蓬莱学園海洋冒険リアクション

「ゴースト・ラン」


 「発令所、ソーナ。マスター3の方位変化率が急速に落ちています。回転数変わらず。右に回頭しています」
 秋風水測員長の報告がスピーカーから流れるより早く、攻撃原潜〈榛名〉の戦闘指揮システムが処理し、戦闘管制ディスプレイに出力した最新のセンサ・データに基づき、作図班は仕事に取りかかっていた。
 「ソーナ、発令所。〈摩耶〉の声は拾えているか?」
 目の前のディスプレイにリピートされる対勢作図盤を睨みながら、葛巳正隆大佐はマイクに問うた。
 「発令所、ソーナ。いいえ、艦長。シエラ9のシグネチャは3時間前に消えたままです。レイヤーの上に出ている可能性もありますが、距離と現在の水測条件からすれば、どのみち探知は困難と考えます・・・艦長。今、マスター3の方位変化率が301度からコンスタントに戻りました」
 艦長席の傍らに立つ副長の結城少佐が、興奮を抑え切れない声で、「艦長、こちらに真っ直ぐ向かってきます。うまくゆきました」
 「これまでのところはな、ナンバーワン。フランソワが『ゴースト』を上手に追い込んでくれている。しかし、我々の方ではまだ何もしていない。本当の仕事はこれからだ」



 「ゴースト・ラン」。
 1年余り前から沿海に出没する複数の潜水艦のうち、とりわけ目覚しい1隻のキロ636型の活動は、いつしかそのような名で呼ばれていた。海底センサや哨戒機部隊が張り巡らせる厳重な対潜警戒ネットワークを、大胆で意表を突く行動でかいくぐり、後にはシグネチュアのかけらしか残さない「ゴースト」が、こちらの防備態勢に関する膨大な情報を収集していることに疑いの余地はなかった。つい3週間前の「ラン」では、東側海面に捜索を集中している隙に北西海面の海底センサのトランスデューサ1基を丸ごと持ち去られる始末で、しかもこの惨敗を海軍は世間に隠すことに失敗し、議会で追求された挙げ句、作戦局長と航空集団司令官の首が吹っ飛んだ。
 新たに作戦局長を命ぜられた紫苑代将は、潜水艦には潜水艦という古来の原則に立ち戻り、水中兵力の再配置を基軸とする対潜警戒態勢の建て直しに着手した。
 そして今日この日。再び出現した「ゴースト」を狩るべく、葛巳の〈榛名〉はホルンブロワ中佐の〈摩耶〉と任務部隊Cを編成し、満を持して出動していた。
 自らも老練な潜水艦乗りである紫苑局長の示した作戦は、単純かつ明快であった。海洋監視衛星からの断片的な情報に基づき、〈榛名〉と〈摩耶〉は狩り場を設定する。この狩り場における両艦の行動は完全に2人の艦長の裁量下に置かれ、水上艦や航空機はここに立ち入ることを許されない。
 「ゴースト」の近接に対しては、まず〈摩耶〉が迎撃行動を起こす。〈摩耶〉は「ゴースト」の正面ないし後方から側面に回り込む形でこれを追い払うのみならず、〈榛名〉が待ち構える水面に追い込むべく努める。攻撃原潜と通常動力潜の役割を逆にし、また水測条件が良好なことから本来ならば潜水艦が隠れるのには向かない深海を待ち伏せに使う点が、この策の特徴であった。
 当初の案では、〈摩耶〉に追われて正面に現れた「ゴースト」に対し、〈榛名〉はその大出力の艦首アクティヴ・ソーナで強烈な探信を食らわせ、クルー1人1人の骨にまで染みる教訓を与えることになっていた。
 しかしながら、今。深度160メートルの暗黒の水中にじっと横たわる9,000トンのチタン合金の塊の、そして彼女を指揮する葛巳の意図は、相手をただ脅すことではなく、破壊することであった。この数週間の政治情勢の急速な悪化が、言葉の応酬に代わり武器のがちゃがちゃ鳴る音を前面に押し出していた。既に議会は全土に非常事態を宣言し、産業交通は準戦時態勢に移行していた。
 〈榛名〉の姉妹艦、「殺し屋」プリーン大佐の〈比叡〉は東シナ海深くへと進入し、命令一下、巡航ミサイルと魚雷、機雷で大暴れする準備を整えている。立場を変えてそのことを考えてみれば、「ゴースト」が警告を冒してこちらの海に入って来るのも、いつものような単なる偵察のためとは考え難い。
 つまり、ゲームの賭け金が上がったのだ。汗から血へと。

 〈榛名〉は速力2ノットで、既に10時間以上にわたって戦闘無音潜航を持続していた。北西から近づく「ゴースト」に対し、曳航アレイを効かせるために左舷を向けている。時刻は1214。朝から戦闘部署についたままのクルーに、葛巳は戦闘配食を早目に摂らせていた。充分な射撃解析値はまだ得られないが、距離は恐らく20,000ないし30,000。もはやさほど待つ必要はない。
 「発令所、ソーナ」
 再び水測員長の声が流れた。
 「マスター3の艦名識別できました。艦番号367〈超勇〉です」
 「ソーナ、発令所。確かか、チーフ?」
 「発令所、ソーナ。間違いありません。例のロシア製テープで、さんざん聞いた音ですから。ブレードの歪みか傷が、特定の回転数でくぐもりを出すのです」
 結城副長がすかさず自分のコンソールに戻ってデータを呼出し、読み上げた。
 「4隻発注されたキロ877、及び636型の最終艦です。艦長は粛英秀中佐。43歳。湖南省出身。明型〈臨夏〉艦長を務めた後、サンクト・ペテルスブルグ潜水艦戦高等学校を優等な成績で修了し、さらにムルマンスク、ガジェーヴォ等で2年間にわたり勤務。一昨年、〈超勇〉の艦長に着任。大胆で攻撃を重視するが、教範や戦則からの逸脱を必ずしも好むものではない。規律に厳しく、政治士官との協調を重視。妻と息子1人、娘1人・・・東の強者の典型というところでしょうか」
 「むう」葛巳は若い頃からの癖で目をぱちぱちとしばたたかせ、振り向きもしないで軽くうなずき、「『ゴースト』の指揮をずっとその男が執ってきていたとすれば、教範なんぞに頼っていながら、あの操艦ぶりだ。データは知識を得るというより、むしろ先入観を捨て去るのに使った方がいいな」
 「はい・・・しかし、ロシア人は彼らには武器を売って人間を訓練してやり、我々には情報を売る。我々は、まだロシアの公式の同盟者だったと思いますが?」
 副長の憤懣に、葛巳は出港以来初めて笑ってみせた。
 「丸呑みは止めておきたまえ、ナンバーワン。何事においても。潜水艦乗りに王道は要らない。与えられた物だけで勝つのが、我々の本領だ。喚くのは、陸に上ってからにしろ」
 そう言うと、葛巳はひとつ咳払いをし、声を高めて発令所の全員に告げた。
 「作図及び攻撃班。攻撃の要領について改めて確認しておく。近接する目標を、こちらはひたすら静かに、機雷のように待ち構える。10,000から15,000の間で撃ちたい。目標の向こう側には〈摩耶〉がいるが、既に本艦の射線上からは外れているはずだから、特に留意しない。船体が目標に対する音響隔壁となるよう1番と3番管を使い、2番と4番管を予備とする。発射後は増速。距離を開き、ターゲット・ストレングスを減らすため60度に変針し、深く潜って反撃に備える。敵は、優れた艦長に指揮される優れた艦ではあるが、センサと武器の能力では我々が遥かに優っている。敵艦の装備で唯一の脅威と言えるのはシュクヴァル水中ミサイルであるが、懐に踏み込まれない限り、これを撃たれる懸念はない。皆の中には今回が初陣の者も少なくないが、訓練と同じように戦えば必ず勝てる。落ち着いてゆこう。以上だ」
 勝って、50何人かの生身の人間の乗った艦を破壊し、そしてさらに何百人、何千人かの死をもたらすはずの大いなる戦争の血祭りに上げよう・・・その言葉を、葛巳は喉の奥にしまい込んだ。
 配置に付いている部下たちの張り詰めた顔をそれとなく見渡すと、攻撃班のコンソールで水雷長の光明寺静大尉が、そっと右手を豊かな胸の上に走らせるのが目に留まった。彼女は、この航海から帰り次第、結婚する予定だった。「ゴースト」が現れる前から決まっていたことだった。胸に下げているのは、婚約者の写真を納めたロケットに違いない。
 葛巳もまた、64名の男女の生命を預かっている。いかなる任務であろうと、それを可及的速やかに遂行することこそが、彼らを生きて連れて帰ることにつながるのだ。少なくとも、指揮官はそう信じていなければならない。
 殺し合いに、理屈も説明もない。行動と結果があるだけだ。そして死者には、もはや悲嘆さえ必要ない。

 「曳航アレイのTARPが効き始めました。ソリューション、出ます・・・方位284度。距離14,600。的針115度。的速6ノット。撃てます、艦長」光明寺水雷長が報告した。
 全長800mのハイドロフォンの列である曳航アレイそれ自体が、三角法によって自動で測距を行えるまでに「ゴースト」が近づいたのだ。葛巳は間髪入れず、しかし声には微塵の気分の変化をうかがわせないよう努めながら、命令を発した。
 「1番及び3番管、発射用意」
 「1番及び3番管、Mk90をスピンナップ。ビルトイン・テスト始め」
 「1番及び3番管に注水」
 魚雷発射管から空気が抜ける音が、艦首側から響いた。同時に艦の戦闘指揮システムが、装填されている2本のMk90魚雷の冷たい弾体に信号を送り、精密で凶猛な彼らの電子の生命を蘇らせる。
 「1番及び3番管、ビルトイン・テスト終わり。異状なし」
 「1番及び3番管、等圧よし」
 「1番及び3番管、調定。アクティヴ。シーリングなし。駛走深度100。エネイブル距離8,000。時隔10秒」
 指示に従い、武器管制員の指が、素早くコンソールのキーボードを滑ってゆく。
 「1番及び3番管、調定よし」
 「前扉開け」
 旋回する金属が船体に触れ合うかすかな音と共に、〈榛名〉の右舷側の650ミリ魚雷発射管4門のうち、上の2門が口を開いた。「ゴースト」がこちらを探知した気配はない。粛艦長は左舷後方の〈摩耶〉から十分な距離を取ることだけに専念しつつ、何の疑いも持たずにこちらに進んで来る。
 「1番及び3番管、発射用意よし」
 葛巳はうなずき、「発射始め」
 「ソリューションよし」
 「1番及び3番管、発射始めよし」
 「次に撃つ。方位合わせ・・・」葛巳が右手を上げ、決定的な「発射」の一言と共にそれを振り下ろそうとした刹那、スピーカーから秋風水測員長の声が響いた。
 「発令所、ソーナ。157度に感あり。海面上。航空機らしい。急速に近づく。これをシエラ16とします」
 「発射止め! そのまま待て」葛巳は上げた右手を水平に突き出し、攻撃を制止した。

 南から航空機が飛来するとすれば、友軍のものでしかあり得ない。そしてそれが、まさに戦闘の最高潮において潜水艦の神聖な狩り場を冒すとすれば、理由はきわめて限られてくる。
 「ソーナ、発令所。機種は判るか?」
 「発令所、ソーナ。恐らくターボジェット双発、ヴァイキングです。低空を飛行。方位140度から急速に登る・・・本艦の右を抜けようとしています」
 「爆雷防御!」
 反射的に発せられた葛巳の命令は、間に合わなかった。その航空集団のヴァイキング哨戒機が〈榛名〉のほぼ真東に達した直後、水測員長が告げた。
 「発令所、ソーナ。102度と103度に落着音。シエラ16が何かを投下・・・」
 哨戒機が投下した2発の丸い対潜爆弾は、海面をくぐってすぐ、深度わずか10メートルで炸裂した。凄まじい水中爆発の衝撃は、大量の水を真っ白な柱として午後の晴天に噴き上げ、同時に約10、000メートル離れた〈榛名〉の船体にまで「サンダー・ビロウ」、海面下の雷鳴となって轟いた。
 そしてもちろん、「ゴースト」の艦内でも雷鳴ははっきりと捉えられていた。
 爆発の惹起したノイズがソーナ・ディスプレイから消える頃には、航空機は〈榛名〉の探知域を脱し北へ去っていた。
 「発令所、ソーナ。マスター3が右に変針し、回転数を上げています・・・的速11ノットに増速」
 〈超勇〉は艦首を165度に転じた。恐らく粛艦長は、〈摩耶〉が航空機を呼んだものと誤解しているだろう。針路を南に転じ、いったん水深の浅い南に廻ってから逃げ出そうとしている。このままでは、〈榛名〉のちょうど後方を抜けてゆくことになる。
 「艦長、攻撃を! この位置ならば、まだ撃てます。どこかの馬鹿の手違いでこうなったにせよ、我々の攻撃はまだ壊されていません。『ゴースト』はまだ本艦に気づいてはいません」
 結城副長の進言を、葛巳は首を振って退けた。
 「いや、攻撃はしない。『ゴースト』はこのまま行かせる。あれは手違いではない。恐らく、作戦局長の命令によるものだ。フランソワも、わたしと同じように理解していることだろう」

 やがてキロ636型潜水艦が最近接距離8,200メートルで〈榛名〉の後方を航過し、その声が南に消えてからさらに30分待ってから、葛巳は潜望鏡深度を命じ、通信マストを上げて衛星にミリ波アクセス・コードを送った。
 果たして、作戦局から〈榛名〉宛ての至急信が艦長席のディスプレイに走ると、葛巳はそれを一読し、次いで副長を招いて読ませた。

 至急 至急 至急
 極秘
 発:海軍作戦局
 宛:軍艦榛名(SSN-9)
 「ムーンスパイク」作戦中止命令

 1:モスクワにおいて交渉妥結
 2:「ムーンスパイク」作戦を中止せよ
 3:自衛の場合に限り、武器使用を許可する
 4:紫苑美亜代将起案


 結城少佐は顔を上げ、艦長の目をまっすぐに見た。
 「艦長のお考えが正しかったことが、判りました。しかし、どうして対潜爆弾を? 通信ブイを使わなかったのは何故でしょうか」
 「あれが至急の合図だということを、悟らせてはならなかった。そもそも〈摩耶〉に積極的な交戦の意図がないのは、『ゴースト』にも明らかだからな。合図の受け手たる我々の存在を・・・少なくとも策の存在に気づかせることになりかねなかった」
 「なるほど。生かして去らしめるのであれば、我々のイニシャテイヴによる開戦の決定も、そして開戦中止の決定も、決して知られてはならないということですね」
 「まあ、そういうことだ」葛巳は眼鏡の位置をついと上げると、前を向いて痩身を艦長席に納め直した。
 「ナンバーワン。発射管を排水して、3配備に戻せ。それから、作戦中止命令諒解したと作戦局に返電。起案は任せる・・・マストは露頂のまま。30分おきに受信。別命あるまでここで待機。〈摩耶〉のことは気にしないでいい。任務部隊は解かれていないが、連合作戦が中止された以上、我々は我々、彼らは彼らだ」
 「はい、艦長」


 「戦闘用意用具収め」「別れ。1直員残れ」の号令と共に、生死の境界を覗いていた緊張がたちまち溶け、私語こそ聞こえては来ないものの、発令所には目配せや微笑みが飛び交った。
 それにしても説明の肝心どころを聞かないで、副長は納得してしまった。直接仕えたことのない彼は知らないのだ。紫苑提督の内面が、その優しげで穏やかな外見とはまったく異なっていることを。ウズラ卵を割るのに両手持ちのハンマーを、仔ウサギを狩るのに巡航ミサイルを、そして部下に急を告げるのに対潜爆弾を使うのが、彼女の昔からのやり方だ。
 そんな提督に、今では知らず知らずのうちに親近感を感じている葛巳を、もう一人の葛巳がいつものように冷静に観察していた。


 ともあれ、今回は部下も敵も殺さずに済んだわけだ。作戦中止命令にもかかわらず攻撃を実施した責任を、追求されることもない。しかし、お前が自己満足の喜びを覚えているのは、果たして、そのことについてだけなのか?
 戦闘とは、すなわち武と知と情を流すことであり、発揮することである。未だ自分の武と知と情を知らず、戦闘の高揚の意味を知らずして、ひいてはいつか戦闘を誤ることを怖れる自分に会わないで済んだからではないのか?
 自らを死地に求める・・・戦うことと生きることとは、それほどまでに不可分であるべきなのか否か。〈超勇〉の艦長はどうなのだろうか。自分がもし彼の立場にあれば?
 そこまで考えたところで、葛巳は気づき、小さく笑った。
 いや。本当は怖れも、安堵も何もありはしないのだ。
 自分は変わってはいない。最初の戦闘の時から、いや、たぶんそれよりもずっと前から、自分はこの悩める自分、求め続ける自分だ。ずっとそれでやってきた。それこそが自分の武であり、知の流れであり、情の発揮なのだ。
 この艦と共に。
 年を取るか、それとも、死が全てを覆う日まで。


 「艦長、作戦局より緊急信を受領しました。コンソールに回しますか?」
 「ん? ああ、そうしてくれたまえ」
 人生は影法師。されど日々は続いてゆく。
 そして航海も。

[了]


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