大宇宙の小さな四畳半

[1]
 満天の星空の下、京子はヘチマのスポンジで紫外線焼けした肌を優しくこすり、こびりついた泥を落とした。
 手桶で湯を汲むと頭からかぶる。泥やあわと一緒に流されたお湯は、何重もの濾過装置を経由して循環していくことになる。ここでは土も水も貴重だ。ただ太陽の光だけが無尽蔵と言っていい。
 ショートカットの髪をぶるっとふるうと、額からなでつけるように水をきる。
 そして再び円筒形の風呂につかった。本当はゆったりと足を伸ばして入浴したいが水は貴重だ。それは次の帰郷の時の贅沢に取っておく。
 天頂が一瞬青く輝いたかと思うと、星空はいつの間にか雲一つない青空に変わっていた。居住区が昼の側に入り始めたので、紫外線防止用のシールドが機能したのだ。周囲が明るくなると、ドラム缶風呂のようなユニットバスの簡素な全貌が明るみにさらされる。
「ヘイスケ、デンスケ、ロースケっ!」
 京子の声に物置小屋のような外装の乗員個室の向こうから、かったんかったんと3体のカカシロイドが姿を現した。ずんぐりむっくりした小柄な三頭身のアンドロイドは、カカシというよりぬいぐるみに近い。これこそが<麗しき勇気ある花たちの国>FVBの誇る雑兵たちである。
「ヘイスケ、参上いたしました」
 赤い具足の雑兵が言った。
「デンスケ、参上つかまつりました」
 白い具足の雑兵も言った。
 最後は黄色の具足の雑兵だった。
「ロースケ、惨状つーか、参りました」
 そして三人そろってぺこりとお辞儀をした。カカシロイドたちも知能は高くないがそれなりに学習する。ただどう学ぶか一々チェックしないので、ときどき変なところでおかしなことを学んでくる。こまめに訂正し修正する足軽大将もいるが、京子はそこまで関与はしない。というか、任務に支障がない限り多少の個性があった方が識別しやすいというものだ。
「ヘイスケ、タオルっ!」
 カカシロイドから渇いたふかふかのタオルを受け取り、顔を拭きながら円筒形の風呂桶をまたいで外に出た。
「朝げの支度は、デンスケ?」
「塩鮭にヒジキ。温泉卵に合わせの味噌汁を用意してございます」
 細い首筋から薄い胸へと身体を手早く拭き終わるとタオルをデンスケに手渡し、代わりに真新しい下着を受け取った。
「具は豆腐だな?・・・・・・よし。ロースケ・・・・・・ロースケ!?」
 来るときもいちばん遅れてやってきたロースケが、いつの間にか乗員個室ブロックへ続く扉へと下がりかけている。生産ロットや学習の違いによる個体差はあるものの、こいつはどうもやることなすことどんくさい。
「なにをふらふらしている、ロースケ」
 拭きながら一歩二歩とカカシロイドに歩み寄る京子だが、扉に手をかけたロースケがふいにくるりと振り向いた。
「お客さまがお見えになっておりますゆえ」
 その言葉と同時に扉が開き、ドンゴロス(*)を肩に担いだ青年が緊張した面差しで姿を現した。
 瞬間的に足が出た。金的への直撃。若草色のショーツが宙に舞う。
 思わず麻袋を取り落とし、前屈みになったところに頭部へと左拳がめり込む。ごめん。悪気はないんだ。表情も変えず京子がつぶやいた。

(*)麻袋。

[2]
 <古和井農場>2人目のスタッフ、つまり京子の交代要員になるはずだった若者は治療用カプセルに収まっていた。カプセルが狭く感じるのは青年が標準よりかなり大柄なせいだろう。
 京子はくりくりっとした黒い瞳をシルバーフレームの眼鏡で隠しながら観察してみた。
 その青年は良くいえば野性味あふれる、正直にいえば「図体でかいのはいいけどさ、きちんと床屋へ行って風呂入って、シャキッとしろよ!」という感じ。フケツとはいわないけれど、なんとなくヌボーっとしたイメージがぬぐえない。
「橘十郎太・・・・・二級水夫で資源省から派遣された補助職員っていうのがキミなわけね」
「はあ」
 腫れあがったあごのせいで、まだなんとなくしゃべりにくそうだ。
「治りかけた右手をまた痛めるなんて、まったく災難だったわね」
 デンスケから受け取った辞令書と電子カルテをチェックしながら、京子は人ごとのように淡々と告げた。本当は見えない箇所にもいろいろダメージを受けているが、そこにはあえて触れないで話を進めた。
「私は水無瀬京子。主任管理官よ。キミは私の次席ということになるわ。人間は2人しかいないけれど」
 そして3体のカカシロイドを紹介しながら付け加えた。
「でも、まあ、農場の仕事の大半は1G未満の環境だから、仕事は普通にやってもらうわよ。こいつらも手伝えるし」
「はい。すいません」
 右手を包帯で固定した姿で、新米作業員はなんとかカプセルからはい出してきた。
 農業プラットホーム<古和井農場>は、FVBの都市船に曳航される形で宙に漂っていた。ゆっくりと回転しているのは、居住区や医療施設のある管理ブロックだ。
 <古和井農場>はミアキス型多目的宇宙プラットホームの余剰パーツを使って組み上げられた宇宙農場だった。
 かつて赤オーマとの戦いに備えてミアキスが量産された際、何度もの兵装変更に伴って多くのコンテナブロックが余った。まあ、空母を造るぞ!と艦載機搭載ブロックを生産し始めたら艦載機の数が足りなかったとか、砲艦にするぞ!と砲台ブロックを生産し始めたら砲座の数が足りなかったとか、うん、そういう話である。計画性の無さを責めるより、そんな短期間で建造計画を推進した努力を褒めるべきところであるし、ぶっちゃけ予定通り建造されても乗員が足らなかったのではないかという話もある。
 それはともかくミアキス用の独立構造体は余ってしまった。大半は解体し再利用されたり、民間に払い下げられたりすることになったが、ここで農業プラントへの転用を思いついた者がいたらしい。
 建造半ばのミアキス2隻を背中合わせにつなぐように「あじのヒラキ」状態にし、農業船にしてしまったのだ。
「ビギナーズ王国で設計された段階から、農業船への転用は検討されていたみたいだし。失敗しても惜しくない投資ってことね」
 橘に船内を案内しつつ、京子が言った。
「それでFVBが手を挙げたんですよね」
「まあ、宇宙船ドックを持っているのはうちだけだし、地底農耕の実績もあるしね」
 初っぱなに地上爆撃をくらって以来、FVBはリスク分散に過敏になっていた。地上にも有り余るほど段々畑や棚田がありながら、地下の洞窟の奥深くでも水稲やらトマトやら栽培し続けていたのである。
「宇宙特化している重農国って、他にないから、うちらがやるしかないでしょ」
 というか、宇宙系アイドレスを重視している国は他にない。なにせ、宇宙進出に邁進するのは非常にツライ。宇宙用アイドレスというのはいずれも燃費が悪く、応用が利きにくく、膨大な投資を要求する。いくら強い新アイドレスを取得しても燃料が足りなくて動かせない、シャトルが足りなくて宙に運べない、運んでも戦闘時に湯水のように燃料を使うので戦闘に投入できない・・・・・・。
 よくぞ、ここまで使えないものに投資を続けた!という、まさにサムライ馬鹿の藩国であった。
 宇宙特化している国が少ないが皆無ではないという現状は、帝国にとってある意味幸運なことであった。これ以上、多くの国が同じ道を歩んでいたら、宇宙進出に関係なく帝国はコストオーバーで滅びてしまったことだろう。

[3]
 ロッカーから取り出した黄色いジャンパーを羽織ると、2人は農業ブロックへと足を踏み入れた。
「デンスケ、ヘイスケ、ロースケっ」
 呼ばれると、3体のカカシロイドが青いボックスを抱えてよたよたやって来た。
「こいつはなんですか、主任?」
「今度、FVB特産のワサビも栽培することになって」
 その言葉に橘もうんと肯いた。
「自然薯なんかはどうです? 宇宙で食べるとろろ汁って最高だと思うけどなあ」
「莫迦ね。あんなもの、この倍のサイズが無いと無理よ」
「すいません」
 カカシロイドの箱の中からはガサゴソと音がするが誰も何も気にしない。そのまま2人はカカシロイドを引き連れて無重量エリアへと足を踏み入れた。
 調整された太陽光を受けてトマトや稲が水耕栽培されているコンテナ・ブロックが続く。光と緑の林の間を泳ぐように抜けていく。宇宙の民だけに、そこにいささかのぎごちなさもない。
 やがて赤いラインで重力警告が強調されたブロックへと来ると、京子は足をくいっとフックに引っかけながら着地し、足を設置させるとカカシロイドたちを降ろした。
「ここも無重量じゃないんですね」
「植物の生育に必要なものは?」
「熱と水と光ですね」
「そう。温度と湿度と照度。まあ、無機元素も必要になるけれど、この段階では考慮しなくて良い」
 そう言いながら、京子は二重のドアを開閉し、大きなコンテナが並ぶ薄暗い部屋へと足を踏み入れる。
「ただ、つい忘れがちだけれど、種子から発芽する段階で重力が必要になるわ。重力屈性というやつね。だから、ここでは発芽期までは1G下で育て、栄養成長期以降はOG栽培に切り替えるわ。そこからは屈光性で誘導するから」
「ウマゴヤシですか」
 コンテナに記されているプレートを確認して橘が言った。
「そう。ここはアルファルファの生産システムよ。乾燥重量あたりの栄養価が高いし、水耕栽培向きだから、宇宙植物の優等生ね」
 でも、決して美味しくない。新芽の状態でサラダにするか、加工してサプリメントにするくらいしか使い道がない。
 そしてまた幾つかのコンテナを通過していくが、どれも基本的には種子発芽のシステムだった。しかし、やがて辿り着いた最後尾のコンテナには何も植えられていなかった。ただ、細かい金網に覆われた最新型の水耕プラントが設置され、明るい日射しを浴びながら勢いよく水が循環している。
「さあ、ワサビを放流して!」
 FVBのワサビはヤツメワサビと言い、独特の刺激を持つ食用植物であり、香辛料として用いられるが、棲息地が水のきれいな場所に限定されるため、栽培は難しいとされていた。しかし冷たくて清らかな水の流れさえあれば肥料は必要なく、水質汚染の心配がないため宇宙空間での水耕栽培に適した品種であるといえるだろう。
 デンスケが金網を取り外してフタを空けたところに、ヘイスケがロースケから手渡された箱の中身を注ぎ込む。
 こぽこぽこぽという水音と共に、勢いよく跳ね回りながら緑色の小さな塊が幾つも幾つも流れ込んでいく。
「活きの良いワサビですね」
「天然物よ」
 遺伝子操作などしていないという話だが、FVBの山菜類はとてつもなく活きが良い。良すぎて困るくらいだ。天然物は野趣にあふれ味も良いのだが、毎年山菜採りで数名の怪我人が出るし、自然薯狩りでは何年かに1人くらいは死者が出る。それではちょっと困るので、おとなしい山菜を養殖しようというのがここ最近の傾向なのだ。
 このワサビは全長は5センチほどだろうか。体の表面に生えた根が繊毛の役目を果たし、これによって水中をくるくると舞うように移動する。
「きゃんっ」
 カカシロイドが悲鳴を上げた。
 3箱目のボックスを持ち上げようとしていたロースケが水に足を滑らせたのだ。ボックスの中身が床にぶちまけられ、ぴちぴちと跳ね回っていた。
「デンスケ、フタを閉めて! ヘイスケ、ロースケはワサビを回収しなさい!」
 京子や橘も壁にかけてある捕虫網に飛びつくと、ちょろちょろと逃げ回るワサビの捕獲に加わった。
「橘、そっちに行ったわ!」
「うわっ、ブーツに潜り込まれた!!」
「回収する、回収する・・・・・・」
「デンスケ、排水溝を封鎖してっ!」

[4]
 騒動の最中に踏んづけられたり折れてしまったものもあったけれど、5人がかり、小一時間の奮闘によって、ヤツメワサビはすべて回収された。
 そして再び2人は医務室に戻っていた。正確にはカカシロイドたちに担ぎ込まれたのだ。
「強烈でしたねえ。さすが天然物です」
 橘十郎太の右手は完全にギプスで固定されていた。もう少しで棺桶のミイラ状態だ。捕獲を嫌がったワサビが分泌した辛味成分に驚いて転倒した結果だ。鼻の頭にもかじられた痕が残っている。
 情けないと笑わば笑えの心境だが、鼻で笑いそうな京子にその余裕はない。彼女の方は分泌されたガスを顔面に受け、眼鏡によって直撃は免れたものの一時的な失明状態にあった。
「なんたる失態、なんたる無様な・・・・・・」
 がるがるがると顔面包帯ぐるぐる巻なまま爪をかむ京子。
 そこへよたよたとデンスケが寄ってきた。
「水無瀬主任管理官、私は農業ステーションA1の先任カカシロイドとして、速やかな主任管理官並びに次席管理官の全体洗浄を要請します。これは施設管理規定第17号2項に基づくもので・・・・・・」
 要は全身の臭いがとれないので、これ以上空気浄化システムに負担をかける前に風呂に入れというのだ。
「ちょ、ちょっと待って! 入浴は順番だよね? 司令官権限を・・・」
「その要請には法的権限も論拠もありません。要請を却下します」
「橘っ、なんとかいえ!」
「いや、そのお、おれ、妹が15になるまで一緒に風呂に入っていたし・・・・・・気にしませんよ?」
「ばかーっ!」
 手に触れる物を片っ端から投げつけるが、目の見えない身であるからして、ことごとく明後日の方角へ飛んでいってしまう。そのうち、3体のカカシロイドに引きずられるように、ユニットバスへと連れて行かれてしまう。そのあとから、よたよたと橘が続いた。
 風呂場へは京子と橘が入る。京子は目が見えないし、橘は右手が使えない。3体は無理でもカカシロイドの1体にでも入浴介護をさせたいところだが、カカシロイドの方も要洗浄だった。こちらは高熱と紫外線による全身焼却で、そのあとは交代で再メンテナンス。手伝いに回す余地はなかった。
「おまえも目隠ししろ!」
 苦肉の策である。
 和手ぬぐいで橘に目隠しするが、橘は自分ではできないから京子がするしかない。
「あ、そこです。もうちょい上。そう。そのまままっすぐ・・・・・・」
 なんか間抜けな光景だが、本人たちは至って大まじめである。

[5]
 やっとのことで入浴を終えると、服の替えだけは用意してあった。元の服は焼却済である。さらにすったもんだで着替えを済ませると、転がり込むように集会室のソファへと座り込んだ。
 ふうっとため息をつく2人。
「お茶でも入れましょうか、主任。片手だから、サーバーから注ぐだけですけれど」
「ありがとう。でもその前に農場の管理システムのチェックをしておきましょう」
「でも自分は・・・・・・」
「本当はマニュアルを見ながらでもやってもらうところだけれど、今日は手伝うわよ」
「了解しました」
 手探りで携帯端末を取り出すと、管理センターとデータリンクする。しかし端末は音声表示しない旧式タイプなので、記憶と手の感覚だけで京子が出力したデータを橘に読み上げさせていく。
 橘が驚いたことに、京子はこれら何百という項目を、それぞれの数値まで含めてすべて記憶していた。そのため瞬間的に目で見て判断するよりは時間がかかるが、それでも45分ほどでチェックは終了した。
「異常なし・・・・・・です」
「うむ。ご苦労さま・・・・・・あ、うん、まあ、今日はたいへんな1日だったわけで・・・・・・ありがとう。ごめんなさい」
 それだけいうと京子はぷいっとそっぽを向いて立ち上がり、橘が手を貸すというのを断って自室へと手探りで向かった。
「いえ、こちらこそ。これからよろしくお願いします」
 そして橘は見えなくなった京子の後ろ姿を思い出してくすりと笑った。まるで妹のようだと思ったのだ。
 一方、畳3枚分ほどの個室に戻った京子は、敷きっぱなしの布団に潜り込み、赤面しながらもだえていた。なんで、もっと指揮官らしく振る舞えなかったのだろうかと。たかが新任士官と風呂場で全裸の対面をしたくらいで、すべてがわやくちゃになるなんて。ロースケの足の調子が悪いことにも気がついてしかるべきだった。士官失格だ。
 京子は身体を丸め、ひたすら自己嫌悪の海へ沈んでいった。

[6]
 それからしばらくは順調だった。
 京子の視力はすぐに快復し農園の管理責任者として橘の上官として完璧に振る舞っていたし、橘も熱心な部下として農園の管理業務を学び、副官としての仕事も順調にこなしていた。
「ん? ああ、ロースケか」
 2人と2体が忙しく立ち働く中で、ロースケがぽつねんと指示を待っているのに橘が気がついた。本当は存在を忘れていただけなのだが、それを口にすると傷つくから内緒だ。
「じゃあ、お茶でもいれてもらおうか。いちばん上の棚にある緑の茶筒のやつを使って、70度のお湯を250ml使用。ただし湯飲みには7分目だけ注ぐこと。茶葉は10グラム・・・」
 ここしばらくの付き合いで、橘にもこの船のカカシロイドとの付き合い方が判ってきた。ロースケはいちいちこまめな指示を出してやらないといけないけれど、その代わり仕事は丁寧だ。そのあたりを理解してやらないと、単なる「ノロマなやつ」でしかない。
「指示を記憶しました。指示を実行に移します」
 そう言って走り出す後ろ姿がなんだか喜んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
 ヘイスケは仕事は早いが粗っぽく、デンスケはその中間くらいだろうか。同じロットから生産されたはずの同型機が同じ環境でこうも性格が変わるというのも面白い。

 異常が発生したのは橘着任から17日目のことだった。トマトが次々に枯死し始めたのだ。
「水が足りなかったとか、肥料をやりすぎたとか?」
「最初からトマトに肥料はやってないのよ。もともと環境の厳しい高地の作物だから、水とか肥料とかそんなに気にしないというか、やりすぎちゃダメなの」
「そうすると、やりすぎの可能性?」
「私はとにかく農園でトマトの状態を直接確認するわ。キミは管理データの再確認を」
 それだけ指示を与えると、京子はヘイスケを連れてトマト農園へと飛び出していった。
 モニターに映るトマトはどれも黄土色に変色しつつある。もう少しで収穫できるはずだったのに・・・・・・。
「デンスケ、この1週間のトマトの管理データを出力。済み次第、他の作物にも異常数値がないか確認」
 そこで言葉を切り、足元を見た。
 気のせいだろうが、ロースケが期待に満ちた目で橘を見上げていた。
「あー・・・・・・」
 こほんと咳をしながら仕事を考える。
「<古和井農場>全体の船内環境を過去30日分チェックすること。水・空気・電気・食糧すべてを1時間単位で3ヶ月前の数値と比較し、5%以上の変動があれば報告すること。ただし橘十郎太着任による変動は計算しなくて良い」
「了解しました。指示を実行に移します」
 ロースケに指示している間にデンスケの資料まとめが済んでいたので、さらにトマト農園付近の別の作物にも異常がないか追加指示を出し、橘はデータに目を通すが特に異常数値は見あたらない。
 何度も見直し、この資料は棚上げにしようと決めたところにロースケがやってきた。
「お、今日は早いじゃないか」
 カカシロイドにもしっぽがいるんじゃないかと思う。
 ロースケのデータに目を通していた橘の眉間にしわがよる。何度も資料を確認する。電気の消費量がわずかに高くなっている。何の電気だ? ちゃんと数値が引用されている。照明でもない、温度湿度でもない。フィルターだった。
 橘は急ぎ京子を呼び出した。
「管理官。この1週間で、空気及び水の浄化システムの稼働時間が7%増加しています」
『どういうこと?』
 農園の端末から京子が応答してくる。
「微量ながら、何かが水と空気を汚しているんです。フィルター検査でアリルイソチオシアネートの痕跡らしきものが検出されています」
 京子が何かを口にしかけたそのとき、モニターが切れた。

[7]
 橘は回線を切り替えて呼び続けるが反応はない。いつの間にか船内だけではなく、船外への通信回線も停止していた。
「ロースケ、通信回線の故障原因を調査し、必要な手段をとって早急に復旧させよ」
「命令を実行に移します」
 黄装束のカカシロイドがとっとこ退出していくと、残る1体にも指示を下した。
「デンスケ、主任の現在位置を確認」
「ヘイスケと共にこちらに移動していると思われます」
 こちらへ戻ってくるなら、報告はそれからで良いかと思っていた橘は、続く報告に飛び上がった。
「モニターに異常数値。白血球増加。心拍数も上がります。水無瀬主任は負傷している可能性があります」
「デンスケ。救急セットを持って付いてこい!」
 そう言うや、橘は脱兎のごとく水稲ブロックを抜け、レタス、水菜、イチゴ、ホウレンソウと駆け抜けた。ときおり照明が不規則に点滅する。
 そして橘は何かを感じた。
 何かはわからないけれど、なにかがいる!
 空気が痛くなってきた。この香りは着任早々かがされて悶絶している。ならば、この先にいるのは・・・・・・。
 橘は何も武器になるようなものを持ってこなかったことを後悔した。とはいえ時間をかけたところで、何か見つかるとも思えない。この宇宙の水耕農園には地上の農園ならどこにでも転がっているようなクワや熊手すら無いのだ。
 何番目かの隔壁を抜けた先のキュウリ畑でキュウリとは似ても似つかぬものが暴れ回っていた。大きさは3mくらいだろうか。太く長い躰の表面は鱗のようなかさぶたに覆われ、その隙間から糸のように細く黒光りする触毛が無数に蠢いていた。さらにその先端では蛇のように太い触手が何本ものたうち回り、行く手を阻むものすべてをなぎ倒していた。
「なんと恐ろしい・・・・・・あれは、あれこそは・・・・・・・Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu R'lyeh wgah-nagl fhtagn! Cthulhu fhtagn!」
 いつの間にかその姿に目を釘付けにされ、口の端からうわごとが漏れ始める。
「なにを呆けているっ、ばかやろーっ!」
 怒声と共にまだ花がついたままのキュウリが橘の鼻に叩きつけられ2つに折れた。
 京子の憤怒の形相が目の前にあった。
「隔壁閉鎖っ!」
 我に返った橘が非常用レバーのカバーを叩き割って操作するのと、カカシロイドに担がれた京子が飛び込むのは同時だった。
 隔壁が閉鎖されると、橘は厳重にロックする。隔壁の向こうで何かがぶつかる音がするが、少しも揺るがない。
「主任!」
 引きずられるようにヘイスケの背中に負われた京子の足は、不自然にぶらりぶらりと揺れている。
「あのバカヤロにのしかかられてね。ちょっと折れたかもしれない」
「かもじゃないですよ!! 失礼します」
 京子の身体を軽く床に押しつけて固定すると、ナイフで作業ズボンを縦に切り裂いた。そして傷口を確認すると、橘はポシェットから取り出した消毒スプレーと止血テープで応急処置を施す。そしてデンスケから受け取った救急箱の痛み止めを問答無用で打ち込んだ。
「くっ」
「もう半分も切り裂きますよ」
 京子は叫ぶ気力もない。ただ荒い息をしながら意識を保つのが精一杯だ。
「しかし、あいつは何なんですか・・・・・・」
「・・・・・・ヤツメワサビよ。この前、捕まえ損なったやつがいたらしいわ。トマトが枯死したのはヤツメワサビの仕業ね」
 もともとワサビの仲間は、根から殺菌成分を分泌して周囲に他の植物が生えないようにしているのだが、あいつは自家中毒も起こさずに短期間にすくすく成長したと見える。
「どこに潜んでいたのやら」
「それよりも本国に連絡して駆除係を呼んでちょうだい・・・・・・」
 ヘイスケも半身がゆがんでいる。よくぞ逃げ延びたというところだ。
「ダメなんです。通信回線は修理中です」
「なら、手旗でも発光信号でも・・・・・・」
「はいはい。とりあえず向こうのブロックは閉鎖しましたから、主任を治療カプセルに放り込んでから何か手段を考えます」
 ローライズ・ショーツ姿の京子をそっと抱き上げると、再び泳ぐように居住ブロックへ戻ろうとする。
 照明が瞬いて消えた。
 非常灯の緑の灯りだけが2人と2体の姿を浮かび上がらせた。
「なに?」
「デンスケ、状況報告!」
「送電システム停止。給水システム停止。濾過システム停止。換気システム停止。D3隔壁に異常発生」
「おい、待てよ!」
 その瞬間、周囲を走っている散水用のパイプが裂けた。そしてその破れ目から無数のワサビたちが這い出し始めた。それだけではない。頭上から、足下から、あらゆる隙間から小さな緑の悪魔が繊毛を蠢かしながら侵入し始めたのだ。
 京子を抱きかかえた橘たちは次第に壁際へと追い詰められていった。
 そのとき、壁の非常灯が緑から赤へと変わって点滅を始めた。感情のない女性の声が120秒後の農園ブロックの分離投棄と焼却処分を予告し始めた。
『パージ開始まで100秒です。このブロックはパージされます。作業員は速やかに退避してください。パージ開始まで90・・・・・・』
 失った血液が多かったのか、鎮痛剤が効き始めたのか、京子の意識はもうほとんど無い。
「デンスケ、酸素タンクは!?」
 カカシロイドは救急ボックスの中身と自らのボディを指し示して収納してあると告げた。
「デンスケ、ヘイスケ。次の部屋に予備のアルファルファ用のコンテナがあるはずだ。強行突破で辿り着くぞ!」
 そのとき、ガクンッという衝撃が橘たちを襲った。

 <古和井農場>から投棄された4基の構造体からあふれ出した炎の輝きは、周囲の都市船からも確認された。

[8]
「・・・・・・で、どうなったの?」
 寿司屋のカウンターで漬けマグロをつまみながら天河宵が京子に尋ねた。しかし彼女は笑って首を振った。
「そのあと、私は気を失ってたから」
「・・・・・・よく分かんないわけだ。なら、十郎太くんに説明の義務があるわけね」
 いきなり話の矛先を向けられ、橘十郎太は思わず番茶でむせた。落ち着くのに1分ほど。
「いや、だからですね。みんなそろってアルファルファのコンテナに飛び込んで籠城したんですが、そのとき・・・・・・」
「どかんと」
「いや、どちらかというとボワッとなりまして。そんな本当に爆破しちゃったらデブリが都市船に直撃しちゃうじゃないですか。まあ、高熱で瞬間殺菌したわけですが、潜り込んだコンテナの投棄が間にあったもので、蒸し焼きにされずに済みました」
 屈託なさそうに笑う。
「カカシロイドの暴走って聞いたわよ?」
「暴走じゃないですね」
 そう言うと青年はカウンターの向こうの無愛想な店主にコハダを注文した。
「あいつは、ロースケは俺の命令に従ったんですよ。通信回路のトラブルの原因を調べ、それが全船の配管に繁殖していたワサビだと気がついた。そしてそれをいちばん迅速に処理する手段として、汚染された農業ブロックすべての投棄と消毒を選択したわけで、まあ、よくやったと思いますよ」
「手段を選ぶよう釘を刺さなかったせいで死にかけたけれど」
 黒い目をじとーっと細めて京子が文句を言った。
「それはワサビの浸透が予想以上に早くて脱出が遅れたからですよ」
「四畳半サイズのコンテナに4人で押し込められて30分も漂流よ!? デンスケとヘイスケが人間だったらとっくの昔に酸欠であの世行きだったわ」
「でも、ちゃんとロースケが向かえに来ましたよ」
 妹をなだめるかのように、優しく橘が応えた。
「解ってるわよ。だけど、ロースケが連絡艇を出したのは私たちの救助をするつもりだったわけじゃなく、単に通信回復の報告をしたかっただけだなんて腹が立たない?」
 京子はそう言うと、ほかほかの玉子焼きを口に放り込んだ。
 橘は微笑みながらも軽く受け流し、そろそろ時間ですと告げた。
「締めの巻物は何にしますか?」
「山葵巻をみんなに」
 カウンターの向こうのオヤジが手際よくパリパリの海苔と酢飯で新鮮なワサビを巻いていく。
「あ、うん、効くなーっ」
 はぐはぐはぐ。
 ふわーっと大きな息をつぎながら、少しまなじりに涙を浮かべた宵が2人に訊ねた。
「あんな目にあっても、ワサビは怖くないの? 今度はワサビ農園船に乗るっていうじゃない?」
 ガリをつまみながらの天河宵の言葉に、橘と京子は微笑んで「まだ怖いよ」と答えた。
「怖いから食べちまわないと」
「今度は濃いお茶が怖い」
「あ、なら、わたしも怖い」

 店を出るとすっかり星月夜だった。
「ごちそうさま」
「ありがとうございます、宵先輩」
「今夜は、特別。あら、お迎えが来てるわよ」
 天河宵の言うとおり、店の前には赤白黄色のカカシロイドが待っていた。
「出航の準備は済みました。次の指示をお待ちします」
「はい、お待たせ。帰りましょう」
「お休みなさい」
 宵は仲良く手をつないで帰る2人と3体に手を振って別れを告げた。
 天には星を、地には花。そして寿司には山葵を。


(原稿用紙約35枚)