土曜日早朝。
既に夜も明けきらぬうちから、学校には人が集まりつつあった。生徒会室に届を出して武道場に泊まり込んだ者も少なくない。9時の一般公開に合わせ、少しでも準備を進めようというのである。
朝8時。ほとんどの生徒が登校し、最後の仕上げに入っていた。
だが、そのとき既に事件は発生しようとしていた。
★
その年、2年C組はタコ焼き屋さんだった。名を「深淵亭」という。
ただその裏方の一角には異様な空気が立ちこめ、当事者以外には近づきがたいものとなっていた。
「タコ焼きの醍醐味ってのはな、タコにすじコンニャクが入って、外はカリカリ、中はトロトロってのが最高なんだ」
「そう……なのか? 私はふわっとしてソースがかかったのしか知らないが……」
「ダメダメ、鬼姫。そんなのは邪道さ」
「なら、今、私たちが刻んでいるキャベツは何に使うんだ?」
困ったようにまな板の上のキャベツを見下ろす
鬼塚真姫(おにづか・まき)。それは……と言いかける紺屋と真姫を引き裂くように、そこにドンッと銀色のボールが置かれた。中には土色のデビルフィッシュが8本の触手をのたうち回らせている。
「盛り上がっている所すまないが……こっちも手伝ってくれないか? 開店までに間に合わん」
エプロン姿が不思議に似合う
藤島貴志(ふじしま・たかし)が腕組みして野球部主将を睨んでいた。
「五月蠅いな、こっちはこっちでやっているよ」
「なら、鬼塚はこっちを手伝ってもらうぞ」
「なんだよ! おまえこそ、1人でタコと格闘でもしていやがれ!!」
にらみ合う男2人。こんな調子でもう1時間も続いている。
クラスの誰もが一触即発を恐れ、予期し、身構えている時に、甲高い声が割って入ってきた。
「あ、おにーちゃん☆」
黒装束の
三宅みねこ(みやけ・−)だった。みねこはたたたたと鬼姫のもとに駆け寄ると、その腕を両手でつかんで、くいっと引っ張った。
「巡回の時間だよ。陣羽織も持ってきたから、一緒に行こ☆」
「しかし……」
「どのみち、竹刀は持ち歩くなってお達しだから、このままでいいよ」
クラスの者に侘びながら、ずるずると引きずられていく鬼姫。しかし、紺屋と藤島以外の者は一様にホッとした表情だ。
ただ2人だけがやり場のない気持ちを抱え込むだけであった。
★
道場は今朝まで文化祭準備の生徒のために仮眠所となっていたが、寝具その他もきれいに片づけられ、女子ムエタイ部主催の公開スパーリング開始を待つばかりとなっていた。周囲には興味深げに観客が集まり始め、中に上がり込む気も度胸もないものは、窓から中を覗き込んでいる。
その畳みを敷き詰めた中央に、スパッツ姿の
青山怜(あおやま・れい)が腕組みして立っていた。
人垣を割って、道着姿の
高山文七が姿を現した。
「待たせたな、青山!」
「来たね、格闘界のハルウララ☆」
「ほざいていられるのも今のうちさ! 今日こそ決着をつけてやる!」
指をつきつけられても、怜の態度は崩れない。軽く笑った。
周囲のざわめきが一段と大きくなった。歓声や叫声に近いものが混じっている。人垣が、高山のとき以上に大きく割れた。委員の腕章をつけた天道真一郎と浅木京が観衆を抑える中、闘気を全身にまとわせた偉丈夫たちが続々と入場して来るではないか!
「おい、ありゃあ、鮫島工業の百々目鬼豪太じゃないか!?」
「キックボクシングの黒主蛾次郎だよ。テレビで見たのと同じだあ!」
「九頭流柔術の贄隼人だっ! まるで立ち技系格闘の全国大会じゃないか!!」
格闘マニアらしい連中が興奮気味に叫んでいるが、詳しくない生徒にとっても彼らの放つ殺気のようなものが感じられ、知らずと全身の毛が逆立っているのだった。そして信じられないことに、さらに何者かが観客の頭上を飛び越え、空中で華麗にひねりを入れると地上に舞い降りた。
「す、すげーぜ! 本物の
くのいちユキだあああっ!!」
バランスのとれたしなやかな肢体。漆黒の試合用コスチュームにはデザイン化された雪の結晶がプリントされていた。長い髪はポニーテイルに束ねられ、口元はマスクで覆われている。
だが、その姿に誰よりも驚いていたのは、高山文七だった。
「………姉ちゃん!? なんでここに!!」
「ほほほほほ、フミ坊がどれだけ強くなったか確かめてあげる☆」
文七は顔を引きつらせ、主催者である青山怜を睨みつけるが、怜もぷるんぷるんと首を振り、自分は知らないとアピールした。確かに出場選手を集めるため、近隣高校の立ち技系格闘部は軒並み、自分で出向いて交渉したり、各部のOBに紹介してもらったりしたし、来る者は拒まずの姿勢は貫いたが、高山の姉が美少女レスラーとしてマニア人気抜群のくのいちユキで、その彼女がこの公開スパーリングに参加するなど、夢にも思っていない。
「うわっはっはっは! これしきで動揺するとはまだまだだな、文七よっ!!」
さらに道場の入口方面より轟く声に会場中の視線が一点に集まった。
「お……おやじ……」
身長2mはあろうかという巨漢がそこにいた。肌は紫外線の恐怖もものともせずに焼きまくったかのように黒く、髪は脱色したのかビールを頭から被ったまま放置したのか金色に染まっている。太い眉、光るほど白い歯。まさしく空手界の異端児にして無頼派ファイター、クラッシャー・雄山だった。
「あれ、高山の親父さん?」
小声で囁く怜に、高山文七は声もなく小さく頷いた。
「この勝負、わしが見届けてやろう!」
彼らの動揺を気にもせず、クラッシャー・雄山は高らかに笑った。
★

「秋山さん、あれはどうします」
巡回中の風紀委員、
松平残九郎(まつたいら・さんくろう)が上司に問いただしたのは、制服部の世界制服喫茶「アルパ・あじーる」だった。
店員もお客もコスプレ三昧で、メイドさんや矢がすり袴が人気という、ちょっと異様な雰囲気だけれど、下着系な露出度の高すぎるものは禁止ということで、かろうじてコスプレ風俗化することだけは避けられていた。
「そうだなあ、長モノ振り回して暴れたりしなきゃ、目をつぶるしかあるまい? 俺たちだって、この格好だしなあ……」
陣羽織の内側から抜き出した右手であごを弄りながら、
秋山忍(あきやま・しのぶ)が答える。
少なくとも制服部の企画書は立派だった。『勤労の為につくられた服の機能美や精神性をたくさんの人に楽しんで、知ってもらいたい』と言われたら、表だっての禁止はしにくい。せいぜい巡回を多めにして、トラブルが起こったときに素早い対応ができるようにするくらいだ。
その彼らも、新撰組のコスチュームに身を包んではいるが、腰の刀は竹光だ。バルサ材や発泡スチロールでできているらしく、見かけは立派だが竹刀の代わりにでもしようものなら、簡単にまっぷたつだ。
秋山の配慮だが、それでいいと残九郎は思っている。
たとえ竹刀とはいえ、武道の道具で他人を威圧してしまうなら、それは暴力団の脅しと変わらない。真に強く正しくあるならば、校内の巡回くらい素手で十分だと思うし、班を組まされた秋山委員長代行は委員会の仕切の豪腕と裏工作ぶりからは想像もつかないほどソフトだった。
揉め事にはいったい誰が悪いのか分からなくなるくらい頭を下げて回り、会話のやりとりだけで怒りの矛先を収めさせ、あまりに問題があると思う一般入場者には退場願う。
面白い男だと松平残九郎は思う。
そのとき、笑いと悲鳴と怒りの混じった声が上がった。
「秋山さん、あれを!」
喫茶店隣の更衣室から、制止する制服部員を振り払うように五分刈り頭の男が飛び出てきた。見覚えがないから他校の生徒だろう。ピンクの看護師服からむくつけき太腕とすね毛だらけの足が飛び出ている。そのまま喫茶店にも入らず、校内を練り歩く気らしい。
「ありゃあ、いかんな……」
「いきますか?」
うんざりしたような表情で2人は顔を見合わせると駆けだした。
「御用改めである!!」
風紀委員はあくまで学園の秩序と平和を守るのだ。
★
体育館企画の担当となった
夢宮菊花(ゆめみや・きっか)が、準備期間からまるで舞台に棲み憑くかのごとく常駐するようになっていたため、企画の準備も進行もすべて円滑に進んでおり、納涼コンサートのような怪事も起きることはなかった。
そして今、舞台では演劇部による芝居が上演されていた。
それを見ていた菊花はつぶやいた。
「ごめん、真子……。ちょっときつそうね」
演劇部がしばらく舞台稽古をやめていたため気が付かなかったが、シナリオが二転三転している。確か先週の時点では、行方不明の姉を捜して呪われた街へやってきた妹が、街の人々の無視や妨害にも挫けずに姉の所在を発見し、邪神の信徒や魚人に行く手を遮られながらも燃える街から脱出しようするが、その前に姉が生んだ邪神の子が立ちふさがる……というものだったはずだ。
基本的な配役は変わっていないようだ。明朗快活で前向きなだけが取り柄の妹が
一条院麻希(いちじょういん・まき)、優しくも誇り高い姉が北条真子。だが舞台は人外の都とかしつつある街ではなかった…………
「ごきげんよう、ニャルラトテップさま。」
「ごきげんよう、ヨグ=ソートスさま。」
魂を凍りつかせるような挨拶が、どんよりした曇天に響き渡る。
クトゥルフ様のお庭に集う信徒たちが、今日も死んだ魚のような淀んだ目つきで、まがまがしい神殿の門をくぐり抜けていく。怖れを知らない精神に満ちるのは、禁断の知識。
鰓が開かないように、シューシューという音が漏れないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。
もちろん、フルートの音にあわせて狂ったように踊りだすなどといった、はしたない信徒など存在していようはずもない。
私立ルルイエ女学院。ここは……
魚人の群れのコスチュームや変貌しつつある街の人々のメイクが迫力満点だったので、出番を増やそうと画策しているうちにまったく別物になってしまったようだ。これでは解釈どころか、状況を把握するのも困難だろうに……。
いや、そんな中、尼将軍はいかにも高貴なお姉さまの役をこれ以上はないほど良くこなしているではないか!?
夢がかなった……。
そう思った瞬間、菊花は自分の身体が瞬間浮き上がるように軽くなるのを感じた。
そう、昔から、縁の下の力持ちのように、陰から人の助けとなる仕事ばかりしていた気がする。でも、これは自分の夢だ。北条真子が再び、自分を取り戻して舞台に立っているのだ。
「テケリ・リ!」
人ならぬモノたちが、あるときは観客席後方から、時には天井からと神出鬼没に出現し、そのたびに客席から悲鳴があがる。
わたしは後夜祭の篝火の輪から彼女を脱出させる計画をたて、それから2人で一緒にあの怪しい影に包まれた太古神の像を目指すのだ。そして太い柱の立ち並ぶヰ・ハ・ンスレイに到着したら、深海の魔神の巣窟のなかで、驚異と光栄に包まれたままスールの誓いを立てるつもりだ。
……おお、神よ。彼女が、彼女たちがやってくる……!!
そして幕が下りた。
しかしカーテンコールは鳴りやまない。
★
予算の乏しい(それでも普通の文化部よりはよほどもらっている)剣道部が、遠征資金の不足から大会参加を見送ったことがきっかけで開催されることになったフリーマーケット。運動部支援のチャリティ企画であり、収益は体育系サークル連合が管理して遠征資金の助成金となるらしい。
「客の入りも上々ね」
発起人である
田丸明子(たまる・あきこ)は、ひっきりなしに出入りする人の波に満足げだった。
「今のところ、売上もまずまずですから、オークションがよほどコケなければ大成功ですよ☆」
会計係担当の
須葉琴子(すよう・ことこ)が嬉々として報告してきた。
今、並んでいるのは一般生徒や教師から供出された不要品である。結婚式の引き出物のコーヒーカップのセットとか、鍋のセット、あるいは読み終わったマンガやゲームソフトなど。どれも中古屋などで買うよりはお得だ。
そして1時からはメイン・イベントであるオークションが始まる。

こちらはどんなものが出品されるかというと、バザーで十把一絡げに処分するにはもったいない(もっと値が付きそうな)アイテムだ。たとえば野球部員からはグラブやバット、ボールにサインしたものが提供されている。それが本当に価値のあるモノになるかどうかは、
田仲エリアスらの今後の活躍次第だ。それから、応援部からは「どこでも出張して応援エールを送る権」というものが出品されている。そして、一般や商店からの供出品も幾つか。
その1つ、目玉ともいうべきものが、魚姫亭提供の大皿だ。直径50センチほどの白い大皿に、紺で鯛やヒラメの舞い踊りに乙姫という竜宮城の光景が焼き付けられている。それこそ、魚姫亭にあった方がいいんじゃないかという逸品だが、100年前はさぞかし美人だったろう小柄な老女将はにやりと笑い、「あんたならいいよ」とあっさり提供してくれたのだった。
「でも、大人の人がちゃんと来てくれず、高校生ばかりのオークションになっちゃったら、せっかくの品が叩き売りになってしまって申し訳ないよ」
琴子が心配そうに言うのを聞きながら、中身を最後に確認すべく白木の箱を開けた明子は、蓋の裏側に墨書されていた文字に気がついて悲鳴を上げた。それは司書にあるまじき大声だった。
『女をさんざん泣かせてきたし、芸者三〇〇人で呑めや歌えやもしたけれど、かあちゃん、やっぱりあんたがいちばんだ。』
明治の頃に書かれた文章だが、わかりやすく言い直すとこんなものだ。他愛のない戯れ言。ただ最後の署名が問題だった。田丸虎衛。明子の曾祖父であり、一代で財を築き、一代で使い果たしてばかりか山のような借金まで残した放蕩男のものだった。老婆が簡単に放出したのも分かる。皇帝のモノは皇帝へ、田丸のモノは田丸のもとへ。
明子は光の速さで蓋を閉じた。
「売れちゃ困る、売れちゃ困る、売れちゃ困る……」
「何いってんのよ、売れなきゃ困るじゃない」
「売れたら困るの!!」
何も気が付かなかった琴子にそう怒鳴りつけると、明子は慌てて駅前の銀行出張所に飛び込んだ。
このときのオークションの模様は、
鈴木京子によって学園新聞に以下のように記録されている。
『……その竜宮の大皿が場に登場し、オークショナーである須葉琴子が開始を宣言した途端、発起人である田丸明子が周囲の喧噪を一掃するような大声で宣言した。「17万9805円!」と。その声には、これを超える金額をコールしたら殺すと言わんばかりの狂気が宿っていた…………』
★
邦楽部のライブハウス「かぐやHOUSE」の廊下側は二つに割った竹によって覆われ、さながら竹藪である。その材料は、前日のエンドレスワルツから発生した廃材。神輿はリタイアした途端、群がる生徒によって解体されてしまったとも伝えられている。入場料は無料だけれど、入口にはチャリティボックスが設置され、集まった寄付金は生徒会経由で赤十字に送られることになっているという。
「やっほーっ!」
小さな身体に大きなバリサクの黒ケース。管弦学部の
永倉はなである。ライブハウスのプログラムについて、邦楽器だけでは今ひとつインパクトに欠けると判断した
若槻瑞穂(わかつきみずほ)が、管弦楽部やモダンジャズ部にゲスト依頼をしていたのだ。
「ガンガンぶっ飛ばすからついてきな☆」
「そっちこそ、遅れないでよ!」
はながくいっと親指を立てて笑うと、瑞穂も拳で応えた。
★
舞台発表が続いている。
女子ムエタイ部によるエアロビのデモが終わった後は、1−Aによる劇『地区防挺身隊』だ。
地区防挺身隊とは、郷土の発展を願い、日夜活動を続ける素晴らしい一団らしいということで、シュールなギャグが延々と続く。主役の3人を演じるのは
松平残九郎、
栗熊葉一、
二木輪のはずだが、客席からは誰が誰だか判別できない。
「奴は自爆のプロだ。今まで破壊した建物は数知れん」
「あの、自爆ってそう何度も出来るものなんですか?」
隊長は二等兵のツッコミを無視して手を腰に当てる。
「間もなくだぁ」
そこに隊長と二等兵の後ろ、舞台下手から腹にダイナマイトを巻いた軍曹がよろけながら登場。
「すみません。道に迷いましたぁ」
びっくりして飛び上がる隊長と二等兵。
その瞬間、大爆発。パーティー・クラッカーがはじけ、ドライアイスの煙が一斉に流し込まれる。
「大馬鹿モノぉ!!」
軽快な音楽が流れ、舞台の上では顔を真っ黒に塗りたくった3人が右往左往している……。
★
高山文七はへろへろだった。
結局、公開スパーリングは籤引きによるトーナメント戦で行われたため、青山怜と決着をつける前に、<北海の暴れん坊>天道魁に破れてしまった。それでも競合相手に1回戦を突破しただけでも進歩なのだが、ライバルと家族の前での敗退は文七にとっては完敗を意味していた。
決勝戦は青山怜とくのいちユキの対決という、期待通りの戦いだった。
もはやショー的な魅せ技を使う余裕もなくなっていた怜だが、くのいちユキも普段のコーナーポストやロープを駆使した三次元殺法を封じられていたわけで、結局僅差で怜が判定勝ちを獲得した。
「あんた、やるね。フミ坊がライバル視したくなるのも分かるけど、それじゃあ役不足だね。プロに来なよ」
会場が割れんばかりの拍手の中、最後に握手を交わしながら、ユキが怜の耳元で囁いた。