一般意思はつねに正しいのか
一般意思はつねに正しいのか

学生:次の文章で、「一般意思はつねに正しい」とルソーは断言していますが、「つねに」と言われると、本当にそうなの?と問い返したくなります。しかも、この断言に続けて、腐敗させられることはないが欺かれることはある、と付け加えられると、ルソーが何を言いたいのか、ますますわからなくなってきます。つねに正しいのに欺かれる、というのはどういうことなんでしょう?
以上に述べたことから、一般意志はつねに正しく、つねに公共の利益に向かうことになる。しかし、人民の議決がつねに同じように公正であるということにはならない。人はつねに自分の幸福を望むが、かならずしもつねに、何が幸福であるかがわかっているわけではない。人民はけっして腐敗させられることはないが、しばしば欺かれることはある。そして、人民が自分にとって有害なものを望むように見えるのは、その場合だけである。(第2篇第3章、46頁:p.218)
教師:誤っている場合、つまり「公共の利益に向かっていない」場合は、一般意思と呼べない、という応答の仕方はどうですか? 学生:一般意思の定義を言いかえているだけで、説明という感じがしません。実際に市民全般が公共の利益を追求しない場合などありえない、ということをもっと実質的に示してもらわないと、納得できないように思います。 教師:ですよね。以前の私は、そういう定義の言いかえでなんとなく納得したつもりでいたんですが、やはり、言葉の上で空回りしているようなモヤモヤした感じが残ったままでした。実際には、ルソー本人が、もう少し実質的に説明しているところもあったんです。そこを見てみましょう。
なぜ、一般意志はつねに正しく、しかも、なぜ、すべての人はたえず各人の幸福を願うのであろうか。それは、各人という語を自分のことと考えない者はなく、またすべての人のために投票するにあたって、自分自身のことを考慮しない者はいないからではないか。このことから、次の点が明らかになる。すなわち、権利の平等およびこれから生ずる正義の観念は、各人がまず自分自身を優先させるということから、したがって人間の本性から出てくるということ。一般意志は、それが本当に一般意志であるためには、その本質においてと同様、その対象においても一般的でなければならないこと。一般意志はすべてのひとから発し、すべての人に適用されねばならないこと。一般意志が、なんらかの個別的な限定された対象に向かうときは、われわれに無縁のものについて判断しており、われわれを導く真の公平の原理を持っていないわけだから、その場合には一般意志は本来の公正さを失うこと。以上である。(第2篇第4章、50頁:pp.221-222)
 ここでは、実際にどうなると一般意思が「本来の公正さを失う」のかが言及されています。ただし、公正さが失われれば結局は本来の一般意思ではなくなってしまうわけで、本当の意味での一般意思は「つねに正しい」という言い方にこだわるのであれば、それで通すことはできるのですがね。しかし、それにしても、うーむ。この訳文だとわかりにくくて、説明としてうまく伝わらないかな。 学生:はい。さっぱりわかりません。 教師:繰り返しになりますが、ルソーはあるがままの人間を前提に議論をしているのでしたね。そういう人間は、「すべての人のために投票する」、つまり公共的な意思決定に加わるときにも、自分自身の利益を優先的に考えてしまう。ここで、注意する必要があるのは、自分自身の利益ということで、ルソーがどういう自己利益に注目しているのかです。

 もう一度、個人の利益=特殊利益の図を示してみましょう。右端の共通利益は問題ないですよね。各自がここをきちんと優先してくれれば、一般意思は公平公正を保てます。また、他者の利益と衝突しない利益を各自が追求する場合も、それ自体としては一般意思を歪める要因にはなりません。問題は、明らかに、他者の利益と衝突してしまう左端の利益です。ルソーがここで問題としているのは、この意味での自己利益優先が公共的意思決定を歪めてしまうことです。これを防止することが、今ここで課題になっているわけです。あるがままの人間が前提になっていますから、利己的利益優先の根絶を期待することはできません。できるのは、利己的利益の優先が公共的決定に入り込めないようにすることだけです。つまり、公共的決定を一般的なルールの制定に限る、ということです。そのためには、公共的決定のときに、「他人をないがしろにしてもあなたにとって利益になるのは何ですか?」という問いかけはせず、「あなたにも他人にも共通の利益は何だと思いますか?」という問いかけに限定する必要があります。 【補注:この問いかけの仕方については第4篇の投票に関する議論のところで詳しく取り上げます。】
 たしかに、具体的な政策決定というか、実際の執行の際の命令(政令)の形では、執行対象として具体的な対象の指定が必要になります。指定がないと執行のしようがありません。でも、法的ルールの場合は、固有名詞を入れないのが原則です。現代法では固有名詞を入れた法もあるでしょうが(国立大学法人法には、附則の中ですけれども、法人格を持つとされる大学の固有名詞が満載です)、そういう政令的な「法」はルソーの念頭にありません。ルソーにとって、また、「法の支配」を支持する議論全般において、法はすべての人、あるいは少なくとも抽象的に定められた条件に該当するすべての人々に無差別に適用されるという一般性を持つものと考えられています。ピンポイントの露骨なえこひいきはできません。そういう法が、ルソーの言う一般意思の表現になるわけです。
学生:結局、一般的でなければ一般意思ではなく、一般的であることが正しいことなのだから、一般意思は一般的である限りではつねに誤ることがない、ということになるのですね。 教師:そうです。でも、たんなる定義の言いかえというのではなく、各個人の中の共通利益に着目する視点から、個別的決定と対比された形で一般的決定としての法が示され、そういう法の性質を確保する限りでは、主権者の意思である一般意思はつねに正しい、という形で議論の輪郭がはっきりしてきます。そして、次のような議論に展開していくことになるわけです。
全人民が全人民に関する法を制定するとき、人民は自分たち自身のことしか考えていない。そこで、そのとき、一つの関係が形成されるにしても、それは、ある見地から見た対象全体と他の見地から見た対象全体であって、全体のなんらの分割も起こってはいない。この場合、制定の対象とされる内容は、制定する意志と同じく一般的なものである。私が法と呼ぶのはこの行為なのである。
 私が法の対象はすべて一般的であると言う場合、その意味するところは、法は臣民を団体として、また行為を抽象的なものとして考えるのであって、けっして人間を個人として、行為を特殊なものとして考えるのではない、ということである。……一言で言えば、特殊な対象にかかわるいっさいの機能は、立法権には属さないのである。……主権者でさえ、特殊的な対象について命じたことは、もはや法ではなく命令であり、主権の行為ではなくて行政機関の行為なのである。(第2篇第6章、59-60頁:p.229)
学生:集団としての市民全体=主権者が、えこひいきのできない形で、各人の利害衝突に対処するルールや仕組を法として制定し、それを集団としての市民全体=臣民に対して無差別に適用する、ということですね。 教師:そうです。ただし、えこひいきのないルールの制定は非常に重要ですが、その適用もセットになっている必要があります。ルールがルールとして一般的に守られ問題発生が予防されるのは、たしかに望ましいことです。しかし、ルールは、ときどき破られることも念頭に置いて作られているわけで、そういう個別案件に関して、ルールに定められた制裁が発動され適用されるところにも、ルールの重要な存在意義があります。そこで、ルソーの議論は、一般意思の表現である法から、法の執行=統治・行政へと進んでいくことになります。 学生:あのう、先生。そこに行く前に、質問が一つ、まだ残っています。一般意思というのは、だいぶわかってきたように思えますが、ルソーは「全体意思」という言葉も使っていますよね。これと一般意思がどう違っているのか、よくわからないんです。 教師:たしかに、重要な問題点です。でも、説明を始めるとそれなりに長くなるので、回をあらためて次回のテーマということでいいですか。それと、人民は腐敗しないが欺かれることはある、という点は、立法者論を取り上げるところで説明したいと思います。 学生:そう、その点も残ってました。よろしくお願いします。