「発令所、ソーナ。マスター3の方位変化率が急速に落ちています。回転数変わらず。右に回頭しています」
秋風水測員長の報告がスピーカーから流れるより早く、攻撃原潜〈榛名〉の戦闘指揮システムが処理し、戦闘管制ディスプレイに出力した最新のセンサ・データに基づき、作図班は仕事に取りかかっていた。
「ソーナ、発令所。〈摩耶〉の声は拾えているか?」
目の前のディスプレイにリピートされる対勢作図盤を睨みながら、葛巳正隆大佐はマイクに問うた。
「発令所、ソーナ。いいえ、艦長。シエラ9のシグネチャは3時間前に消えたままです。レイヤーの上に出ている可能性もありますが、距離と現在の水測条件からすれば、どのみち探知は困難と考えます・・・艦長。今、マスター3の方位変化率が301度からコンスタントに戻りました」
艦長席の傍らに立つ副長の結城少佐が、興奮を抑え切れない声で、「艦長、こちらに真っ直ぐ向かってきます。うまくゆきました」
「これまでのところはな、ナンバーワン。フランソワが『ゴースト』を上手に追い込んでくれている。しかし、我々の方ではまだ何もしていない。本当の仕事はこれからだ」
至急 至急 至急 1:モスクワにおいて交渉妥結 |
結城少佐は顔を上げ、艦長の目をまっすぐに見た。
「艦長のお考えが正しかったことが、判りました。しかし、どうして対潜爆弾を? 通信ブイを使わなかったのは何故でしょうか」
「あれが至急の合図だということを、悟らせてはならなかった。そもそも〈摩耶〉に積極的な交戦の意図がないのは、『ゴースト』にも明らかだからな。合図の受け手たる我々の存在を・・・少なくとも策の存在に気づかせることになりかねなかった」
「なるほど。生かして去らしめるのであれば、我々のイニシャテイヴによる開戦の決定も、そして開戦中止の決定も、決して知られてはならないということですね」
「まあ、そういうことだ」葛巳は眼鏡の位置をついと上げると、前を向いて痩身を艦長席に納め直した。
「ナンバーワン。発射管を排水して、3配備に戻せ。それから、作戦中止命令諒解したと作戦局に返電。起案は任せる・・・マストは露頂のまま。30分おきに受信。別命あるまでここで待機。〈摩耶〉のことは気にしないでいい。任務部隊は解かれていないが、連合作戦が中止された以上、我々は我々、彼らは彼らだ」
「はい、艦長」
「戦闘用意用具収め」「別れ。1直員残れ」の号令と共に、生死の境界を覗いていた緊張がたちまち溶け、私語こそ聞こえては来ないものの、発令所には目配せや微笑みが飛び交った。
それにしても説明の肝心どころを聞かないで、副長は納得してしまった。直接仕えたことのない彼は知らないのだ。紫苑提督の内面が、その優しげで穏やかな外見とはまったく異なっていることを。ウズラ卵を割るのに両手持ちのハンマーを、仔ウサギを狩るのに巡航ミサイルを、そして部下に急を告げるのに対潜爆弾を使うのが、彼女の昔からのやり方だ。
そんな提督に、今では知らず知らずのうちに親近感を感じている葛巳を、もう一人の葛巳がいつものように冷静に観察していた。
「艦長、作戦局より緊急信を受領しました。コンソールに回しますか?」
「ん? ああ、そうしてくれたまえ」
人生は影法師。されど日々は続いてゆく。
そして航海も。