『教団X』を読んで
中村文則 著 <集英社>

 三十歳過ぎのような気がする楢崎(P128)が高校時分に地下鉄サリン事件['95]が起きている設え(P116)だったから、2014年の本書刊行時点からすれば、十年前くらいの時代感覚で綴られた社会のようだ。『方舟にのって~イエスの方舟45年目の真実~』の映画日誌に『教団X』の松尾正太郎&芳子夫妻は、まさに「イエスの方舟」がモチーフになっているような気がした。とも記しているが、千石剛賢が亡くなったのは、2001年末のことだ。

 だが、小説自体は、時代性よりも普遍性のほうに軸足のある物語になっていて、主題的には、人間存在とはいかなるものかを問うているなかなか骨の太い小説だったように思う。あとがきに世界と人間を全体から捉えようとしながら、個々の人間の心理の奥の奥まで書こうとする小説。こういう小説を書くことが、ずっと目標の一つだった。これは現時点での、僕の全てです。とまで著者自ら書き切れているだけの力作だと思った。

 そういった観点から人間を捉えようとするとき、やはり政事と性事と祭事【宗教】こそが、動物と人間を分かつ核心部分だと改めて思った。

 教団Xの教祖沢渡がかつて属し、松尾の資産を横領して出た教団の教祖【松尾正太郎】の奇妙な話として挿入される講和こそは、僕よりニ十歳若い著者が抱いている人間観や歴史観を述べたものなのだろうが、特に目を惹いたのは、太平洋戦争観だった。

 曰く私が配属されたのは、陸軍第三五七師団、フィリピン北中部の最前線でした。当時の日本兵の大半の死因が、餓死と病死であったことを皆さんご存知ですか。日本兵の多くは、言葉ばかり威勢のいい無能な国家の下で、敵軍と戦うこともなく熱帯のジャングルをさまよい飢えとマラリアで死んだのです。…勝てるわけがない。…しかし、大隊本部から、援軍の知らせを受けてしまう。…今さら百二十名の援軍が来て何になるでしょうか。…死にに来るための援軍。大隊本部の幹部達が、フィリピンの主要地が奪われるのを手をこまねいて見ていたと本土から非難されないためだけに送られる、命ある人間達。そして全員死に、我々は力の限り戦った、国家の名に恥じぬ戦いをしたと本土に報告するために死なされる援軍。死ぬのは当然怖くて抵抗があるから、死んでも靖国で英霊になれると言いくるめ続ける。死にに行く兵士を宗教で焚き付けるのは今も昔も同じです。P175~P176
 私は戦争で死ぬ。無能な国家の無能な作戦の下で死ぬ。それは明らかでした。では、この戦争とはなんだろう?…勝利とはなんだろう?…勝利により、我々はどうなるのだろう? このフィリピンを日本が制圧できれば、日本に燃料を送り続けることができ、アメリカと長く戦うことができる。…それで日本がアメリカに勝ったとしたらどうなるか。アメリカと連合軍が日本に停戦を申し入れ、日本に有利な平和条約を締結できたとしたら、どうなるか。征服していた中国の利権と、東南アジアでの利権が確保される。それだけなのです。それによって喜ぶのは誰か。それぞれに利権を有している財閥、そして財閥と癒着していた軍の上層部、そして政治家です。それによって日本はどうなるか。民衆も、おこぼれで少しだけ裕福になるでしょう。でもそれだけだった。裕福になりたいのなら、働けばいい。ちなみに第二次世界大戦での日本人の死者数は、三百万人を超えています。…負けた時のことを考えました。日本に不利な平和条約が締結され、日本は国際社会の中で低位に追いやられる。それだけでした。負ければ祖国が蹂躙され、女は犯され子どもは殺される。そんな軍の愚かな宣伝を鵜呑みにするほど私は純粋でなかった。低位に追いやられたのなら働けばいい。そこから盛り返せばいい。日本人は働くのだから。 戦争が終われば、必ず平和条約がある。 どちらが有利に、平和条約を結べるか。 その平和条約の内容と、戦死者の数が釣り合った例は、これまでにあるのでしょうか。…この戦争を支えてきたのは、“気持ちよさ”だった。お国のために死地へ向かう。軍人の敬礼。死して敵を討つ。犠牲の美。これらのナショナリズムには、気持ちよさがある。なぜ気持ちよくなるのか。社会的動物としての性質、群れて盛り上がることで熱くなる生物的性質だけではないでしょう。軽薄な自己が、大義に飲み込まれることで、役割を与えられる。自身の不満の矛先を「敵」を与えられることでそちらに向けることができる。自分達は相手より民族として優れていると錯覚できる。人間は、自らの優位性を信じたくなる生物です。さらに人間は善意を前提とする時、もっとも凶暴になれる。善意・正義を隠れ蓑に、自らの凶暴性を解放するのです。P178~P180

 そして現在に繋げていた。今、日本の中に気持ちよくなろうとしている勢力があります。第二次世界大戦の時、日本は気持ちよさを求めた。個人より全体、国家を崇めよ。その熱狂の中に身を置くことには快楽があった。人々は自分の卑小さを忘れることができ、大きな「大義」を得ることで、自分の人生を自分で考えなければならない「自由」という「苦労」から解放された。今日本の一部は、あの熱狂を再現しようとしている。 確かに気持ちがいいでしょう。ですが、その気持ちがいいという状態は、ほんの少しのきっかけで暴走を生む、人類にとって非常に危険な状態なのです。ナチス政権下のドイツで、ハイル・ヒトラーと叫び右手を挙げていた当時の国民達の中には、そこに快楽を感じていた者が大勢いたでしょう。人間が陥るあの状態を、もう繰り返してはならない。これは日本だけのことではありません。昔から現在に至るまで、世界のあちこちでこの気持ちよさは生まれています。…第二次世界大戦の前から敗戦まで、日本の政権は十七回代わりました。でも戦争は泥濘の一途を辿った。日本ではシステムが出来上がればもう止めることができない。気持ちがいい、という状態を作った政府は、その気持ちよくなってしまった自分達も国民達求めることができなくなった。いくらトップが代わっても、中ほどにいる気持ちよくなってしまっていた軍人達は、降伏など考えられなくなってしまった。部下達に滅茶苦茶な作戦を命令し続けていた。あの戦争において世界中から怒りを買った関東軍の中国での暴走を思い出してください。穏健な政治家達もあの暴走を止めることはできなかった。あの気持ちがいいという状態のまま、平和国家としてバランスを保つのは不可能です。…我々がしなければならないのは、あの戦死者達を英雄としてではなく犠牲者として心から追悼することです。…我々は、平和平和と連呼する、戦争を望む国々から煙たがられる存在になるべきです。…「紛争」の裏にあることを考えたことがあるでしょうか? 巨大化した軍需産業が利益を得、戦後の復興で利益を得ようとしている企業達も暗躍があれば飛んでいって、そのような「紛争」で大国の企業達が利益を得るような状態を防ぐために、「紛争」を事前に防ぐ行為をし続けたい。我々は平和理念を維持するべきです。我々はそれを理念として掲げ続けなければならない。これが変わってしまったら、現在でも大分逸脱している現実の、その歯止めがそれこそ本当に利かなくなる。もし他国で紛争が起こってしまったら、世界に堂々と主張しましょう。この裏には何国と何国の企業がいて、何国と何国がこの紛争で利益を得ようとしていると。そんなクズのような連中が背後にいると。背後にいる彼らの動きが止まれば戦争など終わる。逆に言えば、背後で動き続ける者達がいる限り戦争は終わらない。戦争を現実的に可能にできないシステム作りに尽力するべきです。暗躍する軍需産業を野放しにするわけにはいかない。今、この瞬間にも彼らが大量に世界にばら撒き続けている武器を何とかしなければならない。武器が世界に溢れれば溢れるほど紛争は誘発される。P459~P462

 ほかに目に留まったフレーズは、楢崎の述懐していた自分はどうしてしまったのだろう。もちろん性欲など普通のことだ。しかし、ここまでだったろうか? ここまで、女性のことばかり考える人間だったろうか? これは洗脳だろうか? あの名もない教団での。性欲という人をコントロールしやすい領域を過度に助長させることで、人を洗脳しやすくしているのだろうか?P272

 立花涼子が発していた、後年の“Dappi(だっぴ)の出現”を思わせる…国際的なルールにのっとって決然とテロの犯人を射殺した警察と政府を非難する風潮は今この国にない。特にインターネットの限定された世論は、強い日本にもろ手を挙げて賛成するでしょう。政権与党の工作員がネットで意見を煽ってるのにも気づかず、彼らは煽動されてただ喜ぶ。このままでは、彼はテロの首謀者になって人生が破壊され命まで破壊されてしまう。P303

 公安の五十代の男と三十代の男の会話に出てくる死刑のある国で、国民に量刑まで決めさせる先進国は日本とアメリカの一部の州しかない。多くの国民はそんなことも知らない。国民にそんな負担を押し付ける国はEUから見れば狂気の沙汰だがこの制度は続いていく。国家には死刑が必要だ。死刑、つまり殺人という行為により“法”そのものを強靭化させることができる。戦争の権利を有することにも繋がる。心に変調をきたしている裁判員も増えている。でも不満が出れば巧妙にメディアを使い世論をコントロールすればいい。精神に変調をきたした裁判員が実際どうなったかは追わずに、心のケアの重要性、とか言っていればいい。ちょろいもんだよ。P318~P319
 この国を右傾化するには、格差によるそんな不満が必要なんだよ。そうやって不満を作り出し、その不満を他国に向かわせ国を右傾化させる。他国への嫌悪が、実は無意識では自身の人生に対する不満のはけ口の表れであることに気づける人間は少ない。こういう大昔から行われている統治のロジックを繰り返されているのにも気づかず、あっさりと右傾化するんだからちょろいじゃないか。そうだろう?P321~P322

 立花涼子の血の繋がらない兄で恋人だった高原の手記にあった私が…知った事実は暗澹たるものだった。師は多国籍軍を撤退させるための抗議と言っていたが、多国籍軍はその二週間後に撤退の予定だった。そして師は、多国籍軍に関わるある軍需会社、そしてとある国家の双方からの依頼でテロを行ったのだった。…軍需会社からすれば、多国籍軍の撤退は、仕事を失うことを意味し、自分達の会社の利益減収を意味した。だがここでテロが起こればどうだろう。多国籍軍は撤退できなくなる。つまり自分達の仕事が継続される。…この仕事を失えば倒産の危機にあった。社員達はいずれも、自国の家族を養っていた。「今多国籍軍が撤退するのはまずい。この地が荒れ、さらに死者が出る」倒産の危機の中で、会社の職員達は自分達にそう言い聞かせていた。「少しの犠牲で多国籍軍が撤退を延長してくれれば、より多くの命を救うことができる」…国家の方は、その国へ影響力を持ちたいという思惑があった。その国を混乱させ、多国籍軍だけでは無理となった場合、その国家の出番が来るはずだった。つまり自分達が介入し、武装勢力と話をつけようという風に。そうなればその国家は、自分がやらせた師などに話を着ければいいだけだった。…その地は世界の大国達の軍需会社にとって、兵器を大量に売りつけることができる重大な需要地だった。混乱が続けば続くほど、大国達の軍需会社の利益は上がる。そしてその各会社には関連企業が連なっていく。P392~P394

 教団施設を包囲した機動隊に向かって拡声器で流した女の声のもしかして、もしかしてですが、あなた達の目的は、まさかとは思いますが、間近に控えた選挙も絡んでいたりするのですか? 今進行中の、莫大で膨大な公共事業の利権を、政権交代で渡したくないからなのですか? アメリカからも、様々な利権が進行中だから現在の与党のままでいろと強く言われてるのではないですか? その選挙を控え、強くなった日本をアピールして選挙の追い風にするつもりなのですか? 国は内政が行き詰まると大抵国民の目を外に向けさせ、一体感を与えようとする。これまでも典型的になされてきた手法。でも今回は上手くいきそうにない。なぜなら、選挙前によく飛んできてくれた北朝鮮の挑発ミサイルが、今回は残念ながら飛びそうにないから。韓国も中国もあんまり日本を批判してくれないから。強い与党を演出して選挙に勝とうとしてるのですか? そしてこの国の右傾化に、今回の事件をちょっと役立てるつもりなのですか?…警察の権限強化や装備強化の利権も関係してるかもしれない。…奇妙な意志が動いてるとしか思えない。P403
 何か巨大なものに従う快楽が警官を支配していく。P441) むろん訓練された警官や兵士たちに限った話ではなく、社会から多様性を認め尊重する空気が奪われていく過程で大衆を動かす原動力となるものは、この快楽だろうという気がする。政治・性行為・宗教には強い快楽と陶酔が潜んでいることがとても重要で、その自覚を持って携わらずに欲するまま無防備に臨むと、歪な支配と従属の関係が生まれるように思う。

 松尾の葬儀で妻の芳子が述べていた…平和論に関しては確かに理想かもしれない。でもああいうことを理想だと言い、現実は云々と言い、いかにも自分は現実を見ているというような気持ちよさに浸ることは簡単です。理想を捨てれば人類は後退するだけです。あの理想を掲げながら現実の中でどう平和に向かい奮闘するかが大事なのです。平和を望む日本人としての誇りを持ちましょう。P562

 そして、放送局をジャックした篠原があなた達の信仰は靖国神社ではないのですか? 国のトップ、総理大臣が一宗教法人を大勢のマスコミの前で参拝し、宣伝してるのだから国教でしょう?P414)と問い掛けて始まる靖国問題及び戦争責任論議(~P422)などだった。

 また、グノーシス主義という言葉が現われ(P200)、むかし読んだ『ユングとオカルト』秋山さと子 著)<講談社現代新書>が、三十年ほど前に友人に貸したまま返ってきてないことを思い出した。
by ヤマ

'24.12. 2. 集英社



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