と受け止める見方もあるかもしれません。でも、これはイデオロギー・レベルの問題ではなく、一定の社会状況を支えたり制約したりしている社会的因果性という事実の問題です。評価の仕方はいろいろあるでしょうが、改革を望むにせよ現状維持を望むにせよ、考慮に入れるざるをえない事実を指摘している、ということです。
学生:先生が、ヒュームやバーク、ミルやバジョット、それにクリックやジョン・ダンといった、イギリスの政治思想家・政治哲学者たちに特に注目している理由が少しわかってきたような気がします。
 ところで、熱気のこもったお話はもっと続きそうですが、だいぶ遅い時間になってしまったので、今日はこれで失礼したいと思います。すみません。
教師:つい夢中になってしまい時間を忘れてました。どこかで区切ることを意識して話さなくちゃね。申し訳ないです。次回の政府論も、めまいがするぐらいに面白くなると思ってます。楽しみです。 学生:がんばって予習します。缶コーヒー、ありがとうございました。次回は、めまいにそなえて、自分で用意してくることにします。

 【補注】社会経験のない白紙の状態(いわばルソー流の「無知のヴェール」がかかった状態)での社会契約という条件設定は、立法者というアドホックな要素の必要性という難問とともに、もう一つの難問も生み出しています。つまり、ルソーが賞賛し保守を訴えているジュネーヴ国制が導入されたとき、あるいはより正確に言うと、その直前の時点で、人々は社会契約時に求められる白紙の状態だったのか、という問題です。この問題にルソーがはっきりと気づいていたことは、次のような、初期状態へのリセットという、特別の(アドホックな)例外をジュネーヴに認める議論に見て取ることができます。
ひとたび慣習が確立し、偏見が根を張ってしまうと、それらを改革しようとするのは危険で無駄な企てである。……〔もっとも〕ある種の病気が人間の頭を混乱させ、過去の記憶を喪失させるように、国家の存続するあいだには、ときとして激動の時期がやってこないともかぎらない。この時期において、ある種の発作が個人に及ぼすのと同じ作用を、革命が人民に及ぼし、過去への恐怖は過去の忘却と変わり、国家は内乱によって焼かれながらも、いわばその灰のなかからよみがえり、死の腕から脱出して青春の活力を取り戻すことがある。リュクルゴス時代のスパルタ、タルクイニウス家の後のローマはこれであり、今日においては、暴君どもを追放した後のオランダやスイスがこれである。
 しかし、こうした出来事はまれである。それは例外であって、その理由は、いつもその例外的な国家の特殊構造のうちに見いだされる。こういうことは、同一人民において二度と起こりえないであろう。(第2篇第8章、69-70頁:pp.237-238)
最後のセンテンスは、例外的に取り戻すことのできた自由が次に失われたら、自由な国制は二度とジュネーヴに戻ってこないという、ルソーの警告にほかなりません。ちなみに、この補注で示した難問は、立法者の問題とともに、ルソーの議論を社会契約の部分に絞り込み政治社会の構成原理と読み取ろうとする企てにもついて回ると思います。そうした構成原理でフランス革命や敗戦後の日本の再出発の意味を読み解こうとしたとき、はたしてこれらの難問は意識されていたでしょうか。意識されていたとしたら、どのような対処が考えられていたでしょうか。これは、古典の読み方にかかわる思想史学的な問題であるとともに、思想史自体の問題でもあり、さらに現代政治哲学の問題でもあるように思えます。