『新感染 ファイナル・エクスプレス』(Train To Busan)
監督 ヨン・サンホ

 まるで観たままというエンタメの王道ぶりを堪能した。嫌な奴(キム・ウィソン)がとことん嫌な奴で最後まで引っ張り、世知辛かった男の皮が剥けていくことで次第に現れる本来の姿が清々しく、なかなか美味しいところを持って行くキャラクターの配置が絶妙で、オチのつけ方がまた見事とくれば、面白くないはずがない。

 ゾンビ映画は実のところ、そう好むほうではないのだが、大仰な過剰さに笑わされ、駅舎内や線路地での群れようというか、束になるところとか、「これ、キョンシーやん」というようなところとかに魅せられた。けっこう弾けていたし、動きにダンスがかっている部分があったような気がする。

 そのようななか、経済的には成功した息子ソグ(コン・ユ)のマンションで、昔ながらの手作業をしていた母親の姿が絶妙に利いていた。手ざわりというものが蔑ろにされていく数字と機械全盛の現代社会が壊し失わせているものへの思いが作り手にあらばこそ、ソグが娘スアン(キム・スアン)の指をまじまじと見つめつつ、撫でさする場面がクローズアップされているのだろう。

 それこそパンデミックだとか放射能汚染といったものは、まさに“手ざわりなき恐怖の権化”ともいうべきもので、それらをみすみす招き寄せているかのようなバイテク産業や原子力産業といった、手で触ることがタブーとなるものを扱って荒稼ぎする会社を育んでいるものもまた、巨大なファンドマネーという、まさに手ざわりとは最も遠いところにある経済活動というわけだ。

 現代人は降りるに降りられないで、そういうものが蔓延ってしまったノンストップエクスプレスに乗ったまま未来に向けて爆走中のようにも思えてくるのだが、そのような隠喩の“押付けがましさのない鮮やかさ”に唸らされた。ソグ同様に、これだけの惨事に見舞われないうちに改心できるチャンスは、もう現代人にはないのだろうか。

 まさに妻ソギョン(チョン・ユミ)の膨らんだ腹を撫でながら「俺が作ったんだ」と誇らしげに少女スアンに話し掛け、微かに妻の顰蹙を買っていたサンファ(マ・ドンソク)の言う「作る」こそが、人が本来なすべき“手ざわりと共にある生産”の姿なのだろう。なかなか見事な手ざわり感のある映画を「作って」いて、ゾンビ映画なのに、ちょっと感動してしまった。まさかゾンビ映画に感動させられるとは思ってもいなかったので、よけいに強く響いてきたのかもしれない。

 ソグの職業がファンドマネージャーだと聞いて「人の生き血を吸う奴だ」とゾンビを見るように眉を顰めるサンファと、ゾンビとの闘いのなかで本来の自分の姿を取り戻していったソグが二人して、徹頭徹尾、無条件に命懸けで守ろうとしていたのが妊婦の妻と幼い娘だという絶対的な明快さが素晴らしい。保身や権力保守、守銭奴ではなくして、本来守るに足るものは実にこの二つしかないのではないかという、近ごろ大安売りの“守るスローガン”を痛撃しているようにさえ感じられ、清清しかった。

 ここ数年で“守る、取り戻す、許せない”の三語がすっかり嫌いになってきた僕は、アニメーション映画『GODZILLA 怪獣惑星』の予告編を観るたびに虫唾の走る思いをするのだが、シネコンで「取り戻す…必ず俺たちの手で…。俺は貴様を…。あとはただ終わらせるだけだ…。」と繰り返し刺激されていたにもかかわらず、本作に対しては、ほぼ手放しに礼賛できたことが妙に嬉しくもあった。



推薦テクスト:「田舎者の映画的生活」より
http://blog.goo.ne.jp/rainbow2408/e/23a5dc8eac709d2a276fe6c4676e7473
推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1962605324&owner_id=1095496
 
by ヤマ

'17.10.30. あたご劇場



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