3月〜さらば愛しき日々よ

りんりんりりんりんりんりりんりん

 猫屋敷の掃除をする者たちがいた。
 管弦楽部の練習場に使われていた部屋だから、おそらくは管弦楽部員……やはりアイリーン・ウィンチェスターがいた。
「いろいろありがとうございました。これからも後輩が利用させてもらいますが、よろしくお願いします」
 きれいになった練習場の入口に立ち、アイリーンたちはカラッポの教室に向かって柏手を打った。
 窓の外で猫が鳴き、雀がちゅんちゅんとさえずった。
花屋  駅前の花屋に、器用にリヤカーと連結したMTBが乗りつけた。
 入口脇には色鮮やかな季節の花がバケツに入れて並べられ、奥のショーケースにはかすみ草やらバラやらがきれいに並んでいる。
「ちはー、赤武生徒会です。花を受け取りに来ました!」
 自転車を止めた一二三四は、がらがらと花屋のサッシ扉を開けた。自動ドアにはなっていない。
「はーい☆」
「はー……い……って、常磐先輩……」
 返事と共に奥から出てきた顔に、三四はちょっと呆れ顔になる。
「らしいといえば、らしいんですがね」
「でしょ、でしょ?」
 常磐万葉(ときわ・かずは)はにっこり微笑んだ。
「就職した……んじゃないですよね」
「就職は樹堂造園。今週いっぱいはアルバイト」
 そういいながら、よっこらしょと大きな箱をリヤカーに積み込み始めた。三四も手伝う。卒業生の胸に飾る一輪の花と会場用の花だ。
「明日が卒業式ですねえ」
「そうねえ」
 天気は良さそうだ。

卒業式(3/1)

 赤武高校の式次第はこれ以上もないというぐらい平凡だ。とはいえ、管弦楽部が頑張り、張り合うように(引きずられるように)邦楽部も張り切っているので、「君が代」から「蛍の光」まで贅沢な生演奏で続くことになる。
 教職員、在校生、来賓が着席したところで、「卒業生入場」の声がかかり、ビバルディの四季「春」が流れ始めた。いよいよ、卒業生の入場だ。今までお世話になった先輩、お世話した先輩、いっそ闇討ちしてくれようかと思った先輩、みんな粛々と足を進める。
 金城美佐(きんじょう・みさ)の登場に、一瞬会場がざわめいた。柄にもなく目に涙を貯めているからではない。その白衣姿と後に続く犬猫アヒルの群れのせいだろう。なんというか、ブレーメンの音楽隊である。
「う〜ん、獣医志望少女の感動のエピソードにすべきか、はたまたお笑いにすべきか……」
 舞台袖でメモを走らせながら浅木京(あさぎ・けい)は頭を悩ませる。彼女は取材はもちろん、この後の謝恩会の司会も引き受けるという張り切りようだが、これも今までさんざんネタにさせてもらった諸先輩への恩返しと思っているのだが、卒業式の本番までネタがもらえるとは思っていなかった。
「今年の卒業生はおいしいわあ」
 京はにんまりと微笑んだ。
「仰げば尊し……か」
 赤毛の少年はぶらぶらと街を歩く。
 風紀の「昼行灯」と呼ばれた秋山忍(あきやま・しのぶ)だったが、彼は学校の内外に味方も多いが敵も多い。立つ鳥跡を濁さずで、卒業式は欠席と決めていた。卒業証書は後で取りに行けばいい。
 時間つぶしに駅前のハスター・ドーナツに入る。店長がいつの間にか、金髪にサングラスの人形みたいな男性から、どこか面長ではあるがありふれた兄ちゃんに替わっていた。ちゃんと胸に「店長」と書いてある。
「ご注文をお伺いします☆」
「シナモンドーナツとコーヒー」
「こちらでお召し上がりですか?」
 曖昧に頷くと、注文の品が揃うまでレジ脇のハーくん人形の頭をこづく。
 今日は上天気。卒業するには良い日和だ。
 卒業証書の授与が終わると学校長の式辞や来賓の祝辞が続く。
 在校生の送辞と卒業生の答辞でそこここにすすり泣きが聞かれるようになり、卒業生の「仰げば尊し」斉唱、そして在校生による「蛍の光」。そして校歌を歌って退場する卒業生を見送る。オーソドックスだけれど、ワンパターンはワンパターンであるがゆえに美しい。
 「赤武高校校歌'05」
 
 作詞:夏木兎一郎
 作曲:井東大三
 歌 :あかたけ'73
1.朝日に萌ゆる蛇子連に
  一騎当千 赤武者集い
  輝く威容 我らが学び舎
  頑張れ自分 頑張れ自分
  清く正しく なんとなく
  嗚呼 赤武 我らが母校
2.竜宮岬を東に望み
  遥か飛びたて大志の翼
  質実剛健 敵などいない
  そういう自分が 常に敵
  一日一善 なんとなく
  嗚呼 赤武 我らが母校
3.港の端々 船満ちて
  水平線に 歓喜湧く
  健康第一 すべての基本
  鍛えよ自分 鍛えよ自分
  疲労回復 なんとなく
  嗚呼 赤武 我らが母校
 卒業式の終了後、卒業生たちに記念品として生徒会の役員たちから、ちょっと重たい冊子サイズの薄い包みが手渡された。言うまでもなく卒業アルバムだ。
「あれ? 生徒会が配るんだっけ」
 例年は卒業証書のように、卒業生への記念品は教室で配られた気がしていたのだが、事務的に教壇に積み上げられた卒業アルバムを受け取るよりは後輩たちから直接に手渡された方が嬉しい。戌井利政(いぬい・としまさ)のように、たとえそれが5冊目の卒業アルバムだったとしても。
 だが、それには理由があった。今年はいろいろと変更点があったのである。
 まず表紙をめくると大きく「売るな、捨てるな」という校長自筆の警告文が書かれていた。その下には日本語と英語とドイツ語とハングル文字と北京語とキリル文字とクシュカ語とあとマヤ文字だかトンパ文字だか判別できない絵文字で「警告:この卒業アルバムは個人的な目的のためにのみ使用され……」という警告文が延々と次のページまで続いていた。
 個人情報保護法の影響もあるが、卒業アルバムが業者に横流しされ、ダイレクトメールや訪問販売の材料にされることが多く、名簿そのものの掲載をやめようかという検討もアルバム委員の間ではおこなわれた。だけれども、結局、やはり同窓会の連絡などに名簿が欲しいという要望が強く、こういう措置となったのである。
 さらに付録として卒業アルバムのDVD版と特典ディスクが付いていた。DVD版はアルバムに掲載しきれなかった分も含めた写真が収録され、BGMとして管弦楽部による27曲、邦楽部による8曲がセレクトできるようになっていた。もちろん無音も選択できるけれど、できればこの名演奏を堪能しながら鑑賞していただきたい。
 そして特典ディスクは、例年はビデオ販売されていた、毎年恒例の放送部製作のエンドレス・ワルツの記録映像のDVDだった。
『管弦学部の、かいでんぱくらっしゅさくれつだ!!』
『えい』
『うわあ、黒まんとにやられたちゅー』
『もうだめだ、われわれは戦いをほうきするぞ』
『さようなら、えんげきぶのさかなのひと』
(BGM:蛍の光)
『かえるさん♪』
『へびさん♪』
『なめくじさん♪』
『それをあやつるお姉さん』
『そんしょーだらにーそんしょーだらにー』
『あくしでんとはっせいだ』
『しょうしゃなどいない』
『みんななかよし』
 よくぞここまで棒読みしたという陳腐なセリフがアフレコされ、それに仰々しい効果音や音楽が添えられていた。画面には特殊効果でビーム光線や閃光も付け加えられたりしており、仮装のメイクにも手が加えられている痕跡が見えた。スターウォーズ・エピソード4の特別版でジャバ・ザ・ハットが登場するようなもんである。
 そして最後に「やすらぎよ、光よ、とくかえれかし」ともの哀しい女性コーラスが流れ、エンドタイトルに続く。
 自宅に持ち帰って視聴した卒業生たちは愕然としたらしいが、企画製作の放送部はもちろん、製作協力の新聞部も、配布元の生徒会執行部も、編集担当のアルバム委員も、互いにそれは知らなかった聞いていなかったでも面白いからいいじゃないかと責任をなすりつけあったということである。
 卒業生に続いて在校生が退場すると、生徒会や各委員らによって体育館の椅子は手早く壁際へと寄せられた。代わりに卓球台や会議用テーブルが幾つも運び込まれてくる。1時間で謝恩会の会場に模様替えしないといけないのだ。

謝恩会(3/1)

「殿村先輩、これで本当に卒業ですね」
 感慨深げに、そして若干恨みがましく上塚まりも(うえつか・−)が(殿村の耳に聞こえるよう)つぶやき、殿村は「いやはや、あっはっは」と笑って誤魔化そうとした。
 確かに殿村功一(とのむら・こういち)は全国レベルではないものの、長身で2枚目のスポーツマン。性格は陽気なしっかりもので仲間からの信頼も厚い。しかし、実際のところ、成績は常に最下位すれすれ。3年生の前半は欠席も多く、補習補習でなんとかやっと卒業にこぎ着けたというわけだ。当然、デートする暇などあるわけがない。
「これからは一緒に映画や水族館に行けますか?」
 ちょっと上目遣いに殿村の顔を見る。そのとき、
「殿村くん、ソツギョーおめでとー!」
「詰め襟もなかなかカッコいいじゃん☆
 気がつくと数人の女性が駆け寄ってきた。父母とか父兄とかいうにはちょっと若く、どちらかというと「姉」みたいな女性たち。ちょっと香水の匂いが強くて化粧が濃かったりする。
「……誰?」
「あ、う〜ん……」
 口ごもる殿村とまりもの会話を気にすることもなく、女たちは手にした花束を殿村に押しつけた。
「こーちゃん、いきなりバイトやめちゃったから、寂しかったよ!」
「あいさつくらいしていきなよ」
 その声を聞きながら、まりもは無表情で頷いた。
「バイト先のおねーさんだべや」
 殿村の顔は見る見る青ざめ、汗がだらだらと流れ始める。まるで高速カメラの映像でも見るようだ。
 そんな2人の間を気にした様子もなく、お姉さん方は殿村のほっぺたをちょんちょんとつついたり、投げキッスしたり、それなりに気をつかっているようでもあり使っていないようでもあり。
「長居して先公にみつかるとヤバイから、これでいくね」
「今度はお客さんで来てね、サービスするから☆」
 ぶんぶんと手を振りながらお姉さんたちは去り、まりももむっつりしたまま立ち去った。
「お、おい、まりも! どうしたんだよ!?」
「……なんもさ」
「おーい、まりもさーん……」
 振り返りもしないでスタスタ歩く。
 あとにはただ殿村だけが取り残された。
 店のガラス窓を誰かがこつこつと叩いていた。
 何倍めかのアメリカンコーヒーを飲み干そうとしていた秋山は、見知った顔を見つけ、眉をひそめた。
 会いたくない相手ではないのだが、今日、この時間にここで遇うべき人物ではなかったのだ。
 愛想のない男は、まったくもって不似合いな花束を持ったまま、つかつかと店内に入ってきた。
「卒業、おめでとうございます」
「……式典はどうした、松平?」
 しかめ面で花束を受け取りながら、秋山は後輩に訊ねた。
「先輩方に花束を贈るのも卒業式の一部です。でも秋山先輩は、今日は欠席らしいということでしたので」
「よく見つけたな……」
 呆れたようにいいながら、花束を隣の席に置く。
「御礼参りが怖くないなら、コーヒーでも飲んでくか? それくらいおごってやるぞ」
「謝恩会までには戻らないといけないので、30分ほどでよろしければ」
 そこで秋山は大きく笑い、松平残九郎を座らせた。
「良い度胸だね。酒を酌み交わせないのは残念だが、まあよかろう」
 窓際の席で、2人はのんびりとコーヒーを楽しんだ。ガラの悪そうな若者が何人か前を通りかかったが、この光景を目にするやいずれも踵を返して二度と姿を見せなかった。
 君子危うきに近寄らず……それくらいはこの3年間で学習していたとみえる。
 生徒会主催の謝恩会まで1時間ほどあるということで、いったん懐かしの教室に戻る者も多かったが、部室で卒業生と在校生が過ごす部も少なくない。
 猫屋敷にも三々五々に部員が集結していた。
 しかし今日で郷土史研もごっそりメンバーが抜ける。赤武祭で大きな成果を挙げ、なんとか新入部員勧誘の原動力にしたかったが、それも叶わなかった。展示発表そのものの評判は良かったけれど、社会科教諭に好評でも部員は増えないのだ。ちょっとばかしエンドレスワルツに力を注ぎすぎたかも知れない。
「まあ、あの千年部長も無事卒業ということで……」
 真壁衛(まかべ・まもる)や後輩たちは戌井利政のねぐらがあった一角に目をやった。この1週間できれいに片づけられ、隠者の庵を彷彿とさせた痕跡はもう残っていない。それぞれの記憶にのみ留められているだけだ。
「戌井は卒業式が終わるなり消えてしまったんで……、まあ、私から後輩へ!」
 そういって衛はごそごそと手提げ袋から年季の入った紙袋を取り出した。ありきたりの本屋の袋だが、「別冊マーガレット・河あきら『錆びたナイフ』」とか聞いた覚えのないマンガの宣伝が載っていたりする。
 代表して受け取った出羽誠二郎はおそるおそる中身を取り出した。
 やたらと分厚い書籍だった。『赤武史研究序説』と題がつけられているが、自費出版本のようだ。図版も豊富だが、虫食いも激しい。
「出羽なら好きそうだから、せいぜい活用してやってよ。まあ、まともに記述を信じると、竜宮城も蓬莱島も邪馬台国もニライカナイもみんな赤武にあるらしいから☆」
 ぱらぱらと読めない箇所の多い本をめくる巨漢の新部長は、そのトンデモさ加減に納得した。たまたま開いた頁ですら、蛇子連には古代文明のピラミッドが埋まっているという記事が載っていているのだ(もう削られて工場になっているけどな)。
「この本があれば、郷土史研はあと10年は戦えます」
 その言葉に、衛は満足げに頷いた。
「これもおまけにつけてあげよう」
「いえ、それはけっこうです」
 速攻で断られ、ヘビとナメクジのハンドパペットを手に、衛はしょぼんとした。
「おめでと、義姉さん」
 周囲に誰もいないのを確認して、ぶっきらぼうに遠見治司(とおみ・こうじ)はお祝いを伝えた。
「ありがとうね」
 ミランダ・ミラーも今日ばかりは眠たそうにはしていなかった。服装も薄汚れた白衣のままではなく、アイロンのきいた制服で、髪も丁寧に梳かれている。そりゃ卒業式だもの。
「おねーちゃーん!」
 桜並木の向こうから声がした。
 妹たちだ。ロザリンド、コーデリア、ジュリエット、ティターニア、アリエル。父親がいた。母親がいた。そしてミランダの娘のベリンダとオフェーリアの双子姉妹を両手に抱いた夫がいた。
「あなた!」
「アニキは嫁さんをほったらかしにしすぎなんだよ!!」
 遠見治司は怒ったように言い放ち、それを聞いてロザリーたちは笑い、遠見直人は困ったように頭をかいた。
 湯沸かしポットが蒸気をたてている。
 北条真子(ほうじょう・まこ)と夢宮菊花(ゆめみや・きっか)は図書館の準備室にいた。他には誰もいない。ただ、窓の向こうの受付ブース内にHPLが座っているだけだ。田丸明子以下、図書委員は謝恩会の手伝いに動員されており、まあ、3年生だけ3人、ここに居座っている。
「正直、腹が立ったこともあったわ。あなたが無闇に憎らしかった。人が我慢していること、隠していることをことさらに暴き立て、煽り……」
「まるで極悪人ですわね」
「極悪人よ」
 そう断言しながら尼将軍は菊花の差し出したティーカップを受け取った。リンゴの甘い香りが漂ってくる。
「でも、その極悪人に感謝しているわけよ。この北条真子としてはね」
 その言葉に、日本人形のような少女は微笑みだけで応えた。紅茶クッキー、イチゴマシュマロ、ミルクキャンディーを盛り合わせた菓子皿を差し出した。色鮮やかで可愛い。それも菊花の手作りだった。
「麻希も有望。流行ものに走りたがるところはどうかと思うけれど、それは仕方がないわね」
 そう自分に言い聞かせるように呟くと、クッキーを1つ小さくかじる。そして真子はくいと顔を上げた。
「あのアゴ男も呼んできましょうよ」
「HPLですか?……尼将軍の仰せのままに」
 静かに立ち上がると、菊花は準備室と開架室の境のドアを開け、青白い図書委員を招き入れた。
「やつがれごときを茶話の席にお招き頂き恐悦至極に存じます」
「さっさとお座りなさい、ハワード」
 ぴしゃりというと、真子は新たに取り出したカップにお茶を注いだ。
 菊花が折りたたみ椅子を持ち出してきて、自分はそこに座った。暖かい春の日差しがレースのカーテンごしに差し込んでくる。
 HPLが紅茶クッキーをつまみ口に運ぶ。紅茶。そしてイチゴマシュマロ。紅茶。ミルクキャンディーを口に含ませる。そんな様子を愉しそうに見ていた真子は、カップをテーブルに置いた。
「菊花。この際、はっきりいわせてもらうけれど、あなた、お菓子作りは下手ね」
 その言葉に、HPLがぽんっと手を打った。
「そうでしたか!! 実は先ほどから、自分の舌が機能不全に陥ったかと心配しておったのです」
「ええ。あなたの舌のせいじゃないわ。お菓子の方がちょっとユニークなだけ」
 辛辣な批評に、ちょっと哀しそうな表情を見せる菊花。
「1つくらいは上手くいくかと思ったんですけど」
「サムエル・クレメンスが言っているわ。『玉子を1つの籠に盛るバカ。分けて盛って注意力を分散するバカ』ってね」
 慣れないうちは何事も一事に集中した方が良いということだ。しかしすぐに真子はハハハと笑って立ち上がった。
「今度、ちゃんとしたクッキーの焼き方を教えてあげるわ。私が人並みに出来るのは、お芝居だけじゃないのよ」
 そういうと、時計を見て謝恩会がそろそろ始まる時間と見て取った。
「さあ、いきましょう」
「わたし、ここの片づけをしていきますから、お先に」
 なら手伝うという真子の言葉を菊花はすぐ済むからと断った。
「すぐに来なさいよ」
「はい」
 手提げカバンを手にすたすたと出て行く北条真子。歩く姿はなかなか凛々しい。
「夢宮菊花。これが望んだ光景かな」
 続けて部屋を出かけていたHPLが戸口で足を止め、まだ静かにテーブルについたままの菊花を見た。
 その言葉に菊花は頷く。
「過去に思いを馳せながらも、ときには自ら変化し、また変化に適応しながら歩み続けるのが人間であるし、偉大なる絶対神でない身であれば、歩みを止めれば滅びが待つだけであろう」
「あなたは去るのね」
「貴方は残るのだね」
 2人は静かに笑った。
「やよ忘るな」
「いざさらば」
 そして誰もいなくなった。
 同じクラスのミランダと記念写真でもと思ったアイリーンだったが、探してみればミラー一族は歓談の真最中。さしものアイリーンもこの集団には近寄るのをためらわせるものがあった。
 しかし坂本歩(さかもと・あゆむ)を怯ませるものではなかった。
「ミランダ先輩、写真をお願いできますか?」
「いいわよ」
 気軽に尋ねて気軽にOKをもらう。もちろん、それは歩自身のためでなく、写真部の仕事だからできることだ。
「アイリーン先輩、どうぞ」
 そういいながら管弦楽部のうるさ方を金髪の群れへと押しやった。
「はーい、こっち見てください☆……ク・ラッ・カー!!……はい、もう1枚お願いします……チーズっ!……ありがとうございます」
 歩の手には手に入れたばかりの古いカメラがある。今までに貯めたお年玉と年末年始にいそしんだバイト代の結晶だ。技術の進歩と普及の早さで、デジカメもノートPCも中古市場の値崩れが早い。そしてデジカメの普及のあおりをくらって中古一眼レフも下降線。ショップには気の毒な話だけれど、おかげで歩は一眼レフからデジカメまで一式揃えることができた。最新式ではないが、今は十分。
写真部  ドドンドドドと太鼓の音が遠くから響いてくる。
 どうやら謝恩会が始まったようだ。
「みなさん、邦楽部の連太鼓ですよ。謝恩会が始まりますので、会場の方へどうぞ☆」
 そういって、ミランダやアイリーンたちに体育館の方を指し示す。ゆっくりとぞろぞろと一団が動き始めた。
「さあて、お二人さんの塩梅はいかがかな」
 そう呟くと、歩も彼らの後に続いた。同じ写真部の御堂流香と二木輪は今頃、会場の方でペアで動いている。さぞかし騒々しいことだろうが、それもまた楽しい。それに、きっかけを積み上げていけばそのうちにきっと……もっと楽しい事態に陥るかもしれない。
「焼き増しできました!」
「ほな……アホたれ!」
 パカターンの二木の後頭部を流香のハリセンが強襲する。
「端っこが切れ取るやないか! ちゃんと考えて焼きつけせーっ!」
「だって、これデジカメの分ですが」
「だったら、ちゃんとトリミングせーっ!!」
 パコターン!!ともう一度ハリセンでどつかれると、背中に蹴りが入った。
「やり直しやーっ! ついでにコントラストも調整して、顔に影がかかった分もなんとかせい!」
 厳しい師弟関係というか、どつき漫才というか、ともかく歩が期待したような関係とはかなり隔たりがあるようだった。
 巨大な和太鼓を中心に、幾つもの太鼓が並ぶ。邦楽部有志&卒業生による「赤武太鼓」セッションだ。
 これだけの太鼓が一斉に打たれると、それはもはや「音楽」の領域を超えている。「衝撃波」だ。リズミカルなドドンドドドンという空気の波動が身体の根幹から揺さぶり高揚させるのだ。
 連打連打に疲れを見せることのない若槻瑞穂(わかつき・みずほ)の額からも、玉のような汗がしたたり落ちている。
「京子先輩」
「面白いネタは拾えて?」
 浅木京(あさぎ・けい)から花束を受け取った鈴木京子(すずき・きょうこ)はにっこり微笑み、京は前部長の問いかけに頷いて答えた。
 今の3年生にはさんざん新聞記事のネタにさせてもらい、おいしい思いをさせてもらったものだ。今回は卒業式の準備とか謝恩会の司会とか、あれこれ手伝いもした。気持ちとしては、御礼奉公が半分、取材が半分。
「ゴシップだけの新聞部ではありません。在校生の隠れた努力を後に残すのも新聞部の役目のひとつですから」
「あら、ゴシップ記事なんか扱ったことがあったかしらん」
 京子がいけしゃあしゃあと言い放った。
「それで、ですね」
「京子先輩の制服のボタンを頂きたいんですけど……」
「あら……」
 そこで京子の言葉が詰まった。
 右手を上着のボタンに添えつつ、目はじっと京を見た。
「先輩」
「京……あなたは知っていたのね?」
「は?」
「さすがは私の見込んだ子だわ」
 いえ、先輩。わたしは単に卒業の記念に、先輩の思い出の品としてできたらボタンの1つも貰えたら嬉しいなというだけで、なにかそんな思わせぶりな気持ちなど何一つ無いわけで……。
 いまだに気づいていないことを答えられるはずもない。だが彼女は沈黙を答えと理解したようだ。ふふふと笑い、京子は軽くぷちっとポタンをちぎって手渡した。ちぎったというより、ちょっと止めてあったのを外しただけという感じか。ボタンから細いケーブルが伸びており、それが100円ライター・サイズのケースにつながっている。
「256MBだから容量的に90枚くらいは撮れるけど、その前にバッテリーが切れるかな」
 よく見れば、ボタンの表面に小さい穴が開いていた。
「せっかくだから、袖ボタンもあげる」
 そういいながら、また今度は袖のボタンを外し、するすると引っ張ると、今度はケーブルに続いてタバコ・サイズのケースが現れた。
「白黒25万画素だけど音声マイクも内蔵されているから、けっこう便利よ。動画で約60分」
 ぽんと手渡されても京はどう扱って良いか困ってしまうが、とりあえずポケットにしまい込んだ。
 そして京子は京の肩に手を添え、そして耳元でそっと囁く。
「楽しい2年間だったわね。いけ好かないインキン親父を減給処分に追い込んだのも、リーゼントヒグマに停学2週間をくらわせたのも、今となっては良い思い出だわ」
 傍目には麗しい先輩後輩の交歓である。しかし実態は遙かに生々しく毒々しかった。
 さて、まだ謝恩会は終わっていないけれど、常磐万葉(ときわ・かずは)は森に立っていた。
 胸に飾る一輪の花はいまだにみずみずしい。水の入ったコップにさしておけば、かなり長持ちしそうだ。
「もう頻繁には来られなくなるけど元気でね。そして、これからもよろしく」
 そんなことを言いながら、木立の間を散歩する。
 15分も彷徨っていただろうか。
「ここにいると思いましたよ」
 木々の間を抜けて、恋卦かりン(こいけ・かりん)と須葉琴子(すよう・ことこ)が姿を現した。
「森の木にお別れをいう前に、後輩たちにもお別れさせて欲しかったですね」
「あら、ごめんなさい」
 人よりも植物に親近感を感じてしまう万葉の頭からは、悪気はないが、ときどき人間の存在が消えてしまうのだ。
「花壇や森のこともお願いね」
「力と技の営繕委員会にご期待下さい☆」
 どんと胸を張るかりン。
「団結もね」
「はいはい」
 須葉琴子が万葉の手を取った。
「生徒会の謝恩会は終わっちゃいましたよ。猫屋敷の方で、二次会やりますから!」
 そういうと、今にも消えてしまいそうな万葉の手を引っ張って、2人は歩き始めた。
猫屋敷で送別会  猫屋敷の2階の一室に営繕委員が集結していた。
 ペットボトルの紅茶やウーロン茶に、ポテトチップの大袋。飲み食いが目的ではなく、顔を会わせて言葉を交わすのが目的だから、こんなもんで十分だ。とはいえ、話題は外壁塗装の剥がれ具合とか、今度の梅雨は雨漏りしないだろうかとか、色気も何もあったものじゃない。
 しかし話が弾んで、お菓子も減り、ふと気がつくとみんな手が動いている。机を拭いていたり、椅子を修繕していたり、床を磨いていたり……道具をきっちりしとかないで付喪神になったら怖いじゃないと琴子は思っているが、それよりなによりみんな根っからのお掃除屋、営繕マンなのである。
「そうそう、ここのトイレが水洗になるらしいです」
 一二三四(たかつぎ・みひろ)が言った一言が、今日最大のトピックだった。
「え、なに!?」
「どうしてどうして!」
「いつ、いつ改装?」
 次の瞬間にはすべての部員が彼女の周囲に集まっていた。
「新年度から学科が増えるじゃないですか。新校舎が完成するまで、何クラスか、こちらに島流しになるらしいんです」
「そりゃあ、大変ねえ」
 この学校もいろいろ変わっていくのだ。卒業する万葉らは「大変ねえ」で済むけれど、後を引き継ぐ一二三四らにとっては一大事。どこまで業者が入るのか、そしてどこからが営繕に委員の仕事になるのか、確認しないことには話にならない。
「猫さんも大変だねえ」
 そしてまた万葉がいう。確かに工事が始まれば、周囲に居座っている猫たちも追い立てられることになるだろう。
「和美が気に病むね、きっと」
 この場にいない少女を思っての琴子の言葉に皆が頷いた。

ホワイトデー その1(3/14)

「ちょっと、ちょっと、ちょっと! 話が違うよ!!」
 三宅みねこ(みやけ・−)は状況の変化に混乱していた。そんなつもりはなかったのに、いつの間にか自分が豪華チョコを天道と藤島に贈ったという噂が広まっていたのである。みねことしては、おにーちゃん一筋なので心当たりは1つしかない。しかし、
「二股はいけないわよ。ちゃんと筋を通して真面目なおつきあいをしなくては……」
 ……なんて鬼塚真姫に説教されては、みねこの立場がない。
「でもねえ、ほら、人の恋心ってもんは単純に割り切れるもんじゃないわよ。どちらも愛してしまった、どちらかに決められないって、よく聞くわよお」
 それを訳知り顔の売店のおばちゃんに弁護されるのも困るのだ。どう考えたって、みねこ二股恋愛説を広めたのは、このヤマダのおばちゃんなんだから。
 鬼姫とは1分でも長く一緒にいたいけれど、売店前でおばちゃん交えて立ち話をするのは勘弁して欲しい。とくにやり玉にあがっているのが自分となれば……。
 なんとか鬼姫を売店前から引き離すか、話題を変えようとじたばたしているところに4人目が姿を現した。小柄な少女だ。けっこうきつめの顔だが、どちらかといえば美人の部類か。
 それがつかつかと彼女らの方へ向かってくると、鬼姫に対して深々と一礼した。
「これからよろしくお願いします」
「入部の件は先生から聞いたわ。瞳ちゃんは経験者なのね」
「はい。中学2年までやっていました」
 藤本瞳(ふじもと・ひとみ)は真姫の目をまっすぐ見て答えた。
 辞めたのは受験が口実だったが、本音をいえば妹べったりの兄にうんざりしたのだ。部活でまであれこれ口を出されるのが堪らなかったのだけれど、それが急に剣道部に入る気になったのは……。
 明日からでも部活に参加してねという鬼姫に礼儀正しく応えると、瞳は今度は敵意むき出しでみねこを睨みつけた。そしてそのままプイッとそっぽを向いて立ち去った。
「おにーちゃん! あのこ、なんなんですか!?」
 姿が見えなくなると、みねこが鬼姫にくってかかるが、おにーちゃんは苦笑いするばかり。代わりにヤマダのおばちゃんが解説してみせた。
「あの娘、お兄さんをあんたに取られそうなのが面白くないのよ。きっと。しかも二股だし」
「二股じゃないっちゅーの!!」
「だったら、早いとこ、はっきりさせるのね」
 そういいながら、ヤマダさんはみねこに背中を向け、足下の袋の中からごそごそ何かを取り出した。きらきらの銀のラップで包まれて紅いリボンがかけられている。今日はクリスマスでも誕生日でもないから……これはやっぱり、アレなんだろう。
「みねこちゃんに。チョコレートをくれた匿名の人に渡してくれって匿名の人から頼まれてたの」
「よかったわね、みねこ。藤島くんかしら、それとも天道会長かな?」
「それは教えられなくてよ」
 おばちゃんがきっぱりと宣言した。
 その頃、藤島貴志は素振り千本に余念がなかった。
 今まで帰宅部だった妹が剣道部に入るというのだ。動機がなんだか知らないが、新主将として妹の規範となるよう、今まで以上に稽古に力を入れていた。
 彼はふっと笑った。
 同じくその頃、天道真一郎は怪異現象は見なかったこと聞かなかったことにして、超常現象対策委員会の準備書類をシュレッダーにかけていた。餅は餅屋。自分の専門外の領域の事項については、干渉もしないし、付け入らせる隙も与えないのが彼のやり方だ。
 彼はふっと笑った。
 銀色の包みを手にしたまま呆然としているみねこを尻目に、真姫はさっさと帰り支度を始めた。
「じゃあ、わたし、今日は映画に行くから」
「おにーちゃん、稽古は!?」
 そういうみねこに「今日まで試験休みじゃないの」と応え、鬼姫は靴を履き替えると昇降口から出て行った。どうせ相手は紺屋に違いない。
 あの練習熱心なおにーちゃんが、休養日に素直に休むなんてぇっ!? うにゅにゅにゅにゅ〜っ、許すまじ、紺屋弾外!!
 例によってこっそり後をつけようとしたみねこの襟首をむんずと掴むものがいた。ショートカットに鼻の頭の絆創膏。
「にゃにゃにゃ、にゃにをするぅ!?」
 山上みなみ(やまかみ・−)は叫び暴れるみねこをものともせず、ぐいぐいと引っ張っていく。
「自主練するから、つきあいなよ」
「ま、待て、おにーちゃんが!」
「練習だ」
「き、今日は練習は休みにょ!」
「天道会長の許可はいただいてる」
 そういって、みなみはかまわずズンズン前進していく。
「愛しの藤島くんも待ってるわよ」
「にゃーっ!!」
 その日の自主練は異様に厳しく、山上に藤島兄妹が加わって、熾烈な掛かり稽古が延々と繰り返されたという。
 みんながいつまでも幸せでありますように。
 いうまでもないこととだけれど、生徒会長という役職も不自由なものだ。まだ一介の風紀委員であった頃の方が、行動に自由があった。裁量の範囲が広くなるということは、目を配り責任を持たねばならない領域も大きくなるわけだ。
 天道真一郎(てんどう・しんいちろう)は銀縁メガネを外すと、書類綴りを取り上げた。できる範囲で最大限の努力をするしかないのだ。
 真姫を傷つけるような形の告白になって後悔しているが、好きになったことを後悔はしていない。自分の大切な人のために頑張ることは純粋に楽しかった。見返りなんて本当は何もいらない。これからもそうだろう。鬼姫だろうと、尼将軍だろうと、聞くところによれば殿であっても、いびつな、責任感のある真面目な人間にすべてを押しつけようとするシステムが彼らを精神的に追いつめていたのだ。なあなあで推し進められた、正規の手続きによらない生徒会運営が結果的に彼らを孤立無援の少数精鋭にしてしまった。
「ちわー。新聞部だよ」
 隣の部屋の新聞部員がやってきて、学校新聞のゲラ刷りを机に置いた。
「1面トップの会長インタビューの内容に目を通して。配布は明日の合格発表会場。すぐにも輪転機回したいから」
 鈴木京子は卒業したが、この浅木京が引っ張っていく新聞部もなかなか手強そうだ。
「いいよ。誤字脱字もなかったし」
「すばやいチェックに感謝☆」
 そういいながら、京はゲラを手早く回収する。 「でも、あたしがいうのもなんだけど、よかったの? 『女に惚れて生徒会長』なんて公言してさ」
「いけないかい?」
 眼鏡をかけながら、天道はにこにこ問い返した。
「だって、結局はふられたわけじゃない。カッコ悪くない?」
「誰かが誰かを好きになるってことは、そもそもみっともないものなのさ。それに……」
「それに?」
 袖口のボタンを触りながら京が不思議そうに訊く。
「女にいいとこ見せたくてなる……くらいの生徒会長でいいじゃないか。そう思われた方が敷居も低くなる」
「もう次の選挙を心配してるんだ」
 感心したような、呆れたような口調で京は応えるが、気持ちは解らないでもない。今回は立候補という形で生徒会執行部が決まったけれど、次も立候補があるとは限らないし、そうなったときに誰かに押しつけるような形になってしまっては元も子もないのだ。
「まあ、堅苦しい話ばかりにならなくて感謝してます」
 そう挨拶すると浅木京は印刷室へと向かい、天道も仕事に戻った。明日は合格発表、そしてサークル活動報告会だ。

ホワイトデー その2(3/14)

野球部の特訓  ぴっぴ ぴっぴ ぴっぴ……
 笛を吹く女子マネージャーの自転車を従え、異様な集団が突き進む……。
 最近の野球部は危険な賭けに出ていた。夏の大会であれほど頑張ったにもかかわらず、春の選抜に漏れてしまったことで危機感を抱いたのだ。そこで彼らが考えたのは「プロジェクトぬい」……着ぐるみを着て練習しようという計画だった。
 視野が狭く、重く、暑く、動きにくい状態にあって平気で練習できるようになれば、脱いだときには通常の3倍で反応できるだろうという理屈だ。
「バッカじゃないの!?」
 そういいながらも、きちんと人数分の着ぐるみを用意するところが、さすが制服部だ。みんなもツキノワグマ、シロクマ、ハイイログマにゴリラと着ぐるみができあがってくると、ブーブー文句タレながらも着用するところが素直だ。
 ちゃんと女子マネージャにも用意されている。最初はバニーガールということだったがさすがに反対され、代わりにピューマだかなんだかネコ科の動物になった。もちろん選手用より軽いし、自分の顔は外に出るようになっている。ダイエットに効果があると吹き込まれ、そのまま自転車に乗って選手のランニングにまでつき合っているようだ。
 だが今日は休養日。紺屋弾外は駅前のハスタードーナツで鬼姫を待っていた。ブランドもののトレーナーにジーンズ、それに紺のジャケット。あまりカジュアルといった服装ではない。昼間は制服、放課後はユニフォームまたは着ぐるみといった毎日では、なかなか小粋なファッション・センスは身につかないものだ。まだ着ぐるみ姿でない分、良しとしよう。
「待たせた?」
 そういいながらも約束の時間きっかりに現れた鬼塚真姫も黒のセーターにジーンズ、それにキツネ色のダッフルコートというラフな格好だ。ラフさでは似たようなものだけれど、素材の差が見栄えの差になる。
 とりあえずコーヒーだけ注文して、真姫は席に着いた。紺屋の前にはぶくぶくと泡立つ異様なソフトドリンクと何かドーナツを食べたらしい痕跡が残されている。
 座って飲み物を飲みながら、上映中の映画のリストを眺める。本当なら事前に相談して決めておき、前売券で少しでも予算を浮かすものだけれど、紺屋の方がそこまで頭が働かなかった。映画に誘うというなら、どんな映画がいいか、あらかじめ少しくらいは考えておくものだ。
 まあ、こうやってどれにするか決めるのも楽しいというなら、それでいいんだろう。好きにしろ。
 席に着いた真姫がふと気がつくと、紺屋は遠征にでも行くような大荷物だった。椅子の後ろに盛り上がっている黒い山がそれだ。
「ああ、これは万が一に備えて制服部に作ってもらったホッキョクグマの着ぐるみで、もしかしてこうしている間にも……」
「置いてきて。返してきて! 持ち歩かないで!!」
 問答無用で真姫は切り捨てた。腐っても鬼姫。いくらなんでも街中でクマの着ぐるみを連れ歩く気はないようだ。
 泣く泣く席を立ち、1人着ぐるみの入ったバッグを担いで街に出る紺屋だが、さすがに途方に暮れた。こんな大きな荷物はコインロッカーには入らない。家や学校に戻っている時間もない。駅のクロークは確か30年前に廃止されたきりだ(よく知ってるな)。しかしぐずぐずしていたら真姫が怒って帰ってしまうかもしれない……仕方がないと覚悟を決めて紺屋が飛び込んだのはディスカウントショップだった。
 走って戻って所要時間は30分。まだ真姫は座ってシネマガイドに目を通していた。
「お待たせしました」
「待たされました」
 ぺこりぺこりとお辞儀をしてみる。このあたり、まだ親しいのか親しくないのか、微妙な関係だ。
 しかし余分な時間が取られすぎ、今の時間からだとあまり映画に選択の余地がなかった。ヤクザがドス振り回して人が死にまくるか、妖怪電話で人が死にまくるか、忍者が暴れ回って人が死にまくるか、別荘地で……とにかく人死にの多い映画ばかりだ。あまり陰惨だったり、エッチぽいのはパスするとして、残った選択肢は、潜水艦で人が死にまくる『ヨーロレヒ』と、手足が伸びる病気にかかってしまった少年が首の伸びる怪人と対決するアニメ映画『クビツリ男爵と病院島』だけ。高校生にもなってマンガはどうも……という紺屋のプライドが勝ち、結局、潜水艦映画になった。
 劇場に行き、チケットを買う。
 最近の映画館は椅子がゆったりしていて、きれいなもんだ。
「あ、忘れないうちに渡しておく……」
 隣同士に座った紺屋は、ポケットからポップな包装の包みを取り出した。
「ははは。ありがと」
 少し照れたようにいう真姫。実はホワイトデイに何かをもらうのは初体験なのだ。袋からキャンディを1つ取り出すと口に運ぶ。甘い。イチゴミルクの味。そして何か思いつき、ちょっとためらい、そして「紺屋」と声をかけた。「なんだ?」と振り向く紺屋の口に今度はマシュマロを放り込む。少し甘かった。
 映画そのものは意外な快作だった。実際のエピソードがモチーフになっているそうだが、クライマックスでキャタピラ・モードになった潜水艦<レッド・オクトーバー>が艦長とその子供たち、そして家庭教師を乗せてアルプス越えをするシーンには場内から歓声があがった。美しい山々に歌声が響き渡るエンディングが終わると、彼らは映画館を後にした。
 既に外は暗く、星空だった。
「ば、晩飯でも食べてくか」
 そういう紺屋に真姫は首を振った。
「ごめんね。お爺さまたちが待ってると思うから……。また今度ね」
「今日は愉しかった」
「わたしも!」
 そういって手を振りながら駆け去る真姫の後ろ姿を、紺屋はいつまでも見送っていた。

ホワイトデー その3(3/14)

 時間は少し戻る。
 陸奥みんと(むつ・−)は今も千蛇神社のバイトを続けている。法子のこともあったが、何よりも祖母の霊が消えたことが最大の動機だった。今で自分を見守ってくれていた祖母ももういない。ならば自分のことは自分でしないといけないし、それだけでなくて困ってる人を助けてあげられるようになりたい。そんな野望がいつの間にか大きくなっていた。
 そして今、みんとと法子は社務所の畳の上で正対していた。しかしバレンタインデーの時とは異なり、2人とも何も手にしてはいない。
「本日は3月14日、世間ではホワイトデーと称してバレンタインデーの返礼をする日とされています」
「はい……」
 本当は既に前回にチョコの交換を済ませている2人だが、傍目には2人とも少女にしか見えなかったりする。じっと目と目を合わせる。
 僅かな沈黙を破ったのは、みんとだった。
「……バレンタインのお返しはぼく自身」
 なーんて冗談☆ えーしごとしまっせ〜……と言う間もなく、芳田法子(よしだ・のりこ)はみんとの手をつかんでグイっと引き寄せた。すっぽりと法子の懐に抱かれる形になった。ふわりと法子の髪がみんとの頬にかかる。ふんわりほのかにイチゴの香りがする。頭が軽くふにょんとクッションに載せられた感じだ。
「よしもらった!」
「え?え!?」
 法子はいきなり立ち上がると、みんとを引きずるように飛び出した。

路地  付喪神は大挙してこの世から去ったようだけれど、それはすべてではないだろうし、今この瞬間にも新たな九十九髪が生まれているかもしれない。ただの道具であろうとも、人に大事に100年も使われるほどの思いが込められれば、それはこの世に生まれてくるのだから。
「で、で、なんなんですかあ!?」
「キミにも分かるでしょ。付喪神がいなくなって守り神不在となった場所を空け放しておくと、また餓鬼が発生しかねないもの」
「そ、それはわかりますけど……」
 みんとがぼやくのも無理もない。彼の背負わされているナップサックには、丁寧に梱包された小石がぎっしり詰まっているのだ。そしてひたすら歩く。
「重いですよお〜っ」
「これはデエトなのです。男の子は我慢です」
「そうなんですか☆」
 途端にみんとの足取りが軽くなる。思いこむことこそ力なり。
 大通りを歩き、裏通りを抜け、街道を渡る。そして辻辻に来ては立ち止まり、彩色をした蛙や蛇の形をした小石を置いていく。ただ置くのではなく、短いながらも1カ所、1カ所で祝詞をあげていく。
「これって、磐座ですか……?」
「そうよ。新たな鎮守神の依代。あらかじめ、きちんと神さまとして祀るものを祀ってあれば、邪気はたまらないわ」
 九十九髪というものは、そもそもが人間の作った器物がモノノケ化した存在に過ぎない。人間が文明を築く以前からヒトとは関係なく存在していた生妖とは、いわば近くて遠い関係だ。彼らをきちんとお迎えすることにより、土地を安定させることは昔から行われてきた。人間の居住空間が変化し、昔ながらの町並や山川が消えていく今こそ、きちんとした形で迎え直す必要があったのだ。
 日が沈みかける頃になり、2人はアーリー・アメリカン様式の洒落たデザインの家が並ぶ一角にたどり着いた。
 もしそれがアカシアかポプラ並木に沿って点在していたとしたら、その白いサイジングが周囲の緑に映えて美しかっただろう。
 だが、それが建っているのは、大草原のど真ん中でもなければ、古い街並の高級住宅街でもなく、原価を重視する日本の住宅メーカーが、狭い日本の国土に無理矢理押し込んだ分譲住宅地の一角にすぎなかった。いくら上品で美しい建築物とはいえ、同じようなデザインの建物が、2m間隔で何十棟も密集していてはありがたみも何もない。
 T字路の突き当たりの歩道に赤いタイルが敷き詰めてあった。以前から生えていたのだろう。住宅街のど真ん中に不似合いな桜の木が1本、そんな歩道の真ん中に生えていた。
「最後の1つです」
 みんとが法子にそういって、白いネコの形をした石を渡す。法子はそれを大事に樹の根本に埋まりかけている玉石の上に置いた。
 法子が静かに祝詞を唱え終わった時、みんとの視界を白いネコが横切った。そちらを見るが、もうそこには何もいない。だが、どこかで満足げな鳴き声を聞いた気がした。
「終わりましたね……」
「ご苦労さま」
 そしてみんとは黄昏の中に立つ法子を見た。けっこう大変だけれど楽しかった。小さな公園で仲良く缶ジュースを分け合ったり、石段の上から遠くにきらめく海を眺めたり。これで終わるかと思うと、ちょっぴり残念だ。
「明日もお願いね」
「え!?」
「だって、まだ町1つ終わっただけよ。せめて赤武全部は回らないとね」
 そうかあ、そうだよなあ。乙姫も亀山も回ってないもんなあ……。
 みんとの肩はトホホとばかり、がっくりと落ちた。
「まあ、みんとくんも大変だったもんね……じゃあ……」
 ふいに法子が強引に唇を重ねてきた。みんとは抵抗する間もない。でも不快ではない。それは甘く温かで、ちろりと動く舌の先が唇をかすめた。小さな音をたてて濡れた唇が離れる。
「法子さん……」
 法子は微笑んでいた。
「わたしもホワイトデイのお返しをしてなかったね。ま、わたしも……『私をあげる』ってことにしておくわ」
 なめらかな舌先が口元からのぞいた。
 千蛇神社が祀る蛇神は、また男女の秘め事の神様でもあった。

合格発表(3/15 AM)

 朝9時になると、体育館脇に仮設された掲示板に、一斉に番号が張り出される。入学試験の結果発表だ。最終倍率は1.3倍だったらしい。低いといえばかなり低いが、それでも10人に2人は落ちる計算だ。事前に「確実に合格」とか「たぶん合格」とか「一か八か」とかある程度分かっていることなのだけれど、それでも受かれば嬉しいし落ちれば哀しい。
 そんな悲喜こもごもの光景を満足そうに眺めている少女がいた。制服部に君臨する姫乃木でゅみ(ひめのぎ・−)だ。
「うふっ、これで制服部も素敵に安泰ねっ、ほほほほ」
 まだ部員勧誘も始まっていないのに彼女が勝利宣言するには理由がある。今年から新たに服飾デザイン科が設けられることになり、その一期生が今日の合格発表で誕生することになるのだ。つまり新入生が増えた分は、まるごと服飾デザイン研の部員候補みたいなもんである。
 新校舎の工事も正月明けから始まっていたが、当然4月には間に合わないため、夏休み明けくらいまでは猫屋敷の空き部屋まで使うということだった。
「制服部は永遠に不滅です! さあ、新部員獲得に向けてがんばろう!」
 この部長がいて、ここまで環境が整ってしまえば、制服部の飛躍のための快適な土台と未来は約束されたようなものだ。
 服飾女神の笑いが青空高く響き渡った。
 お日様は天頂にある。ほぼ天頂だ。まだ春先だから、そんなに高い位置までは昇らない。
 帰らずの森の中央には1本の大木がそびえていて、その下では少年と少女が仲良く散歩をしている。今年は生物部の縄張りもないようだ。
「合格おめでとう」
 坊主頭の小柄な少年の言葉に、金髪のほっそりした少女は微笑んだ。
 今日は入学試験の結果発表。自主練方々朝から学校で待ち続けていた栗熊葉一(くりくま・よういち)は、ロザリー・ミラーが合格の知らせを告げに来ると素直に喜び、そして少し心配になった。
「でも……赤武には体操部すら無いんだよ。良かったのかい?」
 ロザリーが長く続けていた新体操の部は赤武高校にはない。このあたりで新体操部が強い高校というと丸地浜高校、名古屋まで出て水賀戸商業となる。ロザリーは滑り止めの私立で水賀戸を受験したけれど、本命はあくまで赤武だった。
「クリがいるのは赤武だけだもん。新体操部がこの学校に無いなら作るヨ☆」
 このへんの思い切りの良さに引く者もいるかもしれないけれど、一本気な柔道少年である栗熊葉一にとってはむしろ心地よかった。
 思い出したように、ロザリーが手提げカバンから真新しい黒帯を取り出した。
「ちゃんとネームを刺繍しといたよ」
 それは大晦日の夜に手に入れた黒い針で縫われたものだった。栗熊自身はそんな得体の知れない相手からもらったモノを使うのはどうかと思ったけれど、ロザリーが「妖精の贈り物よ☆」と主張する。そんなこと言われても、古来、妖精やら魔物からの贈り物なんてものは、すごく役に立つか、呪われたりまがい物だったりするかの二者択一。考えてみればシンデレラのカボチャの馬車だって、所詮はフェイクで鐘の音と共に消えてしまっている。
 おそるおそるお伺いを千蛇神社にたててみれば、「よくわかんないけど、まあ、悪いもんじゃなさそうだからいーんじゃない」とのアバウトな返事。そんなわけで、ちょうど摺り切れていた栗熊の帯のネームを刺繍するのに使おうということになったのだけれど……。
「でも、Sorry……。針を無くしちゃったの。灰になって消えた気もするんだけど……」
「いいよ。ちゃんと名前が付けられたんなら」
 そういいながらトレーナーの上から帯を締めてみる。道着を着ていないからちょっと弛めの気もするけど、気のせいだ。今までは1年生の身で黒帯なんてと先輩に遠慮して締めていなかったけれど、今日からはきちんと締めようと誓った。
「カッコイイよ、クリ」
「ありがと」
 それだけいうと、ちょっと唾を呑む。今までいわなかったことを、今ここできちんと告げるためだ。
「なあに?」
「ロザリー、ぼくは君が好きだっ。これからも好きだ! 今までちゃんと返事できなくてゴメン」
「クリっ!」
 少女が飛びつき、口づけをする。栗熊の方が少し背が低いので、ロザリーが少しかがみ込むような形になる。瞬間湯沸かし器のように少年は真っ赤になった。
 1995年の春以来、この森の大樹の下で告白したカップルは幸せになれるという伝説がある。2人に長く幸あれ………………っと、ふいに栗熊の肩を叩く者がいた。何も考えず反射的に振り向けば、そこにはまったく見知らぬ顔があった。彼の名誉のために蛇足を覚悟で付け加えるならば、生まれてこの方一度も見た覚えのない顔だった。
 唇にひんやりした感触が伝わってくる。生暖かいもの……栗熊の唇を押し割るように舌が入ってくる。
「なにすんだよ!」
「あなたダレよ!?」
 その誰かを栗熊が押し戻すように離れると、ロザリーが両手を広げて間に分け入った。
 硝子細工のように美しい少年だった。どんな感情も映さないような顔に後ろで結った絹のような長い髪。身にまとっているのは純白の襦袢に狩衣と袴姿。
「鹿伏童子を倒したと耳にしたから、どんな猛者かと思えば……」
「クリに手出しすると!」
 少年が蚊でも追い払うかのように手を払い、ロザリーは木の葉のように宙に舞った。だが悲鳴はあがらない。少女はかろうじて身体をひねって足から着地した。
「ロザリーっ!」
「だいじょぶ!」
 ともかくロザリーが無事なことを確認すると、栗熊はさっと詰めより少年の奥襟をつかんだ。空気のように軽く、鋼のように重い。だがかまわず強引に投げを決めた。
 だが少年は地面に叩きつけられることもなく、まるで糸で吊られてでもいるように、ふわりと数メートルほど後ろに飛びすさっただけだった。
 その人形のような顔に、初めて感情のかけらのようなものが浮かび上がった。
「突然、なんだよ! 誰なんだ!!」
 栗熊のその問いかけに答えず、少年は……たぶん少年は垂直に飛び上がった。彼らの頭上の枝に立ち、また飛び、飛び、瞬く間に枝葉の間に消えてしまう。
『気に入ったよ。面白い。そこの女もな』
 栗熊とロザリーの頭上から響く声が次第に小さくなっていく。
 突然、一陣の風が森を駆け抜け、ブロンドの髪がなびいた。(あたりまえだけれど)黒髪はなびかない。
「あいつ、なんだったの?」
「わかんない……」
 足首をひねったのか、よろめきながら立ち上がったロザリーに手を貸しながら、栗熊葉一も頭を振った。
「でも、負けない!」

年度末サークル活動報告会(3/15 PM)

 活動報告会が開かれたのは期末試験が終わった翌週のことだった。
 会場となった体育館の周辺は、既に開始時間前から縁日のようになっていた。
 まず目につくのは占い横丁。占部がブースを設置して、「恋や人生に惑う若人のお悩み解決!」と占いコーナーを展開している。タロット占い、姓名判断からオルガン占いやジプシー占いまで、なんでもござれの百貨店状態だ。とはいえ、占部には在校生なら過去2年分の個人データの蓄積があるため、的中率はけっこう高いらしい。厳密に、それを占いといえるかどうかは解らない。少なくとも個人情報保護法の対象団体には該当するらしいという噂だ。
 その隣では、調理実習部がクッキーやクレープの実演と試食会をおこなっている。甘い香りが周囲に充ち満ちて、甘いもの好きでなくても、つい誘われてしまう。今回の目玉商品は、占部とのコラボ商品であるフォーチュンクッキーだそうだ。かわいらしい少年少女が通り往く生徒たちに試食を勧めている。
 そんな雑踏の中でもひときわ人気だったのが、放送部&写真部によるブースでおこなわれていた、卒業アルバムに同梱された特典ディスクの頒布だろう。しかし卒業アルバムをスタンダード・エディションとするなら、こちらは3枚組のプレミアム・エディションである。1枚目は卒業アルバムと同じ内容。2枚目は幻の体育祭から後夜祭までを「ドキュメンタリーあかたけ祭」と称して、航空部の公開飛行から化学部・天文部のロケット打ち上げからバザー・グルメ旅まで収録。そして3枚目は人間ドキュメンタリーということで、望遠カメラや赤外線カメラ、はたまた隠しマイクまでを駆使した学園祭の舞台裏で起こった人間模様、有り体にいってしまえば、田仲エリアスと永倉はながいかにいちゃいちゃしていたかだとか、タコ焼き屋の裏方で鬼姫を巡って三角関係がもつれにもつれた瞬間とかうわっ、きさまなにをすriac*d/......
 とにかく卒業生から噂を聞いた在校生が買いに走り、凄い特典が付いているということで卒業生でも追加で購入するほどの評判で、噂ではネットオークションで2万5000円の値がついたという……って、転売すると呪われるぞ。
 え、そう。各サークルが今年度の活動報告や次年度活動予定案を発表するという、聞いただけでは退屈そうな企画だったにもかかわらず、この『年度末サークル活動報告会』には卒業生も参加していたんである。午前中に合格発表を見に来た4月からの新入生の中にも評判を聞いて、あるいは客引きにつかまって見に来る者多数。参加者数だけでいえば、すでに成功したも同様なのであるけれど……。
 女子ムエタイ部は美容・ダイエットではなく、格闘技としての側面を強調して報告会に臨んだ。リングに立ったレスラーのようにマイクを鷲づかみにした青山怜(あおやま・れい)はステージを右に左にと足を運びながら熱気あふれるアピールを繰り返した。
「学園祭の格闘トーナメント「死の三十六房」戦はもとより、空手部との戦いにおいても女子ムエタイ部は連戦連勝を……」
「待ったぁっ!!」
 会場後方より大きな声が上がった。
 突然の乱入者は中央通路をダダダッと走り抜けて壇上に飛び乗ると、舞台袖の京からマイクを受け取り、勇猛果敢に挑戦状を叩きつけた。
「オレは空手部の高山文七(たかやま・ぶんしち)だ!! 空手部はきさまらの咬ませ犬じゃなーい!」
 そこで言葉をきり、会場に向けて大きく手を広げて見せた。ひとしきりヤジと歓声と拍手を浴びると、ふたたび拳を青山玲につきつけた。
「オレは今、ここで、きさまに挑戦する! この場で貴様を倒す!!」
 割れんばかりの歓声。「頑張れ、空手部!」の声もあれば、「玲さま、負けないで!」の黄色い声もある。
「よおし、高山文七、おまえの挑戦を受けよう! 返り討ちにしてあげるわ!」
 ステージを照らすスポットライトがぐるぐる回り、いつの間にか営繕委員やスタッフが畳みを敷き詰め始め、「ALI BOM-BA-YE」がBGMに鳴り響く。グローブやヘッドギアが運ばれてきて、制服部員が装着に手を貸す……ってここも制服部かい!?
 かくして3分と経たずに、ステージ上で2人は対峙していた。
 確かに青山怜は強い。だが1年を通して負け続けとあっちゃあ、高山文七の名が廃る……というか、有り体にいって空手部の予算もピンチだし、家族からの風当たりも強いのだ。
「それではよろしいですか。レディ……ゴーっ!!」
 ムエタイと空手……どちらも打撃系の格闘技だ。あえて組み手や絞め技を考慮する必要もあまりないし、カッパのように手が伸びでもしない限りリーチもほぼ互角。パワーは若干高山に分があるようだが、フックとハイキックの切れ味では玲が遙かに優っている。
 だが今日の戦いは、玲のキックのキレが悪い。ほとんどキックが出ない上に、ハイキックは皆無だ。
「どうして……あっ!」
 京はその理由に思い至った。
 舞台挨拶をしていた青山玲はプロテクターを装備していたとはいえ制服のままなのだ。フットワークを繰り返すたびにスカートが舞い、キックで翻る。無意識のうちに気にしているのだろうか。
「どうした、玲!? きさまの実力はこんなものではなかったはずだ!」
 高らかに叫ぶと矢継ぎ早に猛打を繰り出す高山文七。固いディフェンスはムエタイの特徴だが、文七の猛攻に少しずつ押され、玲が試合場の端でぐいっと踏みしめた途端、仮設の畳が数センチずるりとずれた。体制が崩れる。その隙を見逃さず、文七は前傾姿勢で突っ込んだ。玲の顔面に拳が炸裂しようとするその瞬間だった。
「バカたれーっ!」
 突如天空から声が響いたかと思うと、白い星が流れた。
 漆黒のコスチュームに身を包んだ天使が、天井に張り巡らしたロープを使い、滑空してきたのだ。ステージ上空でくるりと一回転、そのまま文七のあごに蹴りをくらわせた。
「くのいちユキだあああっ!!」
 ポニーテイルの覆面女子レスラーは、雪のような肢体をしならせ着地した。
くのいち雪が乱入 「油断したわね。ミス歌舞伎」
「……なんですか、それ」
 差し出された手につかまって立ち上がりながら、玲はユキに尋ねた。
「あなたのリングネームよ。歌舞伎のメイクをしてリングに……」
「辞退します」
「なら、くのいちレイ」
「……それくらいなら妥協します」
「それは結構……じゃあ、行くわよ。
 2人は肩を並べ、今まさによろよろと立ち上がろうとしている文七に向き直った。
「「ダブルくのいちキーック!!」」
 たちまち高山文七は舞台袖へと蹴り出され、次の瞬間、凄まじい爆発音と共に白いスモークがわき出してきた。
「やりましたね」
「おうっ」
 向かい合って、がっちり腕をクロスさせるユキとレイ。スポットライトは夕日のような赤で2人を染め上げた。
 しかし、いつまた空手部の第2、第3の使者が魔の手を伸ばしてくるやもしれない。格闘界に平和が戻るその日まで、負けるなムエタイ部、負けるなくのいちレイ!!
「おれは咬ませ犬じゃなーい!」
 遙か遠くで誰かが叫んでいた。
「道具は大事に使いましょう。粗末にすると祟られますよ」
「力と技と団結の営繕委員会です。エイ、エエイ、オーっ!!」
 代わって壇上では、営繕委員会代表の恋卦かりンと須葉琴子が、管理している花壇や修繕した猫屋敷などの営繕前と後をスライドで紹介するなど、なんかリフォーム会社のCMっぽい報告をした後、エールで締め。とはいえ、気合い十分のかりンはともかく、琴子はあいかわらずぼーっとしている。それもまた味である。
 続いて登場したのは、航空部の加賀巧(かが・たくみ)だった。
 オットー・リリエンタールからライト兄弟を経て、複葉機、単葉機、レシプロからジェット機に至る航空史をプロローグに、人力飛行機の製作過程のビデオ映像を上映。BGMや効果音の選択も巧く、まるでディスカ○リー・チャンネルか、ナショナル○オグラフィックかという出来映えだった。
 そして過去の飛行シーンの抜粋(大半は墜落シーンだったけれど)を背景に、加賀がステージの中央に歩み出た。両手で大きな模型を抱えている。
「今、人類の科学は大気圏を超え、宇宙にまで羽ばたいています。しかし、その根本にあるのは、イカロスの時代から変わらない空への憧れ、鳥のように大空に舞いたいという素朴な衝動に過ぎません……」
 そう語りながら、全長50センチほどの飛行機模型を差し出した。
「これが来年、ぼくらが飛び立たせようとする機体です。今はまだ小さな模型でしかありませんが、これに僕らの思いを込め、具現化し、再び大空へ羽ばたかせたいと思います。在校生の皆さん、これから1年間の応援をお願いします。それから会場に来ている新入生の皆さん、今は小さな羽ばたきに過ぎませんが、今日より明日、今年より来年、確実に翼は大きく広がってきています。ぼくらと一緒に大空に舞いましょう!」
 加賀の言葉が終わると同時に、舞台袖に控えていた部員たちがわらわらとステージに姿を現し、全員が一斉に会場に向かって大小さまざまの紙飛行機を放った。
 白い紙飛行機たちは暗い体育館の宙に舞い、それを追うスポットライトの光が反射した。紙飛行機はいつまでも舞い、中には飛行機と一緒に飛んでいる妖精を見たという者まで現れるほどの幻想的な光景を展開した。
 最後の紙飛行機が誰かの手に捉えられると、司会を務める京は閉会の言葉に移ろうとマイクを手に取った。
 そのとき、ステージの中央に小さな影がとことこと姿を現した。よく見れば執行部の杉田和美(すぎた・なごみ)だ。段取りにはないが、担当者が変わったのだろうとマイクを手渡した。
「えっと、杉田といいます。営繕委員……あ、今は生徒会で書記をやってます」
 ぱらぱらとまばらな拍手。
「今度、猫生徒会を発足させたいと思います」
 瞬間、会場が沈黙する。
 不満とか反感とかではない。理解できないのだ。それは感じられたから、和美は思いきって話を続けた。
「今、猫屋敷とかにはおおぜいのネコさんがいます。ネコさんは人があれこれ世話をしなくても自分の面倒はみれるのかもしれませんし、ウサギやニワトリみたいに生物部が飼育しているわけでもありません。でも、猫屋敷の周りで工事も始まっていますし、いろいろ問題も起きてくるかもしれません」
 反応は3つ。半分以上が無関心。残りのほとんどはやや好意的。そして1つだけ、強い怒りを感じた。舞台袖、和美の左側だ。しかし、ここまで来ては止められない。和美は勇気を振り絞った。
「ネコさんを飼育する……というのではなく、営繕委員会が園芸の世話をするようなノリで、猫たちの世話をする係を作りたいと思います……」
 和美は自分の構想を語った。それは有志によって猫を見守るサークルであること、普通に世話をするだけではつまらないので、猫生徒会という組織を作って各猫に役職などを与えてみること、猫たちの紹介記事を載せた猫新聞などを作ること等々。次第に好意的な反応が増えてくるのを感じ、さらに言葉を続け……。
 最後によろしくお願いしますとぺこりと頭を下げると会場は大きな拍手で満たされた。和美があたふたと袖に駆け戻るのと入れ替わりに天道会長が登場し、今度こそ会の閉幕を宣言した。
「ちょっと何を考えてんの!?」
 ただ1つの大きな怒りの源……田丸明子が和美の耳を引っ張った。
「あうあう、こうすれば、他の生徒さんたちにもネコさんへの親しみが生まれるのではないかって……」
「そんなことを言ってんじゃないの!! ちゃんと事前に相談してくれって言ってるの! ネコじゃないの、ネゴよ!」
 明子はさらに大きな声を上げた。会場まで聞こえるほどだが、既に退場が始まっているので、そのざわめきでかき消される。
「そういうことをやるなら、ちゃんと予算をつけてあげたいじゃない! でも相談無しでいきなりやられちゃ、簡単に右から左にとはいかないのよ!」
「ごめんなさ〜い……」
 縮こまる和美を横目にぷいっと明子は天井を見た。別にスポットライトの配置や緞帳の位置が気になるわけではなく、どこから予算をひねり出せるか考えをまとめるためである。
『予算立ては終わっているから本予算からは今さら無理だし、正式なエントリーじゃないから報告会の予算は使えないし……』
 ネコのエサとかくらいなら参加者の自腹でもなんとかなるだろう。けれど、正式な団体と認識されるためには、たとえ1円でも予算をつける必要があったし、予防注射をすればどうしても金がかかる。看板1つ、ビラ1枚だってタダじゃない。そういう主旨なら少しでも多くの予算を回してやりたいという気持ちはあったし、それだけに勝手に先走られたことに腹も立った。
「いざとなったら会長予備費の流用ね」
 アニマルセラピーで猫を連れて老人施設を訪問し、学校教育としてのボランティア活動に組み込めば予算流用の申し開きもつくだろう。
 腹立ちついでに腹をくくった明子だった。
「そうかあ……ネコ生徒会かあ……ははははは……」
 もう1人、和美の発表に衝撃を受けた者がいた。副会長の田仲エリアス(たなか・−)である。
 「裏生徒会」なるモノを噂に聞いた田仲は今日まで悩んでいたのだ。
 野球のこと、生徒会のこと、永倉さんのこと。3つとも重要だけど、3つ両立はやっぱり難しい。それを自分で認めてしまっただけに、もし自分より優秀で意欲に溢れているのなら辞任してでも道を譲ろうと覚悟を決めていたのである。
「肩すかしだったね」
 ポンと肩を叩かれて田仲は飛び上がり、そして顔を赤くした。
「永倉さん……」
「それとも、田仲くんの席にネコが座っているのを見ることになるのかしら?」
「永倉さんっ!」
 ふてくされる田仲エリアスがよほど可笑しかったのか、はなは腹を抱えて笑い転げた。文字通り、身体を「く」の字にしている。
 でも田仲エリアスだって真剣に考えていたのだ。野球も恋愛も生徒会も頑張って両立したいけど、やっぱり1/3しか時間を割いてないのも事実だから、少しでも優秀で意欲に溢れている人がいるならと思っていた。しかしネコ生徒会では問題外だ。
「覚悟を決めたよ。野球のこと、生徒会のこと、永倉さんのこと、みんな頑張る!」
「うん。あたしも一生懸命に頑張る田仲くんを応援す……」
 そこまで言いかけて、また永倉はなが笑い出してしまった。ここは感動的にムードを盛り上げたいと思っていても、いったん可笑しくなったら箸が転んでも笑い転げるお年頃なのだ。
「なんだよお」
 さすがに不満そうに田仲エリアスが怒った。
 なかば肩を揺すられるようにして、少し笑いが収まってきた永倉は、かろうじて幾つかの言葉を紡ぎ出した。
「だっ…て、田仲くん……みんな頑張るって……勉強忘れてる……」
 そんなこと、わざわざ言わなくたって、それなりに頑張るのはあたりまえ。でもそれが気になるとむちゃくちゃ気になるんだろう。気持ちは分かるが……。
「ああん、田仲くん、怒ったらダメ……ごめんなさ……きゃはははは……」
 ぷんすか。
 ネコ生徒会の早とちりと笑われたことで、さすがのエリアスも不機嫌になる。きびすを返して立ち去ろうとするのを、懸命に取りすがって引き留めようとする永倉。
「ふうむ。痴情のもつれかな?」
 突然の声に2人の動きは止まった。
 1メートルほどの円筒を抱えた少年が2人を見ていた。
「まだ他の生徒も多いんだから、ちょっとは控えた方がいいよ」
 先ほどミランダに見せたのとはまったく別の冷たい表情で、遠見治司は忠告した。
 2人とも反論したいことは山ほどあったけれど、とりあえずそそくさと離れて身繕いをするが、そのときすでに遠見の姿はなかった。

うぃっち☆はうすの送別会(3/20)

 卒業式が終わり、入試も終わり、報告会も終業式も終わった。これで今学期の公式行事はすべておしまい。
「この俺も何とかマトモに高校卒業し、獣医への道かぁ」
 うぃっち☆はうすでは今日ばかりはお客さまで金城美佐(きんじょう・みさ)がソファにふんぞり返っている。中学の時はハデにグレてたミサ姐の、今日は花道。合格報告に職員室に寄った後、うぃっち☆はうすで一服しているところ。あとで海龍寺の和尚さんにも報告に行くつもりだ。
「おめでとー☆ なに、ライバルを脅して合格辞退させたの?」
「ったく、サリエリはどうしてこうも素でそういうことがいえるかなあ」
「ふふふ。いいじゃない。合格しちゃえばこっちのものよ」
 にこにことコーヒーを差し出す佐藤絵里にうんざりしたよう、美佐は髪の毛をかきむしった。
「ブンちゃんもみっちゃんにお祝いをいわなきゃ」
「おめでとうございます」
 エプロン姿の高山文七が浮かない顔でカウンターの奥から出てきた。
「ありがと。信長の面倒は頼むぜ。当分、こっちにゃ戻ってこれないからよ……って、おめーうかない顔だね。なんだ、報告会で派手に負けたせいか? そりゃ予算も部員も大変だろ」
「……そっちは大丈夫なんですけどね」
 高山はカウンター席に腰を下ろすと、はぁ〜っと大きなため息をついた。
 意外なことではあったが、結局、女子ムエタイ部も空手部も予算がちょっぴり増額されたのである。施設の利用にも若干の考慮がされると聞いた。不本意ではあるが、実績云々以前に「ウケた」ということらしい。それに新入部員が既に5人ほど入ったそうだ。
「めでたいじゃねーか。何が不満だ?」
「なーんか、どいつもこいつも! 美人ファイターに蹴り倒されたいって連中ばかりですよ。女子ムエタイ部でなくて、ただのムエタイ部なら、みんなあっちにいってるんじゃないですか」
 とほほといった感じの肩を近寄った美佐が派手にどやしつけた。バンッと叩いて思わず椅子から転げ落ちた。
「いいじゃねーか。それでも入部してくれたんだろ!? そいつらが本当に空手に興味をもてるよう導くのが、おめーの仕事だよ!」
「そうですよお。うぶな素人さんに禁断の果実を……」
「サリエリは黙ってな!」
「ああん」
 寄ってくる絵里を押しやって、美佐は文七の隣に腰かけた。
「なにごともきっかけさ。予算が増えた、部員が増えた。素直に喜べばいいさ。そして、予算を有効に使って部員を仕込み、次はもっとうまくやればいい。一度や二度でベストな結果が出ると思うのは驕りだぜ。武道の基本は、恐れず、傲らず、侮らず…じゃないのか」
「そうよ、そうよ。百里の基地も1機から。ロマン文庫は1日で読み切れずって……ああーんっ!!」
 そしてオーナーは店から蹴り出された。
 それはともかく、その後の高山文七率いる空手部は、あちこちの格闘技系の部活に挑戦状を叩きつけて連戦連勝を繰り広げることになる。だが、ついに女子ムエタイ部に勝つことはなかったという。それもまた奇しき因縁というものであろう。

新たなる始まり(3/28)

剣道大会  3月も終わりに近づいたある日。
 赤武から電車で北に1時間ほどの壇内市で選抜剣道大会が開催されることになり、当然のごとく、赤武高校からも藤島、鬼塚、山上といった面々が参戦。選ばれなかったとはいえ松平残九郎(まつたいら・ざんくろう)もまた会場となった市民体育館に足を運んでいた。先輩たちの応援という意味もあるが、なにより全国の強豪たちの太刀さばきを間近に見る好機であった。
 壇内駅から歩くことしばしで油揚げを2枚積み重ねたような建物が視界に飛び込んでくる。いうまでもなく壇内総合体育館だ。地方都市の体育館としては分不相応に立派な施設であるけれど、さまざまな体育イベントなどに活用されており、無駄な投資ではないようだ。
 参加選手たちは会場に到着すると素早く着替え、竹刀を手に立ち上がった。
「みなみ、悪いけど、肩慣らしにつき合ってくれるかな」
「いいよ」
 鬼姫の声に、山上みなみもよいしょと立ち上がり、エイショウンショと軽く屈伸する。出番までにはまだ時間があるけれど、少しでも身体を温めておきたい。
「2階の剣道場に行ってくる。混んでたら、外の芝生にいるかも」
 そう言い残して2人が出て行くと、ちょっと遅れて藤島の用意もできた。
「オレの打ち込み……」
 そう言いかけて、藤島貴志はそこにいるメンツを見渡した。
 藤島の相手になるくらいの部員というとまず松平残九郎だが、本番直前に突き一本槍の男を練習相手にしたくはない。他の男子部員は観客席で場所取りしているし……。
 そこで藤島はにやりと笑った。
「みねこ、つきあえ!」
「ええっ!?」
「おにいちゃん、こん!……」
 三宅みねこと藤島瞳が一斉に不満の声をあげた。
 もちろんみねこは最近関係がおかしい……というか、すぐに苛めてくる藤島の相手をするくらいなら鬼姫の傍らでスポーツドリンクやタオルの世話をしていたいわけだし、瞳だって兄と二股ねこが一緒に行動するのは面白くない。それでもおキツネさまの一声で終わったのは、体育会系ならではの最低の良識が作動したためだ。
「練習相手なら、ウィッセさんの方が……」
「莫迦。最近のあいつは相手の胴の隙間から脇差しをねじ込むんだぜ」
 合戦の場ならそれも正しい戦い方であろうが、やはり本番直前の練習相手には選びたくない相手だ。ちなみに先週は鎖がまに凝っていたらしい。
「馬に蹴られるより、オレの相手をしていた方がなんぼかマシだぞ」
 藤島はこの1年間、色々なことがあり過ぎて自分の本道を見失っていた気がしていた。今日を境目に、少し引き締めようと決意していた。とはいえ、この1年間は後悔していないし、充実した日々であったとは思う。
 藤島がみねこを引きずり出し、他の部員もそれに続いた後、ロビーに残されたのは松平残九郎だけだった。観客席に戻って、全国の猛者の試合運びを少しでも焼きつけておこうと踵を返した瞬間、信じられない顔をみつけた。
「残九郎さま……いえ、残九郎先輩。お久しぶりです」
「き、きみは……」
 思わぬ顔を見て、彼は一瞬戸惑ったが、すぐに平静を取り戻した。
「赤武の生徒なのか?」
「はい。来月からですが、ちゃんと合格証書もいただきました」
 そこには、まだ真新しい小豆色の制服に身を包んだ少女が立っていた。
「近在の中学にはいなかったね」
「はい。今まで、岐阜におりましたが、このたび父の転勤に伴い、こちらの高校をということで……」
 少女は、自分の制服に目を落とした。
「値踏みしていたのだな」
「ええ。つまらぬ剣道部しかないようなら、1人岐阜に残った方がマシですから……」
 蜷川清花(にながわ・さやか)はにこやかに微笑んだ。
 松平も余裕を持って応えた。相手が化生でないと分かれば、何を恐るるものか。
「では見取り稽古といくか」
「はい」
 そして2人は揃って観客席へと上がっていった。

Gods's in His heaven……

 これで1年間お世話になった教科書たちともお別れだ。もちろんまだまだテスト勉強の参考に引っ張り出すこともあるだろうけど、できれば再会せずに済ませたいもの。
 夕食を済ませると、田丸明子(たまる・あきこ)は机と本棚の整理を始めた。とりあえず使わなそうなものは、空き箱に詰めたり、本棚の隅に押しやったり。それにこれからは生徒会仕事も増えてくる。今までのプリントやメモも集めて綴じてファイルを作った。
「やっぱ、これが邪魔かな……」
 すっかり忘れていたけれど、図書館で手に入れた大判の書籍が、勉強机の上の棚からあふれ出している。まっさらな何も書いてない本だが、何分にも重くて固い。地震でもきたら頭上直撃だ。
 納戸にでも押し込もうか、それとも寄贈と称して図書館かHPL研にでも押しつけてしまおうか。そういえば、買ったまま厳重に梱包してある大皿も邪魔といえば邪魔だ。
「書架の飾りか日記くらいにしか使えないけど……」
 こんな飾りを据えるような本棚は持っていないし、田丸家はバギンズ一族ではないので、こんな立派な本に書きつけるような冒険の記録もない。ちょっと思案しながら、よいしょと広げ、ぱらりぱらりと頁をめくってみる。
「…………なんなのよ」
 人は名を残し、怪異は不思議を残す。
 何も記されていなかったはずの本の最初の数頁になにやら書き記してある。それも誰かの悪戯書きといった感じではなく、大きな頁の上の方に、きちんとした活字で印刷されているようだ。
『無限図書館の入り口は?』
『進路指導室の少年の正体は?』
『床下の目は誰のもの?』
『ネコはどこで鳴いているか?』
『理科室のオルガンの秘密とは??』
『ニトクリスの鏡が発動した理由は?』
『ベロだしベートーベンに出会うには?』
 赤武高校の七不思議と思われる問いかけが幾つも記されている。その中には明子のよく知った話もあれば、まったく聞いたことのないものもあり、そのうちの幾つかにはさまざまな筆跡で回答らしい書き込みがあった。
『別館のノブを握ると電撃が走るってホント?』
「配電盤を細工してコードを引っ張り電気を流してた。死人が出るからやめれ」
 こんな内容、気がつかなかった……。
 答えの書かれていない謎は誰かが解けということだろうか? そしてもう1つ。

『私は誰?』

 これは何かの挑戦なのか、それともあやかしの仕業か。またしても明子の頭を悩ませる材料だ。
 明子は窓から夜空を見上げた。
 九十九神は天にいまし。されど物怪の種は尽きまじ。

(05.31.May)


※このページのデータはゲーム用の資料であり、掲載されている人物・団体・地名はすべてフィクションです。