神凪羽常は休暇をとった。警察官として採用されて以来休みなど取っていなかったから、それを全部使うつもりで申請したら、2ヶ月も与えられてしまった。いくらなんでもそんなにあるわけがないのだが、どうも憲兵隊のほうでも彼女の処遇に困っていたようだ。
「2ヶ月といわず、3ヶ月でも半年でもいいんだぞ」
「イヤですねえ。そんなに休暇を取ったら、私の席が無くなっちゃうじゃないですか」
苦笑いしながら憲兵大尉は愛想良く少女を送りだした。
「まあ、なんだ……これ幸い、だな」
彼女を見送った憲兵大尉の言葉が派遣軍の意志を代弁していた。とはいえ、この休暇の間に彼女がどれだけのことをしでかすか予想もしていない。
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1935年11月4日深夜。天頂には上弦の月に雲が薄くかかっている。
その下を、小走りに少女が往く。こんな時間に徘徊していても親は何も言わないのか? 親はいない。彼女は
インディアン・ティスリーだ。
裏通りを静かに抜け、ポットの海員食堂にたどり着くと静かに裏口の扉を開けた。するりと中に忍び込み、明かりの消えた食堂内を2歩3歩と進む。
「この泥棒猫め!」
足が止まる。やはり明かりの消えている厨房に続く戸口に男が立っていた。声を聞くまでもない。窓から差し込むかすかな月光が頭頂に反射している。
「……ポットの親父よお。明かりくらい点けて待っててくれりゃいいのに」
「もったいない」
アイザイア・ポットは手近な椅子を引き出して座り、ティスリーはそのままテーブルに腰かけた。
「で? なにしろって」
「怪物騒ぎは知っているな」
「うん。山の方に何か出たらしいって噂。ポリスは否定してる」
「おめえ、捜査官にへばりつけ。今なら怪物騒ぎの野次馬ってことになる」
「わかった。…………で?」
ティスリーの催促に、ポットは茶色の紙袋を手渡した。ずっしり重い。
「金は?」
「まともな情報を拾ってきたらな」
追い出されるように少女は食堂の外に連れ出され、目の前でドアはびしゃりと閉められた。
袋の中はリンゴだった。傷が付いて腐ったり虫が喰っていたが、それでもリンゴには違いない。そして……。
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「恐ろしいことだとは思わないかね、アーミテイジ!」大学図書館の館長室の窓から外を眺めながら、ラブクラフトは声をあげた。「巨大で無毛で脚のないモノ!? いや、まさか風に乗りて歩むもの、風の神ではあるまいね!」
「少しは冷静になってくれたまえ、ラブクラフト。すべての証拠を手に入れる前に推測を述べるのは愚かなことだ」うんざりしたように老館長は振り向いた。「きみはこの100歳に近い老人に何を期待しているんだね」
ヘンリー・アーミテイジ老人は両手を大きく広げ、部屋の四方を埋め尽くした書架を指し示した。
「きみは私の伝記作家のつもりかもしれんが、私はここを隠棲の場として紙魚の1つとなり研究に勤しみたいだけなのだ。本当の怪事件などそうそう常人が巡り会えるものではない。警察に任せれば良いのだよ」
「警察? ハッ!」
黒ずくめの長身の男は急に不機嫌そうになった。
「連中は、このぼくを監視しているんだぞ! この
ハワード・フィリップ・ラブクラフトを!」
は頭を振った。
「それにだ、ヘンリー・アーミテイジ。きみこそ、この事件を解決するにふさわしい人物じゃないか。ウィルバー家の事件だって……」
「あれは創作だ、きみの創作。そういうことにしたはずだ」
「しかし……」
「これで終わりだ。きみは三文パルプ作家に、私は図書館の居候に戻る時間だ」
少し意固地な様子で背を向けるアーミテイジ博士。しかし、そんな彼らは確かにFBIの監視下にあった。
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そして、ここにもFBIの捜査網に引っかかった者がいた。Rosetta Asenath Bloch……看護婦の
ロゼッタ・アセナス・ブロックである。
怪しい人物、ラブクラフトと一つ屋根の下というのが怪しい。個人出版で怪しげな小冊子を配布しているのも怪しい。配布先が全国及び海外に及んでおり、何通かはイギリスにまで送られているところも怪しい。その小冊子の内容が『魔法少将フラーちゃんとウィルトのタロット』やら『超マリオネット特集』などとさらに怪しく、しかも勤め先が軍の関与する病院となったら、もうまっ黒黒の黒である。周辺住人の噂も芳しくない。
「よし、決まったな。このロゼッタとかいう女を連行しろ。ついでに、女が頻繁に出入りしているトレーシー家の連中も事情聴取だ!」
報告書をとりまとめた
ショーン・マグローの号令一下、捜査官が一斉に飛び出した。
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戦時下である。防諜を担当する連邦捜査局は、支局といえども不夜城である。
しかし、瞬間的に人気が無くなることはある。各方面から応援を頼んだマグローのチームが出動した直後の今が、そのときだった。事務官は何人か仕事をしているし、詰め所には警備官がいる。しかし、そこに慌てた様子の事務官が飛び出してきて、書類を手にしたまま警備官とせわしく会話をかわした。その隙に、身のこなしの素早い子供1人が潜り込むのは容易なことだった。
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高校生ともなれば将来の進路も考えないといけないし、そうでなくても授業のない時に社会奉仕をしているクラスメイトも少なくない。
エヴィア・セラにとってバルター病院は格好の社会見学コースだった。
以前は静かな病院だったが、最近では前線から送られてくる負傷兵たちの数が増え、入院患者の数は増えているらしい。
「でも、もっぱら治療の山場を越した患者さんの機能回復訓練に使われてるの」
案内をしてくれた看護婦は少女の一団にそう教えてくれた。また砲弾神経症で送られてくる兵士も少なくないらしい。
多忙な看護婦による案内はすぐに終わり、見学者たちはすぐに三々五々に散り始めた。帰り際にドラッグストアでクリームソーダを飲む相談をしている者もいる。しかし、エヴィアには少し物足りなかった。
窓の外を見ると、港の向こうに真新しい建物が見える。なにか軍の研究施設だとかなんだとか……。
「ふうむ。お嬢さん、あの建物に興味がおありかな」
「……え、ええ」
見知らぬ老人にいきなり声をかけられて、エヴィは戸惑いながらも礼儀正しく応えた。
「あれはな、人類の未来を創る場所じゃよ」
「でも、戦争の道具を作ってるんじゃないですか?」
その言葉に、長身の老人は微笑んだ。
「それも事実だ。しかしナイフは人を刺すこともできれば、リンゴの皮を剥くこともできる。同じことだと私は思うがね」
「そうなんですか?」
「そうとも! 科学の発展による、人類の進歩と調和こそ……」
「先生! こんなところで何をしてらっしゃるんですか!?」
思いがけない大きな声に、エヴィと老人は揃って振り向いた。
そこには、カルテを抱えた看護婦が肩で息をしながら立っていた。
「あ、は……ミスター! 捜してたんですよ。勝手にいなくならないでください!」
「わしは検査なんざ、必要ないよ」
「必要ないわけ、ないじゃないですか!!」
看護婦が思わず声を荒げるのと、院内放送が彼女に呼び出しをかけるのは同時だった。
『ロゼッタ・ブロック看護婦は至急外来待合まで。来客です。ロゼッタ……』
「……先生、すぐに戻ってきますから、必ず検査を受けてくださいね!」
ブロック看護婦はそう言い残しながら、足早に立ち去った。
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トレジャーアイランドに向かったチームに連絡が届いたのは、彼らが今にも受付を通り抜けようとしたときであった。そしてバルター病院に向かったチームには……。
「連邦捜査局のショーン・マグローだ。局まで同行願いたい」
「何ですか! 勤務中ですよ!?」
外来受付に呼び出されたロゼッタは、たちまち屈強な男たちに取り囲まれた。待合ロビーの各所に周囲の様子をうかがっている何人かも、こいつらの仲間だろう。
「少し訊かせてもらいたいことがあるだけだ」
身分証のバッジをちらつかせながら、マグローは威圧するように看護婦の目を見据えた。だが女は少しもひるむ様子は見えない。思った通り、ただ者ではない。
「仕方がない。おい、彼女を!……」
マグローが部下に命じてロゼッタ看護婦を拘束しようとした、ちょうどそのとき、病院前に1台のサイドカーが横滑りに乗りつけ、見覚えのある女性職員が飛び降りてきた。
「どうした?」
職員は1通の報告書をマグローに手渡した。
その文言に目を通しているうちに、マグローの顔に疑問が浮かび、それがすぐに怒りに変わる。だがそれは、ぐっと何かを呑み込むように、瞬時にかき消える。
「……引き上げだ」
部下たちの顔にも疑問が浮かぶが、彼の厳しい様子に黙って引き上げ始める。
「騒がせておいて、お詫びも何もないわけ?」
「……失礼しました。少々誤解があったようです」
意気消沈するFBI捜査官に、ロゼッタは腕組みした姿勢で睨みつけた。
「しかし、1つお聞かせ願いたい」
「何かしら?」
「あなたはただの看護婦ではないのか?」
「ただの看護婦じゃないわ。腕の立つ、気だての良い、美人の看護婦よ☆」
「ならば、どうして公安部の機密保持認定を得ているのですか?」
その問いに、ロゼッタは天使の微笑みで応えた。
「その答は、あなたがB4以上の認定を得てからお答えするわ」
言葉に詰まった捜査官は、ぶいと振り向いて立ち去ろうとする。その背中に、腕の立つ、気だての良い、美人の看護婦は1つ注文をつけた。
「それから、無線の監視は怠らないでね!」
なぜ、こんな女が……とマグローは首をひねりながら車へと乗り込んだ。
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ロゼッタ・ブロックが急いで戻ったとき、そこには誰もいなかったはずである。なぜなら、彼らはここにいたからだ。
埠頭の外れに建設された巨大な建物。その前にエヴィア・セラと老人、
ニコラ・テスラは立っていた。真新しい建物には『海軍技術研究所』と記された真新しい看板が控えめにかけられている。
「どうだね?」
「……下水道にはつながっているんですよね?」
老人の問いかけに、緊張しているのかエヴィは間の抜けた質問で応え、老人は苦笑いしながら「排水などは処理施設を経由してから下水道に流しているはずだ」と答えた。
「必要な機械は来週には運び込まれてくると聞いている」
ぐるりと一周する間に中をのぞき込んでみたが、どの部屋も広くはあったががらんとしていて、何の機械も入っておらず、机の上も棚も空っぽだった。まだ動いてはいないようだ。そうでなければ、彼女が簡単にここまで来られるはずがない。
「何もしてないんですか?」
「しておるよ。重要な研究をしておる」
え、どこで? きょろきょろと周囲を見回すエヴィに、老人は黙って自分の頭をコツコツ叩いた。すべてはここで行われているのだよと。
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薄汚れた影が音もなく室内を物色していく。ファイル・キャビネットの中、デスクマットの下。何が必要なものなのか、特にあてがあるわけではないから、新しそうな情報を中心に小さな写真機で撮影していくだけだ。時間はあまりない。博打みたいなもので、適当に撮すと、またするりと抜け出した。
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「もう、い〜加減にして下さい!!」
百雷が落ちるとは、このような状況を指すのだろう。
肩で息をした看護婦が老人に対して悪鬼の形相で迫る様に、セヴィは恐怖を覚えたが、それも瞬間のことであった。看護婦がプロとして怒っていることが伝わったからだ。
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ロゼッタ・ブロックは医者嫌いなニコラ・テスラにほとほと手を焼いていた。これで放っておけるような健康状態なら「勝手にしなさい」で済むのだけれど、幼少の頃から大病を何度も煩っていたというテスラはいまなお健康不安の塊だった。いや、齢を重ねた分だけ質が悪くなっている。けれども、軍としてはせっかく手に入れた博士をみすみす死なせるつもりはなかった。
「……しばらくの間、私が先生の専属とさせていただくことになりました」
すごくイヤそーな顔をする博士。しかし、これまでの経緯や資格を考えれば、それ以外の選択肢はなかった。
「わしは研究室を離れんぞ」
「ですから、専属と申し上げました。博士がエーテル理論を考えられようが、苛電粒子ビーム兵器を組み立てられようがお好きにすればよろしいです。ただし健康を害さない範囲で」
「おまえにエーテルの何が判る」
「私は一介の看護婦ですから、エーテルとオルゴンの違いも分かるはずもありませんわ」
その答えに、博士は不思議と納得したようだった。
「軍はこの老いぼれにまだあれこれ働けというておる。もちろん、何もする気がないなら、こんな最果ての地まで遥々来ることもなかったわけだが……」
そこで老テスラは口ひげをつまんで弾いたのだった。