江戸時代、荒川の源流である秩父の山に雨が降ると、一昼夜で荒川を流れ下ってきたそうである。その為、荒川に突き出した半島のような浮間一帯は、常に水害に見舞われる不幸な地形に在ったと言う。そんな場所に住まなければ良いのではないかと思われるが、水田耕作に適した立地という事もあり、当時の農民達の知恵と工夫と努力により、水塚を作ったそうである。この浮間辺りには、敷地に盛り土をして上物を建てるの常識としており、更に特に一段と高く盛り土をした土地に、建てられた非常用の建物を水塚と言う。 その水塚は、高く深い軒先には洪水時に避難出来るよう、小船を吊るしてあったし、建物の内部には非常時用の米や食料等が備蓄されていた。 現在もこの水塚は、浮間4丁目のS家や同3丁目のI家などの広大な由緒ある敷地内に今も現存されており、親切な同家の人によって我々も見学する事が出来た。 お話を伺う事もできたが、雨の多い時期は本当にこの一帯は床下浸水などは日常茶飯事だったそうであり、水害の怖さを身を持って経験なさっただけに、先人の工夫には感心させられているとの事だったが、まさに同感である。 因みに、浮間2丁目にある氷川神社は、高い盛り土(水塚)の上に社殿を作ったとの由で、水難を鎮守するに相応しい事例と言えよう。
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