もう一度、個人の利益=特殊利益の図を示してみましょう。右端の共通利益は問題ないですよね。各自がここをきちんと優先してくれれば、一般意思は公平公正を保てます。また、他者の利益と衝突しない利益を各自が追求する場合も、それ自体としては一般意思を歪める要因にはなりません。問題は、明らかに、他者の利益と衝突してしまう左端の利益です。ルソーがここで問題としているのは、この意味での自己利益優先が公共的意思決定を歪めてしまうことです。これを防止することが、今ここで課題になっているわけです。あるがままの人間が前提になっていますから、利己的利益優先の根絶を期待することはできません。できるのは、利己的利益の優先が公共的決定に入り込めないようにすることだけです。つまり、公共的決定を一般的なルールの制定に限る、ということです。そのためには、公共的決定のときに、「他人をないがしろにしてもあなたにとって利益になるのは何ですか?」という問いかけはせず、「あなたにも他人にも共通の利益は何だと思いますか?」という問いかけに限定する必要があります。
【補注:この問いかけの仕方については第4篇の投票に関する議論のところで詳しく取り上げます。】
たしかに、具体的な政策決定というか、実際の執行の際の命令(政令)の形では、執行対象として具体的な対象の指定が必要になります。指定がないと執行のしようがありません。でも、法的ルールの場合は、固有名詞を入れないのが原則です。現代法では固有名詞を入れた法もあるでしょうが(国立大学法人法には、附則の中ですけれども、法人格を持つとされる大学の固有名詞が満載です)、そういう政令的な「法」はルソーの念頭にありません。ルソーにとって、また、「法の支配」を支持する議論全般において、法はすべての人、あるいは少なくとも抽象的に定められた条件に該当するすべての人々に無差別に適用されるという一般性を持つものと考えられています。ピンポイントの露骨なえこひいきはできません。そういう法が、ルソーの言う一般意思の表現になるわけです。