PBMプレイヤー列伝

 ネットゲーマー疾る

■ネットゲーマーと草の根PBM
 僕はPBMのプレイヤー全体をさして「PBMプレイヤー」と呼びますし、それを「メイルゲーマー」と呼ぶ人もいます。けれど、かつては「ネットゲーマー」と呼ぶのが普通でした。もちろん昔はPBMといえば遊演体のネットゲームだけでしたから、それをプレイするのがネットゲーマーなのは当然です。
 でもよく考えてみると、「ネットゲーマー」は単なる「PBMプレイヤー」ではなかったような気がするのです。今以上に、そのPBMによって得られるプレイヤー同士のネットワークを重要視し、それをPBMに還元することに貪欲だったのではないでしょうか。
 あるいは今では商業ベースのオフィシャルが主宰する以外のPBMについては「同人PBM」とか呼ばれていますが、初期のPBMプレイヤーは「草の根メイルゲーム」と呼ぶことが多かったですね。「同人」と「草の根」、どちらも言っていることは「素人による」ということですが、「草の根」の方が、なんか自分たちが「このジャンルを底辺から支える!」みたいな気概が感じられます。
 実際、80年代末から90年代前半にかけては、「草の根メイルゲーム」が盛んな時期であり、しかもインターネットを積極的に媒介しているかいないかといったハードの問題以外で、今とはかなり毛色が違っていたような気がします。
 実験的な演出で知られる演劇人で寺山修司という人がいました。マスターの言葉だったかプレイヤーだったかすら忘れてしまいましたが、昔、誰かが「ネットゲームというのは、寺山修司の“書簡演劇”が発想の元だよ」というのを聞いた覚えはあります。書簡演劇というのは、劇を舞台では上演せず、観客は同時に出演者にもなり、手紙によってセリフと行くべき場所や会うべき人についての指示を与えられ、それを実行していくことによって物語を形成していくというものです。
 実際に書簡演劇がネットゲームの着想の原点かどうかは解りません。書簡演劇は観客の行動やセリフは監督が指示しますが、ネットゲームではプレイヤーが自発的に行動やセリフを考えますから、こちらの方が能動的です。しかし、単に「ゲームを郵便媒介でプレイする」のではなく、「自分の人生が誰かのシナリオによって動かされているという日常の中の非日常を体感する」という意味でネットゲームは書簡演劇に似ていますし、アクティブなプレイヤーがしていたことはそっくりそのままです。
 そして公正を期すために補足するなら、初期のPBMである「88」も「蓬莱」も楽しめないプレイヤーは数多くいました。大百会スタッフの白田さんは「(88は)楽しもうと努力しても楽しめなかった。1月の定番リアのいい加減さでさじを投げた」と言いますし、PCとして活躍したはずの首藤麗子さんも「(蓬莱は)やりかたを理解するのに2ヶ月かかった。1年つきあったけれど、自分はクソゲーだと思う」と感想を聞かせてくれました。これらは決して少数意見ではありません。
 でもPBMを楽しみ、その感動を自分なりの形で他人に伝えよう、再現しようという思い。あるいは逆にPBMをまったく楽しめず、けれどもすっぱり手を切るのではなく、「ここが悪い。自分だったら…」という思い。そうしたものが草の根活動の原動力となったのかもしれません。本章ではそんな話を念頭に置きながら、ネットゲーマーと草の根PBMについて振り返ってみることにしましょう。

■総合同人誌の時代
 それ以前にもPBMの同人サークル的なものはありました。しかし、「88」に触発されて生まれた草の根サークルは、明らかにそれまでのものと比較して大規模でした。
 それは、草の根サークルがまず「88」の情報ネットワークとして生まれたことに原因がありました。普通にゲーム雑誌などで会員を募集してPBMを運営しようと思っても、参加者を10人集めるのも大変です。ところが、この場合はサークルの参加者が既に50名、100名単位で集まっていて、プレイヤーもマスターもなり手が余っていたのですから、最初から大規模なものになるよう定められていました。1つの冊子に掲載されるゲーム企画が3本4本はあたりまえ。参加者は少なくとも20名、多ければ200名くらいはいるだろうという状況でした。
 また、同じ「88」に参加したプレイヤーのネットワークがベースですから、それぞれの冊子が互いにリンクしていることは当たり前でした。草の根サークルのリンクとは、どういうことかおわかりでしょうか?
 もともとが商業PBMについての情報誌です。それが購読会員へのサービスとしてゲーム情報以外のコラムや小説などを充実させ、最後に行きついた先が同人PBMでした。あるいはその同人PBMについての情報誌や交流誌ができ、それが拡充されていくうちに、オリジナルのPBMを自分でも主宰するようになったりします。そして、そのまた応援記事が別の同人誌に掲載されたりする。そんな時代だったのです。


 エフモトくんのこと
復活したF本くん 「88」で乱立した情報誌同士のコミュニケーションをはかり、情報の整理・充実をはかろうと奮闘した同人誌主催者。後に発行されたPBM同人誌『殿』では主任編集者として活躍。本人がミステリのネタを提供することも多く、「謎の二重投稿事件」「失われた血液型事件」が有名。
 本人はどうか解らないが、PCは特撮マニアとして描かれることが多く、「拉致監禁・特撮ビデオ耐久鑑賞事件」などを引き起こしている。また、しのらさとし作のホラー漫画「ごきげんミコちゃん」には、特撮好きの少年の亡霊として“江麓くん”が登場。宇宙刑事に化身していじめっ子を殺戮して回っていた。
 

■東海3誌から『ぽすたる☆ている』へ
ぽすたる☆ている 「88」の終了が目前に迫り、次回作の発表もなかった時期。情報誌を刊行していたサークルは相次いで草の根メイルゲーム雑誌の創刊を画策し始めました。
 その中でも先陣を切ったのが、「野尻ジャーナル」「ほしのたね」「すとれい☆きゃっつ」という東海地方のサークルでした。この東海3誌はゲーム終盤にはそれぞれ独自のPBM企画を抱えていました。そして「88」が終わったときに、メインの情報記事が無くなってしまうので、それぞれのゲーム部分だけを1つにまとめて新雑誌にしようということになり、生まれた雑誌が『ぽすたる☆ている』なのです。
ティータイムニュース 創刊号の表紙は、当時漫画家のたがみよしひさのアシスタントをしていた、しのらさとし氏に依頼。3誌以外からもPBMのアイデアを抱えている者、何かコラムなどをかけそうな知人に声をかけ、あっという間に体裁を整えてスタートしました。この創刊最初の1年間が第一の黄金期です。
 学園コメディ、ファンタジー、複葉機の空中戦、政治陰謀劇とさまざまなタイプのPBM企画を用意し、コラムにはミリタリー関係の雑学からパソコンゲーム開発者の裏話まで集めました。またそれを年5回のペースで動かし続け、会員数も200名を超えていたのです。
 また『Tea Time News』という、『ぽすたる☆ている』の企画のための同人誌が刊行されたのもこの頃です。こちらは「ぽすたる」のゲーム企画の分析記事や交流記事、二次創作などが掲載されていたのですが、こういう本をプレイヤーに作ってもらえればマスター冥利につきます。


 たかまぁのこと
 ちゃんとした本名があり、「高天原飛翔」などという格好良いキャラ名もあったが、「88」中盤以後は誰もが単に「たかまぁ」と呼び捨てていた。封印の剣を守りに行くはずが、折って引っこ抜いてしまって、封印されていた八雷神を開放するという失態を演じたためだ。どうせ、それ以前に人間と怪物の戦力比でかなわないのが明白だった上に、人間側が召還したヤクシャが従属させられず人間を殺しまくっていたので、どう転んでも結果は人間側の全滅だったろうけど…。
 その後の彼のキャラ名は誰も覚えていない。どこで何をやっても「たかまぁ」だ。この彼が中心となって「たかまぁ亭」という合宿型プライベが数度にわたって開催される。彼自身はやがて直接の運営には携わらなくなるのだが、「始めた」という一時だけでも尊敬すべきことだ。
 「クレギオン#1」ではマスターも務めるが、文章力は今ひとつだった。発想は面白いが、荒いのだ。それが幸いしてか、彼は無事に誰もが名を知る大手企業に就職。アウトドア・スポーツにも精を出しながら暮らしているということだ。
 

■草の根ゲーマーたち
 東海地方で東海3誌が統合して『ぽすたる☆ている』を創刊したように、関東地方では虹色教団を中心にやはり情報誌を発行していたサークルが集まって『殿』というPBM誌を発刊。プレイヤーが悪の秘密結社になる「君、戦闘員にならんかね」や機動戦士ガンダムものの企画を始めます。
 また野球やレースなどスポーツ系ゲームを主軸にした『アポストロフィ』というPBM誌も刊行され、以後はこの3誌で参加者数や刊行ペースを競い合う時代になります。まあ、生意気ですねえ。同人雑誌が、隔月ペースを守れるかとか、企画を中断させずにどこまでやれるかを“張り合っていた”んですよ。でも、活気のある、良い時代でした。
伊東氏とシモーヌ  これとは別に、着実に部数を伸ばしていく不気味な同人誌がありました。“ネットゲーマーによる、ネットゲーマーのための情報マガジン”『エヌエヌニュース』です。こちらは「88」の怪物側サークルが中核だったと聞いています。確か「十八人衆メイルゲーム」という草の根PBMを始めており、その連絡誌として発行した「月刊涼子」のそのまた別冊がベースでした。それは『蓬莱学園の冒険!』の情報誌として、オフセット印刷で最新情報満載で毎月刊行するという、そら恐ろしいものでした。またPBMのプレイの仕方、関連豆知識のエッセイなど掲載し、さらには誌上PBMまで始めるという手強い相手で、これも2年ほどこのペースで刊行されました。
 また、やや後発になりますが『ねこねこ』という同人誌についても触れておきましょう。こちらは「美少女」が売り物のヴィジュアルPBM誌でした。収録されているゲームのシステムそのものはいずれも斬新で、しっかりしたものでした。殺人事件を解決するミステリものなんか逸品です。しかし、それを美少女のイラストやカットたっぷりでやってしまったところがミソなんです。家庭教師になって教え子と仲良くなる「チューターハウス」はもちろん、太平洋戦争における日米艦隊戦も登場するのはすべて美少女。戦国武将が割拠する国盗り物語も武将はすべて美少女。悪と戦うスペースパトロールも美少女。ウケを狙って美少女NPCを増やす風潮を逆手にとった意欲作ばかりでした。
 しかし、サークルは違ってもみんな同じ「草の根ゲーマー」というひとくくりでした。みんなで長野でキャンプして廃屋に泊まり込んだり、金沢に出かけてグルメとゲームに明け暮れたりと、わいわい遊び回っていました。

■ゲームの判定について
ポスタルオフイベ  ところで、草の根PBMにおいては、マスターはどうやってPCの行動の正否を判定しているのでしょうか?
 『ぽすたる☆ている』では、生意気にも年1回「オフイベ」と称して宿泊イベントを開催しているのですが、その席上であがった判定方法についてマスターの回答を並べてみましょう。
「アバウトです」
「ファジーにやってます」
「カオス理論に従って…」
 直訳すれば、「適当にやってます」ということですね。もっともこれは『ぽすたる☆ている』に限らず、PBMならではの特性でしょう。
 判定システムを複雑にしても仕方がないのですね。たとえばPC同士が決闘をしたとして、テーブルトークならそれぞれの敏捷性や筋力や武器技能を反映し、プレイヤー同士の駆け引きとダイス運で勝負が決定されますが、PBMでは結果しかプレイヤーには伝わりません。たとえどんなに細かい能力設定をしていようが、戦い方をレポート用紙10枚に書き連ねようと、結果は「勝った」か「負けた」かの2つに1つです。マスターが何枚ものチャートを参照し何十回も1人でダイスを振ろうとも、気まぐれに勝者を選ぼうと、リアクションで描写をされれば一緒です。ならば判定処理は単純にし、リアクションの執筆に時間を割いてプレイヤーを納得させる文章を書いた方が、マスターとプレイヤーの双方にとって幸せではないでしょうか。
 では、商業PBMにおける判定はどうなっているのでしょう?
 あまり聞く機会はないのですが、「88」についてはいろいろ知るチャンスがありました。データを見ると、定型フォーマットの情報が出力されるアクションについては、それぞれの職業や技能あるいは所持するアイテムによって修正値が設定され、それをもとにパソコンが自動判定していました。でも、PCが何十人と集まる大戦闘とか、シナリオの山場となる探索などは、マスターはどのように判定していたのでしょう。
6面ダイス1個で十分だよ」
 そうですか…。
 「アバウト」「ファジー」「カオス」の3原則で間違っていないようです。

■今そこにある危機
 こうした同人活動というものは、学生が就職したとか、社会人が結婚したとか、生活のパターンが変わることによって崩壊する危機は常にあります。主催者が「飽きた」といえばそれまでです。
 しかし、こうした草の根PBMサークルを襲った最初の危機は、ホビーデータの設立でした。
 ホビーデータは発起メンバーの林菜マスター、宮川マスターこそPBMとは縁のないゲームサークル出身者でしたが、PBMを運営するために必要な設立メンバーをまず同人マスターから募ったのです。
 もともと「88」に燃えたプレイヤーは同時に不満も抱えていました。そして常日頃からネットゲーム論と称して、ゲームシステムのあるべき姿、正しいプレイスタイルについて熱い論戦をかわしてきました。それが商業ベースで実践できるというのですから、飛びつかないわけがありません。その結果、もともと運営が不安定だった草の根サークルの崩壊は加速することになります。
 「ぽすたる☆ている」においても4名ほどのマスターやライターがホビーデータに参加することになりました。こりゃちょっとしたピンチでした。もちろん、マスターがマスターを職業にしなくても、卒業や就職など状況が変わればマスターであろうとプレイヤーであろうとPBMを続けるのは難しくなりますし、その新陳代謝がうまくいかないとサークルは消えてしまいます。
 ここで『殿』は消えてしまいます。形を変えてもなんとか残そうという動きもあったようですが、結局は押し流されてしまいます。しかし「ぽすたる」は何とか乗り越えました。「プロにマスターを引き抜かれるなら、こっちも逆に引き抜いてしまえ!」のかけ声で、PBMはあくまで趣味にとどめておきたい者、あるいは商業PBMのマスター経験者などに声をかけ、参加者を引き留めておけるだけの企画を用意したのです。
別冊ギャラルホルン その後も重要な選択はプレイヤーへのアンケートで決めるという、スペースオペラ「漂流艦隊シェラザード」が10名ほどのマスターの共作でおこなわれたりしますが、第二の黄金期といえるのは、「封神機ギャラルホルン」という企画を中心に展開していた90年代中頃です。これはもともと最初の1回で中断したままになっていた企画を、半年間の休止期の間にていとくが現場監督代行としてスタッフを再編。OVA『ジャイアントロボ』を彷彿とさせる(ネタ的には「マップス」から「ペリー・ローダン」まで取り入れた)SFアクション巨編にしたのです。スタッフもメインマスターからサブマスター、イラストレイターまで毎回20人近くが参加し、ついにはページ数が200頁を超えて、「ぽすたる」を二分冊にしてしまった企画です。
 さすがにそんな企画を3年もやっていると、プレイヤーも参加者も燃え尽き状態になってしまうのですが、それはまた別の話ということにしておきましょう。

■たかまぁ亭はPBMのイベントです
たかまぁ亭パンフ 昔、たかまぁ亭というイベントがありました。これについては、きちんとした記録は今まで残っていませんでした。インターネットで検索してもみましたが、ほとんどが『ぽすたる☆ている』のデータベース、それも遺棄されてリンクから外されたはずのコンテンツだったりします。あれだけ大規模なイベントで、参加したスタッフもプレイヤーも多いでしょうに、誰もきちんとした記録をネットに残していないのです。しかも、『ぽすたる』以外だと「テーブルトークRPGのイベント」と記載されていたりします。とほほ……。
 とりあえず不完全ながらも当時の記録から可能な限り、まとめてみましょう。
 そもそも、たかまぁ亭は「PBMプレイヤーによるPBMプレイヤーのためのお泊まりイベント」としてスタートしました。やがてテーブルトークRPGの要素も強くなり、これがやがてメーカーサイドのイベントである「夏のTRPGまつり」や「JGC」へとつながっていくのですが、たかまぁ亭自体はあくまでPBMのイベントであり、PBM同人「サークル工房山」の主催でした。
 第1回は平成2年8月17〜19日の開催で、当時の資料によれば前泊申込が約90名、本泊申込が160名となっています。第2回は平成3年3月30日。この2回は本郷あたりの和風旅館を借り切って開催。1回目は名古屋から東京に向かう高速バスが、首都高速で事故渋滞に巻き込まれ、東京駅に着いたのが地下鉄の終電間近の深夜。一緒に乗り合わせていた他の参加者と、あの広大な東京駅の地下を必死で走って、エスカレーターを駆け下りて、かろうじて間に合わせました(今なら迷わずタクシーを拾うぞ)。そうして会場に着いてみれば、閑静なはずの旅館は不夜城と化し、離れでは部屋全面にマップを広げて「銀英伝」の艦隊戦を繰り広げているし、そこかしこでプレイヤーが固まってネットゲーム論議を繰り広げたり、酒盛りを繰り広げられたりしていました。なんか、ネットゲーマーにとっては夢のような世界!
 それでなんとか受付けを済ませ、割り当てられた部屋に入ると異様な臭い!
 別に普通にゲーム論議しているだけの部屋なのですが、締め切った部屋に男が10人近く押し込められ、スルメをつまみに酒盛りしている臭いといったら致命的です。烏賊の臭い、日本酒の安酒の臭い、ちょっと煙草の香りが混じった体臭。これらが渾然一体となり凝縮されているのです。息が詰まりました。ガス室? なんでこいつら平気で生きているの?
 夢の世界から悪夢の世界へ直行です。
 第3回は「たかまあ亭'91」として91年8月16日〜19日の3泊4日で開催。メイン会場も日本青年館他に移動してます。ポスタル関係では「しのら先生ファンクラブ」「ポスタル★テイル 読者の集い」なんかありましたし、今回も「ゲーム討論会」はありましたが、なにせど真ん中の日曜日に恩師の葬儀が入り、夜には同窓会ということでロクに参加できず。喪服抱えて新幹線で日本往復。林菜『総統閣下』をお招きしてのライアー宴会もあって、もりあがったそうで、中には0泊4日という人もいた模様。

■たかまぁ亭は草の根主催です
死闘の本土 たかまぁ亭は同人サークルの主催ですから不手際もありましたが、自分たちの力で大きなイベントを成功させ、PBMを楽しもうという荒々しい活力に満ちていました。それに特定のオフィシャル主催でもありませんから、企画もいろいろ面白いものが用意されました。集まって、デザイナーの話を聞いて、ゲームを幾つかプレイして、アイテムを購入して…という当たり障りのない型にははまらなかったのです。上野公園を舞台にしたライブRPGを開催したり、PBMをテーマにディベートをやったりと、思いつく限りのことをやっていました。
 ここでH氏が第1回のパンフレットの発掘に成功しました。ちょっとスゴイですね。「コミケ買い占めツアー」「SF大会殴り込みツアー」「パンダコパンダ西郷どん(東京観光)」「深きものども(プール)」「(PBMオフィシャルへの)公開質問会」「たかまぁ亭酒場」「裸人体操」「ライブ・レブカウンター(スロットレーシング)」「蓬莱学園人名講座」「銀英伝の部屋」「V-versionの部屋」「論破ァルーム(ディベート大会)」「ミリタリーブラザーズ」「名物に美味いものなし(全国からのお土産の賞味会)」…。バリエーションも豊富ですね。さらに、一言で内容を紹介しにくいものも幾つかあります。
 「追悼の間」…海洋冒険部・伊豆原純友大佐と港湾委員長・佃島春美の死を追悼。ちょうど「蓬莱」のまっただ中でした。海洋系PCの集いです。
 「イギリスPBMの部屋」…メールゲーム本場のPBMと日本のPBMを比較します。目は世界へも向いており、以前からBBSでは「日本以外にもPBMってのはあるんだ」「もっと他国の作品を参考にしよう」という声があがっていましたが、そんなに詳しい人が多いわけではありません。そこでこういう企画が組まれました。
門倉,山本弘,野尻,深海,司会が2人雑賀,王舞,柳川,犀川,大宮 「PBM討論会」…目玉企画でした。それまでプレイヤーレベルでやっていた「PBMとはどうあるべきか」なんてテーマを、アクティブなプレイヤーから数人、当時のPBMオフィシャルのすべてからマスターを呼んでやろうという無謀企画。で、司会が僕。これは好評でもう1回やっています。そのときの司会はたかまあと僕のはず。でも司会としては脂汗流しながらの企画でしたね。なんか「皆さん、頼むから勝手に話していてください」という感じ。
 「死闘の本土〜Go!Go!修学旅行」…最終日におこなわれた、上野公園を舞台にした全員参加のライブRPG。蓬莱学園ネタであったと思います。
 どんなイベントだったのか、たかまぁ亭2.5でもライブRPGとして『八雲睦美を捜せ!!』という企画がおこなわれていますが、これは純粋なライブゲームというより、『スコットランドヤード』のようなボードゲームを大人数でおこなうタイプだったようです。
 本当にいろいろな企画を運営してますね。2回目以後についても、あれこれ企画が満載でした。いちばん最後のたかまぁ亭では、ロックコンサートまでやっています。確か曲目は『ここはたかまぁ亭』他数曲。「ここはエリシア王国」とかいうオリジナル曲が元歌だったらしいけど、小さなホールに参加者が総立ちになって盛り上がっていました。
 でもこの最後のたかまぁ亭だけは、あまり良い印象は残っていません。土壇場参加だったんです。前日にたかまぁとエフモトくんから電話があって「PBMの企画やってください。いますぐ来てください」とか言われ、翌日の仕事を終えたその足で新幹線で東京へ。ところが受付に話が通ってなかったんですね。話がどうなっているのかスタッフが右往左往し、その間、呆然と受付前に立ちつくすしかありません。それでも受付嬢がマニュアル通りの対応でもしてくれれば救いがありますが、まなじりつり上げ「勝手なマネしくさって!」と招聘したスタッフを目の前でののしっていたりすると、招聘された僕の立場はどうなりますか?
 他にも荷物部屋の消失とか、同人主催ゆえの不手際、同人ゆえのお客不在の応対があったわけです。これが次回への反省となって活かされれば良かったのですが、同人ゆえスタッフは熟練した頃になると就職なんかで抜けちゃうんですね。そして、たかまぁ亭もこれが最後。もったいない話でした。

■再びの召還
 たかまぁ亭が無くなって、しばらくの歳月が過ぎました。PBMオフィシャルは増えたものの、もはや「88」や「蓬莱」のように熱狂することはなくなっていましたし、それはそれで良いと思っていました。実際、自分は既に一生分の楽しみを享受したような気持ちになっていたのです。
 そんなとき、今度は西で宿泊型同人イベントが開催されるという話が伝わってきました。『大阪ふぇすた94』です。
大阪フェスタ94 「今さらPBMでもないよなあ」と参加をどうしようか迷っていると、大阪ふぇすたのスタッフから電話がかかってきました。参加費はいらないからゲストとして企画を幾つか受け持ってくれというのです。エライ身分になったものです。
 瞬間、たかまぁ亭ファイナルのイヤな記憶が脳裏をよぎりましたが、そこまでして来てくれと頼まれたら嬉しくないわけがありません。「馬車馬のように働かせていただきます」と返答し、さっそく企画準備にとりかかります。
 1つは大宮さんと組んで「やってみようPBM」。システムデザイン上の注意事項や運営のノウハウなどを実際のエピソードを交えて語ろうという、同人PBMの作り方。そしてもう1つは「伝説の88」。すでに「昔すごいゲームがあったらしい」くらいになりかけている「88」の内容紹介と評価をしようというもので、こちらは主催者側のリクエスト。ストーリーや人物相関図をまとめたレジュメを作成したり、説明用ビデオを編集したりとけっこう頑張ったつもり。

大阪パンフ さて当日、94年8月27日。イベントガイド片手に朝一の新幹線に乗り大阪へ(このガイドブックもとりあたまの人(八房龍之助)やぴねぽん前中さんなど豪華イラスト陣のすぐれものでした)。そこから在来線に乗り換え神戸へ。天気は上々。中華街を横目で見ながら、合宿会場となる旅館清月荘を目指します。
 そこで焼けぼっくいに火がつく出会いがあります。
 割り当てられた部屋には既に先客がありました。見慣れた顔のバード中津、黒鬼桂、そしてもう1人です。
「これ、88の同窓会?」
 違ったようです。中津くんは新作PBMの『アルダイン』の宣伝をするために来ていたのです。そして黒鬼は、ゲームについて質疑応答するはずの狩野という人が来られなくなったので、急遽代役として送り込まれたというのです。なにが代役?と思うのですが、思っていたのは向こうも同じらしく、すでに会場内で開始していたライブ・ミステリィRPGを無視して、M2制作の浅野さんを含め4人で右往左往しながらB紙にイラストのコピーを貼り付けたり、企画で話す内容についてのブレンストーミングをおこなったりすることになりました。
 そのときに初めて目にしたのが、あの四季童子さんのイラストです。ゲームの舞台となる世界各地の地図に、このイラストをぺたぺた貼っていくとなんかすごく格好良くなりました。
「なんか蓬莱の中村さん以来、久々に来た!って感じですね」
「うまいでしょ」
 そんなことをしていると「こりゃ是非とも参加しなきゃ」という気になります。そこで準備をしながら、当時NHKで放送されていた海外ドラマを元ネタに「ダウジング・ロッドで遺跡を探索する“ダウジング神父”」というキャラクターを試しに作成し、「このキャラでエントリーしていいですか!?」と尋ね、「……マスターが認めればかまいませんが…」との答えをもらいました。
その場でPBM 合宿企画は、そのアルダイン部屋で浅野さんや中津くんらの説明に聞き惚れ、88企画をそれなりにこなし、そして「やってみようPBM」に挑むのですが……大宮さんがいません。そうです。狩野さんと大宮さんは一心同体なので、狩野さんがいないと大宮さんもいないのです。そこで急遽、過去のたかまぁ亭でもやった「1時間ネットゲーム」を開催することにしました。これはその場にいる人間からテーマを募り、シナリオを考え、PCをその場で用意し、アクションも作り、結果判定までして、PBMまるまる1つ分の展開と結末までを決めてしまおうというもの。確か、「氷河期に突入し雪と氷に閉ざされた都市でのサバイバルPBM」という感動大作が完成したはずです。
 他には遊演体、ホビーデータ、不動館(当時)、そしてM2と商業オフィシャルのマスターを集め、ディベート大会やマスター講座なんかもやっていました。あとは偶然であった蓬莱プレイヤーと、いまだにくすぶっていた学園独立話などをぼそぼそやって夜を明かしたのでした。【当夜の企画を撮影したもの>mpg形式

■談合かな
 大阪ふぇすた2日目。
 朝9時に宿を引き払い、電車で数駅先の市民ホールに移動してのオープンイベントとなりました。マスターの挨拶やライブゲームなど、などさまざまの企画が用意され、合宿に参加していない人でも当日料金で参加できるというものです。
M2ゲスト 僕と黒鬼くんは、もう仕事はないのですが、おとなしく楽屋に座っています。オフィシャルのゲストと控え室が同じなので、会場でコスプレコンテストを見物するより、こちらの方が面白そうです。いつしか聞き耳頭巾モードです。パンフと当時のビデオをみると、当日出席していたはずのゲストは、ホビー・データからは林菜光士、新井てる、ゆーげんみゆき、鮎方劾。M2からは浅野貞治、バード中津(狩野雄二は欠席)。遊演体からは、坂東いるか、梨里守。不動館からは、冴島鋭士、神居古潭、秋山真之。以上敬称略。不動館はもう1人いましたが、当日出席の上にビデオ係の雑談と操作ミスで確認できませんでしたが、それでもそうそうたるメンツです。
 不動館のマスターは、PBMを始めるまでは遊演体やホビーデータのことは知らなかったようです。開始してからプレイヤーに存在を教えられたというようなことを話していました。ホビデのマスターは、PBM業界も同業者組合のようなものを作って横の連携にもっと努めるべきだと力説していました。坂東マスターは新作『鋼鉄の虹』のパンフを他社のマスターに配ってました。そして僕も1部もらい、銀髪の女性パイロットのPCを手に入れました。
 午後からは同人誌即売がメインになります。オフィシャルのグッズショップも幾つかありました。僕は持参した「ネットゲーム'88総集編 神話への回帰」を売りまくり、その売り上げをもってM2のブースに走り、『アルダイン』の参加申し込みを済ませてしまいました。これが今回のイベントいちばんの成果だったかもしれません。まあ、ダウジング神父の方は実際にエントリーしたら…やっぱり却下されちゃいまして、作り直したマイヤート神父なる人物が、結果的に出世してしまった……というのはついでの話。

 こうした総合イベントを体験してしまうと、個々のPBMオフィシャル主催のイベントはどこか散漫で物足りなく思えてしまうようになりました。そして同人イベントの方も、個々のPBMに参加したプレイヤー同士で遊びに行ったり合宿プライベをしたりということはあっても、PBMの枠を超えて集まり、PBM全体についてもっと考えたり盛り上げてみようということもなくなりました。
 ちょっと残念なことです。
 


 石井くんのこと
 意外だという人は多いのだけれど、僕と石井くんが直接会って話したのは一晩だけだ。あとは手紙かメールのやりとりしかない。
 PBMプレイヤーの石井くんのことは前から噂では聞いていたし、自分も彼のホームページを読んでいた。博識で頭が良く、やや歪んだユーモアの持ち主。自分なりにPBMの“あるべき姿”を考え、常に実践していた人。そして当然の事ながら、判定をきちんとできないマスター、締め切りを守れないマスターには手厳しかった。とはいえ、感情にまかせての悪口や非難中傷は彼には似合わない。彼自身の言葉によれば「事実をいつまでも指摘し続けるだけ」だ。
 彼とは2ゲームほど一緒になり、『蒼球のフレニール』では共同アクションで犬のパイロットとコ・パイになって大空を駆けめぐった。そのときに「こいつには絶対に勝てない」と思った。あらゆる意味で。そしてその「絶対に勝てない」は確定してしまった。平成14年の1月にあっさり逝ってしまったからだ。
 一期一会という言葉を痛感している。名古屋で会い、沖縄料理屋のテーブルにつき、琉球の装束に身を包んだオバチャンに今日のオススメを聞いたら「関サバ」。そのときの僕とオバチャンと彼の苦笑い。泡盛古酒でぐでんぐでんに酔っぱらう。それが彼についての最初で最後の記憶なのだ。
 


■ネット論って?
 PBMはどういう形(システム/シナリオ)であるべきかを語り合うことを“ネット論”と称していました。
 最初にも書いたけれど、「88」や「蓬莱」だって参加者全員に支持されたわけじゃないし、支持した人間にしても、それが「究極の到達点」とはみなしていません。だから、喫茶店で、イベントで、パソコンBBSの掲示板上で、いつでもあーだこーだと論争を繰り返していました。なんか学生運動とか文学や哲学論争みたいなもので、今となっては恥ずかしいし、若者の特権みたいな話ですが、人任せで与えられたものだけに満足しなかった……というのが言い訳。
 その論争の一角に加わり、その後10数年のPBMの流れを視ていると、「まあ、へたなことは言うもんじゃないね」というのが感想だし、「やっぱ物事はやってみないと判らないな」というのが実感です。
「そういうことはコンピュータで自動判定して、用意した文章の組み合わせでリアクションを作成すればいい」
「そんなこと、今のコンピュータの能力でできるわけがないじゃないか!」
 今なら、できます。
「舞台となる世界だけ共通にして、シナリオは個々のマスターが担当するシナリオの中だけで完結するようにする。それなら、1つのゲームに参加しているという共通意識を残し、またマスターが個々のPCを把握できるじゃないか」
「そんなの参加者30人の草の根とどう違うんだ? そんなもの面白いはずがない!」
 今じゃ、それがPBMの主流です。
「こんなとこで話していたって、オフィシャルに反映されるわけがない」
 そう言っている人たちの間からマスターが多く誕生しました。
 当時思いつくまま提示され、「そんなこと、できるわけがない」「無理だ」「無茶だ」「不可能だ」ともっともらしく却下されていたことが、実現するのを見ちゃいました。水より重い鉄で作った乗り物が水に浮くわけがない、まして空を飛ぶはずがない……って言われていた鉄の船や飛行機の誕生を目撃した気分です。だから、今でもときどきはあるネット論のような場で出てくる「そんなことは技術的にできない」「採算がとれない」という意見には、いつでも否定的になるようになりました。必要がなければ別ですが、それが必要なことなら、いずれ誰かが方法は見つけてくれるはず……というのが、経験からの持論です。現時点での、論者の知識の範囲だけで、可能性を論じるというのでは、結果は最初から見えていて面白くありません。NHKの『プロジェクトX』だって、限られた範囲の常識で満足していたら、達成できなかった話ばかりですよね。
 こういうネット論で面白いのは、いろいろな立場の人がいろいろな考えをぶつけ合いながら、新しいものを生み出そうとするところです。高校生がいれば社会人もいます。技術者もいれば事務員もいます。独身もいれば既婚者もいます。マスター経験者もいれば未経験者もいます。人事管理を学んできた人もいれば日本文学を学んできた人もいます。だから同じテーマでも、見る角度がそれぞれに違うんです。だから面白い。PBMがコミュニケーションの遊びというなら、まさしくその神髄でしょう☆
 

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