特殊利益と共通利益
特殊利益と共通利益

学生:民主主義への思想的貢献という観点からルソーを肯定的に評価する教科書でも、一般意思への服従の強制は自由への強制であるとか、一般意思は無謬だといった主張については、否定的にコメントする場合が多いと思います。フランス革命のときのジャコバン派独裁のイメージが重なっているためかもしれません。自分の実感としても、人は自由で「なくてならない」という主張に押しつけがましさを感じたり、きみは主体的で「あるべきだ」と命令するように言われて、この人は何を言ってるんだろうと当惑したりしたことがあります。 教師:たしかに、ルソーの「自由であるよう強制される」という言葉は危なさを感じさせます。もし本当に「自由への強制」が行なわれたら、強制を受ける人間の精神をくじいて荒廃させる最悪のダブルバインドになるでしょう。しかし、ルソーは一般意思の議論で、実際にそういうことを意図していたとは思えません。これはやはり、人目を惹くために、誤解を招くような逆説的レトリックを使う誘惑に負けてしまう、ルソーの悪い癖が出ている例でしょう。とはいえ、印象論にとどまらずに、そもそも、ルソーが言っている一般意思とは何だったのかを、はっきりさせる必要があります。 学生:そこが、いちばん知りたいところです。 教師:少なくとも教科書レベルの説明を読んでも、判然としないんです。判然としないまま「危ない議論だ」と言われても、どう危ないのか、危険防止策は何なのかがはっきりするはずがありません。リップマンやバーナード・クリックのようなすぐれた政治理論家ですら、ルソーが一般意思で意味していたものを読み違えているように思えてなりません。 学生:学部1年生のとき『社会契約論』を取り上げた初年次ゼミがあったようですが、初年次ゼミのテクストとしては重すぎたのですね。 教師:うーむ、そうとも言えるし、でもとりあえず読んでみて、高校の教科書でのルソーの説明ではまったく不十分なことがわかればそれだけでも有意義だとは言えるかもしれないし。それはそれとしておきましょう。
 *独り言=担当の先生は、厚さと値段が手頃だと思ったんだろうけど、初年次ゼミのテクスト選択としては失敗だったかもね。
学生:なんだか歯切れの悪いおっしゃりようですね。 教師:ともかく前進です。まずは、「自由への強制」という悪名高いところを見てみましょう。
したがって、社会契約を空虚な公式としないために、一般意思への服従を拒む者はだれでも、団体全体によって服従を強制される、という約束を暗黙のうちに含んでいるのであり、そして、この約束だけが、他の約束に効力を与えうるのである。このことはただ、彼が自由であるよう強制される、ということを意味しているにすぎない。このようなことこそ、各市民を祖国にゆだねることによって彼をすべての個人的依存から守護する手段であり、政治機構の装置と運動を生み出す条件であり、市民のあいだのさまざまな約束を合法的な者とする唯一の条件であるからだ。この条件がなければ、これらの約束は、不条理で圧制的なものとなり、大変な誤用に陥るだろう。(第1篇第7章、33頁:pp.207-208)
市民の自由を損ねるのは、「すべての個人的依存」だ、とルソーが言っている点がポイントです。個人的恣意や党派の排除こそが自由ということだという見方は、ルソーが採用しているような共和主義的な言説(ものの言い方)における基本中の基本です。市民のあいだ(為政者・統治の実際の担当者と一般市民とのあいだも含めて)の関係が一般意思に従っていないと、非公式な力関係のために、パワハラのような「不条理で圧制的」な状態が生じてくる。こういう状態でないのが社会の中での市民の自由なのだから、その自由な状態を強制によって実現し維持することは、市民が「自由であるよう強制される」と言いかえることもできる、というわけです。
 でも、これはルソーの論旨からすれば、明らかに不適切な言いかえ表現です。各市民が強制されているのは、自他の自由を確保する条件となる諸々の制約です。そのような条件と抵触せずに各人が自由に行なえる事柄が強制されるわけではないし、ましてや、各人が他者の不当な支配から自由でありたいと願望するよう強制されているわけでもありません。そもそも、自由でありたいという願望が契約当事者であり主権者である全市民に共通しているからこそ、一般意思は自由の条件を、強制力を行使してでも実現しようとするのです。
学生:あらゆる市民に共通する願望が、一般意思になるわけですね。 教師:そうです。ただし、残念ながらエゴイズムも現実の人間たちに共通していますから、もう少し厳密な言い方が必要かもしれませんが、ともあれ、よい意味での共通というのが一般意思を理解する際の鍵になります。 学生:ルソーは、そういう共通という観点から次のように書いているわけですね。
これまでに明らかにされた諸原則から出てくる最初の、そしてもっとも重要な結果は、一般意思のみが、公共の福祉という国家設立の目的に従って、国家の諸々の力を指導できるということである。なぜなら、個々人の特殊な利益の対立が社会の設立を必要としたとしても、その設立を可能にしたのは、この同じ特殊な利益の一致だからである。これらの異なった利益のなかにある共通なものこそ、社会のきずなを形成する。そこで、かりにすべての利益が一致するようななんらかの点が存在しないとすれば、どんな社会も存立することはできないだろう。社会はもっぱらこの共通の利益にもとづいて統治されなければならない。(第2篇第1章、41頁:p.214)
 でも、「なぜなら、個々人の特殊な利益の対立が社会の設立を必要としたとしても、その設立を可能にしたのは、この同じ特殊な利益の一致だからである」というのは、どういうことなんでしょう。よくわかりません。 教師:ちょうど、さっき私が「共通」という言葉をよいものと悪いものの二重の意味で使ったの同じようなことを、ルソーは「特殊」という言葉でしているんです。社会の設立を必要とさせる「特殊な利益」というのは、個人の利益のうち、追求すると他者の利益と衝突してしまう利益ですね。でも、そういう利益をみんなが追求すると、結局、みんなが困ることになります。だから、衝突をうまく避ける社会的な仕組が必要だ、何でもかんでも自分の好き勝手にすることはできなくなるにしても、こういう仕組はやはり自分の利益になるのだ、と考えざるをえない。そこに着目して、ルソーは、利益衝突を抑える仕組がもたらす利益も、それぞれの個人にとっての利益だから「特殊利益」と呼ぶわけです。「この同じ特殊な利益の一致」というときの「利益」はこの利益を指していて、それをみんなが一致して利益だと思うわけですから、各人に共通する利益だとも言えるわけです。 学生:なんだか、まわりくどいですね。 教師:同感ですが、ルソーが言っている一般意思の意味を正確に把握するために、ここは辛抱してていねいに読み取る必要があります。まず、今の議論の文脈では、利益と意思は交換可能な言葉と考えてよいと思います。つまり、特殊利益への志向が特殊意思だということですね。特殊利益とは各個人の利益ということです。

 各個人の利益には、まず、その個人に固有の利益があります。その中には、他者の利益と両立不可能な排他的で利己的な利益があるでしょう。他者の利益と衝突することのない個人的利益もあります【補注参照】。そして、これらの固有の利益の他に、他者と共通する利益、つまり、他者の利益との衝突を回避ないし緩和していく仕組を持ちそれを維持していくことの利益とがあります。
学生:図だと、少しわかりやすくなります。 教師:この図が含意している重要な点を指摘しておきたいと思います。ルソーの一般意思論を根拠に、ルソーは利害対立のない、あるいはそれを完全に抑圧してしまう画一的社会を理想としていた、と誤解されることがあります。しかし、ルソーの考えている社会は、おそらくわれわれが多様な社会としてイメージするものに比べれば単調なものだったかもしれませんが、それでも、十分にさまざまな利害が対立し続ける社会です。それが念頭にあるので、ルソーは次のように注意を喚起しているのです。
かりに、相異なる利益がないとすれば、共同の利益はなんの障害にも出会わないから、人々は共同の利益にほとんど気づきもしないだろう。すべてはひとりでに進行し、政治は技術(art)であることをやめるであろう。(第2篇第3章の原注、47頁:p.219)
 ルソーは、あるがままの人間を前提に社会契約や一般意思を議論する、という立場を最初から宣言していました。それを想い起こしましょう。各個人の利益(特殊利益)は、いつでも変わることなく、ルソーが望ましいと考える社会であっても、相互に対立する部分と、一致し共通する部分、という二つの要素からなっていて、この二つの要素があるからこそ、政治が必要かつ可能になる、とルソーは考えているのです。この政治観は、アリストテレスの政治観やそれを擁護したクリックの場合と変わらないように見えます。一般意思は、このような政治の必要性を自明の前提としているのであって、各人の利益の完全一致による政治の消滅、といった非現実的なこと、というか、めざしてはいけない危険なことを望んでいるわけではありません。 学生:個人間の利益衝突を回避するという利益が、各個人の中に共通して存在しているということなのですね。一般意思の元になるものは、各個人に内在しているわけですね。 教師:そうです。共通利益やそれを志向する一般意思は、なにか人間離れした超越的なものとして、上から個人に向かって降ってくるわけではありません。つまり、個人の特殊利益と無関係な共通の利益というのはありえないわけです。ルソーの議論は、けっして「滅私奉公」を説くものではありません。公共的なもの(res publica)は各人に共通するものであって、個人を離れたものではありません。上から降ってくるというイメージは、立法者論に主な原因があるように思えますが、これについてはあとで取り上げることにしましょう。
 ふーっ。年のせいか息が切れてきたみたいです。すみませんが、続きは次回にまわしましょう。
学生:どうか、無理はなさらないでください。準備はこの先までしていますが、急ぎませんので、次回ということで楽しみにしています。最初に一般意思の無謬性について、それから、一般意思と全体意思の関係について、質問したいと思います。

 【補注】他者の利益と衝突することのない個人的利益については、ここ(第2篇第3章)では言及されていませんが、信条の自由との関連で次のように述べられています。
社会契約によって与えられる主権者の臣民に対する権利は、先に述べたように、公共の利益という限界を越えるものではない。だから、臣民は、自分の信条が共同体にかかわってこないかぎり、その信条を主権者に向かって告げる責任はない。
原注――「共和国においては」とダルジャンソン侯は言う、「各人は、他人に害を及ぼさないかぎり、完全に自由である」と。ここに不変の限界がある。この限界をこれ以上正確に定めることはできない。…… (第4篇第8章、209-210頁:p353)
 ちなみに、「各人は、他人に害を及ぼさないかぎり、完全に自由である」というダルジャンソンの言葉は、後にミルが『自由論』で自由原理として提唱することになります。