2007年10月27日に開催された全国川サミットin荒川の発表まで
二ヶ月をきった時期に研究のまとめに苦しみました。
その頃教えを請うたのが、野尻靖氏と毛利将範氏、二人の先生です。
@野尻靖氏
2007年9月7日、埼玉市文化財保護課の学芸員で氷川神社と見沼について
埼玉市役所にて野尻靖氏にお話を聞いてきました。
氷川神社の祭祀について、野尻靖氏への一時間に及ぶインタビューで非常に丁寧に
わかりやすい解説をいただきましたが、祭祀についてのお話のまとめが書けずに今まで
時間がすぎました。
祭祀関係は難しく、いつになってもアップできそうもないので、野尻先生のお話を聞いた後に
出したメールを、あえてこのまま載せさせていただきます。
※下記のメールは水塚の専門家、毛利氏に教えを請うたメールです。
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Sent: Sunday, September 09, 2007 1:02 AM
Subject: お世話になります。
毛利様
お世話になります。江戸川総合人生大学2期生の佐藤です。
ご報告が遅れましたが、8/4に開催された江戸川総合人生大学祭は盛況のうちに終わりました。
しかしまた沢山の課題や問題点も見えてきて、ただいま「川サミットin荒川」にむけ、
発表のブラッシュアップすべく取り組んでおりますが、なにせ素人なので研究の取りまとめに
苦慮しております。
川サミットでは展示以外にも小ホールでの10分程度の発表という機会も与えられ、10月27日の
発表に向け作成中です。先日も埼玉市文化財保護課の学芸員であり、氷川神社と見沼について
専門家の野尻靖氏にお話を伺ってきましたが、奥が深く、ますますまとまらなくなってしまいました。
野尻氏のお話によりますと、
・氷川神社は江戸期までは氷川神として勘定されていった。
(素戔嗚尊をはじめご三柱を祭るようになったのは明治以降であり出雲出身の神様といったほうが
ありがたいという神社側の広報PRであった。)
・中世以降、修験者の活躍により氷川神は広まったと考えられる。(修験者の利益、いわゆる、「霞」のため)
・氷川神とは五穀豊穣を願う農耕民の神であり、恵みをもたらす神として迎えられた。(治水祈願ではない)
・方位線的な話について・・・海人信仰ともいえる。(三位一体神)、犯してはならない水の神、御池であった
縄文時代 から時代が下り、神の領域にはいって魚を捕るようになったのではないか。
女体神社が一番古いと言われているのでその後に創立した大宮と中山神社が、見沼をはさむ三社が
一直線に並ぶという海人信仰の祭祀をとったともいえる。
(※女体神社が本当に一番ふるいという文献はないが・・とのこと)
私としては、氷川神社の祭祀関係は諸説あれど、素戔嗚尊をほとんどの氷川神社で祭っている
ということで神の性質上あらぶる水神をなだめる神として勘定されていったといえるのではないか・・・みたいな
ものをいれ、さらに生活者の知恵としての水防施設「水塚」のフィールドワークなど盛り込んだ、プレゼンを
地図を使いながら作ろうと考えていたので、再考せねばと考えています。
野尻氏の話を百パーセント取り入れなくとも良いでしょうが、大宮氷川神社の権禰宜の馬場氏からも
フィールドワークの際、氷川神は恵みの神であり治水の神ではないという話は聞いておりますし、
ただ祭祀がいつ変わったかについての言及はありませんでしたので、てっきり平安後期かと
思っていました。
氷川神社を現時点で207社マッピングしたので、どうにか傾向を分析したいのですが、非常に難しいです。
207社の緯度経度すべて出したので、標高を出そうかとも思いますが、分析ができるか不明ですし、あるいは
web上古地図(明治13年陸軍)との重ね合わせも一部試みでアップしているので、綾瀬川界隈の古地図が
手に入れば、重ね合わせしたら、「文化はなかなか川を超えられない」という野尻氏の言葉をヒントに
綾瀬川を超えられなかったと結論づけられるのではないか。しかし正保年間の地図(新編武蔵風土記稿)
には綾瀬川を超えた氷川神社は数社だがあるにはある。この期におよんでどうしよう。。
長文すいません。私のHP、百年mapに207社の氷川神社の地図をあげれおります。
お時間のあるとき、なんでも結構ですので、お気づきの点やアドバイスなどありましたら、
ご教示いただければ幸いです。
追伸:添付ファイルは学祭のときの写真です。当日は忙しく写真がとれず前日とったぼけた写真しか
ありませんが、水塚は毛利様のサイトを参考に色画用紙で工作しました。ありがとうございました。
江戸川総合人生大学
佐藤
A毛利将範氏(志木まるごと博物館河童のづづらの管理人であり、水塚の専門家)より
上記メールの返信をいただきました。
以下、その時いただいたメールより抜粋です。
私の(短い調査ですが)調べた範囲でも、航海の安全、水の恵みについての信仰はあ
りましたが、水害を避ける主旨の信仰や講は発見できませんでした。
「洪水」はありましたが、それらはむしろ恵みをもたらすものでした。もちろん、人
命を奪い、農作物を全滅させる水の脅威は存在していましたが、干ばつ、冷害の悲惨
さに比べるとどうなのでしょうか。
氷川社については、水害の観点よりは、集落の発展、文化の伝承という観点から、私
も非常に興味があります。つまり、文化の伝承のしくみとして氷川社のしきたりや年中
行事は集落や家の繁栄を継続していくための知恵を表出したものであり、人々の教育に
対して重要な役割を果たしていたのではないかと思います。
実は水塚にも同じような役割があると思っています。
水塚は確かに水防施設であります。しかし、それ以上に、氷川社と同じように、洪水に
備える知恵や文化を子や孫に伝承することが最も重要な役目であったのではないかと
考えています。
そのことは、水塚自体の構造や、屋敷を含めた構造を調べることによって実証できる
のではないかと考えています。
氷川社が、水害を避ける信仰を持っていないのにかかわらず、水と密接に関係ある地
に立地してしているのは、沖積平野や低地の水を有効に活用する文化が広まったこと
を示すのではないかと考え、衰退しなくなっていく水塚の本質を知る指針としても、
氷川社に興味を持っています。
※2007年10月27日の発表にて、こちらのメールについては許可を
戴いて引用させていただいてます。(参照:発表PDF)