『ミナリ』(Minari)
監督 リー・アイザック・チョン

 こういう作品を観ると、改めて韓国はキリスト教の国だったなと思うと同時に、レーガン政権時分のアメリカでのアジア系移民に対する感覚は、今とは随分と違っていたことが偲ばれるようでもあった。米国でのアジア系移民への差別事情については、実際のところは、'80年代と今現在とでそう違いはないのかもしれないが、本作では、韓国からの移民ジェイコブ(スティーヴン・ユァン)が非常に優秀なヒヨコ鑑別師だとして高い評価のもとに新入時の職場で紹介をされていたし、なぜが日曜になると、大きな十字架を背負って田舎道を歩くのを習慣にしているパウロというかポール(ウィル・パットン)との関係にもそのような部分が一切なかった。もっとも、そのことが当時の一般的状況を反映しているとは限らないのは言うまでもないことながら、いかにもアメリカ映画的なスマートさで綴られ、韓国映画のテイストとは全く違っている本作なればこそ、却って韓国に浸透しているキリスト教的世界観を感じたように思う。

 ようやく先の開けかけたジェイコブ・イの農園事業を、ある意味、燃え盛る火で水の泡にしてしまった義母スンジャ(ユン・ヨジョン)が農園から離れた水辺に植えたセリ(minari)を息子デヴィッド(アラン・キム)と摘みながら、「お祖母ちゃんのお手柄だ」と言えるジェイコブに強い感銘を受けた。現実を想像すればたちどころに判るように、あの経過のなかで通常は、なかなか言えるものではない。彼のように、ああいう局面でこの台詞を心から発することのできる人ばかりなら、この世から貧困も戦争もなくすことができるようなに思った。なぜジェイコブは、そう言えたのだろう。

 医者は、デヴィッドの心臓病が快方に向かっている不思議に対して「水がいいのだろう。いまの生活を変えないようにして様子を見ましょう」と言うが、彼は、それが水ではなくスンジャの存在ゆえだと気づいたのに違いない。母親なればこそ、その体調には、まるで腫れ物に触るように用心を重ねるモニカ(ハン・イェリ)と違って、孫息子に走ってみることを勧めたりするスンジャは、幼子らしい容赦ない言葉を浴びせたり、飲尿の悪ふざけをしてくる孫息子を受容して愛しむばかりか、彼の様子をきちんと観て把握した自分の眼に自信があるのだろう。「あの子は、お前たちが思っているよりも元気だよ」と娘に告げていた。

 そして、移住先のアメリカに呼び寄せてくれた娘夫婦の世話にただなるのではなく、少なからぬ厚みの封筒に詰めた持参金を、開拓事業に着手して苦境にあると思しき娘に渡しながら、差し出がましい口はいっさいきかず、孫に花札を教えて本気勝負をしている女性だった。だからこそ、思い掛けなく見舞われた脳梗塞の後遺症で手元が不自由になり、とんでもない失火をしでかしてしまった取り返しのつかなさに茫然自失し、おそらくは生まれて初めて、死んでしまいたくなって家とは反対方向に歩き出したように見えた。

 そんな心の内まで察したとはとうてい思えないけれども、孫息子デヴィッドは、そのことを感知したからこそ、勧められても断っていた走りなのに、自ら駆け出して祖母の後を追い、行き先が違うと押し留めるわけで、この家族の絆の深さの前には取り返しのつかないことなどないように思えるエンディングに心打たれた。

 もしかすると、あの失火がなければ、ジェイコブの事業は好転を見せたかもしれないけれども、「あなたの言う成功って何なの? 誰のためなの?」との言葉とともに最後通告を突き付けていたモニカは、その気丈さからして、おそらくアーカンソーを出てカリフォルニアへ向かったはずで、一家はバラバラになっていただろう。その危機を救ったのがスンジャの失火とも言える形になっていたような気がする。ジェイコブが息子に言った「お祖母ちゃんのお手柄だ」には、そのことも含まれていたのかもしれないと思わずにいられなかった。

 日本には中国伝来の「塞翁が馬」やら「禍福は糾える縄の如し」といった今生観があるけれども、それで言えば、禍は禍であり福は福なのだが、禍のなかにこそ福もあるとの捉え方に強いキリスト教的寓意を感じ、改めて韓国はキリスト教の国だったなと思うとともに、ポールの人物像は、神の存在とか福音といったようなものについての象徴的な造形だろうと解していた。ところが、日曜日になると十字架を担いで歩くのは、クリスチャンの実践活動として実在するものだと知り合いの牧師さんが教えてくれて大いに驚いた。ペンテコステという教派の信者に多いらしいのだが、日本でも三十年くらい前から行われているそうだ。

 本作は、僕が思った以上に、実体験に即して語られているということだ。奇跡など描いてはいないというわけだ。僕は、苦い薬汁を飲まされた孫息子が悪ふざけでお祖母ちゃんにおしっこを飲ませてしまったのは、脚本・監督のリー・アイザック・チョンの実体験に違いないと睨んでいたのだが、十字架を担いで田舎道を歩くポールもそうだったのかと、とても感慨深かった。逆に言えば、ほとんど壊れかけた家族が危機を脱することも、デヴィッドの心臓病が不可思議な快方に向かうことも含め、この世は奇跡に満ちているということだと思う。

 そういう意味では、万事休したジェイコブがスンジャの失火によって何の荷も持っていけなくなった約束破りだけは何とか回避できることになった“奇跡の象徴”でもあるミナリを「お祖母ちゃんのお手柄だ」と言えるところが重要なのだが、そこから逆に、お祖母ちゃんのほうを神に引き寄せて解する向きもあると仄聞して驚いた。僕は、それは断じて違うという立場だ。そんな類型的で図式的な解し方をするのは実に勿体ない作品で、神のもたらした奇跡などではなく、スンジャ祖母ちゃんの手柄だからこそ、とても心打たれる孫持ち殺しの映画なのだと思う。決して走ろうとしなかったデヴィッドが思わず駆け出してしまうのは、スンジャが神だからでは断じてなく、おしっこを飲ませてしまっても自分を庇ってくれるお祖母ちゃんだからこそであり、そんなスンジャが生まれて初めて死んでしまいたくなるほどの失意に見舞われていることを幼子が感知する家族の物語だから、感銘を受けるのだ。死んでしまいたい気持ちに見舞われてしまうスンジャを神と解するような賢しらぶった冷ややかさに、本当に驚いた。

 やはり子供や孫をもうけて家族の営みを重ねていることの強みには侮れないところが確かにあって、本作は、キリスト教的今生観に包まれてはいても、決して神についての物語などではなく、家族の物語だという気がする。折しも前夜観たばかりの花束みたいな恋をしたの絹と麦の生活が持ちこたえられなかった事情とほぼ同じ擦れ違いを来しながら、『ミナリ』では、二度目の立ち上がりを見せていたことが心に残った。




推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
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推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/21032701/
by ヤマ

'21. 4. 3. TOHOシネマズ2



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