10月〜燃える秋

月光の舞台

夜の舞台  来週は赤武祭というある晩。
 最後まで残っていた生徒も帰ったかに思われた体育館の舞台上に、白い影があった。
 差し込む月の光だけが明かりだ。
「何考えてんの?」
「……夢宮か」
 舞台袖から浮き出るように現れた補佐役に、尼将軍は苦々しい笑いで応えた。
「勝手に話を進めてくれて!」
「芝居のこと? 古典劇以外は苦手?」
 しばらくの沈黙が続く。
 お互いの輪郭は見えるが、距離が近づかないので表情まではわからない。
 やがて、ぽつりと言葉が漏れた。
「変化するものは嫌いよ。完成した型があり、手本があり、その通りにやれというなら、いくらでも演じてみせるわ……」
「……でも、自分で脚本を解釈し、芝居を考えるのは苦手? おかしいわね、それが芝居の喜びなのに」
 意地悪く夢宮菊花の声が舞台に響く。このやりとりそのものが、まるで1つのアングラ劇のようだ。
「臨機応変とか場の空気を読んで演じ分けるなんて地獄よ」
 静かではあったが言葉は重い。それが北条真子の本音だったのだろう。演劇部の演目が古典劇から創作劇へスライドしてから足が遠のいたのもそのためか。
「あらかじめ、起こりうるすべてを想定して芝居を用意しておけばいいのよ。『マクベス』が途中で『真夏の夜の夢』に変わったと思えばいいのよ。古典だって、古典ゆえに解釈の余地が生じるわけだし」
「簡単にいう……」
 だが、その文句に答える影は既になかった。
 まったく夢宮というのは、不思議な娘だ。いや、赤武の中では特別に不思議というほどではなかったけれど、いつでも彼女の後ろにいたような気がする。昔風に言えば「崇拝者」、今風に言えば「ストーカー」と言ったところか。
「1人でやれるわよ」
 誰に言うともなく、尼将軍は宣言した。

エンドレスワルツ

 赤武祭は前夜祭の「武者御輿」で幕を開ける。
 夕闇近くなったコース周辺は厳戒態勢に入っていた。
 コース各所には新撰組の装束に身を包んだ風紀委員が配置され、コーナーには補修材と工具を用意した営繕委員が待機している。周辺民家等へ被害を阻止することは諦めており、その修繕をいかに迅速におこなうかが最大の課題となっていた。
「この企画のために何人の人間が死んでいると思っているんですか!」
 人死にはさすがに大げさにせよ、常磐万葉が文句の1つも言いたくなるように、ただでさえ忙しく慌ただしい学園祭時期に、このような人的にも物的にも損害の大きいイベントを実施することには以前から批判があることは事実だった。コース周辺の樹木の枝葉はまず無傷では済まないことは確実だ。
 だが食いつかれた尼将軍には動揺のかけらも見えない。
「聞きたいのね? 昨年までの時点での負傷者は9822人。レディ、今年の予想は?」
「450人、プラスマイナス5人と想定されています」
 あくまで淡々と答える夢宮菊花に、「この人、意外に冷淡なのね」と思いつつ、何の反論もできなくなってしまった万葉だった。
 一方、営繕委員の意気は盛んだ。
「早くワルツになーれ!」
 どうせやらなきゃいけない修繕仕事なら、早く始めて早く終わりたいと思う須葉琴子(すよう・ことこ)だった。ヤケクソともいう。何があっても対処できるように、窓ガラスの修理からアスファルトの補修まで、なんでもこいの態勢だ。脚立からセメントまで何でも揃えて、何でも来いだ。
 そもそもこの行事の始まりは、仮装行列で御輿を担ぎながら町内一周するという大がかりなイベントだったらしい。しかし、学校の郊外移転に伴い、学校周辺をぐるりと回るだけの簡単なものへと縮小されていったのだが、同じ場所をぐるぐる回るだけでは飽きてくるし、先頭の御輿はすぐに最後尾に追いついてしまう。
 そのとき、先頭に立っていたのはまだ部員多かりし頃の空手部であり、最後尾は3年F組であったという。空手部の暴走は3年F組を蹂躙し、そのまま1つ前の吟剣詩舞部と衝突。これを見たさらに1つ前の漫画研究会が逆行して迎撃。4団体が入り乱れての乱闘となった。
 この騒ぎがもとで空手部は1ヶ月の、漫画研究会は3ヶ月の活動停止処分を受けたが、巻き添えになった3年生のうち2名は怪我の回復が国公立受験に間に合わず、意外に手強かった漫画研究会にさんざんにぶちのめされた空手部は威信が下がり弱体化するきっかけとなった。その漫画研究会も既に存在していない。諸行無常である。
 このときの事件の反省から、3年クラスの参加禁止、逆行の禁止、御輿1つにつき担ぎ手6名といったルールが定められ、またこれに伴って体育祭のプログラムから棒倒しや騎馬戦といった危険な種目が消えたのである。
 普通だったら神輿行列の方が消えるはずだが消えもせず、学校周囲だけとはいえ所轄の警察署が道路使用許可を出しているのは不思議としか言い様がない。すべてこれ「伝統」の強みであろう。
 くじ引きで決まった順番通り、校門前に各神輿が整列する。
 各クラス・各団体それぞれに個性豊かな神輿だ。もっとも「個性豊か」=「凝った作り」とは限らないのがエンドレスワルツ。どうせ壊れるならと何処からか拾ってきたダルマを据えつけただけの神輿もあれば、「屋根」「胴」「台輪」 まできちんと作り、ここまで手をかけても無駄だろうというような凝った神輿もある。ただ全体的には、担ぎ手の負担と製作段階の手間を天秤にかけ、細く縦に割った竹を組み合わせて型を作り、それに新聞紙や和紙を貼って色を塗ったものが多い。これだと、比較的簡単に作れる上に、そこそこ軽くて丈夫とコストパフォーマンスが良いのだ。
 学校の外壁に沿っては木のやぐらが組まれ、そこに臨時の放送席が設置されていた。放送部員と美術教諭がそこから中継を行っており、校内各所に中継されると共にビデオに記録されている。
「どうですか、今年の神輿は?」
「素晴らしい……すごく、すごくね……」
 眼下を通り過ぎていく神輿は、ドラゴン、見越入道、巨大写真機、マリア像に宝船となんでもありだ。ニャルラトテップ像を担ぐ魚人の群は……たぶん……演劇部だろう。しかし、どれも同じく「素晴らしい」と。
 それでも、2−Dのシュレディンガーの神輿には口ごもらざるをえなかった。本当の神輿なら御神体を収めるはずの胴体部分は縦横高さ55cmの白い立方体だけ。中には猫、もしくは猫のぬいぐるみが入っているということだが、その真偽は不明だ。観測することすらできないのだから……。
 さて、最初の1周2周は何事もなく、1つの神輿の2本の天棒を担いだ6人が、ただワッショイワッショイとにぎやかな仮装行列を続けていく。
 まず1−Dと2−F、それに数学部と制服部が体力不足によって脱落した。それに紛れて、優勝賞金や名誉より目の前に迫った発表会の方が大事だと、合唱部や演劇部がさりげなくリタイアしていった。特にわざとらしさの微塵もみえない「もうダメだ、限界まで頑張ったけど、これ以上担いでいられない」という演劇部員のリタイアっぷりは絶品だ。熱波にやられて倒れていくカエルのようだ。
 ここまでが導入部、静かなるプロローグだ。
 ワッショイ、ワッショイ
「お前を……殺す」
「早く私を殺しにいらっしゃーい!」
 既に2−Bと2−Dの間には異様な雰囲気のヤジが飛び交っている。そして動く。
 いよいよ、潰し合いが始まったのだ。
 序盤で目立った活躍をしたのは管弦楽部だった。燕尾服姿で担ぐのはベートーベンの胸像やらトロンボーンやら分厚い楽譜などが渾然一体となった生物都市的な音楽御輿だ。もともと肺活量はあるし、重い楽器を取り扱っているから、生半可な体育系には負けないだけの体力はある。サークルに人手を取られた1年クラスやそこらの文系サークルでは相手にならない。
 そして、ねじりハチマキに黒マントのアイリーン・ウィンチェスターは納涼祭についたケチを晴らすべく、この一戦にすべてをかけていた。優勝賞金10万円を破損した楽器の購入代の足しにするのだ。
「教えて永倉……あたしたちはあと何人殺せばいい?」
 次の瞬間、パーカッションの連打で1−Bの●カチュー神輿が粉砕されたが、その間、アイリーンは瞬き1つしなかった。
 一方、写真部の神輿はいかにも写真部らしくカメラの張りぼてだった。
 ただ、造形は苦手と見えて、キャノンかミノルタか判然としない部分があったが、まあ、5日間で製作した神輿にそこまで要求してはいけない。男子は白シャツに黒ズボンをズボン吊りで固定し赤い蝶ネクタイにベレー帽。女子はといえば矢羽根紋の振り袖に紺袴、紺だすきに編み上げブーツ。由緒正しいレトロな写真師と女給さんたちだ。
「目標補足! 行くぜぇ、カメラオタク!」
 そこに胴着に覆面の空手部神輿が襲いかかってきた。
 気づいた二木輪坂本歩から託されたリモートスイッチを握りしめる。張りぼてカメラもフラッシュ部分だけは部室にあるフラッシュあるだけを組み合わせた本物だったのだ。
 十分に空手部の片眉を剃り落としたダルマ神輿を引きつけたとみるや、スイッチを押した。
 閃光が周囲を包んだ。
「君らももう少し赤武祭を学んでくれたまえ」
 先頭で突進する高山文七に二木が素早くかけた足払いひとつで、空手部神輿は雪崩を打つように崩れていった。
 その空手部の後からあがってきたのは、激戦の末に樹堂あきらの2−Dを打ち破った2−Bだった。
 ワッショイ、ワッショイ
「仕留めて見せてくれ、輪」
 またもストロボ、足蹴のコンボで先頭の担ぎ手をリタイアさせる二木。しかし、2−B神輿は崩れなかった。前衛が崩れたとみるや、恋卦かりンがやおら後ろの担ぎ棒をまとめて脇に抱え、えいやッとばかりに神輿ごと宙に持ち上げたからだ。
「わたしは……わたしは……わたしは……わたしは死なない!」
 しなる竹竿とどろく悲鳴。前も見えないままかりンは写真部の列に突入した。
「こう見えても、負ける戦いは得意でね!」
 さすがに樹堂あすかはしがみついていたが、御堂流香槇原まきのたちはあっけなく振り落とされてしまう。そして写真部もまた…………。
 量でいうなら神輿2つ分、大きな廃材の塊がそこに生まれた。
 野球部の神輿はなぜか発泡スチロールを切り出したマリア像だった。野球部にマリア像というだけでも謎なのに、さらにその周囲の岩や木々のオブジェに加え、何かアニメのPOP広告らしい焦げ茶色のセーラー服を着た少女2人のイラストを裏打ちしたものが飾ってある。これまた謎だ。
 しかし甲子園優勝を果たした野球部が、体力・チームワークからみて最有力候補であることは間違いない。誰もあえて逆らおうという者はなく、王者のごとく神輿行列は進撃していく。
 ワッショイ、ワッショイ
「この守りで攻めるバカはおらん!」
「バカは来ます!」
 自信たっぷりに言う紺屋弾外の言葉を槙原荒人が遮った。
 そして、その通りだった。
「殺人的な加速だぁッ!」
 後方の剣道部神輿を撃破して姿を現したのは踊る生物都市こと音楽部だった。しかし全体のペースを無視して突き進む音楽神輿は崩壊寸前で、担ぎ手ももはや2名しか残っていない。それでもアイリーンの進撃速度はゆるまない。
「この子……怖いって事を知らないの?」
 上塚まりもが呆然と呟く。
「死ぬゼェ! あたしの姿を見た者はみんな死んじまうぞ〜!」
 アドレナリンの分泌量がいくとこまでいってしまい、すでにアイリーンの目には狂気が宿っている。しかし殿(……と書いて“しんがり”と読む)の紺屋が叫んだ。
「貴様らを前に行かすわけにはいかん!」
 いくら勢いがあるとはいえ、戦力差は歴然としていた。
「功をあせるチームに良い未来は無いな……」
 しかし、野球部もこの一戦でかなりの深手を負うことになった。マリア様の庭に大きな亀裂が走ったのである。
「人間狂って結構、それが祭りだ」
 郷土史研副部長は当然というように嘯く。
1人3竦み  あまり部員数が多くなく、またケンカ上等とも思えない郷土史研が今まで残っていたのには理由がある。先棒を担ぐ真壁衛のパワーあればこそだ。180センチを超える長身の読書家は意外に力持ちなのだ。まあ、かなりの読書家ではあるはずなのだけれど、この容姿からはとても賢そうには見えなかった。カエルのかぶり物に、右手に蛇、左手にナメクジのハンドパペットという一人三すくみである。
「オラオラ! 死神と疫病神のお通りだぁ!」
 もうわけがわからない。
 ワッショイ、ワッショイ
 だが、この悪夢のマペットパペット集団も、占部と調理実習部共同の宝船神輿は微塵も揺るがすことはできなかった。それも七福神のみならず招き猫からビリケンまでが同居した帆掛け船が亀の背に乗っているという、おめでた神輿なのだ。帆には大きく「尊勝陀羅尼」と墨書されている。
 ま、そんなことに関係なく、既に郷土史研は限界だった。衛の長身が仇となっていた。他の部員との身長差がありすぎるのだ。神輿が傾いてしまってバランスが崩れるか、衛1人で担ぐ形になるかどちらかなのだ。それになんとなく左手をイヤそうに外に向けているので、彼女は実質的に右手1本で担いでいる……。

逢魔が時の遭遇

 いつの年の武者行列の話も上級生やOBに聞くとかならず「それはひどい戦いじゃった…」のひとことから始まるという。
 今年も夕方4時半の時点で残っているのは、1−Aと占部だけだった。いちばん若手の1年クラスと女子が多い文化系サークルという意外な取り合わせだったが、本命ともいうべき神輿が皆中盤までにつぶし合う展開となってしまい、どちらかといえば自分のペースを守ったグループが生き残った……といえるかもしれない。それはもうひどい戦いだった。
 だがさすがにもう声は出ないし、ペースも落ちている。停止したとして失格とみなされる寸前だ。そろそろ決着をつけたいところだが、両者とも距離が開きすぎてしまっている。決着をつけるなら、神輿のペースを上げて相手の神輿の後ろにつけるか、ペースを落として相手が追いついてくるのを待つのか、それともどちらかが力尽きるまで今のペースを保つのか。
 しかし法子は、陸奥みんとの物問いたげな顔にあえて答えなかった。
 待っていたのだ。
 足音が聞こえてきた。
 元気いっぱいといった威勢の良い足音が、タッタタッタと後方から迫ってくる。1−Aは松平残九郎、栗熊葉一といった体育会系生徒がサークルの方に取られずに参加していたというが、これほど余力を残していたのか?
 周囲で見物していた者なども含めて後で聞き取り調査してみたが、10人中6人は何も見えず何も聞こえなかったといい、何か薄暗い影のようなモノが見え足音の聞こえたという者は3人いた。
 恐る恐る後ろを振り向いた陸奥みんとは思わず小さなヒイッという悲鳴をあげた。彼は10人目であった。
 神輿そのものはシンプルだった。大きな木桶が1つ乗っかっているだけだ。だが、担ぎ手を一言で描写することは困難だった。
乱入者たち  それが作り物だとしたら、それは最新のSFXの粋によるものであっただろうが、それをここまで活き活きと動かすのであれば、彼ら全員がフィルムの(もしくはデジタルデータの)世界に放り込まれておらねばならないはずだ。
 そこには1つとして同じ姿のモノはいなかった。
 蜘蛛のような脚が生えたダルマがいるかと思えば、無数の目が瞬きする真鍮色の円柱が蠢いていたりする。人のようであり、物のようであり。ガラクタの寄せ集めのようであり、肉の塊のようでもあり。箒のようであり、狐のようであり。たとえ人であっても、頭が巨大であったり蛇の舌をしていたり。そんな異形の神輿集団がみんとの目の前にいたのだ。
 訳がわからずにいる部員、何かの影に怯える部員の間から、芳田法子(よしだ・のりこ)が歩み出た。
 あれは人外のもの、化生は人にどうこうすることはできないと制止するみんとに、法子は微笑みで答えた。
「お前には出来ない。わたしには出来る」
 そのまま人の輪を離れ、異形の神輿に近づき、何を話したか一言二言。
 いきなりの突風が吹き去った後には、ただ法子の姿だけが残っていた。
 はっきり言ってしまえば、優勝は1年のAクラスだった。対抗馬だった占部神輿が突如停止して、担ぎ手が1人2人と神輿を離れてしまったから完全なリタイアである。黄昏時に魔にたぶらかされたのだという者もいるし、実際に見たという生徒もいたが、結果は結果である。
 逢魔が時に蠢く物の怪は、幻覚か、魔物か、はたまた国津神のなれの果てであったのか。
「法子さん、なに話してたんですか?」
 神輿の片づけも終わり、参加者は皆三々五々に輪を作り、差入のスポーツドリンクを飲んだりマッサージや怪我の治療をしていた。校舎の壁にもたれかかって座り込んでいる法子のところに、陸奥みんとがスポーツタオルを持ってやって来た。
「みんと、君も見えたんでしょ。怖くなかったの?」
「ええ、ちょっとびっくりはしましたけど、本当に危険だったらおばあさんが止めてくれると思ってましたから……」
 その言葉に、占部第一書記は少し考え込んでから口を開いた。
「自分たちは去りゆくものだ。最後の祭りくらい、好きにやらせろってさ」
「へえ、楽しんだんですかねえ、彼ら……」
「まだ祭りは終わってないのかもよ」
 彼らのいう「祭り」とはなんだろう。赤武祭のことならば、学園祭さえ無事に済めばそれで良し。もはや統計を左右するようなイレギュラーは発生しないだろう。
「騾馬はいらない」
 とりあえず要注意は文化祭だろう。当日はハロウィーンだからだ。ハロウィーンというと、なんか仮装行列をするお祭りみたいな雰囲気ができてしまっているけれど、本来は日本の盆と同じく、あの世とこの世の境界が狭くなり、亡者や魑魅魍魎が現世に出現する日と考えれば良い。あれらはたぶん九十九髪の類だと思うが、それでも用心するに越したことはない。

忘却の体育祭

 体育祭は終わった。
 あっけなく終わった。
 どのくらいあっけないかというと、誰も結果を覚えていないくらい。
 みんな、ぼろぼろで、競技の1つ1つをこなすのに精一杯だったのだ。
「おにーちゃん、決着はどーなったのよおーっ!」
 などと叫ぶ者がいないでもなかったが、すべては忘却の彼方。得点集計表もその後のどさくさに紛失してしまい、また歴史が1つ、失われてしまったのである。

美しき夢見人

 言っちゃ悪いが、体育祭を適当に片づけたら、そのまま全力で文化祭に突入である。昼2時くらいにはすべての競技も終わるが、閉会式に出てきている生徒は半分もいない。とっくに文化祭準備に取りかかっているからだ。
 角材やダンボールを慌ただしく搬入する姿もあれば、タコ焼きやクレープを焼く練習をしている者もいる。呼び出しや注意事項を告げる放送が何度もかかり、風紀委員や営繕委員も校舎内を右に左に飛び回っている。
 『夢を具現化する存在』なんて噂も乱れ飛んでいる。なにやら、強く念じればその願いが姿をもって現れるということらしいが、そんなものを真に受けて手を止める者はいない。夢を見ている暇もないというのが正直なところだろうか。
クレープ  2−Bの教室では店作りは男子に任せ、女子はクレープ焼きの練習に入っていた。
「正直、あたしクレープなんて作ったことないよ。あれって、薄く広げないといけないんだよな」
 ふてくされているようだが、実は照れている樹堂あすかの告白に、恋卦かりンは大きく頷いた。
「任せて。あたしが教えてあげるヨ」
 そう言いながら素早く生地をこねあげると、片手でくるくると回し始めた。生地の固まりは空中でたちまち薄い円盤状になった。
「ほうら、クレープがくるくる回るよ〜」
「かりンちゃん、それピザだってば…」
 まきのんが静かにつっこんだ。みんなもそう思っていたけれど、誰も何も言えなかったのだ。
 いくら樹堂だって、それくらい知っている。
 北門側に仮設されたテントに、MTBが乗りつけた。
「D組への配達、終わりましたよ」
「ありがとう、サンシ」
「ミヒロですってば……」
 天幕の裏手から、野菜の詰まったダンボールを抱えた常磐万葉(ときわ・かずは)がよたよたと現れた。一二三四は転ばぬ前に駆け寄って、ダンボールを受け取った。
「これはどこですか?」
「2−Cのタコ焼き屋さんよ」
 中には青々としてみずみずしいキャベツやネギがあふれんばかりに詰まっている。営繕委員会と生物部有志は校内で栽培している野菜や果実、花木を各団体に食材や装飾用として頒布しており、それを疑問符号で配達するのは一二三四の仕事だった。
「しかし、まあ、ここまで見事な野菜が路地で育つもんですねえ。ビニルハウスとか使ってないんですよね?」
「そりゃあ、もう。これだって学校側には黙認してもらってるんだもの。ハウスなんか作ったら怒られちゃう」
 そう言ってくすくすと笑う万葉。しかし植物の持つ力をそのまま引き出してやるだけとはいうのだけれど、数は多くないというもののリンゴや蜜柑からカーネーションまで、これだけ見事な作物を出荷できる園芸班の腕は凄いと三四は感心している。
「あたし、明日はクラス喫茶でデリバリーするんで配達できませんからね」
「大丈夫よ。ありがと」
 そういいながら、万葉はまた別の箱から取り出した会議用テーブルの上に晩白柚を積みあげ始めた。
「はーい、衣装の回収でーす☆」
 他の部員と共に屯所(風紀委員の控え室)に姿を現した姫乃木でゅみが、前夜祭のときの衣装を回収し始めた。
「どうしたんだ? 学園祭は新撰組で統一するって話だろ」
 文句をいう風紀委員に、でゅみはにっこり微笑んだ。
「もちろんです。ですから、汚れが目立つ浅黄色の隊服はこれで終わり。今からは、史実通りに黒羅紗筒袖の黒衣バージョンに切り替えですう」
 手早く真新しい衣装と交換すると、「ほほほほほ。ごめんあそばせ☆」と瞬きする間に去っていく。まさに神出鬼没即参上である。
 逆にいえば、前夜祭から打ち上げまで、学園祭で使用する膨大な衣装をオーダーメイドで作成している制服部である。これくらいスピーディに処理していかないと追いつかないのだろう。
「制服部もたいへんねえ」
「うちの学校だけなら、完全に征服されてますからね」
 一般入場者用のパンフレットをまとめていた浅木京の言葉に、田丸明子(たまる・あきこ)はコピー機のトナーを交換しながら応えた。屯所と生徒会の作戦司令部は隣合わせだ。というか、生徒会室が半分に仕切られ、彼女ら生徒会サポーターはそこに押し込められている。
 備品が足りないと取りに来る生徒への対応や明日の準備に追われながらも、浅木京(あさぎ・けい)は状況に満足していた。忙しいは忙しいけれど、記事の材料には事欠かないし、新聞部絡みのヤバいネタはもみ消しやすいし、サポーター万歳である。
「明子、チッコイノはどうしたのさ」
「チッコイノ?」
「新聞ばっか読んでる……」
「ああ、遠見さんですか。化学部の方に顔を出してます。すぐ戻ると聞いてますけど……」
 その言葉を聞いて、京は背伸びをしながら周囲を見回した。
「ならいいけど……なんか、この部屋、サポーターばっかで本来の住人をほとんど見かけないじゃない」
 確かに居るのは、クラスやサークル活動の時間を割いて集まっている学園祭実行委員がほとんどだ。肝心の執行部員は1人もいない……いや、1人だけいるけど熟睡中で話しかけても返事がない。ただのしかばねのようだ。
「仕方がないですねえ。殿村さんはまりもちゃんと一緒に外回り(エンドレスワルツが破壊した周辺住居への謝罪)だし、尼将軍が演劇部にとられちゃうのはみんな承知の上だし……」
「なら、尼将軍の補佐がもっと頑張るべきなのよ!……誰だっけ?」
「ああ、ほら、なんか体育館の仕切に出かけているんですよ」
「……夢宮」
「そうそう、夢宮先輩が悪い!」
 2人の会話に口を挟んだ杉田和美は、逆に現役員がいない方が心地よいと感じていた。あの人たちの心は誰も彼もイガイガしていて気持ち悪かった。今はかなり良くなったけれど、殿村先輩なんか、近づくだけで吐き気がしたこともある。
 生徒会をやるなら、このメンツがいいなと和美は思った。
 一方、御堂流香(みどう・るか)は浅木京と同類だった。
 学園祭での写真部の展示に関する企画書提出が、締め切りギリギリ……正直言って期日をオーバーしていたのだ。それをさりげなく、未決書類箱の奥に押し込めることができたのも、実行委員の役得だ。土下座しなくて済んで何よりだ。
 ただ、気になっていたのは、エンドレス・ワルツで占部神輿の近くに出現した黒い影のことだった。周囲の者たちは何も見なかったというけれど、芳田法子はその近くにわざわざ歩いていき、そして失格になった。彼女こそ、何か見えていたのではないのか?
「そやねえ、直接話するかせんと、あかんかなあ……」
 その流香に留守を任された形になっているのが、二木輪(ふたつぎ・りん)である。
 今までのところ、学園祭全般はそつなくこなしている。優勝は逃したもののエンドレスワルツは軽量神輿でけっこう頑張って、それでいて大きな怪我はしなかった。展示会場や機材の確保も早めに終わり、体育祭はそれこそろくに参加していないのに、いかにも大活躍しているような印象を周囲に与えつつ体力を温存してきた。クラス劇の方だって、シナリオ原案だけクラスメイトに渡してお任せに成功し、シナリオをあげたということで他の仕事は免除され、しかも自分が書いたシナリオだから練習にろくに出なくてもセリフは全部頭に入っている。
 そういうわけで、ゆったりと写真パネルの展示をしているわけだけれど……。
「流香先輩……才能って残酷だなあ……」
 それが二木の偽らざる感想だった。
 何事にも率先して行動する御堂流香であり、彼女を二木は尊敬していたし、ときどき混じる関西弁のイントネーションも好ましいと感じてはいたけれど、部活での熱心さと写真を撮る技術やセンスというものがイコールではないことを、彼女の作品から思い知らされていた。
 はっきり言って、彼女の風景写真はイマイチだったのである。
「いいよ、クラスの練習に行っておいでよ」
 どうすれば少しでも彼女の作品の見栄えがよくなるか悩んでいる二木を見かね、坂本歩が声をかけてきた。どうやらクラス劇の方が気になると勘違いされたようだった。劇はどうでもいいけれど、撮っておきたい写真もあったので、後を任せることにした。
 生物部に割り当てられた教室に、金城美佐たちが最後の仕上げとなる、木々の鉢植えをえっちらおっちら運び込んでいた。サンドイッチに飲み物、それに新鮮なフルーツを饗する森林喫茶である。だから教室の設営そのものにも手間はかかっていないし、食材の下準備もほとんど不要だ。
 メニューの味見と休憩を兼ねて、晩白柚の皮を割り、中の実をみんなに配っていた常磐万葉に金城部長が、学園最後の進路を尋ねた。
「そうですねえ、樹医志望ですから、理系科目に絞ります」
「ジュ−イ? ああ、樹木のね。あたしは獣医科志望だからさ、後は受験勉強一直線さ」
 本当なら、こんなイベントに参加している暇はない。既に寝る間も惜しんで勉強する者が大半だ。でも、それくらいのゆとりを持っていたいと金城美佐は思う。そうでなければ、本当に獣医になったとき、やっていけないんじゃなかろうか。
「わたしは、樹の1本1本、葉の一葉一葉が愛おしいです。みんな、元気になって欲しい、どんどん大きくなって欲しい……」
 万葉は教室の各所に配置された鉢植えを大事そうに撫でた。

文化祭午前

 土曜日早朝。
 既に夜も明けきらぬうちから、学校には人が集まりつつあった。生徒会室に届を出して武道場に泊まり込んだ者も少なくない。9時の一般公開に合わせ、少しでも準備を進めようというのである。
 朝8時。ほとんどの生徒が登校し、最後の仕上げに入っていた。
 だが、そのとき既に事件は発生しようとしていた。
 その年、2年C組はタコ焼き屋さんだった。名を「深淵亭」という。
 ただその裏方の一角には異様な空気が立ちこめ、当事者以外には近づきがたいものとなっていた。
「タコ焼きの醍醐味ってのはな、タコにすじコンニャクが入って、外はカリカリ、中はトロトロってのが最高なんだ」
「そう……なのか? 私はふわっとしてソースがかかったのしか知らないが……」
「ダメダメ、鬼姫。そんなのは邪道さ」
「なら、今、私たちが刻んでいるキャベツは何に使うんだ?」
 困ったようにまな板の上のキャベツを見下ろす鬼塚真姫(おにづか・まき)。それは……と言いかける紺屋と真姫を引き裂くように、そこにドンッと銀色のボールが置かれた。中には土色のデビルフィッシュが8本の触手をのたうち回らせている。
「盛り上がっている所すまないが……こっちも手伝ってくれないか? 開店までに間に合わん」
 エプロン姿が不思議に似合う藤島貴志(ふじしま・たかし)が腕組みして野球部主将を睨んでいた。
「五月蠅いな、こっちはこっちでやっているよ」
「なら、鬼塚はこっちを手伝ってもらうぞ」
「なんだよ! おまえこそ、1人でタコと格闘でもしていやがれ!!」
 にらみ合う男2人。こんな調子でもう1時間も続いている。
 クラスの誰もが一触即発を恐れ、予期し、身構えている時に、甲高い声が割って入ってきた。
「あ、おにーちゃん☆」
 黒装束の三宅みねこ(みやけ・−)だった。みねこはたたたたと鬼姫のもとに駆け寄ると、その腕を両手でつかんで、くいっと引っ張った。
「巡回の時間だよ。陣羽織も持ってきたから、一緒に行こ☆」
「しかし……」
「どのみち、竹刀は持ち歩くなってお達しだから、このままでいいよ」
 クラスの者に侘びながら、ずるずると引きずられていく鬼姫。しかし、紺屋と藤島以外の者は一様にホッとした表情だ。
 ただ2人だけがやり場のない気持ちを抱え込むだけであった。
 道場は今朝まで文化祭準備の生徒のために仮眠所となっていたが、寝具その他もきれいに片づけられ、女子ムエタイ部主催の公開スパーリング開始を待つばかりとなっていた。周囲には興味深げに観客が集まり始め、中に上がり込む気も度胸もないものは、窓から中を覗き込んでいる。
 その畳みを敷き詰めた中央に、スパッツ姿の青山怜(あおやま・れい)が腕組みして立っていた。
 人垣を割って、道着姿の高山文七が姿を現した。
「待たせたな、青山!」
「来たね、格闘界のハルウララ☆」
「ほざいていられるのも今のうちさ! 今日こそ決着をつけてやる!」
 指をつきつけられても、怜の態度は崩れない。軽く笑った。
 周囲のざわめきが一段と大きくなった。歓声や叫声に近いものが混じっている。人垣が、高山のとき以上に大きく割れた。委員の腕章をつけた天道真一郎と浅木京が観衆を抑える中、闘気を全身にまとわせた偉丈夫たちが続々と入場して来るではないか!
「おい、ありゃあ、鮫島工業の百々目鬼豪太じゃないか!?」
「キックボクシングの黒主蛾次郎だよ。テレビで見たのと同じだあ!」
「九頭流柔術の贄隼人だっ! まるで立ち技系格闘の全国大会じゃないか!!」
 格闘マニアらしい連中が興奮気味に叫んでいるが、詳しくない生徒にとっても彼らの放つ殺気のようなものが感じられ、知らずと全身の毛が逆立っているのだった。そして信じられないことに、さらに何者かが観客の頭上を飛び越え、空中で華麗にひねりを入れると地上に舞い降りた。
「す、すげーぜ! 本物のくのいちユキだあああっ!!」
 バランスのとれたしなやかな肢体。漆黒の試合用コスチュームにはデザイン化された雪の結晶がプリントされていた。長い髪はポニーテイルに束ねられ、口元はマスクで覆われている。
 だが、その姿に誰よりも驚いていたのは、高山文七だった。
「………姉ちゃん!? なんでここに!!」
「ほほほほほ、フミ坊がどれだけ強くなったか確かめてあげる☆」
 文七は顔を引きつらせ、主催者である青山怜を睨みつけるが、怜もぷるんぷるんと首を振り、自分は知らないとアピールした。確かに出場選手を集めるため、近隣高校の立ち技系格闘部は軒並み、自分で出向いて交渉したり、各部のOBに紹介してもらったりしたし、来る者は拒まずの姿勢は貫いたが、高山の姉が美少女レスラーとしてマニア人気抜群のくのいちユキで、その彼女がこの公開スパーリングに参加するなど、夢にも思っていない。
「うわっはっはっは! これしきで動揺するとはまだまだだな、文七よっ!!」
 さらに道場の入口方面より轟く声に会場中の視線が一点に集まった。
「お……おやじ……」
 身長2mはあろうかという巨漢がそこにいた。肌は紫外線の恐怖もものともせずに焼きまくったかのように黒く、髪は脱色したのかビールを頭から被ったまま放置したのか金色に染まっている。太い眉、光るほど白い歯。まさしく空手界の異端児にして無頼派ファイター、クラッシャー・雄山だった。
「あれ、高山の親父さん?」
 小声で囁く怜に、高山文七は声もなく小さく頷いた。
「この勝負、わしが見届けてやろう!」
 彼らの動揺を気にもせず、クラッシャー・雄山は高らかに笑った。
校内巡回 「秋山さん、あれはどうします」
 巡回中の風紀委員、松平残九郎(まつたいら・さんくろう)が上司に問いただしたのは、制服部の世界制服喫茶「アルパ・あじーる」だった。
 店員もお客もコスプレ三昧で、メイドさんや矢がすり袴が人気という、ちょっと異様な雰囲気だけれど、下着系な露出度の高すぎるものは禁止ということで、かろうじてコスプレ風俗化することだけは避けられていた。
「そうだなあ、長モノ振り回して暴れたりしなきゃ、目をつぶるしかあるまい? 俺たちだって、この格好だしなあ……」
 陣羽織の内側から抜き出した右手であごを弄りながら、秋山忍(あきやま・しのぶ)が答える。
 少なくとも制服部の企画書は立派だった。『勤労の為につくられた服の機能美や精神性をたくさんの人に楽しんで、知ってもらいたい』と言われたら、表だっての禁止はしにくい。せいぜい巡回を多めにして、トラブルが起こったときに素早い対応ができるようにするくらいだ。
 その彼らも、新撰組のコスチュームに身を包んではいるが、腰の刀は竹光だ。バルサ材や発泡スチロールでできているらしく、見かけは立派だが竹刀の代わりにでもしようものなら、簡単にまっぷたつだ。
 秋山の配慮だが、それでいいと残九郎は思っている。
 たとえ竹刀とはいえ、武道の道具で他人を威圧してしまうなら、それは暴力団の脅しと変わらない。真に強く正しくあるならば、校内の巡回くらい素手で十分だと思うし、班を組まされた秋山委員長代行は委員会の仕切の豪腕と裏工作ぶりからは想像もつかないほどソフトだった。
 揉め事にはいったい誰が悪いのか分からなくなるくらい頭を下げて回り、会話のやりとりだけで怒りの矛先を収めさせ、あまりに問題があると思う一般入場者には退場願う。
 面白い男だと松平残九郎は思う。
 そのとき、笑いと悲鳴と怒りの混じった声が上がった。
「秋山さん、あれを!」
 喫茶店隣の更衣室から、制止する制服部員を振り払うように五分刈り頭の男が飛び出てきた。見覚えがないから他校の生徒だろう。ピンクの看護師服からむくつけき太腕とすね毛だらけの足が飛び出ている。そのまま喫茶店にも入らず、校内を練り歩く気らしい。
「ありゃあ、いかんな……」
「いきますか?」
 うんざりしたような表情で2人は顔を見合わせると駆けだした。
「御用改めである!!」
 風紀委員はあくまで学園の秩序と平和を守るのだ。
 体育館企画の担当となった夢宮菊花(ゆめみや・きっか)が、準備期間からまるで舞台に棲み憑くかのごとく常駐するようになっていたため、企画の準備も進行もすべて円滑に進んでおり、納涼コンサートのような怪事も起きることはなかった。
 そして今、舞台では演劇部による芝居が上演されていた。
 それを見ていた菊花はつぶやいた。
「ごめん、真子……。ちょっときつそうね」
 演劇部がしばらく舞台稽古をやめていたため気が付かなかったが、シナリオが二転三転している。確か先週の時点では、行方不明の姉を捜して呪われた街へやってきた妹が、街の人々の無視や妨害にも挫けずに姉の所在を発見し、邪神の信徒や魚人に行く手を遮られながらも燃える街から脱出しようするが、その前に姉が生んだ邪神の子が立ちふさがる……というものだったはずだ。
 基本的な配役は変わっていないようだ。明朗快活で前向きなだけが取り柄の妹が一条院麻希(いちじょういん・まき)、優しくも誇り高い姉が北条真子。だが舞台は人外の都とかしつつある街ではなかった…………

「ごきげんよう、ニャルラトテップさま。」
「ごきげんよう、ヨグ=ソートスさま。」
 魂を凍りつかせるような挨拶が、どんよりした曇天に響き渡る。
 クトゥルフ様のお庭に集う信徒たちが、今日も死んだ魚のような淀んだ目つきで、まがまがしい神殿の門をくぐり抜けていく。怖れを知らない精神に満ちるのは、禁断の知識。
 鰓が開かないように、シューシューという音が漏れないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。
 もちろん、フルートの音にあわせて狂ったように踊りだすなどといった、はしたない信徒など存在していようはずもない。
 私立ルルイエ女学院。ここは……

 魚人の群れのコスチュームや変貌しつつある街の人々のメイクが迫力満点だったので、出番を増やそうと画策しているうちにまったく別物になってしまったようだ。これでは解釈どころか、状況を把握するのも困難だろうに……。
 いや、そんな中、尼将軍はいかにも高貴なお姉さまの役をこれ以上はないほど良くこなしているではないか!?

 夢がかなった……。
 そう思った瞬間、菊花は自分の身体が瞬間浮き上がるように軽くなるのを感じた。
 そう、昔から、縁の下の力持ちのように、陰から人の助けとなる仕事ばかりしていた気がする。でも、これは自分の夢だ。北条真子が再び、自分を取り戻して舞台に立っているのだ。
「テケリ・リ!」
 人ならぬモノたちが、あるときは観客席後方から、時には天井からと神出鬼没に出現し、そのたびに客席から悲鳴があがる。

 わたしは後夜祭の篝火の輪から彼女を脱出させる計画をたて、それから2人で一緒にあの怪しい影に包まれた太古神の像を目指すのだ。そして太い柱の立ち並ぶヰ・ハ・ンスレイに到着したら、深海の魔神の巣窟のなかで、驚異と光栄に包まれたままスールの誓いを立てるつもりだ。
 ……おお、神よ。彼女が、彼女たちがやってくる……!!

 そして幕が下りた。
 しかしカーテンコールは鳴りやまない。
 予算の乏しい(それでも普通の文化部よりはよほどもらっている)剣道部が、遠征資金の不足から大会参加を見送ったことがきっかけで開催されることになったフリーマーケット。運動部支援のチャリティ企画であり、収益は体育系サークル連合が管理して遠征資金の助成金となるらしい。
「客の入りも上々ね」
 発起人である田丸明子(たまる・あきこ)は、ひっきりなしに出入りする人の波に満足げだった。
「今のところ、売上もまずまずですから、オークションがよほどコケなければ大成功ですよ☆」
 会計係担当の須葉琴子(すよう・ことこ)が嬉々として報告してきた。
 今、並んでいるのは一般生徒や教師から供出された不要品である。結婚式の引き出物のコーヒーカップのセットとか、鍋のセット、あるいは読み終わったマンガやゲームソフトなど。どれも中古屋などで買うよりはお得だ。
 そして1時からはメイン・イベントであるオークションが始まる。
大皿  こちらはどんなものが出品されるかというと、バザーで十把一絡げに処分するにはもったいない(もっと値が付きそうな)アイテムだ。たとえば野球部員からはグラブやバット、ボールにサインしたものが提供されている。それが本当に価値のあるモノになるかどうかは、田仲エリアスらの今後の活躍次第だ。それから、応援部からは「どこでも出張して応援エールを送る権」というものが出品されている。そして、一般や商店からの供出品も幾つか。
 その1つ、目玉ともいうべきものが、魚姫亭提供の大皿だ。直径50センチほどの白い大皿に、紺で鯛やヒラメの舞い踊りに乙姫という竜宮城の光景が焼き付けられている。それこそ、魚姫亭にあった方がいいんじゃないかという逸品だが、100年前はさぞかし美人だったろう小柄な老女将はにやりと笑い、「あんたならいいよ」とあっさり提供してくれたのだった。
「でも、大人の人がちゃんと来てくれず、高校生ばかりのオークションになっちゃったら、せっかくの品が叩き売りになってしまって申し訳ないよ」
 琴子が心配そうに言うのを聞きながら、中身を最後に確認すべく白木の箱を開けた明子は、蓋の裏側に墨書されていた文字に気がついて悲鳴を上げた。それは司書にあるまじき大声だった。
『女をさんざん泣かせてきたし、芸者三〇〇人で呑めや歌えやもしたけれど、かあちゃん、やっぱりあんたがいちばんだ。』
 明治の頃に書かれた文章だが、わかりやすく言い直すとこんなものだ。他愛のない戯れ言。ただ最後の署名が問題だった。田丸虎衛。明子の曾祖父であり、一代で財を築き、一代で使い果たしてばかりか山のような借金まで残した放蕩男のものだった。老婆が簡単に放出したのも分かる。皇帝のモノは皇帝へ、田丸のモノは田丸のもとへ。
 明子は光の速さで蓋を閉じた。
「売れちゃ困る、売れちゃ困る、売れちゃ困る……」
「何いってんのよ、売れなきゃ困るじゃない」
「売れたら困るの!!」
 何も気が付かなかった琴子にそう怒鳴りつけると、明子は慌てて駅前の銀行出張所に飛び込んだ。
 このときのオークションの模様は、鈴木京子によって学園新聞に以下のように記録されている。
『……その竜宮の大皿が場に登場し、オークショナーである須葉琴子が開始を宣言した途端、発起人である田丸明子が周囲の喧噪を一掃するような大声で宣言した。「17万9805円!」と。その声には、これを超える金額をコールしたら殺すと言わんばかりの狂気が宿っていた…………』
 邦楽部のライブハウス「かぐやHOUSE」の廊下側は二つに割った竹によって覆われ、さながら竹藪である。その材料は、前日のエンドレスワルツから発生した廃材。神輿はリタイアした途端、群がる生徒によって解体されてしまったとも伝えられている。入場料は無料だけれど、入口にはチャリティボックスが設置され、集まった寄付金は生徒会経由で赤十字に送られることになっているという。
「やっほーっ!」
 小さな身体に大きなバリサクの黒ケース。管弦学部の永倉はなである。ライブハウスのプログラムについて、邦楽器だけでは今ひとつインパクトに欠けると判断した若槻瑞穂(わかつきみずほ)が、管弦楽部やモダンジャズ部にゲスト依頼をしていたのだ。
「ガンガンぶっ飛ばすからついてきな☆」
「そっちこそ、遅れないでよ!」
 はながくいっと親指を立てて笑うと、瑞穂も拳で応えた。
 舞台発表が続いている。
 女子ムエタイ部によるエアロビのデモが終わった後は、1−Aによる劇『地区防挺身隊』だ。
地区防挺身隊とは、郷土の発展を願い、日夜活動を続ける素晴らしい一団らしいということで、シュールなギャグが延々と続く。主役の3人を演じるのは松平残九郎栗熊葉一二木輪のはずだが、客席からは誰が誰だか判別できない。
「奴は自爆のプロだ。今まで破壊した建物は数知れん」
「あの、自爆ってそう何度も出来るものなんですか?」
 隊長は二等兵のツッコミを無視して手を腰に当てる。
「間もなくだぁ」
 そこに隊長と二等兵の後ろ、舞台下手から腹にダイナマイトを巻いた軍曹がよろけながら登場。
「すみません。道に迷いましたぁ」
 びっくりして飛び上がる隊長と二等兵。
 その瞬間、大爆発。パーティー・クラッカーがはじけ、ドライアイスの煙が一斉に流し込まれる。
「大馬鹿モノぉ!!」
 軽快な音楽が流れ、舞台の上では顔を真っ黒に塗りたくった3人が右往左往している……。
 高山文七はへろへろだった。
 結局、公開スパーリングは籤引きによるトーナメント戦で行われたため、青山怜と決着をつける前に、<北海の暴れん坊>天道魁に破れてしまった。それでも競合相手に1回戦を突破しただけでも進歩なのだが、ライバルと家族の前での敗退は文七にとっては完敗を意味していた。
 決勝戦は青山怜とくのいちユキの対決という、期待通りの戦いだった。
 もはやショー的な魅せ技を使う余裕もなくなっていた怜だが、くのいちユキも普段のコーナーポストやロープを駆使した三次元殺法を封じられていたわけで、結局僅差で怜が判定勝ちを獲得した。
「あんた、やるね。フミ坊がライバル視したくなるのも分かるけど、それじゃあ役不足だね。プロに来なよ」
 会場が割れんばかりの拍手の中、最後に握手を交わしながら、ユキが怜の耳元で囁いた。

文化祭昼

「出前で〜す」
 駄菓子屋の店先に、おかもちを下げた割烹着スタイルの少女が飛び込んできた。
「まりも……ちゃん?」
 店番をしていた殿村功一がビックリしたように顔を上げた。
 1年D組は「変わりゆく郷土」というテーマだったが、「郷土の研究発表だけじゃ、ちょびっと地味だべな」ということで、郷土料理のふるまいもしていたのだ。ま、郷土料理というのは「懐かしい」ものであり、「美味しい」ものとは限らない。材料が手に入らないもの、調理に手間と時間がかかるもの、レシピからして不味そうというものを除いてセレクトしていった結果は「なんか、小料理屋のメニューだな」と担任教師が心密かに思うようなものになってしまった。
 それはそれで良いのかもしれない。言うではないか、肉じゃがかあさりのみそ汁で男の心なんか簡単に捕まえられると。
 肉じゃがも味噌汁もないが、地元産の片口鰯で作った魚醤にやはり地元産の味醂を加えたタレをつけた焼き魚の定食だ。教室の片隅で駄菓子の空箱に囲まれながら、平らげた殿は、ごちそうさまとまりもに告げた。
「ははは、万々歳だ〜」
 野球部の日本一は嬉しいが、何よりも殿村が元気になったことが上塚まりもには嬉しかった。
「なあ、まりもちゃん」
「な……なんですか?」
「この後、暇あるかな? 良かったら、一緒に回らないか」
 ちょっとぶっきらぼうな言い方ではあったけれど、まりもは思わずうんうんうんうんうんと頷いたのであった。
 2人とも生徒会の仕事もあるんだから、あんまり長いことはダメだよ。
「寄ってってくださ〜い」
 フリフリのワンピースとエプロンのウェイトレスが教室の入口で客引きをしている。残念ながら、陸奥みんとは男だったが。
「新作ケーキは?」
「紫芋のモンブランと紫イモとアップルのパイです」
「両方もらおう」
 誰かの父兄なのだろう。そこにむんっとしかめ面の中年男性が現れ、新作ケーキを注文している。
 目玉商品のケーキはもちろん、サンドイッチとかの軽食とかおりのいい紅茶とコーヒー、ハーブティーも好評で調理実習部の成績はまずまずだし、これは直販分。模擬店をやっているクラスなどにも卸しているから、文句のない業績だった。
「……あ、あとで法子さんにも差し入れしてあげよ。試作の味見の御礼もあるし……」
 なぜか、いろいろ理由を考えてしまうみんとだった。
 一世を風靡していた健康のための日光浴というのは、昨今ではちっとも流行らなくなってしまった。『ブルーシティー』によって紫外線の危険性が啓発された結果、今では母子手帳にも「赤ちゃんを日光浴させましょう」などと書かれることがなくなってしまったのである。
 しかし、日照量の少ない北欧では健康のためというより、娯楽のために日光浴はおこなわれている。習慣は早々に帰られないのも事実なのだ。
 赤武祭の最中ではあったけれど、栗熊葉一(くりくま・よういち)はミランダ・ミラーとその妹たちを連れて還らずの森の大木の元へ来ていた
 栗熊はミランダが眠ってばかりなのは、遠見が引っ張りまわして『ふぃとんちっど』を吸えてないからと確信していた。よくは知らないが、英国人は森林浴無しでは元気が出ないそうじゃないか。そこで、遠見がロケット打ち上げで忙しく、手が離せないうちにミランダを森へ連れてこようと思いついたのだ。
 もともと金髪外人に耐性のない栗熊だったが、最近はさすがに少しは慣れてきた。とはいえ、「小さい子が夜中に泣く」との言葉に情が疼かなければ、ここまで積極的に動くことはなかったろう。彼女たちとの間に恋愛感情のようなものはなかったはずだ。なんとなく、彼女らと自分の間に踏み込めない一線を無意識のうちに感じていたのだ。
「仮眠ならココで。見張りもする」
 ちょっと無愛想に言う栗熊にミランダ・ミラーは嬉しそうに笑うと、大きな布製のトートバッグを枕代わりにすぐに眠りに落ちた。他の少女たちは日向で走り回る者もいれば、文化祭の方が気になるからと校舎に向かう者もいて、なかなか忙しいけれど、なんとなく幸せなひとときだった。
「遠見くんはどうしたの!?」
 荒れ地に立った芳田法子(よしだ・のりこ)は不機嫌そうに言った。
 占部は天候予測や安全確率の計算など化学部のロケット打ち上げを支援した末、当日に学校から少し離れた荒れ地にまで来ているというのに、肝心の遠見治司がいないではないか。
「彼が中心の企画だったはずでしょ? 彼はやる気がなかったわけ!?」
 怒り狂う(またはそれを演じる)法子をなだめるように、他の部員が言い訳をする。
「これは彼の……というか、彼のアニキが部長だった頃からの悲願さ。あいつはあいつなりに頑張ってる」
「……アニキを越えたいんじゃないかな」
「お兄さんを?」
 その問いに、本当のことは分からないけどさと言いながら、3年生の部員が答えた。
「あいつ、航空宇宙関係に就職したっていうアニキのことをすごく慕っている反面、ライバル意識もあってさ。普段、我関せずみたいなそぶりしてるけど、案外と頑張り屋の熱血漢なんだぜ」
 そういうと、あいつにはこんなこと話したってナイショだぜと3年生は笑った。
 僅かに法子のこめかみがひくついた。
「……蓋を開けたら、真っ当なロケット好きな少年なわけ? なら、どうして、今、ここに居ないのよ!」
 この気持ちはなんだろう。すべてがはっきりしないことから来るイライラなのか。
「まあ、いいわ。気象条件が変わっても困るんでしょ? 彼が来なくても予定通りに進めてよね!」
 櫓に設置された2mほどのロケットを前に、芳田法子はきっぱりと告げた。
ミラー姉妹&母娘  帰らずの森の中。
 心地よい日差しに、栗熊までがついうとうとし始めた、ちょうどそのとき、
「あ、おじちゃん!」
 アリエルが声を上げた。
 瞬間、自分のことを言われたかとムッとした栗熊だったが、すぐにそれが自分のことではないと気がついた。金髪の少女の見る先には、何か大きな固まりを胸に抱えた遠見治司(とおみ・こうじ)が怒りに震え、顔を真っ赤にして立っていた。
「あれ、ロケット打ち上げじゃあ……」
「き、きさまっ!……だいたいだな、どこまで知って……いや、いい。ミランダ・ミラー!!」
 息せき切って言葉も出ないのを無理に大声を出し、遠見は思わず前屈みになって咳き込んだ。途端に抱えていたものが、大きな声で泣き出した。
「ビアンカ!!」
 普段は揺すっても耳元で怒鳴っても起きないミランダが、1秒とかからず目を覚まし、すっ飛んできた。そして、ふてくされたようにそれを差し出す遠見から受け取ると、それまでのぼーっとした表情は少しも見せず、ひたすら赤ん坊を抱き上げ、あやし続けた。
「もう、ミルクの時間だろ。おむつだって、もう限界だ」
 そういって、肩から下ろした水筒型の魔法瓶をミランダに突きつけた。
 ミランダが赤ん坊のおむつを取り替え、水筒のお湯でミルクを作るのを見ていた栗熊は、曰く言い難い表情で遠見を見つめた。
「ば、バカ! 僕の子供じゃない。兄貴のだ!」
「は?」
 栗熊は1年、遠見は2年。しかし身長差はほとんどないから、正面から見つめ合う結果となった。だがすぐに遠見の方が目をそらした。
「いいか、あと半年だ。頼むから義姉さんが卒業するまで何も言うな!!」
 栗熊は黙って頷いた。もとより他人の事情に深入りするのは好むところではない。
「うん、まあ、他言無用だぞ」
「分かった」
「……あの赤ん坊はビアンカ。彼女の2人目の娘だ」
 その言葉を聞いた瞬間、今度こそ栗熊の目玉は飛び出しそうになった。2人目?
「上の5人は彼女の妹だけど、ベリンダは娘だ。普段はどちらかのお袋が面倒見ているが、今日はどうしても都合がつかなくてな……」
 そういえば、「小さい子が夜中に泣く」と言っていたっけ。自分の赤ん坊ですか。そりゃ、アメリカのハイスクールでは子連れで登校する生徒もいると聞いたことはあるけれど……。
 そのとき、遠くから轟音が響いてきた。
 その音に、遠見は哀しげに天を仰いだ。
「間に合わなかったか……」
 栗熊たちも青空を見上げれば、煙を噴き上げつつ、物凄い勢いで何かが天に向かっていく。
「光の昇天だ……」
「目標高度は2000メートル、そこで落下傘が開く……」
 遠見はただ天空を見上げていた。
 展示企画も今年はかなり充実している。
 例年だと「文化祭当日は遊びたいから、適当に何か書いて貼っておこうぜ」というデモシカ企画が多いのだが、今年は真面目な仕事が多く、特にテーマが「街」そのものに集中している。
 例年使い回しの多い郷土史研だが、土壇場で真壁衛が頑張って街の観光ガイド風にレポートをまとめているし、2年F組の『二年F組の赤武』は、作文や詩、写真や8ミリ映像まで駆使して生徒各自の眼から見た今の赤武に関する思いを綴ったものだ。松山英太の音頭取りで始まったF組の企画は、ちょっと間違えれば雑然としたガラクタ企画になるところをピジュアル的な構成がうまく、教師たちの覚えもめでたく、特に現代アートにかぶれている美術教師の評価が高かった。
「別に先生たちに喜んでもらおうと思ったわけじゃないからな」
 そういいつつも、相手が誰であろうと自分の仕事が誉められればそれなりに嬉しいわけで、松山もまんざらではなかったようだが、それは後の話。
 そしてもう1つ。1年D組の『変わりゆく郷土』は昔の赤武市の写真を古い新聞雑誌や郷土史の本から集め、その場所や人物などの現在の写真と対比させるという展示だった。面白い企画ではあるけれど2Fほどのインパクトはなく、むしろ上塚まりもが中心となっている郷土料理コーナーの方が人気となっていた。
「ドーしたでござるかな、ミッキー?」
 見る者のいない展示コーナーの一角で、受付係になっていた大城美月(おおしろ・みつき)が立ち尽くしているのに気がついたウィッセ・ネグリが軽食コーナーを抜け出してきた。
 色褪せた写真のコピーを見ながら、静かに涙を流している。その姿にウィッセは何もいえなくなっていたのでござる。
密林喫茶  生物部の密林喫茶は盛況だった。
 どういう手を使ったかは知らないが、教室中が蔓と葉に覆われ、みんな頭を下げてくぐるように出入口を行き来した。窓が開いているかどうかもわからないくらいに樹が茂っていたけれど、それでも息苦しさとか寒いとか暑いとかいうことはなく、物珍しくも落ち着いた雰囲気が受けていたようだ。
 美月を会場から連れ出したウィッセは、この喫茶店を選んだ。覆い繁った枝葉や蔓がカーテン代わりとなって他の生徒の目が届かないからだ。
「お客さん、人目につかないと思ってひどいことしてちゃダメだよ」
「しっしっ」
 適当に注文してバートンかスピークかというコスチュームのウェイトレスの生物部員を追い払うと、ウィッセはあらためて正面に座った美月に向き直った。まだ少し目が赤く、ときおり鼻をすすり上げている。どう見ても傍目には別れ話がこじれているようにしか見えないだろう。
「レズの痴話喧嘩でござるか? ニンニン……」
 ひとりでツッコミを入れつつ、ウィッセはちょっと冷めたコーヒーをすすった。
「ごめんね……」
 10分もしてからだろうか、美月が口を開いたのは。
「いいけどさ、あそこで泣かれては良くてお店の営業妨害、悪けりゃそなたがさらし者になったところでござる」
「そうだね。……なんとなく、山や森が無くなって、どこにでもあるような公団住宅や工業団地ばかりになったの見てたら……なんか急に苦しくなっちゃって……」
「ウサギ臭いしアノ穴でござるな」
「わかんないよお」
 笑わせるつもりはなかったが、ウィッセの言葉に美月は弱々しく微笑んだ。センチメンタルな季節なのだろうか。ちょっと情緒不安のようだ。少し時間をおいた方がいいだろう。
「ぬるいコーヒーお代わりでござる!」
 彼女に付き合って時間を潰す覚悟をしたウィッセが、リビングストンかスタンリーかといったウェイターに追加オーダーを大声で唱えると、美月は困ったような顔になった。
「ウィッセちゃん、そのゴザルゴザルって言い方、やめた方がいいよ」
「ヘンでござるか?」
「うん」
 そうか、おかしいのか。ウィッセは素直に反省した。日本語は友だちと話すときと目上の人と話すときで言い方が変わるし、方言もドイツ以上に変化に富んでいる。どれだけ学んでも学びきれない部分があるのだ。
「努力するであります」
 ウィッセ・ネグリはそう宣言した。

文化祭午後

文化祭 昼1時のシフトが終わり、藤島貴志は鬼姫を誘った。
「もう、あがりだろ。ちょっとそのへん回らないか?」
「いいよ」
 簡単なものだった。普段だったらデートに誘う誘わないと大事になり、声もかけづらいのだが、今日は意外にさらっと言えた。文化祭ばんざい。
 適当に幾つかバザーや展示企画を冷やかして、地学部の展示教室に入った時のことだった。展示物はあいかわらずの鉱物標本コレクションと鉱物分布図というものだったが、片隅に即売コーナーがあった。採取した鉱石の半端物やマニア的にはクズ石を磨き上げ、ボトルに詰めたり、きれいな小箱に収めてみたりして売っていたのだ。
 真姫の足が止まった。あれこれ、興味深そうに見ている。その視線が何度か同じものに止まるのを、藤島は見逃さなかった。
「これ、売ってくれ」
 地学部からトパーズのペンダントを買い取ると、それをそのまま鬼塚真姫に手渡した。
「この前の大会で気を吐いてたのはお前さんくらいだから、な。しかも、あれだけ働いていてだ。プレゼントをやりたくなるのも当然だろう?」
「あ、ありがと……」
 今まで、家族以外の誰かからプレゼントをもらったことなど無かった真姫は、ちょっと戸惑いながらペンダントを受け取った。そこでさらに藤島が何か言おうとしたが、それは果たせなかった。
「おう、藤島!」
 大きな野太い声が教室に響き渡った。
 振り返れば、そこには巨大パンダ。手には「タコ焼き 深淵亭」と描かれたプラカードを持っている。藤島はうんざりしたように、パンダの方を向いた。
「なんだよ、紺屋」
「おお、今、お茶漬け屋の前を通りかかったんだけどな。おまえの妹、瞳っていうのか? 美人だなあ。なんか、男たちが後夜祭に誘おうと牽制しあって、そりゃ……」
 そのとき、既に藤島の姿はなかった。「瞳ぃ!」という絶叫だけが遠くから響いてくる。
 事態の急変にぽかんと立ち尽くす鬼姫。しかし、藤島を見送ったパンダがゆっくりと向き直る前に、すばやくアクセサリーをスカートのポケットに落とし込んだ。
「そういうわけで、特にこの後の予定がないなら、後夜祭につき合ってくれないか?」
 巨大なパンダが小首をかしげる様子がおかしく、真姫はついクスリと笑ってしまった。
 派手なファンファーレが鳴り響く。今年の管弦楽部は出張サービス満点だ。

 先ほどまでは森の向こうから打ち上げられるロケットを見物するために集まっていた観客が、今は人力飛行がいつ始まるかとワクワクしながら待っている。
 先ほどからの実況に引き続き、こちらの公開飛行も中継すべく放送席では放送部員が待機しながら、機材の再点検やテープ交換をしている。さらに準備段階から飛行まで記録しようと二木輪がカメラをかまえて待機している。彼は学祭期間中も撮影をおこなっており、速攻で撮影・展示をしているので、ここで無様な失敗をすると、それがそのまま晒し者になってしまうのだ。
「プレッシャーをかけてくれるぜ」
 そう呟くと、人力飛行機の最終調整を指揮していた加賀巧(かが・たくみ)はふんと笑った。
 もともと、この公開実験は、する側にとっては不利な状況だ。大きな大会では湖や海に向かって高台から飛ぶ。最初から高度がある分飛距離が伸びるし、墜落した場合でも下が水だから怪我をする危険は小さい。今回もわざわざ校庭より高い位置にある体育館の脇に発進用のステージを組み上げていたが、それでどれだけ距離が稼げるだろうか。
 機体に固定されているパイロットの写真を撮り終わった二木が駆けだすと、20mほど先のグランド脇に三脚を立ててカメラのセッティングを始めた。畜生、せいぜいあのあたりまでしか飛ばないと思ってるな。
「Stand by for action!!」
 せめて50mだ。できればグラウンドの中央を少し越えたあたりまでは飛んでくれ!
 管弦楽部の演奏がひときわ大きくなった。
「離陸まで20秒を切りました。15秒……10秒……」
 アナウンサーの実況が耳に飛び込んでくるが、そんなことは百も承知だ。
「行けーっ!!」
 加賀の合図で限界まで軽量化された機体を壊さないように気遣いつつも、サポートについた部員2人が左右から勢いよく飛行機を押し出した。
「飛んだ!」
 パイロットが懸命にペダルをこぎ、プロペラが大きくゆっくりと回転する。ふわっと僅かに浮き上がり、高度は1mもなかったが、静かに機体は飛行している。大きな歓声があがった。
 グランドには弧を描くように距離を計測するための、白いライン線が引かれている。
 10mを超えた。
 15mもなんとか超えた。だがスピードが落ち、高度が次第に下がってくる。
「清水ぅ、漕げーっ!!」
 仲間たちの嫉妬激励がパイロットに送られる。
 もう、墜落すると誰もが思った瞬間、校庭をさっと風が流れた。それに乗ったかのように、またくいっと高度が上がった。歓声が大きくなり、サングラスの写真部員が三脚を担いで走り出した。
 ざまーみろ!
 加賀は内心で喝采を送った。20mは超えたぜ。
 そしてさらに伸びる。
 まだまだ伸びる。
 ついに100mを超えた瞬間、グランドは大歓声に包まれた。
 ちゅーちゅーちゅー。
 今日5本目のアンプル瓶が空になった。
「ちょっと飲み過ぎだよ。ろくに寝てないし食べてもいないんだろ? 少し休んだらどうだ?」
「ふへへへへ、だいじょーヴィっ!」
 人力飛行機の着地(墜落)地点を学園祭マップのマスターに書き込むべく、生徒会室に顔を出した加賀の心配に、浅木京(あさぎ・けい)は目の下にくまを作りながらもVサインで応えた。
 かのウィンストン・チャーチルはナチスドイツのV(Vergeltungswaffen)兵器の攻撃で瓦礫の山と化した市街で、市民にV(victory)サインで応え、ついには戦いに勝利して裏向きVで勝ち誇ったが、こちらのVサインはどうにも心許ない。
「でも、こういうのは1日1本とか本数が決まってるだろ?」
「ちゃーんと銘柄は変えてあるから、何本でもOKよ」
 そういうものではないと思うが、あくまで本人が大丈夫というのだから仕方がない。タオルを投げ込む者はどこにもいないのだ。
 京は学園祭の準備委員として奔走する傍ら、新聞部員として学園祭企画は残らず取材すべく学校中を奔走し、エンドレスワルツにも最後までつき合っている。その合間をぬって、制服部の応援にコスプレ喫茶の手伝いもしているのだ。メイド服のまま校内を疾走する彼女を目撃した者は少なくない。しかし、最終日の昼過ぎともなると、そろそろ限界が近づきつつある。
「ふふふ、新聞部のミステリークイズは凄いわよ……」
 疲れ切った上に、汗がしたたる前髪が目から鼻に被さった京が腹の底から絞り出すように言うと、本当に凄そうだ。
「クイズをしてね、……正解したらお饅頭を食べるの……。饅頭の中にとびきり辛いのがあって、それを食べるとアウトね。普通の饅頭をあてるか、そのふりをすればセーフ……でもね……ふふふふ……みんなアタリなのぉぉぉぉ……」
 皆まで言うことなく、浅木京はもんどり打って倒れた。倒れるはずみに机の角で頭を打って床に大の字になったときには、額が赤く晴れ上がっていた。
「うわっ!」
 結局居合わせた加賀巧が大騒ぎで、鈴木部長を呼びに行ったり、京を保健室まで連れて行ったりしたのだが、彼はその順番を間違えていた。
 すぐ隣の部屋にいたということもあり、先に新聞部長を呼びにいったばかりに、京を担いで運ぶ加賀の姿はそのまま写真に収められ、学園祭に殉じた実行委員とそれを支えた男の美談ということで憶測たっぷりの記事にされることになる。

後夜祭

篝火 校庭の北の外れ、野球グランドのライト定位置あたりに今年のキャンプファイアは用意されていた。「半端に飛びやがって」とみんなぶつぶつ言いながらも、企画の撤去作業に出た材木などを運んでいくが、さすがにビニールやプラスチック製品は分別されている。市指定のゴミ袋に詰め込まれたゴミは、三爺たちが営繕委員たちと協力してリヤカーで黙々と運び出している。
 1年のクラス発表「資源のリサイクルを考える」でも報告されていたけれど、名古屋市などはゴミ処分場が足りなくなって、周囲から総スカンをくったのである。そこで一念発起して、真面目に分別収集とゴミの減量を図ったところ、なんと5年で北欧のゴミ処理先進国の水準に追いついてしまったのである。何事もやればできるというか、なんで今までやらなかったんだよという感じである。しかし、それも、こうした営繕委員や三爺のような地道な活動があってのことだ。
 紺屋弾外(こうや・だんがい)と鬼塚真姫はそんな様子を屋上から見下ろしていた。さすがに空気が冷たくなってきている。紺屋から誘ってここまで来たものの、何か会話があるでなし、もう5分はこうしていた。
 しかし、やがて意を決したように、紺屋は一気に吐き出すように言った。
「……鬼塚真姫……その……あ……俺! 絶対お得だと思う! 絶対後悔させない! だからつきあってほしい!」
 沈黙が続く。
 耐えられない沈黙。紺屋はそっと鬼姫の目を見てハッとした。剣道の試合のときと同じ、何かを射抜くような鋭くも真剣なまなざし。何を射抜く? 俺の心か……。
「悪いけど……まだ……紺屋のこと、好きとか嫌いとか……友だち以上とは思うけど、恋人とかつき合うとか、そういうことは考えられないの」
 紺屋の口が開いた。自分でも思ったより冷静な声が聞こえてくる。
「分かった。でも、俺の気持ちは伝えた。それは変わらない。親しい友だちとは思ってくれているんだろ? なら、俺が本当にお得な男だってこと、見て確かめてくれ……」
 それだけ告げると、紺屋はゆっくりとその場を離れた。目一杯背中が泣いている。
 何かを考えるように、真姫は上を仰ぎ、満天の星を見た。
「長きに渡った今年のイベントも終盤よ! 気合入れて盛り上げていくわよ!」
 キャンプファイヤーのBGMは管弦楽部の生演奏。オクラホマミキサーやらマイムマイムとか、レパートリィも広いけれど、まったく朝から晩までご苦労なことである。やるな、アイリーン!といったところか。
 その営火の中に、人力飛行機の残骸を見ることはできない。もうすっかり焼け落ちてしまっている。しかし、炎はますます盛んに燃えさかり、それを囲んで踊る生徒の輪が途切れることはない。その中には、田仲エリアスと永倉はな、殿村功一と上塚まりもといったカップルも見受けられるが、ワンフレーズ終わっても手を離してパートナー・チェンジをしようとしない連中は、はっきり言って邪魔である。けっ。
「そなたが松平残九郎殿ですか!?」
「いかにも!」
 大時代的な言葉に大時代な言葉で応え、キャンプファイアーに背を向けた松平の前に立っていたのは、束髪くずしの少女だった。右手に持った木刀を軽く肩にのせ、こちらを見て笑っている。
「今宵は祭ゆえ、長物は禁止されています」
 松平に指摘され、初めて気づいたように木刀を見た少女は、左手に持ち替え下におろした。
「それは不案内ゆえ失礼しました」
 赤武の剣道部員ではない。近在の不良とも違うようだ。そっちは秋山代行が手を回しているはずだし、何より少女は凛として気品が感じられる。
「赤武に……いや、私に何の御用ですか」
 相手をきっと睨みつけ、松平残九郎は静かに一歩前に出た。その風紀の隊士に、少女はちょっと小首をかしげて答えた。
「私より強い者に会いに来ました……」
「ほう」
 男は片眉を上げながら、口元だけで笑ってみせた。
 腰に下げた刀をすっと抜く。もちろんバルサ材の模造刀だ。ヘタに素振りをしたら、それだけで折れてしまいそうになる。だが、その切っ先をぴしりと胸元に向けた。こちらはグラウンド。相手はそれよりやや高い土手の上。高低差で1m50ほど、直線距離にして3mといったところか。
 にぎやかなフォークダンスの音楽が流れる中、そこだけ時間が止まっていた。風すら動かない。
 少女がふっと肩の力を抜いた。
 松平も竹光(のようなもの)を鞘に収めた。
「一手御指南願おうと思いましたが、今宵はご多忙のようゆえ、またいずれ日をあらためて伺いたいと思います」
「名前は? 名を名乗るのは礼儀であろう?」
「重ね重ね失礼しました。ニナガワサヤカと申します。ではいずれ」
 そう言うと少女は微笑みながら一礼し、静かに後ずさりながら闇の中へ消えていった。最後にえび茶色の袴がちらりとひるがえった。
 もし、今、ここで手合わせしたとしたらどちらが勝ったであろうか?
 そう考えて、初めて松平は驚いたような顔になった。
 なんということだ。本気で手合わせをした結果が予想できない! こんな面白いことがあろうか!? 剣道ではない、剣術で果たし合いをして勝つか負けるか予想できないとは。
 今の僅かな対峙で、彼はあのサヤカと名乗った少女と自分の腕が互角と踏んだのだ。
 人の気配を背後に感じ、再び松平はキャンプファイアーの方を見た。逆光だが、その長身で顎の長いシルエットで誰だかはすぐに判明した。
 先ほどまでの緊迫した雰囲気とも、グランドにあふれる嬉し恥ずかし和やかな雰囲気とも不釣り合いな図書委員は、ゆっくりと松平の側まで歩いて来ると彼を無視するように周囲を見回して呟いた。
「……ふうむ。狂っているようだな。面白い」
 何がどう面白いか突き詰めて訊ねることすらできないうちに、HPLはまた悠々とその場から去っていったのである。
 後夜祭が終わり、営繕委員らが火の始末を始める。今日のところはそこまでだ。明日、また半日使って片づけをすることになる。
「にゃはははは」
 すっかり暗くなった帰り道。三宅みねこは鬼姫の腕を取りながら帰途に就いていた。
「おにーちゃん、誰かに告白されたろ?」
「……」
 暗くてよく見えないはずなのに、真姫の頬を赤らめたのが分かるように、みねこはもう一度笑った。
「店から連れ出したっていう藤島かな……違うにゃあ。紺屋にゃん」
「な、なんで!?」
「にゃはははは、あたりにゃん? 2人の性格は丸わかり。でも、おにーちゃんはOKだしてないでしょ?」
 もはや声にならない。あわあわあわわと口をパクパクさせる鬼姫に、にかにかと笑顔を見せた。
「初歩的なことですよ、おにーちゃん。OKだしてたら、おにーちゃんはみねこと一緒には帰ってないでしょ」
 まったく、その通りだった。ちなみにホームズは原典中では「初歩的なことだよ、ワトスンくん」のセリフは使っていないはずだ。
 ただ、うつむいて歩く真姫の手を引きながら、みねこは密かに誓っていた。おにーちゃんは男たちには渡さないからね、と。

11月〜白い秋

 一二三四(たかつぎ・みひろ)はときどきに疑問符号の声が聞こえるような気がすることがある。長年連れ添い手をかけてきた愛車だから、そんなこともあるのだろう。
 最初は猫屋敷の怪事がきっかけだった。破片が内から外に向かって散乱しているなど、今回の騒動には明らかに不審な点が多かった。原因不明で修繕箇所が増えるのは面白くない。
 演奏会に出席した生徒の目撃証言から、その事件に松山英太が関わっているらしいと調べあげるのは、さほど難しくはなかった。ただ、相手が風紀委員ということもあり、また学園祭の準備やなにやらに奔走することになり、ここまで時期を待つことになってしまった。
 松山栄太が事件の顛末について、特に誰とも相談しないでいたのは、それが誰かに話しても信じてもらえそうになかったこともあるが、なにより風紀のお庭番ともいわれる彼本来の性分が大きかっただろう。だから、別に「絶対秘密」と決めていたわけでもないので、一二三四に捕獲され、「ちょっと、口を割ってくれないかな…」と言われた瞬間にぺらぺら〜んとしゃべってしまった。そりゃあ、階段だろうと屋根の上だろうと、どこまでも追ってくる一二がまったく怖くないといったらウソになる。
「なるほど。それで辻褄があうわ」
 しかし、意外なほどに一二三四は松山の言葉を信じてしまった。あまりに簡単に信じてしまったので、もっとデタラメを吹き込めば面白かったかも……と思ったのはナイショだ。
 もちろん一二三四にしても無条件で話を鵜呑みにしたわけではない。ガラスの割れた方向等、現場の状況をそのまま受け止めれば、何か怪異が起きたとしか説明できないのだ。たとえ荒唐無稽に思えたとしても、論理的にそれ以外の回答がありえなければ、それこそが真実である。
「その、最近になって遠隔地から写真部部室内に持ち込まれたらしい災いのタネっていうのは……」
「それは沖縄土産のガラス瓶らしいよ。中に錆びた薬莢が入っていたらしいから」
「ラッキョ?」
「薬莢。ライフルや拳銃の弾丸を飛ばすための火薬がつめられた筒の部分」
 そう言われれば分かる。沖縄でヤッキョウと来たので、つい沖縄特産の島ラッキョウを連想しただけだ。あれは浅漬けにすると美味い。
「なにそれ、幽霊ってこと?」
「それは分からないさ。僕だって、自分の聞いたのが幻聴かどうか、分からないわけだし……」
「あ、それは信じる。幻聴じゃないよ。きっと」
 それに関しては、妙に肯定的な一二三四だった。
 とにかく、2人でもう少し、この学園で起きている奇妙な事件について調べていくことにしたのである。

執行部と生徒会

 学園祭が終わると、いよいよ生徒会執行部の交代時期だ。
 いつもなら型どおりの告示がおこなわれる一方で、水面下でサークル連合単位で選出代表の選出が行われていくわけだが、今年は少し様子が違っている。どうやら、まともな選挙が行われる気配だった。
 真っ先に動いたのは体連の天道真一郎(てんどう・しんいちろう)だった。
 彼はいち早く「人材の選出方法などで体連の機構改革を進めるべきだ」とイケニエ体質の払拭を打ち出した。彼が言うところの、悲劇のヒロインに依存するシステムから脱却すべきだというのだ。それがすぐ後に、彼の望みもしない結末を招来することになる。
杉田和美  逆に迷っていたのは杉田和美(すぎた・なごみ)だった。
 彼女には感じやすいところがあり、時として周囲の人間の感情に自分自身を左右されがちになる。そんな彼女が北条真子らしい人物の不安を共感してしまったので、なんとかせねばと思い詰めてしまっていたのだ。彼女が何を困っているか分からなかった。だから、せめて立派な生徒会を立ち上げて安心させようと決意したのだった。そこで早いうちから学校側と交渉し、長く作成すらされていなかった生徒会立候補者募集ポスターやチラシなどを用意していたし、友人知人にも積極的に声をかけていたようだ。
 こうした動きに最も感化されたのは、田仲エリアス(たなか・−)だった。
 今のままじゃいけない!
 …なんて、考えるようになってしまったのである。
「ぼくは立候補しますよ!」
 体育系サークル連合の会合の終了間際になって、田仲は立ち上がると議長席の天道に向けて、そう決意を表明した。
「……そうか」
 天道の回答が一瞬遅れたのには理由がある。彼は今の三権分立……というより三国同盟的な執行システムそのものは反対しておらず、それをなし崩しに断り切れない誰かに押しつける慣習だけを変えたいと考えていたのだ。だから、いきなり立候補といわれると、少々算段が狂ってきてしまう。
「夏の甲子園によって野球部は多少豊かになりました。ファンも増えたし来年は部員も増えると思います。でも、他のクラブ、部活、同好会では予算や活動に苦しんでいる部門も多いはずです。そんな問題は、皆でチャリティーを行うだけで全て解決するんでしょうか? 根本的な問題は、生徒会が三学生連合になっている為に、逆に「本来、クラブ活動等で活躍すべきはずの人を生徒会で縛っている」事にあるのではないでしょうか!?」
 満場からおおっと歓声と拍手があがる。体育系の集まりだから、こういう熱血的ノリに弱いのだ。
 たちまち会場は熱気の渦に包まれた。
「ようし、俺たちも田仲を応援するぞ!!」
「そうさ、こいつの学校を、学友を思う気持ちに俺は感動した!」
 野球部優勝の原動力、三本柱の1柱である田仲エリアスこそ「クラブ活動等で活躍すべきはずの人」であることを誰も指摘することなく、瞬く間に田仲エリアスの後援会が結成されてしまった。しかも、こういうときに限って気を回さなくても良いのに回してしまうやつがいる。誰かが「しかし1年坊主だけでは荷が勝ちすぎるんじゃないか」と言い出した。
「そうだ、あいつだけに頑張らせるわけにもいかん」
「2年あたりからも候補者を送ろうじゃないか」
「誰がふさわしい?」
「そりゃあ、リーダーシップがあり、全校的に名前が知られていて、押しも強そうな……」
 そこで全員の視線が天道1人に集中した。
 ただ、無理強いはしない、押しつけは避けると取り決めがされたばかりだったこともあり、誰も何も言い出さない。(当人以外の)期待に満ちた、熱い視線がただじっと注がれる。先ほどまで騒がしかった会議室は瞬間的に、人の息だけしか聞こえない空間となった。
 小さな咳すら憚られる時間が、無限とも思われる時間続く。田仲エリアスの天道を見つめる目が心なしか潤んでいるような気がするのは誤解だろうか。窓の外からは管弦楽部の練習する、バルトークの協奏曲がやけにはっきりと聞こえてくる。
「私も出よう」
 天道真一郎がついに名乗りを上げた。
 先ほどの田仲エリアスのとき以上に大きな歓声が上がった。田仲は席を立って駆け寄ると、天道の手を両手で大きく包み込んだ。
 その騒ぎも一段落しようとしたとき、なんとなくしっくりいかないような顔をした天道が、執行部のサポートメンバーになっていた上塚まりもにこっそり聞いた。
「で、生徒会選挙ってのは、どういう手続きでやるんだ?」
 詳細ははしょるが、生徒会選挙というのは、6人1組で立候補するものらしい。「らしい」というのは、規則そのものが古文書と化してしまい、さらに古い30年くらい前のものまで遡らないと条項が確認できなかったためである。
 学校全体で盛り上がってはみたものの、まあ、急には何組もの候補が乱立するような状況になることもなく、杉田和美が中心に各方面の調整をつけた末に、1組を選出して信任投票という形に落ち着いた。
 新生徒会の陣容は、
  • 会長:天道真一郎
  • 副会長:田仲エリアス
  • 書記:杉田和美,浅木京
  • 会計:田丸明子,御堂流香
 というものであり、立候補受付締め切り4日後の土曜には、投票即日開票となり、無事に承認されたのだった。
「まあ、今までと何が違うと言われても困るけど、一歩前進ということくらいかな」
「ZZZZzzzzzz…」
 選挙広報紙を読みながらそうやや皮肉っぽく、しかし若干の期待をこめたコメントをよこしたのは遠見治司だった。
「これで、お役ご免だねえ」
 現執行部は1人も留任要請はなく、本人たちもあえて立候補しようとは思わなかったので、翌週の月曜日には新執行部の就任式と引き継ぎがおこなわれ、旧執行部の4名とお手伝いスタッフたちは解放されたのだった。

12月〜冬

大団円

 今年は天候が不順で何度も大きな台風が来たり、地震が起きたりと不穏な年だった。12月になってもなんとなく暖かい日が続き、何かが狂っているような不安さえ覚えかねない。
 それでも年度末には試験があり、高校生である以上、これに赤点をとらないよう(できれば平均点以上で)パスしなくてはならないのだ。学園祭、生徒会選挙が終わり、次はクリスマスかと心浮き立つ若人に冷や水をかけるごとく、毎年恒例の進路指導担当の教師による巡回説法が始まったのだ。
「生きていくのに、月額でどれだけお金がかかると思いますか?」
 そんな質問を教室で、渡り廊下で、生徒にして回るのだ。食べるもの、着るもの、寝るところ。今どき、電気や水道はないと生きていけないし、それだってタダではない。そして、それをどうやったら稼ぐのか。どれだけのことができれば、どれだけ稼げるのか。そりゃあもう、即物的ではあったが効果的だ。これで卒業近くなると、政治経済や歴史担当の教師が加わり、税金と参政権についての説法が加わるらしい。
 それに今年は、公式な処分こそ何もなかったが、どうも殿村がターゲットにされているふしがあった。
「大丈夫。殿村先輩は、ちゃんとやれるべ」
 上塚まりもはそう言い、豪気にみえて実は繊細な殿村を陰に日向に励ましていた。甲子園でそれなりに頑張ったとはいえ、大学野球からスカウトに来るほどではなく、就職か実力で大学進学かという選択を迫られていたからだ。調子づかせるでなく、落ち込ませるでなく、まりもの操縦術は日々進歩していた。ただ殿村と話していると、訛りがしょっちゅう出てしまうのは悩みだったが、それも彼がむしろ可愛いと言ってくれてからは気にしないようになった。
「人間、ありのままがいちばんだべ」
「でも、努力もしないとな……」
 そうして2人は今日も図書室へと通い詰める。
 田仲エリアスが立候補して、まりもが立候補しなくて済んだのはありがたかった。生徒会にかかわり続けていたら、この貴重な時間は得られなかっただろう。
 彼らのように幸せに勉強できる者はいいだろう。
 加賀巧や槙原荒人(まきはら・あらと)のように、成績が落ちない程度に集中して勉強したら、そのまま部活に飛んでいく者もいいだろう。
 しかし、静かな図書館にも欠点はある。
 喉が渇いても何も出てこないのである。さすがにサービス満点の図書委員会とはいえ、そこまで期待してはいけない。
 そこでまあ、学校裏手の『うぃっち☆はうす』にも客が入るわけだが、コーヒー1杯の料金で図書館並みに粘られては大赤字かもしれない。しれないが、そこは道楽商売のことであるから、サトエリさんことマスターの佐藤絵里は気にした様子もない。
「気にしてないわけじゃないですぅ〜」
「だったら、もう少し仕事に身をいれなよ!」
 よよよと泣きすがる絵里に蹴りを入れながら、メイド姿の金城美佐(きんじょう・みさ)は、カップを拭いたり怪しげな食虫植物の鉢をぐるぐるいじり回したりと、店の掃除に余念がない。
 既に店の行燈の灯は消してあり、『本日終了』の札もかけた。残っているのは美佐と、レジで売上計算をしている絵里、そして厨房で洗い物をしている高山文七(たかやま・ぶんしち)だけだ。
「終わりいっ! おら、最後のコーヒーだぜ」
 高山が湯飲みにコーヒーをいれて出てきた。
 いろんな生徒が出入りする『ういっち☆はうす』だが、最終的に居残るのはこのメンツになることが多い。美佐は盆の事件以来、用心棒を兼ねてと愛犬<信長>としばらく泊まり込んだのがきっかけで、ほとんどセカンドハウス状態になっている。高山文七はといえば、なぜか学園祭以来自宅に帰りづらくなっているらしい。気の毒なことだ。
「ところで、麻薬事件の方はけりがついたのお?」
「……らしいね」
 コーヒーをすすりながら美佐は答えた。不思議と彼女はそういう裏の話に詳しい。
「半年くらい前に跡目争いがあって、そのときに行き場を失ったブツが、ここの倉庫に隠されたらしいよ。前に脂ぎった不動産屋が来たろ。あいつんとこが、この洋館の管理を請け負ってたらしいんだ」
 ところがいないと思われていた相続人が見つかり、売り払って現金にすると思いきや古びた洋館を使うと言い出すし、挙げ句の果てに業者の手配もしないで勝手にやってきて住み着いてしまったんで、予定がすっかり狂ってしまったらしい。
「なんだ、じゃあ、騒動のいちばんの原因はサリエリねえさんじゃないですか」
「その呼び方はやめて、ブンちゃん」
「……ブンちゃんもやめて下さい」
 やがてコーヒーも飲み終わり、また湯飲みを片づけようと高山が立ち上がって、ふと気づいたように美佐に訊ねた。
「でも、もう心配ないのかい? 隠されていた品物は警察の手に渡ったけどさ、この店にお礼参りとかなんとかあるんじゃ……」
「ええ〜、そんなの、困ります!」
 不安げな2人を前に、美佐はソファに座ったまま大きく伸びをした。
「大丈夫だと思うよ。あの事件をきっかけに警察が捜査に動いてるし、別の組織ともいざこざ起こしているらしいから、そんな暇も気もないって」
 とにかく物騒な事件はもうすっかり片がついたのだ。
 そう思った、そのとき……足下がぐらりと揺れた。
「地震?」
 慌ててテーブルの下に隠れようとしたが、揺れそのものは1回で終わった。しかし、外が明るい。見上げれば、魔女の箒のオブジェなどがまだゆらゆらする中、北西を向いた天窓がぼおっと光っている。
 しかし佐藤絵里を先頭に階段を上がり、3階の窓から外を眺めたとき、既に辺りはまた暗闇に包まれており、そこかしこの家の灯だけが闇を照らしていた。

まつろわぬもの

 数人の少女たちが山歩きをしていた。
 途中、古びた柵や鉄条網で道が閉ざされてはいたけれど、それは車が入って来られそうな広い道に限ってのことであり、人がかろうじてすれ違える程度の道ならまだいくらでもあった。もちろん蛇子連の山中にも舗装された道路は通っているけれど、それでは目的地を見つけることはできない。
 先頭に立つのは常磐万葉だ。行く手の道には倒木があったり、藪に埋もれていたり、頭上から覆い被さる蔦にふさがれたりもしていたが、不思議なことに万葉の行く手を阻むことはなかった。山歩きのコツというものがあるのだろう。
 ただ、少女たちのピクニックにしてはやけに静かだった。万葉は緑に囲まれてさえいればそれ以上何か求めるタイプではなかったし、坂本歩(さかもと・あゆむ)と大城美月(おおしろ・みつき)はもともと口数の多い方ではなかった。ときどき立ち止まっては周囲を見渡し、これはと気に入った風景が見つかるとファインダーの枠に合わせて切り出していく。
 山に入って1時間も経ったろうか。
「たぶん、あそこがそうよ」
 万葉がまっすぐ眼下を指さした。
 足下を古い道が走っていて、それが山の斜面の茂みにまで続いている。その茂みの奥には木製の観音開きの扉を見て取れた。しかし、その扉には板を打ち付けてペンキで「立ち入り禁止」の文字が書かれており、さらに鉄条網で囲いも作ってある。
「ここらへんは誰かの山なんですか?」
「そりゃあ、持ち主のいない山なんてないわ。うちの学校の子のお爺さんか誰かが一部を持ってるという噂も聞いたけれど……」
 自然薯の蔓などだけを手がかりに斜面をゆっくりと降りる。
 鉄鎖で封じてあると見えたのは、枯れ草だったようだ。美月が両手をかけてがちゃがちゃと揺すると、金網の扉はぎいと音を立てて開いた。
地下工場  太平洋戦争も末期になると各地の地下に軍需工場が作られるようになり、その数も全国で100以上在ったといわれている。ここ蛇子連の地下もそうした施設のひとつだった。学徒動員によって近在の中学生や女学生らがここに集まり、裸電球の下で発動機の製造や修理に追われていたのだろう。
 坑道は普通の防空壕と比べれば遙かに広い。しかしそれでも普通の工場と比較すれば狭いし、湿気も高い。坑道の幾つかはコンクリートの壁面から染み出す地下水によって水没していたり、土で埋め立てられたりしていた。
 バブルがはぢけたほんの10年ほど前までは、国の史跡として保護を受けることができたのは明治中期までの建造物に限られていた。それに所有者が地方自治体であれ個人や企業であれ、へたに文化財の指定を受けるよりは取り壊して団地にでもした方が利益が出る。この地下工場も保存より開発を選択した口であり、15年ほど前にごく一部の調査が行われたきりで、あとはただ封鎖されていただけ。また昨年からの工場誘致に伴い既に10000平方m分ほどが山ごと削られていて、残りも3年以内に切り開かれることになっている。
 そんな工場跡に足を踏み入れたのは、坂本歩のたっての希望ゆえだった。
 4月に猫屋敷を撮った写真に謎の軍服姿の男性が写っていたことと、噂では夏休みに部室で起こった怪現象は軍人の幽霊らしいことから、古井戸の奥にある防空壕跡になんかしら関連があると思ったのだ。しかし、学校から続く回廊は既にふさがれていた。ならば、その先にあるという地下工場を直接調べてみようというのだ。
 美月が肩に固定した懐中電灯、手にはデジカメという姿で美月が先頭に立ち、歩、万葉と続く。
 廃屋とか廃墟というより、明かりの消えたトンネルといった感じだ。1カ所だけ落盤の跡だか空気穴だかから木の根が伸びているところがあり、そこは天井から垂れ下がっている根っこの隙間から空がかすかに見えるが、そこ以外はすべて真っ暗でライトなしでは進めない。
「これ以上、行くと戻れなくなっちゃうわよ」
 常磐万葉の言葉に、歩の足が止まった。
 たいして歩いているわけではない。
「迷子になっちゃう?」
「なるわねえ。落盤するかもしれないし、有毒なガスが溜まっているかもしれない」
 歩の背中のリュックには、撮影機材以外にもあれこれサバイバル用品や非常食が詰め込まれてはいるものの、好きこのんで遭難したいわけではないし、何があっても生き延びると信じられるほどの自信家でもない。実際、何かが出るかもと思って来ているわけだから、何年も人が足を踏み入れていない暗闇が心楽しいはずもない。
「じゃあ、戻りましょうか?」
 そう言いながら振り向いた歩の動きが止まった。
 目の前に人形が立っていた。場違いなフランス人形が通路の真ん中に立って、こちらを見ていた。
「あ、あ、あ……さっきは見落としちゃっ……たか……な?」
「歩っ!」
 万葉が身体を寄せてすがりついてきた。
「あれ!!」
 正確には「あれら」だ。
 フランス人形だけではなかった。いつの間にかがらんどうのはずのトンネル内に、ガラクタが山のように積み上げられている。古びた旋盤、鍋や薬缶、長靴や事務机、墨壺に製図板……。
 写真を撮ろうとまさぐるが、肩からぶら下げていたはずのカメラが見つからない。
 カコン、カコン……。
 小さな音に目をやれば、先ほどの人形が一歩二歩と近づいていくではないか。
「いや〜っ!」
 動き回る人形が愛くるしいのはアニメの中だけだ。それに連れて、周囲のガラクタの山もゆさゆさと動きだし、あちらこちらから頭や腕や脚が生えてくる。
 もう少女たちに声はない。
 歩はただ千蛇神社のお守りを手に、しゃがみこんで震えるしかない。
『…………』
 そのとき、もう1人、誰かが彼女たちの側に立っていた。
『この者たちではない』
 それはずいぶん前に死んだはずの歩の祖父の姿に似ていた。
『これもまた人間であろ』
『この者たち以外を探すがいい……』
 老人の姿をした何かは異形のものどもを相手に凛と言い切った。
『祭は余所でやるが良い』
『まつろわぬものの最後の宴だ……』
『せいぜい派手にやるさ!』
 その言葉とともに、怪物たちの姿は1つまた1つと消えていき、最後に歩たちと黒衣の老人だけが残った。
「あ、あの、あなたたちは……」
 その問いに、老人は静かに微笑み、消えた。
 どこで間違えたのか、帰り道はだんだん上り坂になって狭くなり、最後はほとんど這うようにして外に出た。空気が冷たいが美味い。手足の土や埃を払いながら2人の少女は立ち上がった。
 いつの間にか山の上に立っていた。
 愛用のカメラもちゃんと歩の首から下がっている。
 眼下はきれいに山が切り崩され、谷は埋められ、広大な土地に面白みがないくらい四角い建物が建っている。大きさはよく分からないが、窓の数や近くに置かれているブルドーザやミキサー車がミニカーのように見えるから、かなり巨大な工場なのだろう。ほとんど完成しているらしく、その周囲には緑の芝生やアスファルトの歩道が公園のように広がっている。
 白い建物、緑の敷地、それを赤い夕日が染め上げている。
 まどろみの時は終わった。
 そして祭の夜が始まる。

(05.13.Feb)

次 回 予 測

芳田法子  法子です。
 次回は12月20日くらいから翌年2月28日まで。つまりクリスマスイブからバレンタインデーの間くらいと思えば良いですね。初詣も忘れちゃいけないわ。
 人の恋愛沙汰には興味はないけれど、鬼姫の周辺はここらではっきりさせて欲しいわね。あそこは変にバランスがとれているのよね。占部としては、このまま安定するのも面白いとは思うのだけど、状況的には見たところ、紺屋くんが半馬身リードといったところ。バレンタインデーあたりで決着がつくのかしら。これ以外の、人の世の道理で量れることについては、おおむねけりがついてるだけに気になるわね。
 それから、そう、人の世の道理が通じない方については、次回が山場だと思われます。あちこちに埋もれ、忘れられようとしていた付喪神の群れがぞろぞろ這い出ようとしています。どんな祭りが始まるのでしょうか? そもそも付喪神とは九十九髪と言われ、人に使われた器物が百年の齢を重ねることによって変化する怪であると言われています。どう見ても百年も経っていそうにない物まで化身しているようですが、どうやらその物に人が与えた思いの深さにも影響されるようです。まったくやっかいな話だわ。なんとか、事態を占部の予想の範囲内に収束させないと……。
 あら、まるで私たちが第2ファウンデーションみたい。いやだわ!
 


※このページのデータはゲーム用の資料であり、掲載されている人物・団体・地名はすべてフィクションです。