WOMENS AIR FORCE SERVICE PILOTS(WASP)

 第二次大戦中に男性の代わりに工場で働いた女性のことを「Riveter Rosies」とも言いました。ノーマン・ロックウェルが戦意高揚ポスターとしてリベット打ちのロージーを描いた「Rosie the Riveter」が有名になってからの言葉ですね。
 しかし女性の進出は工場だけではありませんでした。
 イギリスでは早くから婦人部隊が補助航空部隊として活躍しており、1941年の時点で4,000機以上の輸送を行っていたのです。アメリカでも陸軍によって検討はされてはいましたが、男性パイロットの反感も強く、計画は白紙の状態でした。
 そこで白羽の矢が立ったのがジャクリーヌ・コクランでした。彼女の呼びかけによって飛行経験のある女性パイロット25,000人が志願し、その中から1,830名が採用され、さらに1,074名が厳しい空軍機の操縦訓練コースをやり遂げました。空輸部隊WASPの結成です。
 彼女らは、空輸はもちろん、模擬戦の標的からテストフライトまであらゆるミッションをこなし、P-51ムスタング、P-47サンダーボルト、B−17、B−26、C−45からB−29まで軍が所有するあらゆるタイプの飛行機を飛ばしました。
女性飛行士たち その本拠地はスィートウォーターズ・アベンジャーフィールド(Sweetwater's Avenger Field)に置かれ、このアベンジャー飛行場はコクラン女子修道院と呼ばれ、アメリカ唯一の女性パイロットの基地となりました。その門にはパイロットを惑わす妖精Fifinellaの赤い服に金のヘルメットと青い羽を持った姿が描かれていました。そのイラストは今もインターネットで簡単に見つけることができますが、描いたのがWalt Disneyその人なのでリンクはしません。興味があればサーチエンジンにかけてみれば簡単に見つかりますけどね。
 WASPは非戦闘部隊ではありましたが、輸送中の事故により38人の女性パイロットが殉職しています(事故率としてはきわめて低いようです)。しかしWASPは陸軍のWACや海軍のWAVEとの縄張り争いに勝つことができませんでした。ついに正規の軍組織に組み込まれないまま、WASP計画は1944年10月20日に中止が決定され、賃金も旅費も支給されないまま12月20日解隊されたのです。
 彼女らが単に軍に協力した(文字通りの)ボランティアではなく退役軍人として認められたのは1977年になってのことです。アメリカ空軍が名誉除隊の命令を出すことにより、恩給などの金銭的補償は伴わなかったものの、女性パイロットの存在が公式に認知され、アーリントン公園墓地に女性兵士の記念碑が建立されました。

ジャクリーヌ・コクラン(Jacqueline Cochran)

ジャクリーヌ・コクラン 1905年から1908年の間に生まれました(正確な年月日は誰にも判りません)。美容師や看護婦、化粧品販売などの仕事を得て、友人のアメリア・イヤハートに触発され3週間で航空機免許を取得。内外の航空レースに参加するようになり、1938年には北米大陸を横断する長距離レースであるベンディックス杯で優勝。
 第二次大戦が始まると爆撃機の輸送のため英国に渡り、第8空軍と共に女性パイロットによる輸送計画に従事。1941年にはアメリカに戻って<WOMENS AIR FORCE SERVICE PILOTS(WASP)>の組織作りに走り回ります。
 戦後は化粧品会社の経営の傍ら、航空隊を陸軍から分離して独立した空軍にすべく、ロビイスト登録までして奔走。その傍らで航空レースにも復帰して数々の記録を残したり、選挙戦中に病で倒れたリンドン・ジョンソンを飛行機で空輸したり、アイゼンハワーを大統領選に引きずり出したりしていました。
 1953年にはカナダエアー社のテストパイロットとしてF-86セイバーを飛ばし、1961年にはノースロップ社のパイロットとしてT-38タロンを、1963年にはロッキード社のパイロットとしてF−104スターファイターを操縦し、1964年5月4日にはF-104で時速2,286.8752kmをたたき出した……ってこのとき何歳ですか?

第586女子戦闘機連隊

女性飛行士たち 1941年6月22日にバルバロッサ作戦が発動され、ドイツ軍がソ連領への侵攻を開始すると、愛国心に燃える少女たちは各地の徴兵事務所に駆けつけました。ソ連政府は最初は少女たちに門前払いをくわせていましたが、ドイツ軍の侵攻の速さと、初戦で空軍が受けた被害が明らかになると、むしろ積極的に女性兵士を受け入れ始めました。
 ソビエト社会主義共和国連邦が成立して最初の20年間で、「Osoaviakhim」と呼ばれる軍の影響が強い飛行クラブが幾つもできており、多くの少年少女がパラシュート降下やグライダーの操縦を学んでいました。ですから17歳の飛行クラブの生徒が、前線の空軍パイロットより飛行経験を積んでいることも珍しくはありませんでした。
女性飛行士たち 第二次大戦では、イギリスで、アメリカで、ドイツで、数々の女性パイロットが活躍しましたが、それは輸送など非戦闘任務ばかりでした。しかし国土が戦場となったソ連においては女性パイロットが実戦に参加することは珍しくありませんでした。中でも第586連隊、第587連隊、第588連隊の3つの500番台の戦闘部隊はパイロットだけではなく整備士から管制官まで400名の要員すべてが女性で編成されていました。この婦人部隊は最初は防空司令部によって鉄道と工業の要所であるボルガ河流域のサラトフに配備されましたが、すぐに各地の激戦区に投入されるようになりました。
 そのうち、第586連隊は戦闘機部隊であり、初期にはヤコブレフYak-1S戦闘機が、後には軽量の量産型Yak-7Bが配備されました。彼女らの主な任務は敵爆撃機の迎撃であり、クルスク戦やベルリン攻防戦など4年間に4,419回の出撃をしました。

タマラ・カツァリノワ(Tamara Kazarinova)

 連隊司令官。空中戦におけるリディアとエカテリーナの勘の良さを見抜き、スターリングラードで激戦を繰り広げている第73戦闘機連隊に送り込みました。

オルガ・ヤムシュコワ(Olga Yamshchikova)

 戦闘機の飛行教官から志願して戦闘部隊へ。中隊長の1人である彼女は93回の出撃をして、撃墜数は17機。公式スコアではリディアを抜いて女性最多の撃墜数です。戦後は女性としてはソ連初のジェット機のテストパイロットとなりました。

リディア・リトヴャク( Lidiya Vladimirovna Litvyak)

リディア・リトヴャク 1921年8月18日モスクワ生まれ。義務教育の傍らモスクワのチュカロフ飛行クラブに通い、15歳のときには単独飛行。卒業後、いったんは地質学調査隊に加わりますが、飛ぶことが忘れられず、ヘルソンの航空アカデミーでさらに技量を磨き、やがてモスクワ飛行クラブの教官となります。
 1942年1月、マリナ・ラスコワが女性による空軍部隊を編成するとただちに参加。戦闘飛行訓練においては、男女を問わず誰よりも優れていて、教官さえ撃墜したといいます。基地に帰還するときの格納庫に突っ込まんばかりの派手なマヌーバーは彼女のトレードマークになりました。
 訓練を終えると第586女性戦闘機連隊に配属されましたが、なかなか前線には投入されなかったため、1942年8月リディアは第286連隊の男性パイロットと共にハインケル爆撃隊の迎撃に出撃し、敵機の死角からぎりぎりまで接近しての銃撃で見事に初戦果。女性が男性と同じに戦えることを証明しました。そして、その年の終わりまでに彼女は6機のドイツ機を撃墜していました。金髪でグレーの瞳を持つ彼女の整った顔立ちは当時のニュースを賑わしたそうです。
 1943年1月には第73戦闘機連隊に移ってスターリングラード戦に参加、2月には中尉に昇進。リディアは派手な曲芸飛行が好きでしたが、そればかりではなく敵に目をつけられるのを承知で機体に大きく白ユリの図案を描き入れました。そのユリがバラと見間違えられ、ドイツ軍パイロットからは「スターリングラードの白バラ」と呼ばれ、警戒されるようになります。
 1943年の夏までに彼女は3回被弾しますが、1回はなんとか機体を基地まで保たせ、1回は徒歩で帰還し、もう1回は僚機が緊急着陸して救出してくれました。しかし幸運もここまででした。8月1日、味方の爆撃機を護衛中、リディア機は8機のBf-109に集中攻撃され、2機を撃墜するも自らも墜落、行方不明となります。戦争中に彼女の機体が発見されることはなく、仲間は彼女の生還を信じて、部隊解散の日まで点呼の際にはリディアの名を呼び続けたそうです。
 1979年、彼女の遺骸と飛行機の残骸がDmitriyevka村付近で発見されました。そして1990年5月5日、ゴルバチョフ大統領によって国葬が行われソ連英雄章が追贈されると共に、12個の金色の星が刻まれた大理石の記念碑が製作されました。
 戦死時22歳。リディアが初期に搭乗していたYaK-1には黄色で44の番号が、後期のYaK-1には白地で23の番号が書き込まれていました。168回の戦いに参加し、12機撃墜が彼女の公式スコアです。
 最近ではアニメ『ラーゼフォン』に登場するTERRA特務空母<リーリャ・リトバク>の名前の元として知られていますね。

エカテリーナ・ブダノワ(Yekaterina/Katya Budanova)

カーシャ・ブタノワ 親友リディアと共に第73戦闘機連隊に移り、スターリングラードの航空戦に参加。1943年7月18日、カーシャは2機のBf-109と空中戦に持ち込まれ、そのうち1機を撃墜するものの、自分も撃墜され戦死。戦果は公式スコアでは11機とされています。

ヴァレーリヤ・ホミヤコワ(Valeria Ivanovna Xomyakova)

ヴァレーリャ・ホミヤコワ 元モスクワ航空クラブの教官。1942年9月3日、彼女は1機のJu-88爆撃機を撃墜しましたが、これは彼女の初めての戦果というだけでなく、史上初の女性による空中戦での撃墜でした。

ガリア・ボールディナ(Galia Borodina)

 中隊長。サラトフで20機以上のドイツ爆撃機を迎撃したとき、彼女は管制の誘導と自分の計算から敵機の位置を予想して急降下で襲いかかり、また高度を上げ再度降下を繰り返し、これによってドイツ空軍はソ連機の数を誤認し、サラトフの遙か遠方で爆弾を投下し引き返したそうです。

第587女子爆撃機連隊

女性飛行士たち この連隊は昼間用の爆撃機連隊として編成されました。当初は2人乗りのSu-2で訓練を受けていましたが、操縦士、航法士、無線士兼機銃手の3名乗りのペトリャコフPe-2戦闘爆撃機が配備され、そのため第587連隊の初陣は1943年1月と遅くなったようです。

マリナ・ラスコワ(Marina Raskova)

 連隊司令官。ヴァレンティナ・グリソデュボワ(Valentina Grizodubova)、ポリーナ・オスペンコ(Polina Osipenko)と長距離飛行の記録を塗り替えて国家英雄の称号を与えられており、独ソ開戦以前からパイロットを志す少女たちの憧れの目標であった(オスペンコは1939年に飛行機事故で死亡)。ドイツの侵攻によって空軍戦力が大きな打撃を受けると、自分のパイロットとしての経歴と人民防衛委員の地位を利用してスターリンを説得、女性による空軍部隊を編成させた張本人。

第588女子夜間爆撃機連隊

女性飛行士たち 女性パイロットによる夜間爆撃機連隊として1942年に編成されました。配備された機体は旧式のポリカルロフPo-2で、これは1928年に完成したときはU-2と呼ばれる練習機でしたが、多用途性を発揮して偵察や爆撃はもちろん患者輸送や貨物輸送用などに活躍。その特徴ある爆音からドイツ兵から「コーヒーミル」と呼ばれた機体です。
 スターリングラード攻防戦では毎晩の夜間爆撃に活躍。速度は遅いものの地上レーダーや航空機搭載のレーダーでは、超低空で飛ぶ単純な木製(一部金属)羽布張りのPo-2をとらえることは困難な上に、目標に接近するとエンジンを止めて滑空して接近してくるため、敵陣地や飛行場への攻撃ではたいした戦果をあげられなかったものの、前線のドイツ兵には安眠妨害の定期便として大変いやがられ、「Nachthexen(Night Witches)」と呼ばれたとか。
 やがて第46夜間爆撃防衛連隊<46 GvNBAP Taman >と再編されています。戦争期間中、24,000回出撃し、23,000トンの爆弾を投下しています。

イエヴドキア・ベルシャンスカヤ (Yevdokia Bershanskaya)

 女性パイロットたちの最初の訓練期間中は、ボルガ河流域のエンゲルス訓練基地で副司令官としてマリア・ラスコワ司令官と共に訓練にあたり、過酷なスケジュールで2年分の訓練を6ヶ月で消化させました。当初は戦闘服も男性用しかなく、大きすぎるブーツには新聞紙を詰めるなど苦労したようです。実戦配備後は連隊司令官となります。少佐。

ナターリャ・ミャクリン(Natalya Myeklin)

ナターリャ・ミャクリン 少尉。1942年に19歳で夜間爆撃隊に配属。1942年から1945年の3年間で840回の出撃をし、戦争を生き抜いてレーニン勲章と赤旗勲章、ソ連英雄章を獲得しています。

その他

ハンナ・ライチェ(Hanna Reitsch)

 ドイツの女性グライダー乗り第1号。大戦中は民間テストパイロットとして、さまざまな機体の開発に関わりました。
 1937年にヘリコプターの試験機フォッケ・アハゲリスFa-61を屋内でデモ飛行。ロケット推進式のメッサーシュミットMe-163の試験にも参加。1944年にはRechlinのドイツ空軍実験場でおこなわれた、有人式V-1ミサイル(V-le)実験に参加。実験でV-1の失敗の25%はエンジンの振動であることが発見されています。
 大戦末期にはヒトラーがゲーリング空軍司令の後任に任命したグライム第6航空艦隊司令を乗せ、米ソによって包囲されているベルリンに強行着陸しています。

ヴァレンティナ・グリソデュボワ(Valentina.S.Grizodubova)

 Pe-8重爆撃機で編成された第101長距離航空連隊の中隊長。1910年1月18日生まれ。戦前から女性パイロットとして活躍していて、1937年10月28日にはマリヤ・ラスコワと女性による無着陸飛行記録を更新。翌年9月24日から25日にはマリヤ・ラスコワとポリーナ・オシペンコと共にツポレフANT-37爆撃機でモスクワからシベリアまでの5,908Kmを26時間29分のノンストップ飛行を成し遂げました。党とのつながりも深く、「女性による反ファシスト委員会」の議長でもありました。ソ連英雄章、レーニン勲章、赤旗勲章なども獲得しています。1993年4月28日死去。

アンナ・イェゴロヴァ(Anna.A.Timofyeyevna Yegorova)

 中尉。第305攻撃機連隊の司令官代理兼航法士。女性が扱うには操縦が難しすぎると考えられていたイリューシンIl-2シュトルモビク地上攻撃機を駆り、クバン川からクリミア半島そしてポーランドの戦場で260回の出撃をこなしました。リディアに次いで有名なソ連の女性パイロットであり、最も熟練したシュトルモビクのパイロットと言われていました。撃墜されて戦死したとも、ドイツ軍の捕虜になったともいいます。
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