イエローバビロン 上海

 PBMあるいはRPGの資料用に、1920〜1930年代にかけての上海に関する資料をまとめてみました。ゲーム用に簡略化してある上に一部架空の資料も混じっていますので、不正確な点、不十分な点についてはご容赦下さい。

租界の誕生

 後に「魔都」あるいは「イエローバビロン」と呼ばれるようになる上海も、もともとは小さな漁村に過ぎませんでした。しかし、人口密度の高い揚子江の河口に位置していたことから次第に国内交易の拠点港として発展し始めます。これに目をつけたのが東インド会社のヒュー・リンゼイでした。広州にかわる貿易港を探していたリンゼイは、この上海に目をつけ拠点と定めたのです。1832年のことでした。
地図 気候は夏は蒸し暑く、冬は厳しく、けっして温暖な土地ではありませんが、ニューヨークなど、他によく似た気候の大都市は多く、気候そのものは障害にはなりませんでした。そして清朝政府も上海県城の外側に治外法権区域「租界」を設置することを認めました。
 租界を認可した清政府の当初の意図は、交易のために進出してきた欧米人たちを1カ所に押し込めることにあったようです。もともと中国政府には「蕃坊」という外国人居留地をつくり、外国人は隔離しようとする傾向がありました。日本でいう出島のようなものです。そのため、倭寇対策に築かれた街の城壁の外側に外国人を住まわせようとしたのです。
 しかし出島と違い、租界は欧米人たちを押しとどめることには失敗しました。商人たちは「個人」に与えられた、中国の法律からの治外法権の特権を拡大解釈して「治外法権を与えられた外国人の自治組織」をつくってしまい、行政、警察、消防からガス、水道の供給まで自分たちで管理するようにしてしまったのです。これには彼らのために治外法権を獲得した母国の政府すら当惑しましたが、とにかく租界はそれを押し切り、1つの小国家を築きあげてしまいました。
 上海の一角に設けられただけのはずだった租界は瞬く間に拡大し、あっという間に総面積50平方キロのうち30平方キロが租界となってしまいました。その租界内の外国人数は1920年代末で約7万人。中国人は周辺部まで含めて約300万人でした。これは、人口密度がそれまで世界最大の都市であったロンドンの3倍の数字です。
 そして上海は交易の拠点となり、極東最大の工業都市となり、金融経済の拠点となっていたのです。
 こうして租界が誕生すると、パスポートもビザもいらない自由都市・上海にはアメリカの犯罪者、日本のジャズ奏者、30年代にはナチスから逃れるユダヤ人と、世界各国からさまざまな人間が流れ込んできました。  一方で、軍閥同士の抗争などによって内陸からの難民も大量に流れ込み、上海の工業に安価な労働力を提供したため、工業力でも急成長しました。さらにロシア革命後、多くのロシア人たちが亡命してきました。彼らの多くは商人であり、大学教師であり、芸術家でした。彼らは無味乾燥な、あるいは野暮ったいビジネスの街であった上海に、洗練された芸術と華やかな娯楽を持ち込んだのです。

上海の人々

●イギリス人
 イギリス人は、もっとも早く租界に住み着いた人々であり、もっとも勢力を広げた人々でした。そして中国人にとってイギリス人は、中国を搾取する外国人の代名詞であり、そう認識されるだけの活動をしていました。
 しかし彼らイギリス人にとって上海は一時的に商売のために居をかまえる場所に過ぎず、たとえ上海で生まれ育ったとしても、最後に“帰る”のはイギリスであり、上海に対する愛郷心は生まれませんでした。また、他の外国人もそうでしたが、とりわけイギリス人には中国人を蔑視する傾向が強かったようです。国民党政府の要人でありアメリカの大学出身者ですらイギリス人は苦力と見なしたとアメリカの外交官が記録に残しています。
●フランス人
 上海のフランス人は、自分たちの租界を故郷そのものに造りかえようとしました。フランス人実業家たちの邸宅はマロニエやアカシアの美しい並木道に沿って並び、大都市郊外の高級住宅地と化していました。
●アメリカ人
 イギリス、フランスに続いて租界にやってきたアメリカは、アメリカ租界を建設しますが、やがてイギリス租界に呑み込まれ共同租界となります。租界のビジネス界において、アメリカ人にあまり目立った活躍はありません。むしろアメリカ人は文化や芸術的な方面で上海に足跡を残しました。
 第一次大戦後、おりからブームとなった世界一周の旅に出たアメリカ人は、かならず上海に立ち寄りました。そのため、実業家や映画俳優、作家などが多く上海の社交界の記録に名を残しています。
●日本人
 かなり遅れて進出してきた日本人は、租界獲得を狙いましたが果たせず、元アメリカ租界の虹口地区に多く住み着くようになり、やがてリトル・トーキョーと呼ばれるまでになりました。日本と上海は極めて近いことから、商社はもちろん、一攫千金を狙ったり冒険や浪漫を求める大陸浪人と呼ばれる者たち、あるいは未婚の母や共産主義者など国内に居場所のない者たちが流れ込んだのです。また日蓮宗は日本によるアジア支配を公言しつつ布教を行おうとしていました。
 そんな日本人の特徴は、成金的な部分にありました。自分たちは成功した人種であり、いわば名誉白人であるから、中国人と同じアジア人と見られないよう、必要以上に背伸びして威張ろうとし、また中国人とは一線を引こうとする傾向がありました。そのため、他の外国人以上に中国人からも嫌われるようになります。20年代当初は日本留学の経験がある(そして直接差別された経験のある)知識人階級に反日感情が強かったのですが、関東軍の勢力拡大に連れ反日感情は少しづつ奥地の一般市民にまで広がっていきます。25年頃になると各地で排日運動が起き、中国内部の旅や商売は次第に困難になっていきます。
 また日本人と呼ばれる人たちの中には、日本名を名乗らされた台湾や朝鮮の人たちも多く混じっていました。
◆芥川龍之介(1892-)
 小説家。大阪毎日新聞社の海外視察員として21年3月から4ヶ月上海に派遣される。上海を「下品な西洋」と評した。
●ロシア人
 1917年にロシアで革命が勃発。各地で共産系赤軍と王党派の白軍との内戦が続きましたが、白軍は次第に押され、20年代には多くのロシア人が祖国を捨てることになりました。そのうち、海外の銀行に資産を持つ裕福な貴族や上流階級は西へ、ヨーロッパへと亡命しましたが、商人、将校、裕福な農民、教師、芸術家といった中流階級のかなり多くの者は、ウラジオストックを経由して上海へと逃げ込みました。上海は世界で唯一、入国するのにパスポートやビザが不要な土地だったからです。
 当時上海に居留していた白系ロシア人は約25000人。その多くはフランス租界のジョッフル路を中心に住み着いていましたが、帝政ロシアの崩壊により治外法権を失った彼らは、何かあれば中国の法律で裁かれ、租界内では3等市民的な扱いを受けました。イギリス人が白系ロシア人の女性と結婚することで職を失うことさえありました。
 また亡命軍人の多くは上陸さえ許されないことがありました。早い内に亡命した艦隊は、上海で乗ってきた艦艇を売却した金を全員で分けて再出発の資金とできましたが、やや遅れて到着したグレボフ将軍旗下のコサック兵部隊は上陸を認められず船内に足止めされました。彼らがやっと上陸できたのは到着の3年後の1927年1月21日。共産勢力の台頭に、租界の守備兵として雇用されたためで、歩兵2個中隊と機関銃小隊が上陸しました。そんな状況下で、彼らを雇用するのに積極的だったのは軍閥でした。張作霖は満州鉄道で国境に到着した白軍兵士を丸ごと雇い入れ、自らの北部軍勢力に編入。これによって張作霖は破竹の進撃を続けたのです。
 軍人以外には軍隊経験者は金持ちや商船の用心棒となりましたが、それ以外の人々は祖国での商売を再開しようとしました。しかし、全員が十分な資金を持っているわけでなければ、上海の過酷な市場経済に対応できるわけでもなく、アヘンやアルコールで身を持ち崩す者が大勢いました。またナイトクラブでは白系ロシア人が目立ちました。経営者になっていることもありましたが、たいていは楽団のメンバーやダンサーでした。
●中国人
 上海には無数の中国人が住んでいましたが、大きく2タイプに分けられます。戦乱に巻き込まれ、着の身着のまま逃げてきた難民と、戦乱に巻き込まれる前に治安の良い上海で事業を拡大しようと決意した金持ちです。
 難民たちの多くは、里弄(りーろん)と呼ばれる赤煉瓦の二階建連続住宅に何家族もが寄せ集まって暮らし、さまざまな低賃金労働に従事しました。上海が極東最大の工業都市となったのは、こうした難民が多く流れ込んだためです。
 租界の工場は、中国の法律はもちろん他のいかなる外国の法律にも縛られませんでした。成功した実業家たちが支配する参事会は、労働者には厳しすぎるといわれたイギリス本国の労働基準法すら採用しなかったのです。8歳ほどの子供ですら1日12〜14時間、ボイラーやプレスマシンで火傷したり指を切断しながら作業するというような過酷な条件下での生活でした。
 一方、中国人富豪たちは、外国人たちと張り合うように富を築いていましたが、社交面で対等につき合えるには至りませんでした。着の身着のままの難民であろうと、海外で大学教育を受けた富豪であろうと、外国人たちにとっては同じ「中国人」にすぎなかったのです。それでも、中国内陸部で軍閥同士の抗争に巻き込まれたりするよりは、遙かにマシでした。
●その他
 上海にはあらゆる国の人間が存在し、考えつく限りの職業がありました。
◆チアーノ、ガレアッツォ(1903-)
 公爵。ムッソリーニの娘婿。上海のイタリア領事を務める。36年からはイタリア外相に就任。非常にイタリア的な人物。敗色が濃厚になるとムッソリーニ弾劾の先頭に立った。
◆アレイ、レゥイ
 ニュージーランド人。27年に上海の工場衛生の監督官として赴任。女工哀史どころでない非道な労働条件を改善すべく、英国人のジョージ・ホッグらと共に戦い続けた。

都市の風景

 高層ビルから展望すると、灰色の屋根と灰色の敷石で覆われた灰色の街でしたが、いったん街中に下りれば、東西新旧の文化が交差する雑踏がありました。
 下水と海草の腐った海の臭い。ニンニクや香水の香り。そんな匂いが入り交じる中、スーツで身を固めた英国人が業務をおこなう最新式の建築様式で造られた銀行の前を、赤いターバンを巻いたシーク人警官が巡邏を続け、その横を中国人の車夫が芸者の乗った人力車を引いて走り抜けるといった光景も見られたそうです。市街地には北欧風の建物も多く、郊外にはチューダー様式やスペイン風の邸宅が建ち並んでいました。
 かつては単なる荷役用の埠頭に過ぎなかった全長12qの埠頭(バンド)も、最新式の新古典主義建築による高層ビルが建ち並ぶビジネスの中心となりました。そこには上海の主立った外国商社や銀行がオフィスをかまえていました。埠頭は外国から来た商船や中国奥地から着いたジャンク船ですし詰めとなり、入港待ちの外国の軍艦や貨客船が沖合に何隻も停泊しています。
 メインストリートの南京路は、道幅6mの花崗岩で舗装された道路であり、両脇をガス灯が固めていました(20年代には電灯に切り替え済み)。老徳記薬房、福利洋行、公道洋行、泰興洋行、兆豊洋行などの商館や多くの店舗が乱立しました。バンドと似ているが、商社の本店や銀行ではなく営業店舗のため民族資本も多く、バンドとはまた異なったにぎわいを見せていました。
 しかし上海は表を取り繕った街でもありました。表通りには最新式の高層建築が建ち並んでいましたが、一歩裏通りに入れば小さく狭苦しい、店と仕事場と住居が一体になった専門店が軒を連ねていたのです。
 上海の街を、大きく10の区域に分けて把握してみましょう。
[1]共同租界〜市街中央部
 南京路をメインとした共同租界の中心地です。南はエドワード路から北は蘇州河、東は黄浦江までの区域です。
[2]フランス租界〜西郊外地区
 バンドの南半分から南市を薄くかすめ、西の郊外住宅地までのフランス租界です。商業地区となった英国租界、港と工業地帯の米国租界に対して、フランス租界はとても静かでヨーロッパを思わせる並木通りが続く高級住宅街として発展しました。日本人でも裕福な人々はここの邸宅に住んでいました。
[3]南市(なんしー)
 風水に基づいて建設された、かつての上海市街区です。中心部には旧県城があり、川沿いのエリアは倉庫街となりつつあります。所狭しと建物が建設され、通りは狭く曲がりくねっており、建物の隙間が道になっているような状態です。
[4]虹口(ほんきゅう)
 元々はアメリカ租界でしたが、20年代には日本人やポルトガル人やユラジアンなど比較的貧しい外国人が滞在する街となっています。通称リトル・ジャパンと呼ばれるように日本人が多く、そのブロードウェイには日本人の商店、酒場、料亭が中国人の店と隣り合っています。日本国内に居場所のないジャズ音楽家、舞踏家、同性愛者、未婚の母などが集まりましたが、日本人居住者は日本人町内会に強制加入することになっていました。
[5]楊樹浦(やんじっぽ)
 地区浮き桟橋の埠頭やドックが建ち並ぶ工業地区です。発電所や水道施設など公共事業の建物もここに集中しています。比較的貧しい外国人や労働者の住む区域でもありました。
[6]普陀(ふだ)
 バンドの対岸に位置し、黄浦江沿いに港湾施設や工場が連なっています。
[7]浦東
 上海西端の蘇州河上流の地域です。中国や日本が資本の紡績工場が集中する工場エリアとなっています>
[8]閘北(ちゃぺい)
 虹口北の0m地帯です。中国資本の紡績工場・塗料工場や倉庫の建ち並ぶ労働者階級の街であり、北側は労働者の住宅街や最下層娼婦のたまり場となっています。一説には、殺伐とした拝金思想で満ちあふれた上海で、唯一下町の人情が残された空間ということです。
[9]徐家淮
 上海の西郊外に広がる道路網周辺地区です。正式に租界として登録するには手続きが面倒なため、工部局等が道路を建設し、その道路沿いの一帯を「越界築路」という租界に準じるものとみなす方法が採られるようになってきていました。
[10]高昌廟
 清朝末期に西洋の軍事技術を導入するために軍事工場や造船所、研究施設が造られた地域です。これらの施設は、この時点では時代遅れの水準となっています。
[0]黄浦江/呉淞江(こうほこう)
 地図上で、下流で合流する長江(揚子江)と比べると小さく見えますが、黄浦江はどんな大きな船でも航行できるだけの川幅と深さがあり、上海を一級の貿易港ならしめています。しかし河は泥で濁り細菌であふれ、しかも上層水流と下層水流とが逆方向に流れていることが多いため、河に落ちれば水夫でも溺死するといわれている有様で、水遊びなどに適している場所ではありませんでした。
●弄堂(のんだん)
 上海独特の集合住宅。里弄よりは上等の部類。
●里弄(りーろん)
 路地の両側に連なる赤煉瓦の二階建て連続住宅。上海の過半数が住む。
●バンド
 ヒンズー語で「築堤」の意味。中国語では外灘(ワイタン)。転じてウォーターフロント空間を指し示す言葉となった。

都市機能と社会資本

工部局管轄下の道路等級
1等級ウッドゥンベッド舗装(オーストラリア産木煉瓦を敷き詰めたもの)
2等級アスファルト舗装(アスファルトに砕石を混ぜてローラーで平にしたもの)
3等級アスファルト舗装(割石の上に砕石を置き、その上から粘土と砂で突き固め砕いたアスファルトをかぶせたもの)
4等級中国式マカダム道路(大小の小石を敷き詰めたもの,裏通りに多い)
5等級無舗装
 外国人の街となった上海では、1910年代半ばには市街に下水道網が完成するなど、社会資本の整備が急速に進んでいきましたが、その中核となったのが工部局です。
 上海では租界の市参事会が徴税の実権を握り、徴収した税金を投入して道路や架橋などの社会資本を整備していくシステムになっていました。この「税金の徴収から公共事業の実施まで」を担当したのが工部局であり、当初は単なる土木建築を担当する部署にすぎなかった工部局は、やがて租界の行政機構そのものとなっていきます。
●電気
 米国資本で建設された火力発電所を、工部局電気庁が管理していました。共同租界への電圧は220ボルトで、木造四角断面の電柱が用いられ、フランス租界へは鉄筋コンクリート製三つ葉型断面で110ボルトが送電されていました。そのため、共同租界とフランス租界の境界の延安東路では2種類の電柱が平行して走っているのが見られました。
 後にモルガン財閥系に買収され、上海電光公司となります。
●水道
 楊樹浦地区に黄浦江の水を汲み上げる最新浄水システムの上海水道取水場がありましたが、1922年には工部局が買収して管理下においています。
●ガス
 上海瓦斯会社(大英自来火房)が西蔵路にタンク施設を持ち、共同租界とフランス租界の双方に、動力・暖房・炊事用のガスを供給していました。
●上海市参事会(SMC)
 共同租界の実質的な行政府。イギリス主導の組織であり、公用語は英語。省庁にあたる局と委員会により、共同租界の行政管理をおこなっていて、消防隊や警察組織も保持していました。最高機関の参事会のメンバーは選挙で選ばれましたが、その枠は英国人5名、米国人2名、日本人2名くらいの比率で収まるようにできており、納税額の多くを占める中国人には権利はありませんでした。中国人の代表がわずかながら加わるようになったのは、26年以後のことです。
●工部局
 参事会の下で実際の執行にあたる部署。もともとは公共の土木建設事業を担当する部門に過ぎませんでしたが、事業の財源として地税を除くすべての税の徴収権を与えられたことから、都市基盤設備の建設・管理のみならず、警察権による治安維持やさまざまな事業の許認可まで租界全体の維持管理に携わるようになり、租界の行財政組織のすべてが工部局の下に置かれるようになりました。市政総務局、財務局、衛生局といった部局をはじめ、公共事業部、社会工業部、警察、図書、音楽、義勇隊、消防隊など20余りの部局や委員会が設置されて租界の運営にあたりました。
●租界警察
 共同租界の警察では、英国人警視総監の下、さまざまな人種の警官(巡捕)が職務を遂行していました。年によってその員数は変わりますが、ある年は、英国人420人、日本人280人、インド人(シーク人)520人、中国人3000人、ロシア人120人、アメリカ人7人、イタリア人2名、ドイツ人6人、ラトビア人3人、ハンガリア人1人という陣容で、一般職員も350人ほどいるという陣容でした。
 総監、署長、上級刑事など上級職はすべて英国人で占められ、数年ごとにイギリスで20人の新人が巡査部長候補として雇用され補充されました。しかし、一般警官はたとえ英国人であっても租界社会では中流以下の身分とみなされていたそうです。
 一般警官の多くはインド人(シーク教徒)や中国人でした。これは一般の中国人の矢面に欧米人が立つのは好ましくないとの判断から、イギリスの植民地であるインドから警官が派遣されたという側面もあるようですが、根本的には上海での任務は危険すぎ、イギリス人などではなり手がほとんどなかったというのが実状のようです。しかしシーク人はいざとなると臆病で、交通整理くらいにしか役に立たなかったと言われています。そして日本人はもっぱら日本人の多い虹口地区を担当していたようです。

[装備]
 警察官は人種・国籍に関係なく、春秋は薄手の青い制服、夏はカーキ色の制服、冬は厚手の青い制服を着用しました。ただシーク人警官は頭に赤いターバンを巻き、中国人は夏でも半ズボンを決して履かなかったということだけが違いです。普段はコルト45口径を携帯していましたが、事件が発生すれば半自動小銃を装備し、装甲車で出動しました。

[待遇]
 警官の休暇は年17日与えられました。月給は300ドルで、5年ごとに7ヶ月の有給休暇と本人と家族の本国までの帰国切符が支給されました(祖国のないロシア人には給与が割増支給されたそうです)。また、フランス語、ドイツ語、日本語、ロシア語、ヒンズー語を話せれば特別手当が支給されました。しかし、最初の有給休暇で帰国したまま戻らない者も多かったといいます。

[犯罪都市・上海]
 周辺地域の治安の悪化と共に、上海は危険性という点で世界でもトップクラスになっていきます。1930年代には発砲事件が5時間に1回。当時ギャングの抗争が激化し始めていたシカゴの1年分の発砲事件がわずか1ヶ月で起きたという計算になります。またそのシカゴと警官の交換留学制度を採用していましたが、上海からシカゴに派遣された警官は休暇気分で仕事をこなし、シカゴから派遣された警官は1ヶ月で音を上げて逃げるように帰国したそうです。

[公安部]
 上海にも秘密警察がありました。一般には公安課あるいは特高課と呼ばれ、主に左翼運動を対象に、情報収拾や検閲もおこなっていました。そのメンバーは一般警官からスカウトされましたが、もっぱらラグビー選手経験者が採用されたようです。租界は事業家・富豪の街でしたから、共産主義への対策が重視されていたのです。
●消防署(火政処)
 上海の消防隊は旧式装備の前世紀の遺物的な存在でした。しかし、加持祈祷で火の精霊を追い払う中国式のやり方に比べると遙かに先進的でした。消防隊員がクラブで呑んでいてそのまま現場に駆けつけることも多かったらしく、タキシード姿で消火にあたる光景も見られたそうですが、これはちゃんと認められており、クリーニング手当も支給されていたということです。
●軍隊
 各国は自国の国民を守るために軍艦や兵隊を常に派遣し、周囲の情勢が緊迫するに従い、少しづつ増強されていきました。27年の時点で上海に駐留していた各国の軍隊は、英陸軍5700名、英海軍1600名、米海軍2300名、日本海軍2100名となっています。一方、本来は商人の自治組織にすぎない租界は軍備を持ちませんが、非常時に供え義勇軍は組織されていました。武器と指揮官はイギリス陸軍省が提供し、その指揮下で出身国ごとに中隊が編成されました。
 中隊が編成された国は、イギリス、アメリカ、イタリア、スウェーデン、ドイツ、フィリピン、ユダヤ、ポルトガル、日本、中国、白系ロシア、ユラジアン(西洋人と東洋人のハーフ)でした。
 この軍隊を動かすのは、共同租界防衛委員会であり、この委員会は義勇軍司令官、市参事会会長、警視総監、そしてイギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリア各国領事館に配備された軍司令によって構成されていました。しかし、あくまで租界のために戦う部隊でしたから、上海事変などの際には、日本人義勇軍部隊も日本軍と対峙しています。
●フランス租界
 他の租界はイギリス租界と一体化して共同租界となりましたが、1849年に誕生したフランス租界は最後までフランス租界公董局によって管理され、独自の発展を続けました。
●フランス租界警察
 租界警察と同様の理由から、フランス租界の一般警官にはベトナム人警官が多く見られました。しかしこの警察は無気力で有名でした。麻薬を扱う犯罪組織のボスが警察組織のトップを務めていましたから、取り締まりなどできるはずもありません。しかし、この点では共同租界も同じようなもので、トップから末端に至るまで、警察と犯罪組織との癒着は日常茶飯事でした。また、たとえ警官が職務に忠実であろうとしても、上海市内の警察機構が、共同租界、フランス租界、中国人街で異なるため、犯人を追いかけても通り1本越えられたら警察は手が出せない状態でした。
◆陳淑美(1894-)
 パリ大学法学部を卒業した最初の中国人であり、自らも中国人少女20名をパリに留学させる。フランス租界のフランス裁判所で判事を務めた最初の中国人でもある。1925年には31歳にして上海地方裁判所の判事となっている。

金融経済と物価

 上海はもともと英国人がビジネスのために創り上げた街のようなものです。街のすべてが経済活動の歯車となっているのです。
 経済活動の基点となるのは貿易です。世界各地と行き来する貨客船が横付けする一方、河川を使って中国奥地との交易もおこなわれています。工業も盛んです。戦火を逃れてきた難民や近郊から二束三文で買われてきた子供たちが過酷な労働条件で生み出す工業製品は、事業家たちの懐を潤します。
 交易と工業が盛んになれば当然のように、金融も盛んになります。新たな工場やビル建設のための融資や、世界中の通貨を両替するために、各地の大銀行が次々に進出してきましたし、1910年代には上海と香港が海底ケーブルで結ばれました。そして既に香港はロンドンと直結していましたから、上海にも居ながらにして世界の先物取引や為替取引の情報がリアルタイムで入るようになり、かくして上海はロンドンやニューヨークと並ぶ世界の金融取引の中心になったのです。
 第二次大戦終結まで世界の機軸通貨はポンドでしたが、上海では上海ドルや両(テール)を中心に、事実上いかなる国の通貨でも通用しました。そのために銀行や両替店が繁盛しました。特に銀行業務はすべて両が基準でおこなわれたため、ポンドをドルに替えるにも一度両に両替しないといけなく、それに手数料が余分にかかって銀行の利益が増えまし。また通貨価値の変動が激しく、投機的売買が盛んでした。
 暴落する両やマルク、高騰する円といった、これらのレートを厳密に紹介することは不可能です。参考のレートを提示してありますが、きわめて大雑把なものでゲーム等に利用する場合の目安にしかならないことをご承知下さい。

 1ドル(=100セント)
 =0.2ポンド(1ポンド=20シリング=240ペンス)
 =2円(1円=100銭)
 =3両(1両=1500文)
 =5フラン
 =200マルク
 =現在の3000円

文化と教育

小学校 世界各国から外交官や企業家が集まる上海には、それぞれの母国の伝統を受け継ぐ現地学校が設立されました。しかし一方で、真の教育は本国でという風潮も色濃く、上海の中核であるイギリス人たちも上級職に就くには本国のパブリックスクールで紳士の教育を受けることが必須でした。能力よりもまず伝統と格式が要求されたのです。
◆東亜同文書院  日中の共存共栄を建学の理想として1901年、近衛公によって創設された異色の大学で、中国事情に通じた実務家を多数養成していました。この時期には徐家匯に新しい虹橋路校舎が完成しており、20年には中華学生部が設立され、多くの中国人学生を受け入れています。内地の学校に比べると自由な雰囲気にあふれ、左翼思想などにも寛容だったため左翼思想の温床として官憲ににらまれたり、中国や列強諸国からはスパイ養成学校と見られたりもしたようです。実際、反共クーデター以後、表だって社会運動の集会を開くことのできるのは、ここくらいのものでした。
 この大学の一番の特徴は、卒業にあたっての実地研修として、半年程度の旅行(通称「大旅行」)に学生をアジア各地に送り出したことでした。その範囲はシベリアからインド・チベットまでに及んでおり、濁流に呑み込まれたり、馬賊の襲撃にあったチームもありましたが、この大旅行の開始から太平洋戦争敗戦による大学の解散まで死者は出なかったということです。
 卒業生には日本軍の通訳やガイドとして徴用される者も多く、当初は大東亜共栄圏の理想に燃えて協力したものの、その現実を目の当たりにして絶望したと回顧録等で語られています。また満州事変以後は反日気運の高まりと共に中国人学生が激減し、まもなく廃止されました。
◆上海パブリックスクール
 上海唯一の英国系名門公立校。中国人やユダヤ人、ユラジアンも入学していました。
◆ブリティッシュ・カテドラル・スクール
 上海一の英国系名門の私立男子高校。スマートな制服が有名。

ファッション

チャイナドレス 現在では中国ファッションの代表として知られるチャイナドレス(旗袍)も実は欧米のドレスと中国の民族衣装を融合させたもので、1920年代に上海で発明されたものです。格式に縛られるのを嫌った若い女性に流行し、水商売の女性も好んで着用しました。
 ファッション業界の中心となったのは白系ロシア人の女性でした。元貴族が多かった彼女らは最新の流行を取り入れたドレスサロンや美容院を経営しました。ホテルで開催されるファッションショーには、上海を訪問している世界の有名人たちも訪れ、華やかな最先端のファッションを堪能しました。一般の中国人女性も、上海の自由闊達な空気を堪能しました。髪をショートカットのフラッパーにし、コルセットとパッドを入れた最新のファッションに身を固めた若い女性たちが闊歩し、チョコレート・ショップの店先で歓談を楽しむ街だったのです。
●旗袍(ちーぽー)
 チャイナドレスのこと。満州族女性の伝統衣装と西欧風ドレスのエッセンスを融合させたものです。太股をあらわにするスリットの高いチャイナドレスは、まず1920年代に高級娼婦の間で流行しそれから流行に敏感な女学生とよって一気に普及し、従来の女性衣装を一新しました。またこのドレスは袖は長袖からノースリーブまで、首はハイネックから襟無しまでと豊富なバリエーションを展開しました。
●映画とファッション
 1930年代になると映画によってハリウッドの流行が上海に伝わるようになり、ファッションも映画スターを模倣した欧米風の髪形や化粧が流行します。当時の流行歌には『誰もが上海を真似ようとするが、真似ても真似ても追いつかない。どんどん様変わりしている』という一節もあり、上海ファッションのめまぐるしさを物語っています。
●霞飛(ジョッフル)路
 フランス租界のメイン・ストリート。後の准海中路。ジョッフルは第一次大戦のジョッフル元帥から。白系ロシア人が多く住んでいた、上海一のおしゃれロードとして知られたそうです。
◆ミカワ
 小柄な日本人が経営する虹口の普通の靴屋ですが、口コミで有名な店でした。メアリ・ピックフォードらハリウッド・スターや外国人も訪れたそうです。

映画・演劇

 かつての芝居小屋は夜11時半頃から明け方まで演じられ、しかもプログラムはお客が追加料金を支払うことで好みの作品に随時差し替えることができるというものでした。また、料金には食事代も含まれており、給仕がひっきりなしに茶や酒や菓子や果物やお絞りを運んでくる形式だったのです。
 しかし、清朝末期、王族の不幸が相次ぎ、興業はしばしば長期間の自粛が求められました。そこで彼らは主客を転倒させてしまいます。食事や軽食を提供することは誰からも咎められない。ならば、食事を提供することを主とし、そのサービスとして演劇を披露しようと考えたのです。20年代の芝居小屋の平均的なスタイルは、八仙卓と呼ばれる8人掛けのテーブルで茶を飲み、点心を愉しみながら、芝居見物をするというものになっていました。ですから当時の芝居小屋の有名店は、今でも点心や中国料理の名店として残っています。
 こうした芝居小屋の舞台は、かつては舞台が客席の方にせり出しており、左右の脇からも芝居を見ることのできる「勾欄」という形式が主流でしたが、次第に西洋式スタイルが主流となりました。こうして数少なくなった「勾欄」ですが、豫園の古戯台では当時も勾欄が残されており四季折々の行事に合わせて芝居が演じられてました。
 映画産業も盛んで、20〜30年代は中国映画の黄金時代と呼ばれています。市内には50以上の制作会社がありましたが、人気があるのはハリウッド映画で、上海のスタジオも20年代はハリウッド映画の焼き直しのようなメロドラマや単純なアクションものばかり制作していました。また「商品の中身を確かめないうちは金は払わない」という上海人気質に合わせて、中国製の映画はまず無料で上映。フィルムを100フィート回したところで中断して明かりをつけ、そこで料金を徴収してから続きを上映することが普通に行われていました。
 映画の製作期間はだいたい2週間1本で制作。しかも宙づりも乱闘シーンもスタント無し予行演習なしで撮影するため、役者に怪我人が続出。慰謝料も年金も無しに引退させられる役者が続出しました。
 30年代に入るとサイレント映画からトーキーへの移行が進展する一方で、世相を反映した中国独自の社会問題や愛国をテーマにした映画が増えて、評価の高い作品が生まれてきます。こうした映画スタッフの多くは左翼系運動に関心を持つ者が多く、国民党政府の弾圧の対象となりましたが、当局に要注意人物とみなされるような監督や脚本家でも会社はひそかに使い続けました。しかし会社の方は社会運動に関心があったわけではなく、それが儲かればよかっただけなのです。
●京劇  清朝期に発達した京劇には舞台装置は無く、ただ銅鑼や鼓弓などの楽器伴奏だけがつくのが特徴です。独特の化粧をほどこした役者たちが、剣や槍での立ち回りや歌を交えて演じます。
 上海でも京劇は盛んでしたが、古典的規範を逸脱した斬新な上海独自の京劇が流行しており、これを伝統重視の「京派」に対し「海派」と呼びます。大世界の中にある「乾坤大劇場」は京劇の劇場として有名ですが、「海派」の牙城というなら、その隣の「共舞台」です。京劇はもともと男女が同じ舞台に立つことは禁じられていましたが、その制約をうち破ったのが、その名の通り「共舞台」なのです。これに対して京派の拠点といえるのが「天虫廬舞台」で、ここに立たずに成功した京劇役者はいないとまで言われています。
◆胡蝶
 1933年、中国映画界のクイーンに選ばれた女優。彼女が映画で着ていたファッションはそのまま上海の流行となりました。
◆阮玲玉(1910-1935)
 上海映画界で胡蝶と人気を二分したスター。映画『神女』で妖艶な妖女を演じた。恋愛のもつれから睡眠薬で自殺をしたが、それによってまた神格化された。
◆藍蘋(1914-)
 女優。山東省の小地主の娘として生まれる。1920年代には夫と離縁した母親とともに済南の祖父の家に住んでいた。1928年、再婚した母は娘を置いて家を出て、藍蘋は家出して芝居一座に加わったものの祖父に連れ戻されている。藍蘋とは芸名で「青い林檎」の意味。本名は江青。
◆杏花楼
 芝居小屋。点心や高級海鮮料理の名店としても知られていて、中秋の月餅は人気だそうです。
◆明星影片股分有限公司
 1922年設立。30年代には愛国映画でヒットをとばしています。女性客に受ける笑いと涙の映画やスペクタルシーンや特撮作品、「目のためのアイスクリーム」的な作品を次々に送り出し、20年代末には4大映画会社の1つになり、30年代には上海最大の映画会社になっています。
◆芸華影業公司
 黄金栄系青幇の創った会社。左翼映画人を呼び集め、進歩的映画路線で売り出しました。後には娯楽映画に切り替え「三星伴月」でヒットを飛ばしています。

音楽

●ジャズ 20年代はジャズが大きな発展を遂げ、太平洋航路を経由して上海にも伝わってきた時代でもありました。20年代になると、上海のジャズ(爵士)は、伝統的音楽などを押しのける勢いで盛んになり、世界各国からジャズ・ミュージシャンたちが集まってきました。またこれに影響され、中国人プレイヤーも登場してきました。
 日本にジャズが伝わってきたのは、1900年代はじめのことでしたが、風紀の取り締まりが厳しくなるにつれ、国内では演奏できなくなり上海へと来る者が多くなりました。しかしクラブ等ではアメリカ仕込みのフィリピン・バンドなどが主流であり、日本人プレイヤーはぽつぽつ増え始めた日本人街のクラブで演奏しながら中心部へ進出できる日を夢見ていました。

出版〜新聞・雑誌

新聞記者 当時の日本は軍閥化へと傾倒し言論への抑圧が次第に強まりつつありましたが、中国と比べればまだまだ緩やかなものでした。中国では出版が禁じられた社会主義に関する書籍も、日本ではまだ出版が可能でした。そのためマルクスやロシア革命関連の書籍はまずロシア語から日本語に翻訳され、それから中国語に訳されていました。「共産主義」という言葉も「コミュニズム」を日本語訳し、それが中国語に取り入れられたものです。
 またプロレタリア文学が花開きましたが、肝心の工場労働者には書物を購入する余裕も読む時間もなく、実際に本を手にするのは中産階級であり、そこにプロレタリア作家のジレンマがありました。代表的な作家には魯迅がいますが、彼自身は政治運動にはいっさい手を染めず、自分自身をプロレタリア作家とは考えていなかったそうです。
 ロシア革命後、上海は世界で最もロシア語の出版がおこなわれる街となるなど、上海では世界各国の言語で印刷物が刊行されていました。しかし、世論を動かしていたのはやはり英国系新聞であるノース・チャイナ・デイリー・ニューズ紙でした。その論調の特徴は、社会主義に厳しいことと日本軍の動向に好意的なことでした。資本家がすべてを動かす上海で社会主義を敵視するのは当然のことでした。共産系の出版社・新聞社はさまざまな形で妨害を受けました。しかし、日本軍が大陸でおこなっていた戦闘行為に関しては前大戦の英国の同盟国である日本が、共産主義ロシアや中国共産党と戦っているのだと解釈していたふしがあります。いずれにせよ、日本軍に好意的な紙面は上海事変まで続きます。
 雑誌の刊行も盛んでしたが、『サタデー』など恋愛と同棲を扱った新しい恋愛小説の掲載された雑誌に人気が集まるようになっていました。また中国最初のマンガ雑誌『上海パック』が生まれたのも上海です。
◆内山書店
内山書店 日本人街のメインストリート四川北路にあった小さな本屋。社会主義関係の書籍が手に入るため、左翼思想家や同文書院学生のたまり場となっていたそうです。蒋介石の反共クーデター後も、日本人が経営するこの書店は開いていたそうです。
◆内山完造(1885-)
 内山書店店主。参天堂製薬の営業マンとして渡中。現地での日本人の言動を見て日本と中国の友好を深める必要があると確信。上海に書店を開き、当初は妻に店を切り盛りさせ、主にキリスト教関係の書籍を販売していたが、やがて会社を辞し、本格的に書店経営に没頭。マルクスやロシア革命関係の日本語書籍なども扱うようになり、書店は左翼思想家や同文書院学生が多く集まる場所となった。27年冬には店に訪れた魯迅と知り合い、以後彼の死まで友情は続いた。
◆商務印書館
 中国人によって設立された中国最大の教科書出版社。新聞雑誌や紙の販売もしており、南京路の支店では外国人客が美術書や便せんを購入したそうです。
◆シャンハイ・ザリア
 ロシア語新聞。ロシア革命後、上海は世界で最もロシア語の出版がおこなわれる街となっており、他にも「スロヴォ」などの新聞が刊行されていました。
◆ゾルゲ、リヒャルト(1895-)
 ドイツの新聞記者。1930年より「社会学雑誌」特派員として上海赴任。反戦平和活動家。ロシアのスパイといわれている。

スポーツ

 イギリス主導の租界では、スポーツでもイギリスの娯楽が色濃く繁栄されていました。人々は余暇にはクリケットやテニスや乗馬、ボートレースあるいはラグビーを楽しんだようです。
●乗馬
 上海で乗馬とは、小馬に乗ることを意味していました。しかし彼らのいう小馬とはポニーではなく、蒙古馬のことでした。モンゴルから運ばれてきた馬は、確かにサラブレッドなどに比べると背丈130センチほどと小柄でしたが、競走馬に必要な能力はもちろん驚くべき持久力を備えていました。今でもモンゴルの競馬では30キロレースが行われていますが、16日間1日70キロを踏破したという記録が残っています。
●ペーパーハント
 上海には狐やジャッカルのように狩りに適した動物がいませんでしたので、100mごとにばらまかれた紙片を馬に乗って追跡するというペーパーハントを考案しました。それは半ばクロスカントリー競技のようなものでしたが、イギリス人はそこまでして「狐狩り」をしたかったのでしょうか。

娯楽

 上海では、金と地位さえあればいかなる娯楽でも与えられました。また金や地位がなくても、それなりに娯楽が提供される場所は幾らでもありました。身分の上下、貧富の差にかかわらず、上海という街は人々から金を巻き上げようとしていました。
●競馬
 街の中央には競馬場が建設され、毎週土曜日の午後に2時間、競馬が開催されました。ただし女性は現金は賭けないものとされ、扇や手袋や煙草入れなどを賭けたということです。しかし中国人は(馬券は買えても)上海乗馬クラブの会員にはなれないため、中国人富豪たちは自ら租界北5キロの江湾地区に競馬場を造り、外国人も勧誘し、上海乗馬クラブと日程を調整して競馬を開催するようになりました。そして春と秋に開催される競馬は一大祭典となり、人々が富や社会的地位を競う場となりました。会社は1週間休業し、イギリス人も中国人も着飾って現れました。賭け事の好きな中国人たちは馬券を買った後は道教の神に勝利を祈る光景も見られました。
◆上海乗馬クラブ
 乗馬を楽しむ上流階級のクラブ。上海競馬場正面観覧席の脇に、ビッグパーティーと呼ばれる時計塔のあるクラブハウスがありました。階段は大理石、羽目板はチーク材、床は樫の寄せ木造り。煉瓦造りの大きな暖炉のあるコーヒールームはテニスコート一面半分の広さという絢爛豪華な施設で、ボーリング場、浴場、婦人客専用階段なども付属していました。しかし、いくら富豪でも政府の要人でも中国人は上海乗馬クラブの会員にはなれなかったそうです。
◆張園
 南京西路と泰興路の交差点に1885年に完成した上海初の大型アミューズメント施設。劇場、映画館、ビリヤード場、テニスコート、ダンスホールなどが集められており、上海の女性たちが集まってファッションを競い合う場にもなっていました。
◆新世界
 1915年に誕生した娯楽の殿堂。労働者や車夫など低所得者層が家族そろって楽しめる娯楽を1カ所で提供してしまおうというコンセプトの複合ビルです。ところが、この経営者グループが内部抗争で分裂し、17年にはそのすぐ近くに、より大規模な『大世界』を建設してしまいます。2つのアミューズメントビルは競い合い、大規模なイベントを次々に開催します。この競争は本家『新世界』が地下連絡道工事でトラブルを起こしたのを契機に敗北するまで続きました。
◆大世界(だすく)
大世界 『新世界』の創設者の1人、黄楚九がパートナーの未亡人と仲違いし、フランス租界に独自に遊技場を建設したものが『大世界』です。オープンは1917年。営業時間は昼12時から深夜まで。爆竹が鳴り響き、線香の煙が流れ、幾つもの映画館や演芸場をはじめ、新奇な異国趣味と伝統的な中国が入り乱れた、ありとあらゆる庶民の娯楽が押し込められていました。
 1階は賭博場、手品師、スロットマシーン、花火、鳥籠、線香、軽業師。2階は食堂、十数種類の演劇集団、コオロギ売り、助産婦、床屋、耳掃除屋。3階は曲芸師、漢方薬局、アイスクリーム・パーラー。写真屋。4階は射的、番攤賭博、ルーレット、マッサージ、鳥かごや干物の物売り、ダンスホール「シロス」、そしておしぼりサービス。5階は娼婦、鯨の剥製、講談師、風船売り、覗きカラクリ、ミラーハウス、代書屋、神殿。屋上には綱渡り師、シーソー、将棋、麻雀、富くじ売り、なんでいるのか結婚の仲介人。それからどこかにスケートリンクもあったようです。
 この家族で楽しめる大衆娯楽の殿堂は、30年代にはいると雰囲気が変化します。黄楚九が投資の失敗から売却し、代わってオーナーとなったのが、黄金栄というフランス租界の警察幹部でもある青幇の大幹部でした。そのため、『大世界』も賭博と麻薬と娼婦の殿堂へと模様替えされていきます。1階からカジノテーブルが用意され、2階ではポン引きが脚の袖を引き、3階にはチャイナドレスの娼婦が客の袖を引き、4階の娼婦はスリットが腰まであがり、5階になるとチャイナドレスのスリットが脇まで空いた野鶏たちが客引きをするような場所になってしまったのです。
◆シロス
 「大世界」内にあった、空調設備を備えた贅沢な造りダンスホール。経営者の謝大班は杜月笙の片腕で、蒋介石の情報屋だったともいいます。
●避暑
 暑い夏の時期には、上海在住の外国人の妻子は周辺の普陀山や青島、莫干山など海山の保養地に避暑に出かけるのが通例でした。そして細君が不在のシーズンこそナイトクラブのかき入れ時でした。
●ナイトクラブ
 居留している外国人の妻子が避暑に出かける夏場になると一気に盛況になり、それぞれのクラブはさまざまなサービスや出し物でお客を引きつけようと競いました。年中無休24時間営業のナイトクラブが軒を連ねているのは世界でも上海だけでした。
◆上海クラブ
 バンド3番地に位置するギリシア神殿のような壮大なクラブハウス。30mのバーカウンターには白上着のバーテンがずらりと並び、マティーニやピンク・ジンなどの飲み物を提供していた。カウンターの一角は大手銀行や商社のトップの指定席で、中国人と女性は入会は認められない気位の高さで有名(日本人は名誉白人待遇)。宿泊した会員は、インド風米料理ケジャリー、ベーコンエッグ、粥、トースト&ママレードといった朝食を楽しんだ。
◆デル・モンテ
 1920年代始めに夜明け前にハムエッグの朝食を出す曖昧茶屋としてオ−プン。ホステスの育ちの良さを売り物に急成長。人気の高いロシア人ホステスが集まりました。27年には大庭園の中にある壮大なダンスホールが完成し、2階には個室が設けられました。1927年1月の動乱に際しては療養所として接収されています。
◆フランス・クラブ(錦江倶楽部)
 1926にフランス商工会議所(フランス租界外商)のクラブとして建設された、カルディナル・メルシエ路に面したアールデコ調の壮大な石造りの建物。美しい屋上庭園やプールが有名でした。木陰の散歩道を軽く歩いた後は、半円形のカウンターでアブサンなどを楽しんだりビリヤードをプレイしたりというスタイル。白系ロシア人が働くのに好意的な店でもあったそうです。
◆キャセイボールルーム
 1931年開業。キャセイホテルの最上階にあるクラブ。シロズの上を行く上海最高級のクラブといわれていました。
●コスプレ
 ナイトクラブの多い上海では、客寄せサービスの一環としてついに今で言うコスチューム・プレイまで登場しました。「ヴィクトリア」ではホステスがバレリーナやフットボール選手、妖精、水着姿などで現れ、「ステンカ・ラージン」は盗賊コスプレで有名となり、その他にもチャイナドレスから妖精までさまざまなコスチュームでホステスが登場するクラブが存在していました。

賭博

 競馬に限らず、上海にはありとあらゆるギャンブルが存在しました。ルーレット、ドッグレース、壺と硬貨を使う中国賭博の番攤(ふぁんたん)、ポルトガル風テニスのハイアライ…。そしてまた現在のカジノと同様、こうした賭博場の多くでは軽食や煙草が無料でしたが、軽食は麺類が中心でした。
●番攤(ふぁんたん)
 チップの山を場の中央に積み上げ、それをディーラーが4枚づつ棒でかき寄せ、最後にそれが何枚残るか当てるゲーム。当然、選択肢は1枚残る、2枚残る、3枚残る、何も残らないの4通りしかない。正解者がディーラーの取り分を引いた残りを分配するというもの。

犯罪者と秘密結社

 上海はいつしか危険な街となっていました。水夫にするために、人を殴り倒したり麻酔をかけて誘拐することを「shanghai」と言います。街の名前が犯罪の代名詞になるくらいだったのです。それくらい上海では誘拐は日常茶飯事でした。多少なりとも裕福な家の人間は常に危険にさらされており、誘拐された経験の無い者は希であったとも言われています。そのため、銃を肩に担いだボディーガードが車の横に掴まり移動する光景は普通に見られました。
●麻薬売買
 1917年に大英帝国議会が阿片の輸出停止をし、国際連盟がアヘン禁止勧告をするようになって、ようやく共同租界も渋々とアヘン取り締まりに腰をあげました。しかしそれは、アヘンの取引場所がフランス租界へと移り、供給者がイギリスから中国の軍閥に替わっただけでした。阿片は茶店や劇場でも普通にサービスとして提供される、ありきたりの嗜好の1つになっていたのです。表だって阿片窟が営業できなくなったとしても小売店が増えるだけで、警察の手入れがおこなわれるのも煙館(阿片館)が青幇への上納金を出し渋ったときくらいのものでした。青幇がアヘンから得る収入の1/6は常にフランス領事館へ、1/3は警察関係に流れていました。取り締まりを始めた共同租界の市参事会にしても「個人の自由の原則に反する」との理由で個人としてのアヘンの購入や使用は取り締まらなかったのです。
◆サッスーン、サー・エリアス・ヴィクター(1881-)
 通称イブ。インド・中国・イギリスの阿片の三角貿易で財をなしたユダヤ系イギリス商。20年代より上海への投資を強化し、上海の不動産王となった。愉快で皮肉っぽく女好きの大富豪。足はやや不自由。カメラ好き。彼の主催するパーティーに出席できることが、上海社交界デビューの証明だった。
●占い
 租界内では占いの類は非合法とされていました。そのため占いを生業とする者たちは、租界の境界線上や中国人街で営業しました。
●娼婦/男娼
 共同租界内だけでも700軒近い売春宿(妓館)がありました。宣教師の圧力と蒋介石の政策によって30年代には公娼制度は廃止されますが、少なくとも20年代には工部局の鑑札が必要なだけで、規制はほとんどありませんでした。というより、元々中国の法律では売春が禁じられていたのに、英仏の租界当局が公娼制度を実施したため、各地の娼婦が難民として流入してきたのが始まりなのです。20年代には市内に約10万人の娼婦が存在したと言われています。白系ロシア人を中心とした外国人娼婦も少なからず存在しましたが、やはり主流は中国人でした。
 伝統的なタイプの娼婦は、てん足をしていましたが、この頃には最新流行のファッションであるチャイナドレスに身を包み、自ら客を引く者が多くなってきました。こうした娼婦は、その客層と人種によって17種類にランク分けされていました。「書寓」「長三」「幺二」といったところはやや高級な部類であり、「花煙間」となると比較的落ちるものとみなされました。「鹹水妹」は外国船員をお客とするもので、「暗娼」はアルバイト的ななかば素人。「野鴨」「野鶏」と呼ばれるストリートガールはもっともランクが低く、またいちばん数が多い娼婦でした。
 男娼もまた存在していました。悪名高い占い師ミセス・リトヴァノフは、売春宿の他にホストクラブも経営しており、有閑マダムを相手に電話で勧誘をおこない、ホストを提供していました。ミセス・リトヴァノフの商売上の区分けでは、遊びの相手をするだけのホストはレッド・ジゴロ、顧客の性的欲求まで満たす者はブルー・ジゴロとされていたそうです。
 また公娼制度が廃止されても、ただ娼婦たちが街角や大世界に出ていくだけでした。
◆リトヴァノフ、ヴィクトリア
 悪名高い女占い師。決して美人ではなかったが、才覚と手段をとわない商売で勢力を広げた。
◆ザ・ライン
 バンド裏の江西路52番地に在った、共同租界でもっとも有名な売春宿。入り口はドアの銅板に名前が刻まれているだけだが、内装には贅が尽くされており、外国図書の蔵書では上海一といわれていました。もっぱら欧米人だけをお客とし、元帝政ロシア公使館のシェフの料理と最高級のシャンパンでサービスしていました。ここで取り交わされる株式相場や軍閥の情報は最新にして正確であり、代金支払いにはクレジットカードが利用できたそうです。
◆青蓮閣
 福州路(四馬路)に在った、有名な茶館。1階には書場(寄席)が設けられ、お茶以外にアヘンも提供。その広い2階には幾千人もの娼婦と客がたむろしていました。
●盗賊の分類
 さまざまな勢力が群雄割拠していましたから、一口に山賊や海賊といっても今の基準で犯罪者の集団かどうかという判断はできません。正義・不正義は関係ありません。武力で金品を奪うための集団も、税金をまけろと要求する武装集団も、記録上は「盗賊」でひとくくりにされてしまうからです。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の法則はここでも生きています。勝てば王朝、負ければ盗賊なのです。
 1923年5月に起こった列車強盗では、上海の外国人社会には「列車強盗が英国人や中国人を人質に取ったが、軍と警察によって鎮圧され、人質は全員解放された」ということだけ伝わり、租界の居留民たちが母国にたいして戦力増強を要請する口実になりました。
 しかし、その詳細は、県知事の専横によって豪農の父親を死罪にされた孫美瑤が、700人の部下を集め山東人民解放団を結成。急行列車を急襲して中国人300余名、外国人25名を人質に知事の罷免を要求。話は紳士的にまとまって人質の解放がおこなわれましたが、直後に中国政府軍が反撃。孫らを逮捕して斬首し、知事にはおとがめ無しという事件でした。
 こうした盗賊団は、その活動範囲や成り立ちから、山賊(山に巣窟をかまえる盗賊)、海賊(沿岸地帯や島にいて海で仕事をする盗賊。海盗とも)、水賊(内陸部の河や湖で船に乗って暴れ回る盗賊)、馬賊(騎馬隊形式の盗賊。東北部に多い)、妖賊(怪しげな民間信仰を核とする盗賊)、流賊(特定の拠点を持たない盗賊)、土賊(一定の比較的狭い地域をなわばりとする盗賊)などと区分することもできます。
●盗賊の組織
 その規模や内容はさまざまですが、中国の盗賊団にはかならずといっていいほど、文人が加わっています。戦略の策定から人質の身代金交渉、アジ文の作成などを担当する知識人の秘書役です。また盗賊団の首領は、常に頭が良くて腕っ節の強い少年や青年を養子として身辺に置くようにしています。彼らは一種の親衛隊であり、首領の護衛であり、戦いにあっては常にしんがりを務めるのが仕事でした。
◆頼翠山(1890?-)
 本名不詳。マカオの海賊団の女王と噂される女性。推定30代後半。12隻の装甲ジャンクを保持している。20歳になる息子が上海の大学に通っている。
●青幇(ちんぱん)
 元々は宗教結社「羅教(白蓮教と並ぶ反体制結社)」から派生した互助会的な性格の、水運業者や水上生活者によって結成された秘密結社。フランス租界に拠点を置いて社会の暗部に深く広く勢力を広げていき、やがて阿片密売や賭博などの元締めとなります。刃が湾曲した青竜刀を使うのが特徴。当時の青幇は、杜月笙、黄金栄、張嘯林の「三大亨」に支配され、阿片商売を掌握する一方、恐喝、誘拐などを繰り返しました。27年の共産党のゼネストの際には武装蜂起した共産党員を一夜にして抹殺し、1週間で約10万人を殺害したともいわれています。
◆杜月笙(1888-)
 若き青年実業家にして社会福祉事業家。フランス租界の参事にして2つの銀行の頭取であり、中国人中等学校の設立者。大きな黄色い歯、長い腕、剃り上げた頭と突き出た耳が印象的な痩せた男性で、長い白い絹の中国服に絹のソックス、ヨーロッパ風のブーツ、山高帽を身につけていた。柔和な物腰で、上海の名士すべてと交友があり、孫文や蒋介石とも友人だった。
 本名、杜縺B貧しい家庭に生まれ、果物屋の店員となるが、やがて南市の顔役となり青幇のメンバーになる。そこで頭角を現し、阿片商人のカルテルを組織し、フランス租界すべての阿片窟からパイプ1本につき1日30セントの税金を徴収。申告漏れがあればフランス租界警察が摘発に入るという仕組みを作り上げた。またブラック・スタッフカンパニーという恐喝組織を作る一方で青幇を利用して誘拐をおこない、自らがその仲介人を務め、身代金の半額を手数料として受け取ることも多かった。やがて黄金栄、張嘯林と並ぶ青幇の首領であり、20年代以後、事実上上海の影の支配者となる。1927年のゼネストの際にはフランス租界警察本部長、参事会長スターリング・フェッセンデンらと会合。共産党を排除する条件としてフランスから5000丁のライフルと弾薬を得ることと共同租界内の通行権を獲得。さらに浙江財閥ら中国人商人より巨額の資金を得ていた。
 自宅は要塞にして阿片の流通拠点として知られている、エドワード7世様式の3階建ての邸宅で、1階ごとに女優出身の妻を1人づつ住まわせていたという。
◆黄金栄
 青幇のビッグスリーの1人。フランス租界の警察署長にまで上りつめ、その地位を利用してアヘン、賭博、売春の3事業で莫大な財と権力を獲得。1930年代には大世界を買収して、健全な娯楽施設から麻薬から売春までの歓楽街へと変貌させた。黄家公園(桂林公園)も元々は彼の両親の墓碑を置くために作られた場所だった。紅幇のメンバーでもあったともいわれています。
◆張嘯林
 青幇のビッグスリーの1人。アヘン取引によって黄金栄、杜月笙に次ぐ青幇の重鎮となったが、杜月笙が国民党支援のために上海を離れている間に、日本軍と結託して自分の地位を固めようとしたため暗殺されたらしい。
●紅幇(ほんぱん)
 天地三合会系の、主に湖南から四川にかけて勢力を張る秘密結社ですが、上海でも活動していた紅幇は、哥老会系が核となっています。刃が直刃の刀を使うのが特徴とされています。もともと幇会というのは相互扶助的な側面が強いため、青幇と紅幇の両方に所属している者もいたそうです。20年代の紅幇は、闘争目標であった清王朝が倒れ、幹部たちが中国軍部や政界の要職についてしまったため、逆に目立った活動をすることはなくなっていたということです。
●ブラディ・レーン
 直訳すれば「血の雨横町」。船着き場に近い、船乗り相手の淫売窟街。「shanghai」という動詞が創られた街でもあります。

職業・商売

 銀行、商社、証券会社と、人々が営む生業のほとんどは、現在とほとんど変わるものではありません。もちろん、その時期その場所ならではの特殊なものはありますし、それ以外にも考えつく限りの商売が存在しました。象牙や柘植に細かな細工を施して傘やステッキを創る彫刻屋、路上で客のひげをそる床屋、毛皮のコートや京劇の衣装を扱う質屋、せともの屋、露店の歯医者などがありました。
●医師
 ありとあらゆる国籍の医師がいました。イギリスやアメリカはもちろん、ルーマニア、エジプト、メキシコ、ハンガリアなど、多いときには28の国籍の医師が上海で開院していました。しかしもっとも繁盛したのは性病治療のようでした。
●衣料品店
 ドレスサロンや毛皮店、宝石商などファッション関係の店舗は多く、その多くは白系ロシア人によって経営されていました。
●占い師
 共同租界内では占いは違法行為だったため、共同租界外に店をかまえることが多かったようです。ただし治外法権の適用されないロシア人には中国の法律が適用され、中国では占いは違法行為ではないため、ロシア人の占い師もいたようです。占い師の中には占いを利用して集めた情報を使って脅迫したり、白人女性を誘拐して売春宿に売り飛ばす者もいたので、占いの禁止はまったく根拠のないことではなかったかもしれません。
●行商人
 裸足で天秤桶を担ぎ、靴下、ポマード、ごま油、豆腐、ピーナッツ、スイカ等、あらゆる食品を売り歩く行商人は、庶民の生活の要でした。
●工場労働者
 近郊から買われてきた子供や難民が従事。日本の女工哀史が可愛く見えるほどの悪条件で栄養不足から失明や気管支炎に悩む者は多く、死者は常に出ていましたが、租界は工場経営者の懐を痛めるようないかなる法律や政策も採用しませんでした。
●車夫
力車 人力車を引いて街中を走り回る車夫は、上海の裏も表も道路を知り尽くしていました。しかし人力車はたいてい裕福な外国人が所有しており、車夫はこれを借りているに過ぎませんでした。売上がレンタル料に及ばないことも多く、車夫たちは苦しい生活をしていたようです。
●税関職員
 署内勤務の職員は高く評価されていましたが、海上勤務の税関職員は腐敗しており密輸を見逃すことで財を蓄える者が多いことで有名でした。
●代書屋
 一般の中国人労働者は読み書きのできない者が多くいましたので、他人の手紙の代筆や代読をする代書屋の需要は十分にありました。
●武器商人
 彼らの顧客はマカオの海賊であり、満州の馬賊であり、軍閥でした。上海はまた武器の一大マーケットでもありました。
●保険調査員
 日中戦争で上海が市街戦に突入したときも、陣営に関係なく、日本と中国の双方から通行許可証を受け取り市内を東西奔走する人たちがいました。彼らはスパイでも新聞記者やカメラマンでもなく、ただの保険調査員であったということです。
●屋台
 下町、裏通りでは屋台などで竹籠に盛られるちまきや砂肝、鉢によそわれるワンタンスープ、バナナ、オレンジ、焼売など軽食を売り歩く姿が見られました。
●用心棒
 富裕階層を狙った誘拐が相次ぎ、商船が海賊に頻繁に襲撃される時代であり土地柄であったので、用心棒の需要は常にありました。
●傭兵
 当時は各地で軍閥が群雄割拠していましたが、基本的に中国人兵士はまとまった給料をもらうまでしか務めず、モラルが低かったため、亡命してきたロシア軍人を多く雇用できた軍閥は勢力を伸ばしました。帰るところを持たないロシア軍人たちは勇猛果敢な傭兵となったのです。
 同じ軍に所属していても、ロシア人たちはロシア人だけで軍事作戦を取ることを好み、ロシア人部隊に参加している中国人はロシア料理を作る料理人くらいのものでした。張作霖の北部軍に雇用されたロシア人傭兵たちは中国式の外套にタタール式の帽子に身を包み、装甲列車で移動して戦い続けました。
●両替商
 上海では世界中の貨幣が流通していたため、銀行以外にも両替商が繁盛していました。しかし防犯上の用心は十分で、1階には何も無く、ただ天上から笊がずらりとぶらさがっているだけ。それにお金をいれるとするする引き上げられ、両替されて下りてくるという仕組みの店さえありました。お客は両替を待つ間、やはり天上からつり下げられたヤカンのお茶を飲んだり、つり下げられたマッチを使って煙草を吸っていたそうです。

食事

 もともと上海は田舎の漁村であり、移民の街に過ぎなかった上海には、伝統的な料理というものは存在しません。いわゆる上海料理というのは、江南料理の系統の揚州料理をベースに日本人が勝手に「上海料理」と名づけたのが始まりです。ですから当然、当時の上海には「上海料理」という看板の店は存在していません。しかし食べようと思えば(そして金さえあれば)北京の宮廷料理でも四川料理でも、あるいはフランス料理や懐石料理ですら楽しむことはできました。
 庶民の暮らしは楽ではありませんでしたが、飢饉や内戦に苦しむ地方よりはまだマシでした。地方では、山芋に少しの米を混ぜられれば上等であり、焼き餅などは贅沢という地域も数多くありました。
●庶民の朝食
 上海の朝食メニューといえば、中華風ピザの大餅、中華風揚げパンのゆーちゃお油條、豆漿(豆乳)、餅米を使って油條を包んだ中華風のおにぎりの粢飯が、四大金剛と呼ばれるほどスタンダードなものです。もちろん、お粥や肉饅頭といったメニューもバリエーションは豊富です。
◆虹口マーケット
虹口市場 市内各地はもちろん観光客も多く集まる東洋一のショッピングセンター。呉淞路の三角形の敷地に建てられた三角形のビルで、どの方向からも入れたそうです。1階と2階は農村の人が野菜・魚・肉を売っていました。えっと、アーティチョーク、エンドウ豆、キャベツ、ジャガイモ、タケノコ、クワイ、レンコン、マンゴ、ザクロ、柿、玉子、キジ、シギ、ガン、ニシン、サバ、イカ、エビ、桂魚や黄魚、マグロ、ブリ、ドイツソーセージ、黒パン、ココア、フランスパン、たくあん漬け、エビ天、水仙、薔薇、スイートピー、グラジオラス、菊、盆栽などを売っていたそうです……。
◆六三館
 虹口北にあった和洋折衷の高級料亭。外国人も多く訪れ、酒はウイスキーがメインで、カウンター席やテーブル席もありましたが、外国人客は日本庭園の見える和室を好んだそうです。

交通と旅

 20〜30年代は米国を中心にした海外旅行ブームが広がり、各社は船の大型化、高速化、豪華さを競っていました。あのタイタニック号でさえ、この当時の基準では並の豪華客船に過ぎません。日本においても外国航路が年ごとに整備され、日本郵船、大阪商船、川崎汽船といった会社によって、南米やアフリカ行きの移民船を含め、世界各地に定期船が運行していました。欧州、北米、豪州といった航路も週何便か出るようになっていましたが、庶民にはまだまだ高根の花でした。
 上海にも、世界三大旅行社といわれたトーマス・クック(通済隆)、万国寝台車(鉄道臥車公司)、エクスプレス(運通)などが支店を開設していましたし、後の日本旅行となる日本旅行会やJTBも誕生していました。  横浜〜ロンドン・アントワープ航路ですと、2週に1便以上は横浜から出帆する客船がありました。横浜を出帆して8日目には上海に着き、さらにシンガポールやスエズを経由して64日目にはロンドンに到着するというものですが、これは神戸で2日、門司で1日碇泊するという優雅な海の旅であり、単に上海に渡りたいというだけなら長崎から連絡船に乗った方が遙かに早くて安くなります(長崎港から直接連絡船に乗れば2日たらずで到着)。豪華客船だと上海まで3等キップで37円、1等だと105円もかかりました。  旅行に大金を持ち歩かないのは現代と同じです。銀行の小切手や信用手形等で持ち歩き、その都度換金するか、またトーマス・クック、アメリカン・エキスプレスなどの発行するトラベラース・チェックを利用するのが普通でした。
●市電
 上海電車公司が運用する市電が市内を走っていましたが、混んでいて汚いことで有名でした。
●バス
 中国公共汽車公司が24年に営業開始しています。
●人力車(黄包車)
 人力車が発明されたのは日本ですが、日本を訪れたイギリス人によって上海に持ち込まれました。人力車ごとに登録免許が必要でしたが、人力車は裕福な外国人が所有し、これを中国人の車夫に24時間1ドルで貸し出していました。これを車夫は2人1組で借りて12時間交替で営業することが多かったようです。
 車夫たちが苦しい生活をする一方で人力車を所有する外国人はかなりの利益を上げており、既に世界各都市で普及していたタクシーの導入が上海では遅れたのは(上海オートサービスは1926年設立)、人力車の所有者たちが反対し続けたためでした。
●ジャンク船
 中国人が使用する船舶のタイプで、遠洋航海用と河川航行用がありました。長さはだいたい25m程度。角張った船首と、竹で編んだ鮮やかな色とりどりの帆が特徴で、大きな目玉が描いた船尾の甲板にはたいてい鉢植えが置かれていました。
●皮嚢筏
 中国人回教徒の商人などが使う、牛や豚や羊の皮で作った空気袋をつなげた筏。豚や羊の皮を5〜6個つないだものは2〜3人乗りで、皮を下って商売を済ませたら空気を抜き、担いで帰れるようにできている。大型のものでは最大120個くらいのものがあり、そういうものは中の幾十かに羊毛を詰めて運ぶために使用されました。
●シベリア横断鉄道
 モスクワからこの鉄道を使って8日間で満州里に到着します。そこから大連行きの中国北部鉄道に乗り換え、大連からは船で上海に入ることになります。鉄道料金はモスクワから満州まで60ポンド程度であり、ヨーロッパからモスクワまでもっとも速く安い交通手段でした。1等客室には専用の洗面所があり、2等は隣室と共用となっていました。コンパートメントは赤いビロード張りでマホガニーと真鍮の調度類と贅沢な造りで、各コンパートメントごとの主催で毎晩のようにパーティーが開かれていたといいますが、一般には不人気なのは既に共産党の支配下にあったためです。それを象徴するかのように駅の時計も常にモスクワ標準時でした。また頻繁に停車するたびに物売りが集まる光景が見られたそうです。
●三種の神器
 日本人が中国内陸部を旅する際には、「仁丹」「目薬」「味の素」が三種の神器として重宝されました。当時はまだ高級であり、また内陸部ではまず手に入らない「味の素」は各地の税関や役所を通過する際の贈り物として有効でした。また、医療体制が整っておらず迷信に頼ることが多かった地方では、「医者と坊主は殺さない」との言葉があるように医者や薬は常に不足して貴重な存在でした。そのため「仁丹」と「目薬」そして「征露丸」で簡単な治療を村人たちに施してやることによって、便宜をはかってもらえることが多かったそうです。
●南京虫
 地方を旅する人間がもっとも悩まされたのは南京虫とシラミでした。十分に陽の当てられていない安宿の布団には南京虫が棲みつき、宿泊者を咬もうと待ち受けていました。
◆ジャパンツーリストビューロー
 満鉄、日本郵船、東洋汽船らの共同出資で設立された日本の旅行代理店。今でいうJTB。世界一周旅行ブームにのって日本を訪れた外国人旅行者らを満州へと送り込んでいました。四川北路に店舗があったそうです。
◆バタフィールド&スワイヤー商会(太古洋行)
 中国沿岸および内河航路の7割を独占する海運会社です。

組織・団体

●国民党
 1914年、孫文によって中華革命党として結成。辛亥革命によって清朝を滅ぼし、中華民国を樹立しますがこの時点では軍閥の寄り合い所帯にすぎず、実権は袁世凱が握り、孫文は失脚します。1919年には国民党と改名。孫文がソ連のボルシェビキ政権の協力を求めたことから共産党とも連携することも多く、内部に共産主義勢力と反共産勢力を抱え込むことになりました。25年に孫文が死ぬと蒋介石が後を継ぎ27年には上海で共産党と合流しますが、租界工部局、浙江財閥(上海拠点の中国系銀行グループ)、青幇などの働きかけにより反共クーデターを決意。反共産主義を鮮明にしつつ南京へ拠点を移します。もちろんこの時点で国民党が各地の軍閥すべてを押さえていたわけではありませんでした。
◆孫逸仙(1866-1925)
 日本では孫文として知られる中華民国の国父。革命勢力と軍閥勢力を結びつけて辛亥革命を実行、清朝を倒して中華民国を樹立。しかし内部分裂を恐れ、自ら新政府から退いた。「国民は国の主宰者であり、政府は国の主宰者である」が持論。
1933年◆ラインバーガー、ポール・マイロン・アンソニー(1913-)
 ミルウォーキー生まれ。幼い頃よりドイツ、中国、フランス、日本等を転々と移り住み、6カ国語に堪能となる。父親は孫逸仙の法律顧問であり、辛亥革命の出資者の1人でもある。上海では英国カテドラル・スクールに学ぶ。15歳でSF短編を発表。17歳にして蒋介石の法律顧問となり、アメリカとの銀借款をまとめあげる。一時期共産主義にかぶれるが、28年に父親によってロシア旅行に送り出され、すっかり冷める。孫文によって名付けられた中国名は林白楽(リンパーロー)。やがてアメリカ陸軍情報部に所属、重慶に赴任。第二次大戦終了時には大佐。朝鮮戦争を最後に退役し、やがてジョン・ホプキンス大学教授、ケネディ大統領の顧問となる。
◆蒋介石(1887-)
 1907年日本に留学し近代的軍隊について学び、後に孫逸仙の作戦参謀となる。1918年上海に渡り、青幇と交流しつつ1923年まで証券取引所で革命資金の調達にあたる。その後、孫文の後を継いで国民党を支配。そして孫文の未亡人の妹である宋美齢と結婚することで、その本家である浙江財閥との結びつきを得た。
◆呉鉄城(1888-)
 政治家。明治大学卒業後、辛亥革命に参加。第2革命の際には日本に亡命するが、17年には広東政府に参加。後に北伐に参加し、蒋介石の信頼を得て、やがて昭和7年1月7日に上海市長に就任。
●調査統計局
 国民党政府の一部局ですが、何を調査統計の対象にしているか不明な組織。しかしこの組織の調査統計の対象となった進歩的文化人や左翼運動家はことごとく殺されるか死ぬかしました。特務機関中の特務と評されています。
●藍衣社
 共産党の浸透と日本の大陸侵攻に対抗すべく1931年に創られた国民党の秘密結社。黄埔軍学校卒業生で構成されたエリート部隊でした。CC(陳果夫・立夫兄弟)団が思想宣伝を担当し、藍衣社が実行部隊という関係だったようです。
◆戴笠(-1931)
 蓄膿症に悩む、ほっそりした華奢な人物。蒋介石の親衛隊ともいうべき藍衣社の司令官。27年以後上海で反対派の制圧にあたった。軍事情報主任。国民党軍事委員会・調査課(調査統計局)課長。またSACO(中美合作社)というOSSとの協力機関の主要メンバー。
●中国共産党
 1921年に興業路の女学校にて結成。25年には上海労働組合を指揮してストライキを敢行しました。共産党系労働組合の本部はラフィエット街29番地の安アパートにありました。
◆伍豪(1898−)
 本名・周恩来。共産党軍事委員。31歳。手八丁、口八丁の外交・政治家。1926年以後、上海にて解放運動に着手。1927年3月2日には150挺のモーゼル拳銃と5000人の党員を使って租界を除く上海全域を制圧するも蒋介石の反共クーデターと青幇の反共テロにより挫折。かろうじて逃亡に成功する。

冒険と怪異

●三導河
 西欧からはプロテスタントからカトリック、ギリシア正教まで、キリスト教の宣教師が多く中国内部へと足を踏み入れ、布教や開拓に尽力しました。アフリカの密林や太平洋の孤島にまで信仰を広めようとする宣教師たちの熱意の前には、中国大陸の広大さも問題ではありませんでした。当時、世界三大秘境と言われたものの1つに、中国・青海省チベットの楽園がありましたが、これは単なる夢幻ではなく、実際にベルギー人宣教師らが開拓した「三導河」と呼ばれる植民地があり、キリスト教徒となった中国人らの自由で豊かな理想郷となっていました。
 これに限らず、日本人が滅多にたどり着けない大陸の奥地にまで、荘厳な礼拝堂や学校が幾つも建設され、後になって大旅行の末にたどり着いた日本人はその姿、宣教師の行動力に脱帽したということです。
●蒙古犬
 モンゴルの犬は、狼2匹と戦っても勝つと言われるほどの猛犬であり、味方にすれば頼もしいけれど、敵に回すとこれほどやっかいな相手はいませんでした。この地域を扱ったRPGではモンスター扱いされています。
●クトゥルフ神話
 アメリカの怪奇小説家H.P.ラブクラフトが創出したクトゥルフ神話の中心となる時代は、まさに1920年代でした。ラブクラフトや彼に続いた他の作家が書き残した作品にアジアを舞台にしたものはほとんどありません。しかし、東南アジアの島々や中国奥地にはまだ文明人がまだ足を踏み入れていない秘境は多く残っており、知られざる風習の民族や部族も存在していました。ですから、これらの中に、邪悪な神々を信仰している部族や深きものどもの末裔が潜んでいると考えることはできます。あるいは、危険な魔道書や宝石を携えて欧米から上海に身を隠しに来る者がいることもあるでしょう。
●蓬莱大学
 株式会社遊演体の主催したネットゲーム『蓬莱学園の冒険!』の背景となる舞台の1つが太平洋戦争直前の上海や満州です。ここで多くの豪傑たちが、さまざまな魔道書や秘宝をめぐり、秘密結社「ほうらい会」と争ったり、秘境探検をしたらしいという記録が残されています。その人物や事件の名前ばかりが残されている年表の空白部分を埋めていくのも一興でしょう。
 当時の蓬莱学園は「蓬莱大学」と呼ばれ、東京浅草に校舎を構えていました。しかし血気盛んな若者たちは大陸の戦いに身を投じることも多く、1899年の義和団の乱の際には、乱の両派に蓬莱騎兵隊(後の学園銃士隊)の有志が参加。第一次大戦を契機に、世界各地から独逸が所有していた魔道書や奇書が大学部や長崎の女子高等学校部に運び込まれるようになります。ミスカトニック大学など海外の研究機関との交流も盛んになり、中央アジアや南極へ探検隊を派遣するようになります。
◆三浦寮三(1900-)
 蓬莱大学に在学していた1921年頃に有名な「畳返し伝説」を成し遂げる。通称「畳返しの三浦寮三」「ひょうたん池の濡れ烏」など多数。24年に大学を卒業した後は大陸に渡航して国共内戦や満州事変にかかわる。1929年、大連にて李光則と再会、以後、朱徳の依頼を受け紅軍第五軍と共に「舜天王八巻」の探索に赴き、ほうらい会等を相手に奮戦したと伝えられている。1944年に満州で深川満久と出会ったのが最後の足取りである。

科学技術

●兵器
 航空機や装甲車など第一次大戦で使用された兵器の改良や開発が着実に進んでいましたが、戦車はまだ実用に値する物は中国大陸には入ってきていませんでした。戦闘車両の中核は装甲車で、フランスのルノー社製のものなどが走り回っていました。日本も軍用車輌の開発に取り組んでいましたが、日本初の正式戦車が登場するのが1929年であり、まだ欧米から見本の車輌を輸入したり技術者を招へいしている段階でした。
 銃器も世界中から流れ込んでいましたが、当時最高レベルの軍用拳銃であったモーゼル・ミリタリーモデル7.63ミリは一部に中国製模造品も出ており、盗賊なども使用していました。また、軍用として開発されたものの、実際にはギャングの抗争用として有名になったトンプソンM192短機関銃は警察用としても導入されています。
◆江南機器廠
 清朝時代に西洋の軍事技術を導入するために造られた軍事工場です。南市の南西の黄浦江沿いにある高昌廟に設置されていました。
●バティスフェア
 バートン設計による潜水球です。直径144センチ、厚さ3センチ、蓋の重さ36キロ、深度1Kmまで降下可能のバティスフェアは1930年6月6日にバミューダ海で初潜水を行っています。
◆アンドルーズ、ロイ・チャップマン(1884-)
 アメリカ自然博物館科学部門。23年から5年間、ダッジの自動車隊とラクダのキャラビン隊をひきいて中央アジア(主に外モンゴル地区)での化石発掘作業をおこなう。ゴビ砂漠で史上最大の陸上哺乳動物バルキテリウムや恐竜プロトケラトプスの卵の化石を発見する。インディ・ジョーンズのモデルとも言われている。
◆西村真琴(1883-)
 博物学者。1912年から3年間で全満州の生物調査を完成。その後渡米し、ニューヨーク市自然科学博物館にてアフリカの植物分布調査、標本作成。帰国後、北海道帝国大学教授としてアイヌとマリモを研究。その後、南洋諸島の海洋生物研究に着手。28年、東洋初の考える人造人間「学天則」を開発。大札記念博覧会で発表。不正を嫌い、人種偏見を無くした世界の構築を目指した。彼にとっては、人造人間でさえ、生物界の一部であった。

参考文献

■ノンフィクション

■フィクション

■その他
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