旅順〜二〇三高地

 2004年10月に、大連へ行き戦跡を訪問してきたときの写真帳です。
 名古屋から空路2時間弱で大連国際空港。そこから車で30分ほどで大連市の中心部に着きます。かつては満州鉄道の起点として栄えた港湾都市であり、今は経済特区としてキャノンやトステムなど日系企業が多く進出して日本工業団地を形成しています。在住している日本人は約3000人と聞いています。

東鶏冠山

景区 日露戦争でロシア軍の司令部、東鶏冠山北堡塁が置かれていた地であり、今は東鶏冠山景区として開放され、戦史記念館も置かれています。

展示品ジオラマ 展示場には当時の旅順のジオラマや回収された砲弾等が展示されていて、映像資料なども上映されています。中国人観光客も多く、「いわば日本人とロシア人が余所の土地で勝手にケンカした迷惑な戦い。そんなものに中国人は興味があるのですか」との問いかけに、ガイドの人は「歴史として認識し、戦いの成功要因・失敗要因を研究することが大事なのです」と答えてくれましたが、そこで販売していた『旅順口近代戦争遺跡』という写真集には「二つの侵略国家が中国人民を苦しめた証拠だ」という主旨が書かれており、観光地であると同時に愛国教育の基地になっているそうで、まあ、そんなところだろうなと納得。

壕掩蔽壕 コンクリート製の要塞がまだ残っています。

断面 建設に使ったセメントはロシア本国から運んできたとのことで、不足しがちなセメントを海岸の砂利で補ったとのこと。海岸の砂は塩分を含んでいて拙かろうと思いましたが、考えてみれば鉄骨を入れてあるわけでなし、地震があるでなし、その上厚みたっぷりということで、今もその姿をとどめています。

回廊 要塞の銃眼が今も確認できます。その周囲は弾痕でぼこぼこになっています。

突破口側面掩蔽壕入口 その銃眼の左手奥に「日軍突破口」と看板の立てられた大穴があります。ここの爆破に成功し、内部に侵入したのでしょう。右側写真は側面掩蔽壕の本来の入口です。

遠景正面 ちょっと離れたところから見ると、こんな感じ。今は松林となっていますが、当時は樹木はほとんどなく、この写真左手上側から突入してきた日本兵はここから下に落ちたところで、標的となったようです。

ゴミ箱 ここのゴミ箱はこんな感じ。
 砲弾というより、「ロケッティア」のヘルメットみたい。

東鶏冠山北堡塁東鶏冠山北堡へ 突破口を背に、石段をのそのそ登っていくと山頂。中央には大正五年に満州戦跡保存会によって建立された記念碑が建てられており、「明治三十七年八月以来第十一師団ノ諸隊及後備歩兵第四旅団ノ一部隊 之ヲ攻撃シ同年十二月十八日占領ス。陸軍大将男爵鮫島重雄碑名ヲ書ス」と刻まれていました。写真には写っていませんが、写真右手、堡塁から登ってくると左側の土手の上には機関銃座が再現されていて、観光客が群がっていました。

兵舎 かつての兵舎部分。床が抜け落ちていますが、本来は二層になっていました。今は網で仕切られていて、中に足を踏み入れることは出来ません。

通信室厨房・救護室 道ばたにこっそり通信室の跡。完全に埋もれている上に、登り石段の脇でほとんど気づきません。右側の写真は見た目はただの穴蔵。解説板に「厨房・救護室」と書かれているから、なにか分かるくらいです。


城塞入口 ガイドに従って順繰りに回っていくと、最後に城塞入口に到着……。今日は団体客が多かったので、逆順に回っていた模様。入口付近では屋台が幾つか出ていて、土産物屋や飲み物を販売していますが、缶コーラの値段を聞いたら40元。市内では2元とか3元で売っている代物。観光地値段といっても、ちょっと却下したい。


旅順市街

 旅順市街は未開放区域であり、外国人は足を踏み入れたり、写真撮影をすることが禁止されています。旅順港もまだ現役の軍港なのです。ただ、市街そのものは軍の施設が多いかなという気はしますが、ごくありきたりの中国の街並み。

爾霊山

二〇三景区 ギャオーと鳴くからギャオス、標高203メートルだから二〇三高地。今はここも観光地。映画の通り、当時は丸裸の山でしたが、今では植樹が進んで緑の山です。麓には果樹園もあったそうですが、今では雑草に埋もれています。基本的に農業より漁業の方が盛んなようです。
 土産物屋がある麓の駐車場には、山頂との往復に使ってもらおうと籠屋がたむろしていて、観光バスが到着するとワッと群がってきます。  無視して片道1キロほどの行程を徒歩で移動。ちょっときつめだけれど、登れないことはない。2人で担ぐ籠の方はちょくちょく休憩するので、結果的に徒歩の方が早く着いた上に、乗った人の感想は「すごく疲れる」とのこと。

遠望砲台砲台 二〇三高地は戦後乃木大将によって「爾霊山」(にれいざん)と命名されます。
 当然のことですが、山頂からは旅順港が見下ろせますが、今日は霞がかかっていてほとんど見えません。また、今も旧式の2門の大砲が据えつけられていますが、今は敷石の張り替え作業中。大砲も1門はピカピカ、1門はサビサビ……。

モニュメント売店 銃弾の形をした記念碑は、戦場に散らばった薬莢を集め、日本で鋳造し直して建造したものと聞きました。
 このモニュメントのすぐ裏手に、錆びかけた高射砲が鎮座していました。そこな置かれた軍服や軍帽を見たところでは、軍装して記念写真を撮らせようという商売のようです。

砲弾 帰りは道を変え、売店横の石段を降りることにします。
 舗装された良い道ではありませんが、乃木兄弟の戦死した地とか、ロシア軍の塹壕跡を通るので、そのまま来た道を引き返すより正解かも。
 樹がうっそうと覆い繁る今でさえ、階段を降りていくのはちょっとしんどい。樹もろくに生えていない時分に、ここを落とそうと攻め上ることを考えるとゾッとします。
 駐車場近くまで降りてくると、土手がコンクリで固められ、砲弾の形のモニュメントが埋め込まれていますが意味不明。タケノコみたいです。


水師営会見所

地図 二〇三高地を下って車で30分ほど走ると、埃っぽい町中に入ります。小さな商店や工房、住宅などが建ち並び、馬に轢かせた荷馬車や三輪トラックが走り、昼食のために帰宅する小学生が行き来している、ごくありきたりな町並です。  その一角に小さな駐車場があります。観光バスが7台も停まれば満車になりそうな駐車場で、入って左手には周囲の風景には不似合いな土産物屋があり、正面には水産物が並べられた平屋のレストランがあります。そして右手には低い石塀で囲われた平屋の農家が建っています。そこが会見所。日露戦争終結の交渉がおこなわれ、1905年1月5日に乃木大将とステッセル将軍の間で停戦条約が締結された建物です。唱歌「水師営の会見」にあるように、門の左手にはナツメの樹が生えていますが、歌のように1本ではなく、すでに2代目が生えています。
 前庭の中心、門から建物までの間には満州戦蹟保存会による記念碑があったはずですが撤去されており、記念撮影用の椅子にも見える木の箱が設置してあるだけです。教科書問題で日中間がきな臭くなった頃に引き倒されたとも聞きます。
地図 農家は文化大革命で破壊されたのを復元したものとのことですが、玄関をはいると小部屋になっており、観光地でよく見かける名前を絵文字で書くのをやっています。その右側が壁に写真パネルを貼った展示場でかつての日本軍の控え室、左側が会見の間となったロシア軍の控え室。
 展示場には片言の日本語を話す老人がいて、パネルの解説をしながら戦争の概略を語ってくれますが、部屋の片隅のパネルは「日本軍が農家を徴発して人民に迷惑をかけた」とか「日本軍が農民を斬首した」とか「日本軍のせいで村が砲撃でめちゃくちゃになった」とかいうものがありますが、みんなさりげなく無視します。
 会見場はがらんとした土間の部屋に、野戦病院の手術台だったという長机が1つと長椅子が2つ置いてあり、壁には会見当日の写真が1枚飾ってあります。それだけ。史跡としても観光地としても、扱いが今ひとつ半端です。

大連市街

 最後に蛇足。
真宮寺さくらさんの有志 かつて満州鉄道本社のあった大連市。その駅前の繁華街に、なにやら見慣れた巨大な看板が……。
 帝都の平和ばかりでなく、満州・大連の平和も守っていただけそうです。なんだかなあ。
 地下には「大連勝利広場」と呼ばれる地下ショッピングセンター街があります。名古屋とか難波の地下街を地下3階にまで展開させたものといった感じです。革製品のお店あり、薬局あり、ゲームセンターありといった空間ですが、2004年春、そこに「東京小街」と呼ばれる一角がオープンしました。日本風のファッション・雑貨を扱った若い女性向けのストリートです。ですから、地上にでかでかと真宮寺さくらさん(仮名)のご尊顔がアップになっていたとしても、決して秋葉原や大須のようなオタクの街ではないはずです……が………地下の非常扉にはアダルトPCゲームの魔女っ子キャラが大きくペイントされていたり(たぶん『ヤミと帽子と本の旅人』)、あちこちの案内板もどこかで見たようなキャラばかりで、少なくともデザイン担当者は確信犯です。
 それから大連港には例の巨大な物体が鎮座しています。
鉄くず 4000トン級の船が40隻も横付けでき、3万トン級も楽勝だった大連港は、東洋一の埠頭と呼ばれていました。今も中国では最大の造船基地です。その外れ、造船エリアの片隅に巨大な赤錆色の影が見えます。
 2002年、「カジノ付きの洋上ホテルにするため」ロシアから買い取られた空母ヴァリヤーグです。旧ソ連が外貨稼ぎに建造途中の原子力空母を売っ払ったやつですね(もちろん原子炉抜きで)。中国では他にも空母ミンスクを買い取ってテーマパークにしたりと、あいかわらずスケールのでかいバカをやっていますが、これもその1つ。
 カジノホテルに改装される気配もなく、中国海軍が空母にするため買い取ったのだという観測がされたこともありますが、少なくとも今のところはがらんどうの赤錆の塊でした。現地の人に聞くと「スクラップにして、鉄を使うのよ」ということですが、真相は不明。まあ、街中にも「何かの事情で」工事半ばで放り出されたままのビルは多く、その仲間入りは確実です。
路上観察 それから、かつての満鉄本社ビル前で見つけたのは、当時そのままのマンホールの蓋。物持ち良すぎるぞ、中国。満州の「M」と鉄道レールの断面である「I」を組み合わせた意匠です。

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