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| 『兄を持ち運べるサイズに』['25] | |||||
| 監督 中野量太 | |||||
| 村井理子(柴咲コウ)の息子二人が、駅の改札口で松葉杖の父に母が凭れ掛かって倒れそうになるのをラグビーのモールよろしく支えている姿に、通りすがりの酔客と思しき男が「ノーサイド」と声をかける場面を観て、だからオープニングの「支えであり、呪縛ではない」だったのかと得心した。すると、程なく理子の亡兄(オダギリジョー)の息子良一(味元耀大)が理子から貰った本を読んでいる場面が現われ、ここで繰り返すのか?止めてほしいなとの懸念通り「支えであり、呪縛ではない」の印字が映し出された。 家族に望ましきものは支えであって呪縛ではないのは、当然のことながら、ここでそれを映し出すのでは、それまで描出してきたものが台無しになるというか、興醒め至極なのだが、今どきの映画はこうしなければ伝わらないと作り手が観客を見くびっているわけだ。見くびられて好い気持になるわけがない。 ともあれ、こういう役どころがよく似合うオダギリジョーに苦笑しながら観た。はなから嘘の、カネの無心のための口実ではなかったことに救われる理子に同慶を覚えつつも、理子も元妻の加奈子(満島ひかり)も認めていた手先の器用さと沢山の資格を持ちながらも、職に恵まれずに酒で体を壊したと思しきダメ兄の2019年の姿に、ロスジェネ世代の見舞われた陰を見るような気がしてならなかった。漏便したまま倒れ死んだ彼の胸中は如何許りだったのであろう。思えば、小泉政権下で「頑張った者が報われる社会」などと言って、力ある者が遣りたい放題に振舞う新自由主義なるものの元に、格差社会化を推し進めてきた結果としてのロスジェネ世代の苦境を象徴しているような最期だ。 兄と違って冷たい妹だと母親から指摘されたこともあるとの理子が囚われていた“妹を騙してたかる迷惑兄”という思いをノーサイドにして、幼時の“全力で自分を救ってくれる優しく頼もしい兄”という心の支えを取り戻すことを叶えた四日間だったようだ。その四日間を綴った理子の本を読んだ登場者のその後まで言及されているのだから、原作どおりの映画化ではないながら、原作者と同名で主人公が登場していることに驚いた。原作は、フィクションたる小説ではなく、エッセーのようだ。村井理子が筆名なのか本名なのか知らないが、両親や今の家族についての描き方は原作ではどうだったのだろうとも思った。 すると、旧知の映友が「支えであり、呪縛ではない」との言葉も駅の改札での出迎え場面も原作にはないと教えてくれた。それが原作にない言葉なら、それこそが原作を借りて作り手が最も訴えたかったことなのだろう。通行人の「ノーサイド」が原作になさそうなのは、一目瞭然だったが、駅での出迎えもなかったとは少々意外だった。 映友は「原作ではお世話になった多賀城市の方々とのやり取りで終わっていて、ここがまたとてもいいのですが、さすがに映画の終わり方としては「結」にならないのでああいう形にしたんでしょうね。」 とコメントを寄せてくれたが、だとすれば尚のこと、僕らが親しんだ昭和の時代の映画なら、冒頭の「支え」が視覚化された絵になる「結」として「ノーサイド」で終わっているはずだと思った。原作の多賀城市の方々ならば、良一ともども駅まで見送りに来ていた児相職員、生活保護担当の福祉事務所職員、アパートの大家さんといった人たちとのやり取りということになるわけだが、確かにそれでは、仕舞いはつきにくいかもしれない。 | |||||
| by ヤマ '25.12.18. TOHOシネマズ5 | |||||
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