『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(Manchester By The Sea)
監督 ケネス・ロナーガン

 マンチェスターと言えば誰もが思うイギリスの内陸寄りの町ではなくて、アメリカの海辺の町マンチェスターを舞台にしているからか、いろいろな意味での“もう一つの…”を想起させられる作品だった。失火による事故で幼子三人を焼死させてしまったリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)が警察の事情聴取で言われていたような“誰にも起こり得る過ちであって犯罪ではない出来事”に、もし不運にも見舞われたら、それまでとは全く違ったもう一つの人生が誰にでも立ち現れるわけだ。

 ありがちな救いがもたらされる結末を排した作り手の誠実な人生描写が何とも心に染みてきた。リーを演じたケイシー・アフレックの人物造形が実に見事で、心底つらそうだった。リーの兄ジョー(カイル・チャンドラー)が弁護士を通じた遺言で伝えた、息子パトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人に指名した理由は、パトリックの抱えている問題というよりも、むしろリーのほうに顕著に窺えるものだった気がする。過失では済ませられない重大事故を引き起こしたことで心が壊れ、人に心を開けなくなってしまった弟リーの覚束ない人生は、もう一人の息子と言えるほどに行く末が心配で、おそらくは両親の離婚によって父親のジョーに心を開けなくなっていたであろうパトリックとは、ただの甥叔父を超えた相性のよさがあるのを知ればこそ、二人において現状とは異なるもう一つの生き方への打開が始まることを願っての、半ば強引な後見人指名だったような気がした。

 最初、リーの置かれている状況が少々掴みにくくなるくらい唐突に現れる回想が、観る側に向けての“物語を運ぶための回想”ではなくて、まさにリーの見舞われた回想としてリアリティがあったところに感心した。心に深い傷を負った人において、大概の場合そうなのだろうけれど、最もキツイ場面は心の壁が防衛して具体に縷々とは蘇らせないのだろう。むしろ、今や無くした良いときの思い出や、悔恨の対象となる場面が現れるに違いない。そういう意味では、幼子三人を失った夫婦の間で繰り広げられたらしい修羅場こそが、リーにとって最もきつく辛いものだったろうことは想像に難くない。その場面描出が作中で割愛されていることに対して、“肝心のもの”として不満を表明する向きもあるようだが、本作において作り手が配した回想場面は、観る側への説明としてあるのではなく、リーの内面描写としてのものだから、それを描いてしまうと、回想すらできないことによって示している過酷さの描出が損なわれるわけで、筋違いの不満だという気がする。妻との再会によって交わした言葉の後、リーがまたもや呑み屋で暴れる醜態を晒すことになってしまっていた姿が示唆していた前述のリアリティーにこそ、本作の“肝心”はあったような気がする。

 悪意がないことにおいては、事故当時に夫を罵倒したときとおそらくは同じだと思える、元妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)の酷な仕打ちが何とも痛烈だった。ある意味、攻撃よりもキツイことのような気がする。ジョーの死によって久しぶりに再会するに至ったわけだが、元夫が今なお抱えている心の傷の深さを想うことよりも、自分の抱えている慙愧から解放されたい思いのほうが強く窺えた。いつも自分で一杯一杯なのだろう。アルコール依存症の果てに家庭崩壊を招くに至ったと思しきパトリックの母にもそれが窺えた気がする。親子、夫婦という緊密なはずの人間関係においても、相手の側の心に寄り添うことの難しさと、そうはできないことの是非なき已む無さというものが、類い稀なデリカシーによって描出されていたように思う。大したものだ。




推薦テクスト:「つぶ。さんmixi」より
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推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960602030&owner_id=3700229
推薦テクスト:「ケイケイの映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20170520
推薦テクスト: 「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/66bdf5e7b4b1cd008216a92196dcdd79
 
by ヤマ

'17. 9.20. あたご劇場



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