『かくしごと』
監督 関根光才

 北國浩二による原作小説『嘘』は例によって未読だが、九歳の少年(中須翔真)の凛としたでも、僕のお母さんは、あの人ですという台詞で締めた映画化作品は、“人における嘘と真実は事実とは異なるところにあるという真実”を描いた秀作だったように思う。

 童話作家の里谷千紗子(杏)が抱えた隠し事のみならず、様々のレベルの種々の隠し事が設えられていて、一口に善悪を問えない“是非もなき人の世と生”がよく描き出されていた気がする。千紗子が書く仕事をしていなければ、その隠し事が犬養安雄(安藤政信)に露見することはなかったと思われるNPOを騙った調査の顛末は、仕掛として非常によく出来ているように感じた。

 忘却・記憶喪失・隠蔽・噓・騙り・認知症、いろいろに呼ばれる“現実と乖離したもの”を生きていくために必要とするのが、人間というものなのであろう。夢・希望・理想・憧れといったものと、ある意味、通じているところがあるように思う。そして、人間観の実に優しい作品だったように感じる。今わの際に洋一を羨む呟きを残した安雄の台詞は少々あざとい気もしたが、原作にもあったものなのだろうか。

 致命傷がどちらのものだったかが刑法的には重大事なのだろうが、ドラマを観ている者には些事でしかない対照が鮮やかで、魔を絶つ魔斬り剣と呼ばれる小刀を拾って握り直した千紗子の覚悟と気迫に打たれた。千紗子が自分の作品の主人公の名前から取って名付けた“拓未”という名前には、未来を拓くとの意が込められているのだろうから、本件での判決も、誘拐ではなく被虐待児保護としたうえでの、殺人ではなく死体損壊との事実認定による執行猶予付きの罪とされるに違いない。

 千紗子の旧友である久江(佐津川愛美)による犯罪は飲酒運転までとしたもので、二人が少年と出会った事故は実は事故ではなく、田舎道にありがちな落石等の障害物に衝突して停めた先に、少年が倒れていたと観るべきもののような気がする。すっかり動転した久江たちが思い違いをしたとしても何ら不思議はない。もし、本当に轢いていたら、少年があの程度の軽傷で済むはずがないとしたものだ。

 本作での一番の隠し事は、きっと少年による本名と境遇隠しに違いないと窺わせながら、千紗子を警戒しつつ次第に馴染んでいく聡明な少年を清廉に演じていた中須翔真に感心した。何ゆえか破格の愛情深さで自分を遇してくれる千紗子の抱えている事情を財布【予告編を観る機会があり、財布ではなく手帳だったことが判明('24.7/8 追記】のなかの写真から読み取り決意を固めたと思しき姿の靭さと曇りのなさに説得力が宿っていたからこそ、最後の証言場面に納得感があったように思う。

 また、現実と離れたところで生きることの苦しみと救いについて、孝蔵(奥田瑛二)の認知症に即して語っていた亀田医師(酒向芳)の言葉が実に利いていて、拓未として生きることを選んでいた少年の胸中への眼差しを観る側に促していたように思う。そして、拓未という鏡を得て、認知症が進みつつある父親への自身の臨み方への気づきを得ていた千紗子にとっての拓未の掛け替えのなさが沁みてきた。亡くした息子の単なる代償などでは決してない。ジュンとは別の拓未という息子であることが、彼女にとっての真実に他ならないと感じた。彼女が魔斬り剣を握り直した姿にぐっときた所以だ。
by ヤマ

'24. 6.29. キネマM



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